グリッテという女
さすがに、もうホルナさんの委縮はほぼ解消されていた。
やっぱり一人で抱え込んでいたのが重かったんだろう。誰かと共有さえ
出来れば、あれこれと思い悩む前に体は動くようになるってもんだ。
事実、彼女はグリッテとかいう女を追うジェレムと共に駆けていった。
その背を見送りながら、俺は今一度四人の方に向き直る。
さっきの様子を見る限り、ジェレムは意外とこういう荒事に強そうだ。
対応も速い。グリッテがよほど強豪でない限り、あいつとホルナさんに
追跡を任せても問題はないだろう。そしてここは航行中の船。転送系の
天恵持ちでもない限り、逃げられるとは思えない。そしてそんな天恵を
持っているなら、走って逃げたりはしないだろう。
俺は俺のやるべき事をやっておく。
とにかく、事態を把握しないと。
================================
「ダメだ、見失った。」
ほどなくして、二人は戻って来た。
どうやら、深追いして俺とはぐれるのを懸念したらしい。俺としても、
そっちの方が助かる。どっちみち、そんなにすぐこの船から逃げるとは
思えないから。
だが、同じ理由で俺もネミルたちの許に戻れない。ほんの少し出かける
だけのつもりだったから、連絡手段がない。この程度の時間経過では、
まだ向こうも俺を探そうとはしないに違いない。つまり今のこの局面は
ここにいる三人で乗り切るしかないという事だ。
気持ちを引き締めよう。
「で、どうするトラン?」
「こっちはこっちで、こいつらから聴けるだけの事を聴いた。」
「そうなんですか。」
相変わらず無表情な四人を見つつ、ホルナさんが興味深げに言った。
「とは言え、こいつら自身も詳細な事情を知ってるってわけじゃない。
任務を与えられただけだ。要するにこの船を沈めて、自分たちは脱出。
単純極まりない話だよ。」
「と言うか、船ごと海に沈めようとした標的って何なんだ?…まさか、
それすらも知らなかったのかよ。」
「いや、さすがにそんな事はない。ちゃんと知ってたし、知ってた上で
やろうとしたらしいな。」
「何なんですか、それ?」
「…………………………」
俺は、ちょっと言葉を切った。
勿体つける時間なんかない。それは充分に分かってる。
分かってるけど。
気が滅入るから、あんまり言いたくなかった。
………………
そうも言ってられないよな、実際。
================================
================================
出航して間もない船の中で、人の姿が最も少ない場所はどこか。
救命ボートのハンガーだ。
そんな縁起でもない場所には、誰も近づかない。
明確な目的を持つ者でもない限り。
真っ暗な貨物の影を縫うようにして走る、小柄な人影。それは最後尾の
赤い救命ボートの前で立ち止まる。
と、次の瞬間。
「やっぱり来たか。」
いきなりの声に、影はビクッと身を竦めた。それでも素早く反対方向に
走ろうとする。
「ちょっと待てよ、グリッテ。」
立ち塞がったのは、トランだった。
================================
こいつか。
あいつらが言ってた通り、最後尾のボートが脱出用だったんだな。
つくづく【魔王】は応用が利く。
あらためて見ると、かなり若いな。俺やネミルより若いかも知れない。
その事実に、どうにもやりきれない思いが湧き上がる。何がどうして、
こんな凶行に手を染めたのだろう。まあ、俺が考えても仕方ないけど。
狭い通路。右側は壁、左側には係留されている救命ボート。向こうには
ジェレムとホルナさんが立ってる。事実上、追い込んだ形だ。
「爆弾はどこに設置した?」
「中央機関室の一番底だよ。」
問いに対し、グリッテはあっさりと答えた。ジェレムたちも驚いてる。
ちなみに今、彼女は【魔王】の術に墜とせるほど悪意を放っていない。
単純な質問に対する答えだった。
しかし、向き合う俺にははっきりと判ってしまった。
この女は、観念したからあっさりと口を割ったわけじゃない。むしろ、
話しても構わないという余裕からの自供だったんだろうな。
そこでグリッテは、フッとかすかな笑みを浮かべる。歪んだ笑みを。
「あと20分で爆発だ。解除する気ならさっさと行った方がいいよ。」
「解除できるのか?」
「まあ、無理だろうね。丸ごと海に捨てるしかないと思う。それと…」
そこでグリッテは、傍らのボートに視線を向けた。
「これ下ろすの手伝ってくれる?」
「はあ?」
怒りの声を上げたのはジェレムだ。チラと見ると、ホルナさんの顔にも
怒りの表情が浮かんでいる。しかしグリッテは平然としていた。
「それと、あたしの服には起爆用の電極が仕込んである。下手な真似を
すれば、その瞬間にドカンだよ。」
「…………………………」
「ボートを下ろすのを手伝ってさえくれれば、こっちの起爆はしない。
処理できるかどうかのチャレンジをさせたげる。どう?」
「嘘じゃないな?」
「もちろん。」
「分かった。」
「おいトラン!そいつの言う事聞く気なのか!」
「仕方ないだろ。」
そう答え、俺は二人に言った。
「二人で中央機関室に行ってくれ。俺はこっちを下ろす手伝いをする。
どうにかして処理してくれ。」
「俺たちがかよ。」
「頼む。」
「…分かった。」
悔しそうに言ったジェレムたちは、踵を返して駆け去った。その背中に
チラと目を向け、グリッテは歪んだ笑みを俺に向けた。
「いいお友達だねえ。」
「………………まあな。」
「じゃあ、手伝って。」
「あの四人はどうする気だよ。」
「ご褒美よ。あなたにあげる。」
「見捨てる気か?」
「まあ、そうなるのかな?」
「…………………………」
これ以上、言葉を交わそうって気になれなかった。
そのまま俺は、救命ボートを下ろす作業の手伝いをする。かなり大きい
ボートだ。五人くらい余裕で乗れるだろう。これで一人で脱出かよ。
割り切った性格だな、この女。
「ありがと。」
準備を終えたグリッテは、ニヤッと粘っこい笑みを浮かべた。さっきと
少し違う、媚びるような笑みだ。
「何なら一緒に来ない?あなたの事ちょっと気に入ったから。」
「遠慮しとく。」
「あ、そう。じゃ頑張ってね。ま、無理だと思うけど。」
「何だと?」
ガラガラガラガラガラッ!
そんなひと言を残して、グリッテの救命ボートは一気に降下する。
視界から消えた直後、着水した音がかすかに聞こえてきた。そして、
係留用の鎖が外れたのが判った。
フェリーは進んでいく。
ボートが少しずつ離れていく。
時間は、ただ粛々と刻まれ続ける。