かすかな見覚え
正直、俺は乗物に乗るという経験がかなり乏しかった。
それがキッチンカーなんか運転して商売してるんだから、人生ってのは
つくづくよく分からない。…まあ、それはこの際どうでもいいとして。
特に乗る機会が少ないのが、船だ。実質的に、これまでにまだ1回しか
乗った事がない。新婚旅行の帰りの時だけ。本当なら行きも乗っていた
はずだけど、あの時はネミルのミスで一気に目的地に吹っ飛ばされた。
まあ、今となっては笑えない昔話といったところだ。
それだけ経験が乏しいと、乗った時の感覚というのもかなり心許ない。
ぶっちゃけて言うと、中の広さとか乗り心地とかいったものが何ひとつ
想像出来ないのである。何と言うかちょっと情けない。社会人の経験が
あまりに偏り過ぎてるよなあ、俺。もうちょっと外に出ていかないと…
って、今は嫌ってほど長期の遠出をしてるんだけどな。
人生は本当によく分からない。
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そんなこんなで、カーフェリーの中がこんな広いとは想像しなかった。
まっすぐ行けばいいという甘過ぎる見通しの結果、道に迷ったらしい。
つくづく情けない。このまま戻れば笑いものだ。どうにか船首の方に…
「お。」
武骨な通路をどうにか抜け、客室に隣接する通路まで出られた。よし!
ここは、恥を忍んで誰かに訊こう。さっさと用事を済ませないと酔う。
ええっと…
あ、誰かいる。女の人だな。まあ、俺と同世代か?ちょうどいい。
「あのう、ちょっといいですか。」
俺に背を向ける格好で立っていた、その女性に何気なく声をかける。
それに対して彼女は、過剰なまでの反応を示した。ハッと振り返ると、
明らかに身構えて俺の顔をじいっと凝視する。その瞳に宿っているのは
おそらく怯えだ。…どうした一体?
歩み寄り損ねた俺は、実に中途半端な姿勢で立ち止まっている。一方、
女性もじっと俺を見たままの姿勢で止まっている。何のゲームだこれ。
動いたら負けってか?
【魔王】を発動させてみたものの、結果はやっぱり予想通りだった。
彼女は俺に対し悪意を持ってない。ただただ怯え、警戒してるだけだ。
もちろん、それが何に対してかなど見当もつかない。ニロアナさんなら
一発なんだけどな…
ともあれ、彫像になりっ放しという訳にもいかない。ここはとりあえず
出来るだけ普通に声を掛けよう。
「ど、どうかされました?」
「…………………………」
やっぱり返答がない。警戒も解ける気配がない。って言うかこの女性、
何にそんなに怯えてるんだ。まさか俺が【魔王】だからじゃないだろ。
もしかして、何か妙な事をどこかで見聞きしたとかなのか?…ダメだ、
場が進んでくれない。どうしたら…
…………………………
ん?
ちょっと待てよ。
これだけ長く睨めっこするうちに、妙な見覚えが心に浮かんできた。
心許ない記憶ではあるけど、この人どこかで見た覚えがある。それも、
そんなに昔じゃないはずだ。店か?客だったのか?…いやいくら何でも
一見の客をそこまで憶えているとは思えない。そんな記憶力はない。
客だとしても、それなりに印象深い何かがあったと…
と、その刹那。
おそらく、俺の表情の変化を敏感に察したのだろう。そして何かしらの
危険を感じ取ったのだろう。女性はパッと踵を返し、逃げようとした。
しかし、さすがに俺もそのくらいは察した。遅れず踏み込み駆け寄る。
踵を返す動作を省ける分、俺の方が挙動は早い。あっという間に彼女に
追いつき、その右手を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「……は、離して…………………!」
かすれた声が、掛け値なしの怯えを表現する。いやいや待って欲しい。
俺が怯えさせてるみたいな感じは、社会的な意味でかなりまずいから。
「何もしませんから。とにかくお話だけでも聞かせて下さいと…」
「やめて、離して…!」
涙ぐまないでくれよ。ますます俺の社会的立場が泥沼の中に沈むから!
しかし、もうここまで来たら何とか話をするしかない。頼むから俺の…
ガッ!!
いきなり息が詰まった。
背後から、空いている左手と首元を同時に押さえられたのを感じた。
そのまま左手首をグッと捩られる。
「痛てててて!」
痛みで思わず手を離してしまった。背後の相手は、俺の体を掴んだまま
一気に反対側の壁際まで移動する。ちょ、ちょっと待ってくれって!
ダン!
予想通り、そして予想以上の勢いで壁に押し付けられる。痛いっての!
しかし状況は一気にヤバくなった。
もしこの相手が、女性の怯えの原因となっている人物なのだとしたら。
俺も彼女もピンチだ。特に俺には、命の危機さえあるのかも知れない。
タカネもネミルも、こんな事態など想像してないだろう。だとすると…
ってか、女性はどうなった!?
…ん?
逃げずにその場に立っているのが、辛うじて見える靴と足で判った。
どうして逃げないんだよ。まさか、他の誰かにもう捕まったってのか?
いや、少なくとも気配は…
「俺の連れに何やってんだお前。」
押し殺した男の声が、俺のすぐ耳元で低く放たれた。
…連れだと?
つまり彼女は、この男の…
いやちょっと待て。
それよりこいつの声、知ってるぞ。
押さえ込まれたままの姿勢で、俺は声を張り上げた。
「ちょっと離せジェレム!」
「は!?」
「俺だよ!!」
…………………………
「お前、トランか?」
「そうだよ!」
その途端に腕が自由になった。体もあっさりと圧迫から解放される。
向き直った俺の目の前に、目を丸くして立っている男。…やっぱりか。
【錬金術】の天恵の持ち主にして、俺の旧知のジェレム・マイダスだ。
こっちは、見覚えどころじゃない。声を聞いた途端に誰だか判った。
「痛てててて…」
左手首を振りつつ、俺はジェレムの背後に立ち尽くす女性の顔を今一度
はっきり見た。と同時に、誰なのかやっと思い出せた。
そうだ。
確か、店でジェレムと待ち合わせたあの女性だ。…名前何だったっけ。
そりゃ、すぐには思い出せないわ。
俺の記憶力も、大した事ないなあ。