イオニアと名乗る女
「なるほど。変貌部位に粘性物質が絡みついているせいで、元の容姿に
戻せないんだな。」
駆け付けたドラーエ先輩は、そんな所見を述べてふむふむと頷いた。
一方シュリオは、険しい表情で女を睨み下ろしている。まあ、あたしも
どっちかと言えばシュリオの心境に近い。もし本当にこの女が、今朝の
猟奇殺人の犯人ならね。
「ちょっと待っててくれ。大丈夫と思うが、逃がさないようにな。」
「はい。…どちらへ?」
「ホテルに電話がある。もう今なら確認が出来るはずだからな。」
「確認?…あ、はい了解です。」
何の確認なのかは、ちょっと考えて思い当たった。…そう言えばもう、
夜も遅いね。チラと目を向ければ、シュリオも同じような納得顔。
「すぐ戻る。」
そう言って、ドラーエ先輩は足早にホテルの正面入口に向かった。
どうやら女は、もがこうが喚こうが無駄と悟ったらしい。絡め取られた
無理な姿勢のまま黙り込んでいる。…さすがに観念したか。
………………………
誰に観念したんだろうか?
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ほどなく、ドラーエ先輩は戻った。入ってすぐのところに電話があり、
向こうも連絡を待っていたらしい。さすがの連携ですね先輩方。
連絡相手はもちろんナガト先輩だ。
時計塔の事件の後、先輩は現場へと赴いて根気のいる調査をしていた。
先輩の天恵【犬の鼻】は、その場に残された天恵の残り香を嗅ぎ取る。
精度が高い反面、天恵の主がその場から去ってかなり時間が経たないと
感知が出来ない。かつては丸一日もかかったらしいけど、今ではかなり
そのインターバルは短くなってきているらしい。天恵の成長か習熟か、
何しろ利便性は上がってきている。
それでも時間がかかるのは同じだ。事件の犯人がどんな天恵の持ち主か
確認するため、辛抱強く調査した。この辺り、ナガト先輩は頼もしい。
そしてようやく結果が出たらしい。
「で、どうでしたか?」
「ほぼ当たりだろうな。」
そう答えたドラーエ先輩は、目の前に転がる女を見ながら告げる。
「時計塔に残った天恵は【変相】と【獣化】の二つだったらしい。」
「という事は…殺された少女の方が【変相】って事ですか。」
「状況を見るに間違いないだろう。後でもう一度確認するらしいが。」
確認とは、収容した遺体だけを再度【犬の鼻】の天恵で調べる手順だ。
時間はかかるけど、それでどちらがどの天恵の持ち主かが判明する。
…まあ、この女の今の姿を見れば、それを待つまでもないだろうけど。
殺した方も殺された方も天恵持ち。
嫌な確信が生まれるなあ、ホント。
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「とりあえず、こいつは連れ帰る。警察への連絡はそれからだな。」
「ロナモロスの関係者でしょうね、やはり。」
「そのあたりはこれからだな。」
「…………………………」
ドラーエ先輩とシュリオの会話を、あたしは黙って聞いていた。
もちろん異議はない。だけど、この状況をそれで済ませていいのか。
タレコミがあって、駆け付けたこの場所で容疑者が空から降ってきた。
控えめに言っても、人外の所業だ。以前のゲイズの事も含めて考えると
なおさら計り知れない。おそらく、今あたしたちが探っても無駄だ。
その事実を、ゲルノヤ隊長も陛下も認識している。もちろんあたしも。
何者なのか、今は皆目分からない。
オラクレールの人たちが関わってる気はするけど、確信には至らない。
状況証拠だけでそれを口にするのは危険だろうし、やらない方がいい。
匿名の通報という手段を取っている以上、詮索されたくないというのは
嫌でも判る相手の意志だ。
少なくとも、敵対者ではない。
ロナモロスともマルコシム聖教とも違う。詳しくは知り得ない存在だ。
独立した立ち位置から、こちらへの情報提供をしてくれている。それも
かなり危険な状況を乗り越えて。
善意の協力者と断定するのは、まだ早いだろう。そもそも正体不明だ。
そんな怪しい存在に、全幅の信頼を寄せるのはどう考えても無理だ。
現時点では、得られた情報を活かす事だけを考えればいい。
怪しいと思った部分には警戒する。その程度でいいとの陛下の判断だ。
だけど。
本当にそれでいいんだろうか。
相手が信用できないという考えに、異論は何もない。名前も名乗らない
顔も見せないでは、歩み寄れない。堅実な判断だと本心から思う。
しかし、今のこの状況をそんな堅実な判断だけで終わらせていいのか。
ただでさえ今のあたしたちは万事において、後手に回っているのだ。
ロナモロス教団の動きに先んじる事が出来なければ、情勢はどんどん
悪くなっていく気がする。決して、度の過ぎた懸念ではないはずだ。
だったら。
もう少し、出来る事があるはずだ。
「おいリマス。どうした?」
「撤収するぞ。」
「ちょっと待って下さい。」
そう言い置いて、あたしは例の女が落ちてきた場所まで歩いて戻った。
見上げても見回しても誰もいない。当然と言えば当然だろう。だけど、
あたしは顔を上げて声を放った。
「いるんでしょ!?」
「!?」
「おい!?」
困惑の二人には目を向けず、さらに声を張り上げる。
「ちょっとだけ、姿を見せて!!」
「…………………………」
あたしのやりたい事を、それなりに察してくれたのだろう。シュリオも
ドラーエ先輩も黙って答えを待つ。きっと同じ事を考えたんだろうな。
…………………………
しばしの静寂ののち。
『どんな用かしら?』
声が返って来た。
返答があった。
若い女性だ。
やっぱり、この場に残っていた。
あたしは、正直な言葉を投げ返す。
「とにかく、お話がしたいんです。姿を見せてもらえませんか?」
『…………………………』
これは沈黙だ。まだこの場にいる。きっと迷ってるんだろう。
だからあたしは、あえて無茶振りに近い提案を述べてみる事にした。
「正体を隠しておきたいなら、他人の姿でも構いませんから!」
「え?」
「は?」
さすがに背後の二人が訝し気な声を上げる。そりゃ当然だろうね。
「…そんな事できんのか?」
「知りません。」
「知らないのかよ。」
そのくらい出来るんじゃないか、と思っただけだ。我ながら浅いなあ。
相手もさぞかし呆れてると…
『それでいいなら、まあ。』
「え?」
あたしたち三人の声が重なった。
まさか、それでOKなの?
本当にそんな事が…
ガサッ!
突然、目の前の茂みが揺れた。
思わずビクッとした。
「こんばんは。」
ガサガサと茂みから出てきたのは、長い黒髪を持つ少女だった。整った
顔立ちだけど、不釣り合いなほどに目つきがキツイ。…ちょっと怖い。
「ど、どうも。」
何となく、あたしが彼女との交渉の担当みたいな構図になっている。
こうなれば腹を括るしかない!
「マルニフィート騎士隊です。」
「存じてます。」
あ。やっぱりか。
「ええっと…」
とりあえず訊くべきは…
「何とお呼びすればいいですか?」
「偽名になりますけど。」
「ええ、構いません。」
そこは特にこだわるべきじゃない。背後の二人も異存ないだろう。
とにかく名前を聞くだけだ。偽名であろうと何であろうと、聞ければ
それなりに距離が縮んだ事になる。
数秒の沈黙ののち。
「イオニアです。」
「イオニア…さん。」
「ラグジって呼んで下さい。」
「え?」
「ラグジ・イオニア。それがこの子の名前なんですよ。」
…………………………
ああ、なるほど。
友達か何かの姿なんだ。
いいのかな、それ?
まあいいや。
ラグジさん、ね。
少なくとも、状況は少し進展した!