楽園の基準
異世界転移に異世界転生。
慣れてしまったせいか、割と気安く語ってしまいがちな概念だ。
だけどあらためて考えると、意外と大変な事象だったりする。…まあ、
意外でもないけど。
あたし自身はこの世界で現出した。だから転移自体は経験していない。
とは言え、過去の記憶はきっちりと引き継いでいる。タカネとしての、
3000年近い記憶を。
その中で体験してきた世界として、ここは三番目だ。元の世界の次は、
二階堂環の生きるハングトン時空。そして今回、彼女の甥である友樹に
相乗りをして辿り着いたこの世界。なかなか希少な体験だと思う。
それぞれの世界を比較検証するのもまた、転移者の醍醐味だろう。
文明レベルやら生態系やら、興味は尽きない。何たって異世界だから。
好奇心と探求心に衝き動かされて、元のあたしは色んな事を知った。
その上で、色んなものを創造した。便利グッズだったり武器だったり、
本当に数え切れないほど創作意欲のまま形にしていった。
そして今。
この世界の「水準」は、元の世界と比較すると数千年の遅れがある。
ハングトン時空と比べたとしても、やはり1世紀近く未成熟だ。
それでも、電気やガス、水道などのインフラはひと通り完成している。
そんな中で必要に迫られ出てきた、キッチンカーというファクター。
いちいち店に戻らず遠征するという点で考えれば、なかなかの無茶だ。
キャンピングカーとしての機能も、本業以上に大切になってくる。
腕が鳴るね、どうにも。
================================
そもそも、店という本拠地を発ってトラックで遠征するという時点で、
かなりのリスクを抱え込む。まして喫茶店の移動店舗だ。色んな意味で
維持には工夫が必要になるだろう。かつての旅よりも、難易度は高い。
そのあたりに関しては、拓美たちとあれこれ考えたアイディアの数々を
遠慮なく投入する。いささか過保護になるだろうけど、どうせあたしは
異世界の存在だ。友樹を元の世界に戻すミッションの難度を考えれば、
そういう部分で出し惜しみなんかはするべきじゃない。ローナのPCは
ナノマシンとしてのフルスペックを発揮できる神性能だ。だとすれば、
変な遠慮なんか無用。
…というところで、まず考えるべきテーマは何だろうか。
必要は発明の母という言葉がある。拓美もずっと座右の銘にしていた。
それと同時に、あたしや拓美からはなかなか出ない「必要」がある。
かつてそれを嫌というほど例示してくれたのは、リータだった。
ありふれた人間に過ぎない彼女は、あたしたちには気付けない問題を
当たり前のように抱えていたのだ。
最たるものが、トイレである。
================================
長距離バスなどは、最初からトイレを備えている事も珍しくなかった。
とは言え、あれも目的地に着きさえすれば車庫というベースがある。
それに対し、今回のキッチンカーは事実上の放浪だ。ベースがない以上
どうしてもトイレ問題が浮上する。どうやってそれを解決すべきか。
だけどあたしはこの問題に関して、トランたちの意見は求めなかった。
「何とかするから任せといて。」
そのひと言で片付け、完全にあたし個人の課題として請け負ったのだ。
もちろん過保護なのかも知れない。そこは否定しない。でもその反面、
あたしはネイル・コールデンを捜すという目的には、あまり貢献できる
気がしない。やはりここに関してはローナやトラン、ネミル頼みだ。
それならやはり、あたしはサポート役に徹した方がいい。…もしくは、
いざという時の戦力とかだ。
そもそも、あたしのナノテクを理解してもらう事さえひと苦労である。
記憶の一部を得たモリエナでさえ、チンプンカンプンだと言っていた。
だからもう、あたしだけで考える。
この世界をそこそこ知った今だからこそ、見えてくる解決法がある。
要するに、ズルなんだけどね。
================================
この世界は、いわゆる生活インフラというものがそこそこ整っている。
自動車も電話もある。最初の世界と比べると、実に「進んで」いる。
さっきも述べた通り、電気やガス、水道といったライフラインがある。
調べたところ、それは地球と同じく原則的に地下に埋設されている。
ううん、ますます好都合だねえ。
もちろん辺鄙なところにまではないだろうけど、そのへんは別にいい。
そこまで高望みはしない。だけど、都市部なら大丈夫らしい。基本的に
商売は都市部でするだろうからね。
この場所に停車してから、あたしは秘かに車底から腕を伸ばしている。
腕と言っても、そのものじゃない。触手とかに近いパイプ状のやつだ。
強酸を使い少しずつ地面を溶かし、埋設されている下水管に接続する。
バルブがあればそこから繋げるし、無ければちょっとだけ穴を開ける。
もちろん漏れたり破裂したりしないよう、細心の注意を払いますとも。
接続できればこっちのものである。
キッチンシンクにも応用できるし、何よりトイレに繋げられるのよ。
中に水を満たしておけば、下水管の臭いなどが上がってくる事もない。
移動する時は、しっかり穴を塞いで腕を抜き、回収。これで終わりだ。
原理を応用すれば、ガスとか電気も手に入れられる。まあ、そっちは
可能な限り、自前で何とかしようと思ってるけど。
「そんな事していいのかよ?」
「怒られない?」
案の定、常識人であるトランたちは心配顔でそんな事を言った。しかし
そんな二人でも、ウォシュレットの魅力には勝てなかったらしい。
「…まあいいか。せっかくタカネが用意してくれたんだからな。」
「そうだよね。」
うんうん、リアクションがリータとほぼ同じだ。チョロいもんだね。
結局のところ、人はトイレの充実に何よりも心を動かされるらしい。
経験は語る、というやつである。
楽園基準なんて、どこの異世界でも案外そんなもんだ。
これだから、創意工夫は楽しいね。