忘れたいけれど
『聞こえるか、シュリオ?』
「はい。」
『着いた。3階の第二会議室だな。そこの固定電話からかけている。』
「そこで間違いありません。」
答えながら、あらためて公務書類を確認し直す。うん、間違いないな。
『それで、どこだって?』
「北側の中央、赤い席です。」
『あれか。…間違いないな?』
「さすがに昨日の今日ですからね。しっかり憶えています。」
『分かった。じゃあ確認してくる。このまま切らずに待っててくれ。』
「了解です。」
受話器を置く音がゴトリと聞こえ、その後の物音は遠ざかった。
会議室はそこそこ広い。さすがに、聞こえてくる音はかすかになった。
電話の相手は、騎士隊の先輩であるナガト・ジルエさんだ。
僕とは異なる外務に出向しており、まだ戻って来ていなかった。
陛下との会議の結果、ナガトさんはロンデルンに戻る前にアゼルバへと
向かう事になった。正直、かなりの強行軍である。
お疲れさまです。
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アゼルバとは僕が昨日、マルコシム聖教との会談に同席した街である。
教皇女ポロニヤが、外遊でこの国に来ている。なので外務官が挨拶に
出向いた。要するに、その護衛だ。しかし実際のところ、具体的に何を
警戒してというものでもなかった。言い方は悪いが、形だけの任務だ。
そこで僕は教皇女ポロニヤを見た。妹と同い年くらいかという印象しか
持たなかった。まあそれが普通だ。教皇女と言っても、見た目は本当に
普通の少女だったから。
さっさと王宮に戻ったら、リマスが何だかよく分からない書き置きを
残して外出していた。とにかく合流した拠点で、まさかの本日二度目の
教皇女拝顔となった。何の冗談かと思ったが、詳しく聞いた話の内容は
冗談では済まされないものだった。
…あれが、ニセモノだったって?
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今もなお確証と呼べるものはない。それは事実だ。
しかし、だからと言って見過ごしてしまうのは決定的にマズいだろう。
とは言え、事は重大だ。楽観すれば取り返しがつかなくなってしまう。
なのでもう、謁見を求める教皇女はニセモノと決め打ちで話を進める。
間違ってたなら謝ればいいだけだ。陛下はその点、ドライに割り切る。
と言うわけで。
翌日の早い時間に、謁見は四日後に行うという連絡が先方に送られた。
曲がりなりにも世界最大の宗教だ。無下に断るという選択は出来ない。
むしろ望むところだ!という陛下の意気を感じたのが正直なところだ。
この「四日」という日数を、相手はどう捉えるだろうか。そのあたりは
もはや考えてもあまり意味がない。退路を断って開き直るだけだ。
具体的な日が決まった以上、そこに向けて各自やるべき事をやるのみ。
そして、まずはナガトさんの役目が決まった。首都まで戻ってくる前に
直接行った方が、時間と手間を短縮できるという判断だ。本人にすれば
何のことやらって感じだろうけど。
ともあれ、これはナガトさんにしかできない役どころだ。
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剣の腕は確かながら、ナガトさんのそれは天恵によるものではない。
純然たる研鑽の賜物だ。そして彼の天恵は、非常に特殊な代物である。
その名は【犬の鼻】。
もう少しいい名前はないのかよと、誰よりも本人が思っているだろう。
しかし実のところ、それはきわめて有用な天恵なのである。
「その場所にいた人間の天恵を感知する」
これが【犬の鼻】の能力だ。正直、女王陛下直属の騎士に必要なのかと
問われれば、地味に答えに詰まる。しかし彼を騎士隊に登用したのは、
他でもないマルニフィート陛下だ。そして実際、こうして役立つ機会は
しばしば訪れている。今回などは、その最たるものと言えるだろう。
だがこの天恵、精度が高い代わりにかなりデリケートな性質を持つ。
まず、感知すべき対象がその場所を離れて10時間以上経っている事。
そして対象本人が半径1km圏内にいない事。その場にいるのは論外。
いずれの場合も、本人の存在が雑音になって感知できなくなるらしい。
さらに、あまり時間が経ち過ぎたり人の出入りが多過ぎた場合も無理。
ある意味、本物の犬の鼻より融通が利かないと言えるかも知れない。
まあ、何事もそう都合よく行かないという事だろうな。
それにしても…
『終わったぞ。』
「あっ、はい。」
『何だ?集中しろよシュリオ。』
「すみません。」
考え事をしてたのがバレたか。
「それで、どうでしたか?」
『決まりだな。』
「と言うと、つまり…」
『ああ。』
ナガトさんの声に迷いはなかった。
『あの席に座っていた人間の天恵は【変身】だ。間違いない。』
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『じゃあ、俺は首都に戻るぜ。』
「はい、お気をつけて。」
とりあえず、ナガトさんの役どころはここまでだ。
当然、その時その場には聖教の者が何人かいた。だが今の時点ではもう
誰がどこに座っていたか判らない。調べたところでほぼ役に立たない。
そして恐らく、謁見の場に同行するのはもっと厄介な連中だろう。
これで、教皇女がニセモノだった話は確定と言ってもよくなった。
陛下もきっと覚悟を決めるだろう。
電話を切った僕は、何となく感傷に耽った。
ナガトさんの調査の結果がショックだったわけじゃない。それはもう、
今さらって話だ。むしろあの呑気な少女が本物だという方が、よっぽど
気持ち的には救いになる。どうか、無事に旅を続けてと祈るばかりだ。
感傷の原因はもっと個人的である。
ナガトさんの天恵の話を聞くたび、思い出したくない過去を思い出す。
面と向かって天恵を見られる方が、あらゆる意味で便利に決まってる。
今回だってそうだろう。謁見の場にそういう天恵持ちがいてくれれば、
どれだけ話がスムーズに進むか。
…いや、心当たりそのものはある。しかも二人。
しかしネミルさんに、こんな危険な場に来いなどとは絶対に言えない。
聖都の蹂躙の話が本当だとしたら、王宮が戦場になる展開もあり得る。
あの人たちは絶対に巻き込めない。
とすれば、もう一人。
しかし、あの男の行方は知れない。いや、そもそも名前も知らない。
俺の生き方を、ある意味で狂わせた張本人だ。
あいつは今、一体どこに…
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ジリリリリリリン!!
物思いは、突然の電話で途切れた。
ここの回線に直接かけてくるという事は、相手はごく限られている。
迷わず受話器を取った。
「もしもし?」
『あ、シュリオ?』
「そうだ。リマスだな?」
『ええ。ナガト先輩どうだった?』
「的中だ。あの場所にいた教皇女の天恵は【変身】で間違いない。」
『やっぱりかぁー…』
驚いた様子もない。まあ当然だな。リマスも本物の話は聞いていたし。
むしろ望んでいただろう。
「用件は?隊長に報告とかか?」
『いや、あなたにちょっと訊きたい事があってさ。』
「僕に?」
何だ、この状況で僕に質問って…?
「何だよ。」
『オレグスト・ヘイネマンって男の顔、憶えてる?』
「は?」
誰だ?
「憶えてるとか憶えてない以前に、全く聞いた覚えがない名前だぞ。」
『そうか、名前は知らないのか。』
「だから誰だよ。」
『流浪の神託師よ。』
「え?」
『ずっと前に、あなたに天恵宣告の真似事をしておかしくさせた男…』
「憶えてるよハッキリと!!」
叫ぶ声が裏返ってしまった。
ってか、こいつ読心の能力者か!?
今まさに思い出してたんだよ!
忘れたくても絶対に忘れられない、その男の忌々しい顔を!!