ローナと世界と俺たちと
何事も、慣れてしまえば日常だ。
あの恵神ローナが人間の姿を得て、俺の店の常連客になった。
もちろん、その事を知っているのはごくごく一部の人間だけだ。いや、
むしろ気安く話すと正気を疑われて人生が詰むだろう。
しかし月日が経つにつれ、俺たちはそんな不条理を当たり前の事として
受け入れてしまっている。ってか、たまに忘れている事さえある有様。
とことん慣れは恐ろしい。
そんな俺たちの日常は、あくまでも「平穏第一」って感じである。
実際、ローナも「神」らしい力などほとんど持っていない。もちろん、
見識の広さや人には出来ない事など色々あるけど、正直どれを取っても
誰かの天恵くらいのささやかな力でしかない。そのあたりはどうやら、
本人が望んだ結果らしい。せっかく人の姿になったんだから、あんまり
姿から逸脱した力は好ましくない…という事なんだろうな。
恵神がそんな感じだから、俺たちに特別な力なんて望むべくもない。
もちろん俺は【魔王】という天恵を持ってるけど、これだってそれほど
強力と言うわけじゃない。ローナに言わせれば「時代遅れ」らしいし、
これで世界の覇権を狙うなんてのは夢物語もいいところだ。と言うか、
そんなもん欲しいとも思ってない。
もちろん、少し前まであまり納得はしていなかった。オレグストの事や
ウルスケスの事など、キナ臭い話は実際にいくつも耳にしていたから。
見てみぬ振りをしてていいのかと、ローナに詰め寄った事もあった。
だけど、今はローナの言いたい事もかなり理解できるようになった。
理不尽に対し義憤を覚えるのは別に悪い事じゃない。だからと言って、
闇雲に正義を貫こうとしても泥沼にはまるだけだ。ゴールさえ見えず、
迷走の果てに当たり前の幸せと日常を失って終わる。ローナは俺たちに
そんな馬鹿げた展開など望まない。いや、俺たち自身も望まない。
かと言って、何もするなと言うわけじゃない。
「誰かのため」の定義がはっきりと見えていて、かつゴールも見える。
そんな困難なら迷わず挑めばいい。それはローナの、偽らざる本音だ。
概念としての恵神ではなく、一人の人間の器を得て彼女はそれを望む。
何度も聞いたから、人間に対してのローナの感覚も今は少し分かる。
元の状態のままでは、個人の認識もまともにできない。天恵を授けると
言っても、そこに具体的な達成感も興味も抱きようがなかった。
だからこそ、ローナは天恵の化身であるポーニーを知って人間の肉体を
作った。もっともっと近くで、天恵を授ける人間を知ろうと思った。
「退屈してたんだよ、本当に。」
しみじみ呟いたローナの言葉には、圧倒的な実感がこもっていた。
悠久の時を持つ彼女にとって、今の世界の在り方なんて本当に些事だ。
宗教問題だの国際問題だの、そんな小難しい事象には興味も示さない。
等身大の体を得たローナは、等身大の人間と接する事を望んでいる。
だから俺の店に入り浸り、皿洗いの手伝いも喜んでやっている。
不思議なもんだよな。
俺たちは、恵神と知り合った事で
誰よりも、普通の人間らしい暮らしを選んでいるんだから。
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新婚旅行の一か月後のある日、俺はふとローナに質問した。
あなたは不死の存在なのか、と。
神に対しあまりに大それた質問ではあるけど、もはや今さらって話だ。
別にそれでローナを殺そうとか思うわけじゃないから、好奇心のままに
聞いてみた。案の定、ローナは特に気を悪くした風もなく答えた。
「いや、そういうわけじゃないよ。確かにほっとけばいつまででも存在
し続けるけど、あたし自身が本気で願えば死、つまり消滅は起こる。」
「つまり自殺って事か?」
「広義で言うならそうだろうけど、願うだけで死は訪れない。だけど、
そうやって「いなくなる」事は可能だって話よ。」
「なるほど...」
すぐに理解できる話ではないけど、少なくともローナ自身が願えば
死ぬ、いや存在を消す事は不可能ではないって事なのか。
宗教家が聞けば腰抜かす話だな。
「じゃあ、もしあなたがそうやって死を選んだら、どうなるんだ?」
「あんたも死ぬよ。」
「え?」
事もなげにローナは言った。
「あんただけじゃない。天恵を得た人間、つまりその時点で15歳に
なっている人間は皆、あたしと共に死ぬ事になる。そういう仕組み。」
「………………………そうか。」
これまでで最もとんでもない話を、さらっと聞いてしまった気がする。
天恵とは、ローナから授かるもの。つまりローナの一部って事なのか。
「あたしは絶対神じゃない。けど、少なくともこの世界に生きる人間と
間違いなく繋がっている存在なの。もしあたしがいなくなれば、世界は
子供のものとしてリセットされる。つまりそういう事よ。」
「ならその後の世代は、もう天恵と無縁の人生を生きていくのか。」
「さあ、それは分かんないね。」
そう答えたローナは、肩をすくめて小さな笑みを浮かべた。
「もしかすると、またあたしに似た高次存在が生まれるかも知れない。
それが新たな恵神となって、新しい世代に天恵を授けるかも知れない。
あたしはこの世界の未来を見る事はできないから、まあ全て推測よ。」
「未来は未定、って事か…」
とんでもない話を聞いたけど、その割に気持ちに波は立たなかった。
少なくとも今、ローナが死にたいと考える事はないだろう。だったら、
いちいち気に病むのは損なだけだ。どのみち、死ぬ時は同じなんだし。
とは言え、こんなスケールの大きい話を聞くと【魔王】って天恵の名が
ちっぽけに感じて笑えてくる。
慣れるってのは本当に怖いよな。
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そんなこんなで、俺たちは俺たちの日々をそれなりに過ごしている。
キナ臭い話が聞こえてくる世情ではあるけど、この街は今日も平和だ。
明日もきっといい天気に…
ジリリリリン!
「オラクレールです。」
『あ、トラン?あたしあたし。』
物思いを断ち切った電話の相手は、ディナだった。
出産から既に一か月。家でゆっくりしているはずだけど、何だろうか。
「どうかしたか姉ちゃん?」
『ちょっと頼みがあってさ。』
「頼み?俺に?」
『…どっちかと言うと、そこにいるみんなに。』
「…?」
『明日の夕方、そっち行くからさ。よろしくね。』
「…ああ、分かった。」
何だろう。
平穏とは真逆の何かが近づいてる。
そんな気がする。
確信めいた予感が、はっきりと胸に根を下ろしたのを感じていた。