旅立ちのポーニー
「お逃げ下さい。」
言われた意味が理解できなかった。
いや違う。意味そのものは解った。ただ、なぜそんな事を言うのかが
全く解らなかったという話だ。
どうしてこの状況で、このあたしが「逃げる」必要があるのだろうか。
むしろ、そんな選択は後々になって重要な問題に繋がらないだろうか。
そんな心配する程度には、あたしは自分の立場を理解している。
好むと好まざるに関わらず、自分が「何であるか」は理解している。
マルコシム聖教の教皇ポロス四世の長女・皇女ポロニヤ。
「奇跡の御子」と呼ばれ、近い将来聖教の教皇になるべき存在だ。
お父様はまだまだご健勝だけれど、これから子供をもうける事はない。
つまりあたし以外、マルコシム聖教を継ぐ者は存在しないって事だ。
そんなあたしに「逃げろ?」
なぜ、そしてどこからどこまで?
大聖堂から出ればいいのか。
それとも、この聖都グレニカンから逃れろとでも言うのか。
まさかとは思うけど、タリーニ王国から出て行けという事なのか?
「お逃げ下さい」じゃ分からない。あまりにも不親切が過ぎる指示だ。
だけどそんな言葉を口にしたのは、誰よりも信頼できる大神官ゼノ。
このあたしの事も、生まれた時から何よりも大事にしてくれていた。
時と場合によっては、お父様にすら逆らってあたしを守ってくれた。
そんな人の言葉を、あたしの判断で軽々しく疑っていいはずがない。
それはつまり、何かしら逃げなきゃいけない事情が迫ってるって事だ。
だけど、ゼノは行ってしまった。
彼女なら、最後まであたしと一緒にいてくれると思っていたのに。
その選択を捨ててまで、しなければいけない何かがあったのだろうか。
分かんないよゼノ。
あなたはいったい、何を怖れたの?
訪ねてきた相手って、確かえっと…ロナモロス教?の関係者でしょ?
大した勢力でもないそんな相手に、あなたはこのあたしから離れてまで
何をそんなに警戒したの?
……………
もしかして、あたしを逃がすために犠牲になるつもりだったの?
分かんないよ、ゼノ。
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「こちらです。」
途方に暮れていたあたしは、誰かに腕を引っ張られて我に返った。
見れば、何度か顔を見た憶えのある若い衛士だった。身分を考えれば、
あたしの身体に触れるという行為は死罪ものの越権行為だ。…だけど、
いくらあたしでもそんな事言ってる場合じゃない、ってのは理解した。
「ゼノに言われたの?」
「はい。」
「とりあえず、名前を教えて。」
「アースロとお呼び下さい。」
「アースロ、ね。」
不思議なものだ。
何ひとつ状況は好転していないにも関わらず、ちょっと安心できた。
傍にいる人間の名前を知るだけで、こうも気持ちは切り替わるのか。
あたしは、アースロに引っ張られる代わりにしっかり足を踏み出した。
力がこもった事実を察したらしく、アースロはあたしの腕を放す。
「皇女様。」
「その呼び方はやめて。」
「ですが…」
「逃げるんならまずいでしょ?」
「…そうですね。」
ずっと張り詰めた表情のままだったアースロが、初めて苦笑した。
笑うと幼さが垣間見える。あたしと同い年くらいなんだろうな、多分。
「では、何とお呼びしましょう。」
「じゃあ…」
何だろう。
不謹慎極まりない話だけど、どこかワクワクしている自分を感じる。
あるいは今、過酷な冒険に足を踏み出そうとしているのかも知れない。
もう二度と、この場所にもこの身分にも戻れなくなるのかも知れない。
だけど、それでも前を向きたい。
あたしは、意外とそういう生き方をどこかで求めていたかも知れない。
だったら、開き直ってやろう。
あたしは
「ポーニー。ホージー・ポーニーと呼んでくれればいいよ。」
「承知しました、ポーニー。」
それまでの苦笑でない、嬉しそうな笑みを浮かべてアースロは頷いた。
あ、絶対に知ってるなこの名前を。てか絶対しっかり読んでるな原作。
ちょっと恥ずかしくなったけれど、それ以上に何かが心を強く包んだ。
連帯感なのか共有の気持ちなのか、あるいは純粋な勇気かも知れない。
「ではこちらへ。」
「分かった。」
言われるまま駆け込んだ部屋には、まさに「あたし用」としか思えない
旅の用意があった。もちろん皇女としてではない、お忍びの仕様だ。
少し変色した革の財布には、共用の通貨が細かく入れられていた。
「これ、全部ゼノが?」
「そうです。…お早く。」
「了解!」
考えるのも躊躇うのも今はナシだ。
ゼノの気持ちに応えるつもりなら、何もかも振り切って前に進め。
顧みるのはそれからでいい。
かくしてあたしとアースロは、隠し通路から大聖堂を後にした。
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直後に何が起こったか、知ったのは二日後の事だった。
大聖堂前の広場にて、お父様が自らロナモロス教への帰依を宣言した。
あたしとアースロは、民衆に紛れてその様を目の当たりにしていた。
どうしてお父様がそんな心変わりをしたのか、理由は全く解らない。
だけど少なくとも、ロナモロス教の人間が何かしたのは明らかだった。
これが世界にどんな変化をもたらすのか、今は確かな事など言えない。
あるいは、けっこう良くなるのかも知れない…という世論もあった。
だけどあたしたちは戦慄していた。
おそらくお父様の宣言を聞いていた人間の中で、もっとも慄いていた。
教義がどうこうという話じゃない。
そんな普通の話じゃない。
バルコニーに立つお父様のすぐ後ろで、婉然と手を降る一人の少女。
まぎれもない、皇女ポロニヤ。
このあたしの姿が、そこにあった。どこから見ても確かにあたし。
誰なの、あの子?
どうやったらあんな事できるの?
もしかして
あれこそが
「天恵」の成せる業?
こうして、あたしは聖都を逃れ。
ホージー・ポーニーとして、新たな一歩を踏み出したのだった。