ランドレの選択
経験や鍛錬は、何にも勝る。
たとえ不本意でも、それは形のない実りとして己の体に残る。
ロナモロスに入団されられて以降、あたしは数え切れない人を相手に
【洗脳】の天恵を使ってきた。以前なら伯父さんと周囲の人たちだけが
対象だったのに対し、世代も性格もバラバラな人たちが対象になった。
当然、抗う人もいた。そこそこ危険な目にも遭ってきた。そんな中で、
あたしは研鑽を繰り返した。結果、発動の速さも精度も抜きん出た。
おそらく今のあたしなら、伯母さんにも余裕で勝つ事が出来るだろう。
何の自慢にもならない技能だけど、それは確かなものとして残った。
相手を問わず、本当に素早い発動で術に墜とせるまでになった。
たとえば、今回のように。
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背筋に悪寒が走るのを感じた。
どうしてこの人がここにいるのか…という困惑は、ほんの一瞬だった。
この人がここにいる事自体は、別に構わない。どういう偶然なのかと
思うけど、そんな事もあるだろうと割り切ればそれまでだ。さすがに、
あたしが今ここで姿を見せると話がややこしくなるだろうけど。
しかし彼の放つ言葉は、あまりにも不穏で聞き流す事が出来なかった。
明らかにウルスケスをウルスケスと決め打ちしており、偽名を使ったと
確信している気配さえある。つまり彼は、彼女の「正体」を看破し得る
何かの力か情報を持っているという事になる。
だとすれば、迷う間などない。
そんな悠長な事を言ってたら、先に待つのは破滅だけだ。
音もなく歩み寄ったあたしは、彼が気配に気づき振り返るタイミングを
完璧に見切って天恵を発動した。
結果は、実に呆気なかった。
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「洗脳」の天恵に囚われた人間は、誰よりも素直に全てを話す。
だけどあたしは、あれこれと細かく訊く気にはなれなかった。そもそも
他人のプライバシーに踏み込む行為そのものが嫌いだった。だから、
必要な事だけを訊いた。もちろん、ウルスケスには聞かせなかった。
オラクレール店主のトランさんは、【魔王】の天恵の持ち主らしい。
あまりに皮肉に満ちたその名称に、不覚にもちょっと笑ってしまった。
悪魔だ何だ他人を形容していたら、まさかその王が現れるとは。
その力の内容は、驚くほどあたしの【洗脳】によく似ていた。
相手に悪意を持たれる必要がある、という点では少し不便だろうか。
しかし、それだけでは彼が今ここでウルスケスの存在に気付いた説明に
ならない。何かしら、悪意とは別の要因があったはずだ。
「…彼女の作った魔核と同じ魔力の気配を、強く感じたから。」
トランさんの説明で、そこそこ納得できた。つまりそれは、【魔王】が
本来持つ能力のひとつなんだろう。
ウルスケスの魔核は、魔力の塊だ。だとすれば【魔王】の名が示す通り
悪意とは別の意味で感知できる…という事なのではないか。だからこそ
面識のないウルスケスを、最初から決め打ちで看破できたのだろう。
納得と同時に、ぞっとした。
既にウルスケスは、こんな形で認識されるほど「魔」に染まっている。
あたしの主観だけでなく、【魔王】なる天恵が裏付けてしまっている。
少しずつ、人間でなくなっている。
でも、だからどうしろと言うのか。
あたしにできる事なんて、せいぜい人間としての延命しかない。
彼女自身が選んでしまった以上は、それを覆す事なんて出来ない。
おそらく、それはトランさんの天恵でも無理な話なんだろう。
あたしは、黙って考えた。
どうすればいいかを、考えた。
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【魔王】の天恵は、ネイルたちには非常に魅力的だろう。と同時に、
敵対する事になった時にはとことん危険視するだろう。もしかすると、
ゲイズか誰かに抹殺を命じるのかも知れない。可能性は大いにある。
その一方で、彼はあたしや伯父さんには特に何ももたらさないだろう。
正直、その能力は洗脳の劣化版だ。期待できる要素などはない。なら、
このままネイルたちに差し出す…という選択もあり得る……
…………………………
…………………………
いいや。
そんな選択は絶対にあり得ない。
それをすれば、あたしは戻る場所を永遠に失ってしまうだろう。
自分の意志で、他人を犠牲にする。それだけは絶対にしてはいけない。
それを選んだ瞬間、あたしは完全にロナモロス教団に染まってしまう。
勝手な理屈だと言われようと、その一線だけは絶対に超えたくない。
そうでしょ?伯父さん。
それに。
今にして思い返せば、伯母さんからあたしたち二人の命を救ったのは
きっとこの人だ。あの日この人は、天恵を使い伯母さんを出し抜いた。
全てを白状したのも、多分【魔王】の天恵による影響だったんだろう。
だとすれば…
もうすぐ、モリエナたちが来る。
それまでに選ばないといけない。
この人の命運は今この瞬間、確かにあたしの手の中にある。
あたしは
あたしは…
あたしは
不思議と、迷わなかった。
「…ここで見た事は、全て忘れて。自転車に乗って去って下さい。」
頼み込むかのように、あたしは彼に切々と命じた。
「新婚旅行を楽しんで。そうして、いつもの暮らしを続けて下さい。」
言いながら、涙を零す感触を両頬に覚えていた。
「……いつかあたしは、伯父さんと一緒にもう一度お店にお伺いします。
その時は、美味しい紅茶を。」
虚ろな顔で命令を聞くトランさんに対し、あたしはそう告げた。
それは命令ではなく、あたし自身の叶わぬ願いだったのかも知れない。
今この瞬間しか口に出来ない、もう絶対に届かない遠い願い。
それでも
あたしは、迷わずそれを選んだ。
悔いなど、何もなかった。
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「何か変わった事ありましたか?」
「何にも。いつも通りよ。」
ほどなくしてやって来たモリエナに対し、いつも通りの言葉を返す。
「この地は平和だし、ウルスケスは壊れかけてる。いつも通り。」
「…そうですか。」
突っ込んで訊く事もなく、モリエナもいつも通り話を切り上げる。
それでいい。
トランさんは、いつも通りの毎日を生きていって下さい。
「では、お送りします。」
「ええ。」
今日は、伯父さんに会いに行く。
何を話そうかなあ。
ねえ、伯父さん?