現状改善ひとつずつ
翌朝。
幸い天気は崩れなかった。さすがにちょっと体があちこち痛いものの、
いきなりの野宿にしては悪くない。さほど消耗がないのは何よりだ。
「おはよう。」
昨日送ってきた文庫本を読んでいたらしいローナが、俺に声をかけた。
差し込み始めた朝日の中で見ると、さすが恵神という神々しさがある。
自然と口調も改まった。
「おはようございま」
「昨夜は激しかったわねえ。」
「は!?」
「冗談だってば。」
「………」
頼むからその手の冗談はやめてくれと言いたい。
恵神がどうの以前に、俺はれっきとした新婚男性なんだから。
で、完全に目が覚めた。
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とにかく金がないので、朝食を買うという選択も持ち得ない。ひたすら
鞄の中の手持ちでしのぐしかない。さすがに早く改善しないと…
『もしもーし!』
いきなり、文庫本からネミルの声が飛び出してきた。
考え事をしていた俺は、その唐突な呼びかけにちょっと肩をすくめる。
ニヨニヨと笑っているローナを横目に、俺は挿絵のページを開いた。
「…もしもし?」
『おはよう!そっちは大丈夫?』
「ああ。ついさっき起きたとこだ。そっちこそ大丈夫か?」
『今日は仕入れの日じゃないから、けっこう余裕はあるよ。』
「そうか。」
そういやそうだったな。そもそも、昨日の時点であれだけの買い出しを
済ませていたんだ。今日明日くらいどうとでもなるだろう。
『じゃあ、朝ごはんを送るね。』
「え?…今ここにか?」
『そう!』
「いや、ちょっと待て。昨日と同じ転送だとえらい事になるぞ。」
『大丈夫、調整したから。そんじゃいきます!』
有無を言わさぬその掛け声に、俺は思わず空を仰いで息を詰める。
しかし、頭の上から朝食が落下してくる事はなかった。
と、その刹那。
シュン!!
すぐ目の前に、四角いものが現出。見事に地面に設置した。あらためて
よく目を凝らすと、それは店で使う配膳用のトレイだった。
「おお…」
思わずため息が漏れた。
朝食メニューのモーニングセットが丸ごと乗っている。しかも明らかに
作りたて。どんなに速い出前でも、こんな湯気の立つのは無理だろう。
ただし紙皿に紙コップだ。そこは、使い捨てを念頭に置いたって事ね。
『ちゃんと届いた?』
「ああ、大丈夫だ。ありがとう。」
『練習した甲斐があったよ!』
「練習?」
『とにかく食べて食べて!』
「分かった。いただきます。」
何はともあれ、大助かりだ。
これだけちゃんとした朝食ならば、野宿というシチュエーションでも
十分に耐えられる。
…人間なんて、単純なもんだな。
パンを頬張りながら、俺はそんな事を考えていた。
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「今朝はあたしもモーニングセットとしゃれ込んでくるわね。」
俺の食事中、ひとまずローナが店に戻った。
ちなみに、この場所はれっきとした観光地だ。それゆえ、ちゃんとした
公衆トイレがある。まあ大助かり。正直、この点はラッキーだった。
とは言っても、こんな不安定な事を続けるのはいろんな意味でまずい。
ネミルだって、いつまでも「転送」を持ち続けるわけにはいかない。
あまり何日も指輪を着けっぱなしにすると、指に負担がかかるからだ。
死に戻りの時とは違い、今回はそのダメージをリセットできない。
「そろそろ潮時だな。」
『うん。』
ネミルとしても、そこまでの無茶をするつもりはないらしい。
そうだ、それでいい。いくら自分の責任だといっても、当の俺がそれを
望まないってのも理解している。
難局は、一緒に乗り越えてこそだ。
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どっちも食事を終え、今後について作戦会議。
一人でブツブツ言ってると怪しい。なのでローナには戻ってもらった。
しかしまだ朝なので、観光客の姿もほぼ見えない。店などもないから、
行き交うのはジョギングしてる人が犬の散歩をしてる人くらいだ。
こうして見てみれば、転送ポイントの選択は割と悪くなかったらしい。
「とりあえず、もう次の転送で最後にしよう。」
『…うん。』
何か言いたげではあるけど、ネミルはおとなしく俺の提案に従った。
自分としても、もうそろそろ天恵を手放したかったのかも知れないな。
つまり、次回でもう店からの物資の送付はなくなるって事になる。
だとすると、必要なものは何か。
それはもう、考えるまでもない。
この国で使えるお金だ。
実のところ、ネミルはこの作戦会議にも歩きながら参加している。
当然の事ながら、店は臨時休業だ。ポーニーと共に銀行に向かってる。
旅行の出発ぎりぎりで両替しようと思っていたから、前倒しって事だ。
お金さえあれば、俺はどこかの宿に泊まる事が出来る。ポーニーの本が
手元にあれば連絡は可能だ。なのでかなり行動の自由度が増すだろう。
それが出来れば、後はネミル本人がここに来るだけだ。ゴールは遠いが
見えていないわけじゃない。今は、とにかくその事だけに集中しよう。
…何となくだけど、状況を楽しめる余裕も出てきた気がするな。
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意外とあっさり、両替は終わった。
普段そういう用事をする機会がないネミルも、非常時なら実に心強い。
問題なく、当座の俺の活動用資金と旅行用の費用を準備できたらしい。
よしよし、ここまでは思った以上に順調と言っていいだろう。
と言うわけで、最後の難関だ。
最初の転着ポイント、つまり野宿の現場に戻り、このお金を受け取る。
もちろんバラではとんでもない事になるから、全て何かの鞄に入れる。
そして、これはもう待ったなしだ。
そもそも、昨日の荷物だけではもうこれ以上の野宿は厳しいって話だ。
追加の荷物を送る選択もあるけど、これも繰り返しやれば怪しまれる。
リスクを減らすためには、とにかく何とか旅行者っぽく振る舞いたい。
ネミルの負担を減らす意味も込め、次で最後にする。
とは言え、そう簡単にはいかない。
日が高くなるにつれて、それなりに人の姿も増えてきている。しかし、
人がいなくなる時間まで待つ選択はできない。何としても日が高い内に
現金を獲得する必要がある。よし、もうこうなったら腹を括ろう。
『トランさん。』
「何だ?」
『何かスパイ小説みたいですね。』
「確かにな。」
ポーニーの言葉に、俺は思わず声を出して笑ってしまった。傍らにいる
ローナも、同じように笑う。多分、ネミルも笑ってるんだろうな。
俺ら、まったく何をやってんだか。
でもまあ、こんな状況を笑い合えているって現実を前向きに捉えよう。
スパイミッション、ドンと来いだ。