神託師の資格と責務と
まったく想定してなかった、というわけじゃない。事実、ネミルの鞄に
例の詠唱のテキストは入っている。列車の旅は長くなるから、その間に
ちょっと勉強しよう…という考えは持っていたのである。
でも、夜行列車は暗かった。加えてここ最近は、とにかく忙しかった。
その結果、鞄から取り出す間もなく二人とも寝落ちした。面白くもない
古語の勉強なんか、とてもやる気になれなかった。
結果、今の冷や汗状況に至る。
「ではどうぞ。」
カチモさんは、容赦なかった。
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言い訳する余地もなかった。
暗唱どころか、読めない部分さえもあるという惨状。ネミルはもはや、
全身の空気が全て抜けたかのように縮こまっていた。傍らに座る俺も、
居たたまれない気分だった。
「うーん…どうやら天恵を見るのは無理みたいですね。」
やっぱりカチモさんは容赦がない。粛々と遠慮なく事実を突きつける。
もちろん、異議を唱える余地自体はある。「指輪を使わせて下さい」と
言えばいいだけの話だ。…だけど、どうにもそんな雰囲気じゃない。
と言うか、今は言わない方がいいという予感めいた感覚があった。
少なくとも、俺たちにとってかなり気まずい沈黙ののち。
「はい。では以上で本登録は完了となります。お疲れさまでした。」
「へ?」
相変わらず、おれたちの間抜け声はよくハモる。
…完了?
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「あ、あれでいいんですか?」
墓穴を掘りかねない質問を口にするネミル。しかしそれは俺も同感だ。
あんな結果だったのに、登録できてしまっていいのだろうか。
「ええもちろん。と言うか…」
当然といった表情で頷くカチモさんは、やがてフッと小さく笑った。
「別に出来なくていいという話は、既にお聞き及びと思いますが。」
「え、ええ…それはまぁ…」
確かにネミルの親父さんから聞いていた話ではある。とにかく神託師を
継いだという事実さえあればいい。後は次代に継ぐ事が大事なんだと。
しかし、いざここでそれを明らかにされると、何だかモヤッとする。
「じゃあそのあたり、きちんと説明しておきますね。」
少し口調をあらためたカチモさんを見て、俺たちも居住まいを正した。
やっぱりその点は、きちんと聞いておきたい。
何と言っても、これからの俺たちの人生にとっての礎になるんだから。
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「知っての通り、天恵の宣告自体がもう廃れています。神託師の仕事と
言っても、年に1件あるかないかといったところでしょう。」
言いながら、カチモさんはネラン石の箱にそっとフタをした。
「当然、副業を持たないと生活などできません。…存じ上げませんが、
きっとルトガーさんもそうだったのでしょう。」
「ええ、他の仕事してました。」
俺の答えに、カチモさんが頷く。
「私は神託師ではありません。が、天恵宣告が難しいという事は十分に
理解してます。それを習得するのに費やす労力も大変なものでしょう。
しかし、苦労して習得しても活用の機会はほとんどない。だとすれば、
無理をする必要などありません。」
「つまり、できなければ名前だけでいいって事ですか?」
「身も蓋もないですが、そういう事ですね。」
「…………………」
何ともリアクションに困る。
もちろん、世襲の運命を背負った者としては、非常にありがたい話だ。
依頼なんて滅多に来ないだろうし、あっても断ればいいだけだろう。
国がきっちり認めてくれるのなら、後ろめたい思いもしなくて済む。
…だけどそれは、自分だけの話だ。
現代にだって、ちゃんと天恵宣告ができる神託師はいるんだろう。
その人たちと同じ肩書きを持つってのは、どうにも気が引ける。
チラと見れば、間違いなくネミルもそんな事を考えている顔だった。
短い沈黙ののち。
「…出来ない事に対して、何かしら制限とかはあるんですか?」
迷った末なのだろう。慎重に言葉を選びながら、ネミルが質問した。
やっぱり俺も、そこはちゃんと把握しておきたいと…
「ええ、一つだけありますよ。」
思った以上にあっさり、カチモさんは即答した。
「な、何ですか?」
「天恵が見られない場合は、年金が受け取れなくなるって事です。」
…は?
年金?
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「では、お気をつけて。」
「ありがとうございました。」
入口まで見送ってくれたカチモさんに揃って頭を下げ、俺たち二人は
中央庁舎を後にした。さすがに少し日は傾いている。
しばらく無言で歩き、庁舎の建物が視界から消えた少し後で。
「…はあ、疲れた。」
「疲れたな。」
同時に足を止め、俺たちはため息をついた。
思い返せば、別に大変な事をしたというわけじゃない。いたって普通に
役所で手続きをした…ってだけだ。しかし、尋常じゃなく疲れた。
神託師として年金が受け取れない。
何と言うか、それまで以上にかなりリアクションに困る話だった。
どうやら、天恵宣告ができる神託師は、国から年金をもらえるらしい。
名実ともに聖職を継いでいるという事への、ある種の敬意なんだろう。
名ばかりとは言え、やはり神託師は特別な仕事だって事だ。
カチモさんいわく、もし天恵宣告ができるようになったら、またここに
来て下さい…との事だった。それで登録内容を更新し、年金を受領する
資格を得られるんだとか。
「もし申告しなかったら、やっぱり罰則とかあるんですか?」
「何にも。ただ、受け取れるはずの年金がもらえないってだけです。」
「…そうですか。」
何と言うか、ホントに緩いんだな。まあ、それが今の時代なんだろう。
有名無実となった聖職に対しての、ごくごく現実的な世の中の姿勢だ。
「…どうしよっか?」
「もういいんじゃないか?今のままでやっていっても。」
俺は迷う事なく即答した。そして、ポケットから冊子を取り出す。
それはカチモさんから受け取った、ネラン石の近年の相場と天恵宣告の
価格相場一覧だった。こんなのまでしっかり作られているとは…
「ネラン石の価格はともかく、天恵宣告で取ってもいい金額もきっちり
決まってるんだぜ。ならこの相場の中でお手頃価格を設定すりゃいい。
…別に年金なんか、もらわなくてもいいだろ?」
「うん、いらない。」
「なら勝手にやろう。どうせ指輪は認めてもらえないだろうからな。」
「……そうだね。」
どうやらネミルも異存ないらしい。
結局のところ、ルトガー爺ちゃんの作った指輪はイレギュラー存在だ。
カチモさんの口ぶりから察するに、こんなものを神託師が使う特例など
そもそも規約中に存在していない。正直に言っても混乱を招くだけだ。
下手すれば没収もあり得るだろう。だったらいっそ、年金の事は忘れて
勝手にやらせてもらおう。
去り際にしっかり釘を刺されたのはたったひとつ、もっと簡単で大事な
注意事項だった。
「虚偽の宣告は絶対にダメですよ。それはシャレにならない重罪です。
くれぐれも恵神ローナ様に反目するような真似はしないように。」
そう。
神託師にとって何より大切なのは、嘘の天恵を宣告しないという事。
逆に言うなら、それさえ守れば割と自由に生きていいって話だ。
だったら俺たちは、イレギュラーとして生きていってもいいはずだ。
だよな、爺ちゃん?
「ま、とにかく用は済んだ。んじゃ帰ろうぜ。」
「うん!」
どうやら吹っ切れたらしいネミルが元気に頷く。
何はともあれ、これで本当の意味でスタートラインに立てたって話だ。
さあ、帰って工事の進捗を見よう。
いよいよ、これからだ。