闇に躍る影
クアントスの街には、西と東に同じ規模の貧民区が存在している。
街の人口の3割近くがこの貧民区に居を構えており、家を持たない者も
それなりに多い。しかしその反面、想像されるほど治安は悪くない。
ロナモロス教の大きな支部があり、それなりの生活者支援が継続的に
行われているのが要因である。
貧しいながらも平穏なこの街に今、不穏な影が現れていた。
夜の闇にまぎれて駆けるその影を、住民たちは魔獣と呼んで怖れた。
恐怖は、人の心に救いを望む気持ちをもたらす。
ロナモロス教入信を望む者が増えたのは、まさにこれが原因だった。
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野良犬の怪死。
単なる街の噂に過ぎなかった魔獣の存在を確たる恐怖へと変えたのは、
この戦慄すべき物証だった。明らかに食い殺されたとおぼしきその骸。
しかも傷口の形などから察するに、相手は明らかに野良犬より小さい。
何であるかが判明しないからこそ、人々の恐怖は殊更に募っていった。
もともと出歩く者も少なかった夜は完全に無人と化し、人々は息を詰め
ひたすら朝の訪れを待つ。そんな、終わりのない恐怖が貧民区を覆う。
沈黙に満ちた、とある夜。
静まり返った夜の公園のベンチに、ローブ姿の人影があった。誰を待つ
わけでもなく、ただじっと闇の中に解け込むように座っている。
やがて月が上り、その蒼く淡い光が公園を照らし出した頃。
「…そろそろいいかな。」
ポツリと小声で呟いたその人影が、そっとローブのフードをめくる。
露わになった前髪を軽く撫でつけ、その人物―ウルスケスは控え目に
ため息をついた。
「結果的に人払いできたのか。」
何とも言えない表情を浮かべつつ、ウルスケスはそっと周囲を見回す。
確認するまでもなく、誰もいない。窓も扉も固く閉ざされている。
…こんなはずじゃなかったけど。
でも、悪い事ばかりじゃない。
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きっかけはただの思いつきだった。正直、期待もしていなかった。
疑問を解消しようと思っただけだ。そして、ネズミで実験をしてみた。
結果は、予想を遥かに超えていた。いい意味でも悪い意味でも。
瞬く間に凶暴化したそのネズミは、やはり瞬く間に死んで自壊した。
さすがに腰を抜かしそうになった。だけど、それ以上に興奮を覚えた。
最初の失敗なんてのはつきものだ。だったら、失敗の原因を探った上で
改善すればいい。さいわいここには素材のネズミは、いくらでもいる。
探究心に憑りつかれ、あたしはただひたすらに生体実験を繰り返した。
マッケナー先生には適当に言い訳を並べ、とにかく魔核を研究した。
やがて最適な配分の量を探り当て、ネズミを安定した魔獣に変える事に
成功した。もちろん例外なく死んで自壊するものの、それまでの時間を
そこそこ設定できるようになった。要するに、使い捨ての生きた武器。
そんなものを創り出せると分かった今、心の中に仄暗い目的が生まれ、
育っていくのは当然の事だった。
そう。
このあたしの未来の潰した、元家族への復讐だ。
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とは言え、そう簡単にはいかない。解決すべき問題がいくつもある。
まずは故郷へ行かないとどうしようもない。しかし今のあたしには、
そんな遠出をする許可は下りない。これに関しては、交渉次第だろう。
次に、魔獣の持続力と殺傷力の検証をしなければいけないという点。
生み出す事はできたものの、具体的にどれほどの事が成せるだろうか。
見掛け倒しでは話にもならない。
資金だの秘密の保持だのと、他にも問題はある。協力者がいないため、
何をするのも自分という事になる。そして、やはり単独は限界がある。
ある程度までの成果を確立させて、後はマッケナー先生の協力を乞う。
魔核と引き換えだと言えば、交渉は可能ではないかと考えている。
だったらまず、交渉材料としてこの魔獣をしっかり知る必要がある。
実のところ、このネズミ型魔獣にはあれこれ使い道がある。
初めて外に出た時は、緊張で心臓が口から飛び出すかと思った。
生み出したネズミ型魔獣は、己より大きな野良犬を噛み殺し、そのまま
ぐずぐずと崩れて消えた。あの時、初めて自分自身の天恵の恐ろしさを
肌で感じた。しかしもはや、後戻りする気には微塵もならなかった。
ネズミ型なら、犬を倒せる。それははっきりした。しかしそれだけでは
対人用としての価値は心もとない。もう少し実証実験をやってみたい。
しかし、人を襲った時にはさすがに背筋が凍った。そんなつもりは全く
なかったし、家族以外の人間を襲う気もさらさらない。
さいわい、大事には至らなかった。もしもこれで死人が出ていたなら、
さすがにあたしは許されなかったと思う。自分でもそれは禁忌だ。
家族と、それ以外の人間は別だ。
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もう、あまり時間はない。
マッケナー先生は、辛抱強く待ってくれている。でもそれも限界だ。
一刻も早く、自分の魔獣化能力への考察を完成させないと。
そろそろ、悪魔に魂を売るべきだ。
そんな事を考えている自分自身を、もはや恐ろしいとも思わなかった。