部屋の中に誰かいる!
仕事を終えての帰り道。いつもと何も変わらないのに、なんだか嫌な予感がしていた。
時間はいつも通り夜22時前。暗いシャッター街を女一人で歩くのはいつも怖い。でも、ここがアパートへの近道なのだ。ほんのたまに開いている飲食店があり、途中にコンビニも一軒あるので、それを頼りに毎日そこを歩いて帰っていた。
なぜ、こんなに嫌な予感がするんだろう。
その理由は、わかっていた。
今日の昼、係長から誘われた。57歳で万年係長の、あの気持ち悪い、痩せたハゲオヤジにだ。帰りに二人で楽しい店に行こうと誘って来た。前々から仕事中に粘着質な視線を感じていた。
その誘いを断ってからだ。ずっと誰かの視線を感じている。
係長は席にいた。私をチラチラと見るのをやめて、しょんぼりとなっていた。私に振られたことがよっぽどショックだったのだろうか。キモい。
視線は背後から来ていた。振り返ると誰もいなかった。しかし今度はまた左後方に誰かが回り込んで、私をじっと見ている気配がする。
気にしないことにした。それでもたまに、たまらなくなって、振り返った。視線はずっと私の背中に回り込み続けた。
帰り道、外に出ると視線が遠くなった。どれかのビルの上から私をじっと見ている感じだ。
早くアパートの部屋に帰ろう。帰っても一人だが、玄関の鍵を二重に閉めて、隙間がなくなるほどカーテンで窓を覆ってしまえば、安心するだろう。
バッグの中でスマートフォンが震えた。
田舎の母だろうか? そう思い、急いで取り出すと、着信画面には『非通知』の文字と、背景に黒い男の影が映し出されていた。
亡霊のような、邪悪な気を感じさせるその影に、思わずスマートフォンを路面に投げつけそうになった。着信を拒否しながら、駆け出した。早く、早く部屋に帰ろう。自分の立てるハイヒールの靴音が、私を追って来ている何かの足音と被っているように聞こえて、何度か小さく悲鳴を上げながら、なんとかアパートに辿り着いた。
急いでドアを閉め、もどかしい手つきで鍵をかけ、チェーンロックも下ろした。
これで安心。
ここは私の部屋。
誰も入ってこられない、私のプライベート・スペース。
明かりを点ける前から嫌な予感がしていた。
風を感じる。居間の窓が開いていて、暗い部屋の中、白いレースのカーテンが内向きにたなびいていた。
ビンボーン!
天井から呼び鈴の音が部屋を揺らして、心臓が口から飛び出るかと思った。モニターが点いているが、そこには誰も映っていない。私は急いで明かりを点けようとした。停電なわけはない。インターフォンのモニターは灯っている。しかし明かりが点かない。窓を閉めようと走りかけると、暗い部屋の床を踏む足音がした。
ギシ……
誰かが部屋の中にいる! 叫び声をあげそうになったが、声が掠れてしまって出なかった。武器になるものを探して花瓶を手に取った。自分を取り巻く全方向に向けて花瓶をかざしていると、暗闇の中から声がした。
「榛名くん」
私の名前を呼ぶのは係長の声だった。しかしまるで生気がなく、死人の声のようだ。
「係長!?」
脅す声音で、言ってやった。
「尾けてこられたんですか!? 警察を呼びますよ! 立派にストーカー行為ですよ、これ! しかも住居不法侵入!」
すると足音が速くなった。ギシ、ギシ、ギシと連続で私に近づいてくる。私は音のするほうへ花瓶を振り下ろした。手応えは、なかった。私のすぐ耳元で、係長の粘ついた声がした。
「好きだ」
体中を蟲に這い回られたような感覚が走り、私は意識を失った。倒れる寸前に、自分のものではないような罅割れた悲鳴を上げたのを憶えている。
次の日、出勤すると、係長が私のところへ来て、嬉しそうに声をひそめ、言った。
「昨夜は楽しかったよ、榛名くんっ」
その顔には生気が戻っていた。
どうやら昨夜のは係長の生霊だったようだ。
昨夜、係長の体はずっと会社の席に座っていたらしい。ずっと下を向いていたらしい。
係長の生霊は霊体だから何も出来ず、ただ失神した私の顔を眺めて満足して帰って行ったようだ。係長の中ではそれが私と楽しいお店に行ったという記憶に置き換えられているらしい。
どうなのだろうか……。
これから毎晩、こんなことが続くのだろうか。
ストーカー行為をされて、もしかしたら殺されたりするよりは、このほうがましなのだろうか。
とりあえず警察に訴えても何もしてもらえなさそうなのは確かだった。