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星を埋めた少女  作者: 神木ジュン
王都編1
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4話 人生最悪な日1

 母はとても綺麗な人だった。


「お星さまの前では正しく誠実で在りなさい。そうすれば、お星さまが必ずあなたを導いてくださるわ」


 母がそう言えば、レティシアはこう答える。『はい、お母さま』と。そうすれば母は痩せこけた頬を綻ばせ、『レティシアはいい子ね』と微笑むのだ。

 それが幼いレティシアの、就寝前の日課だった。


 ねえ、お母さま。そんなこと守ってもお星さまは助けてはくれないよ。今日食べた小っちゃなパンの欠片すら、私たちに与えてくれたことはないんだよ。


 幼い心で何度そう思ったことだろう。


 レティシアが物心ついた時には母と二人、馬小屋に産毛が生えた程度の粗末な小屋で暮らしていた。正直、六歳頃までの記憶にいい思い出はない。あの頃の生活は本当に苦しいものだったから。


 母はお針子の仕事をしていたものの、朝から晩まで必死に働いても、得られる金は雀の涙ほど。その金で薄くて小さなパンを一つ買い、あとはレティシアが拾ってきた、わずかな豆や麦のカスをただ煮ただけの味のないスープ。それが、二人の命を繋ぐ大事な一食だった。


 しかしその程度の量で足りるはずがなく、レティシアはしょっちゅう雑草や木の実を腹の足しにしていた。お腹が空いたと母に訴えなかったのは、以前それを言ってしまったがために、母がその長くて綺麗な髪の毛を売って、金に換えたことがあったからだ。短くなった母の髪を見て、どれだけ罪悪感に駆られただろう。だからその日以降、どんなに空腹だろうと言えなくなってしまったのだ。


 今日一日を生きられるのかわからない、そんな生活がずっと続いていた。


 周囲の大人たちは誰も助けてくれなかった。彼らの下衆な視線やひそひそ話から、自分たち母娘が歓迎されていないことは感じていたけど、それがどうしてなのか。それを大人にも母にも問うことはできなかった。言ったら母を悲しませてしまうと思ったから。


 けれどふとしたことから、レティシアはその理由を知ってしまった。

 あれは五歳になる前だったと思う。偶然にも母が雇い主の服飾屋の主人に、仕上がった服を納品しているところに出会わしたのだ。母に対して横暴な態度の雇い主が『だったらその旦那サマとやらに養ってもらえばいいだろう。どうせできないだろうがな』と吐き捨てた言葉で、レティシアは『お父さま』という生き物が、すべての原因なのだと理解した。


 母がどんなに丁寧な仕事をたくさんしても、一向に増えぬ賃金も、雇い主から理不尽な理由で酷い扱いをされる理由も。あれはただ、レティシアたち母娘が見下されていただけだったのだ。


 幼いレティシアでも理解できたことを、けれど母はわかっていなかった。全て自分が至らないせいだと言い続けていた。どんなに母が頑張ろうと、あの人間たちが母をちゃんと扱うことはないというのに、それを理解できなかったのだ。


 このときレティシアは諦めた。母と自分は生きる世界が違うのだと。そして決意した。私は私の世界で生きると。


 その日からレティシアは母の教えを無視して、密かに()()()()()ことにした。もちろん、子どもに賃金を払う仕事があるはずがない。見よう見まねで盗みを始めたのだ。これは生まれ持った才能だったのかも知れないし、母の仕事中、時間を潰すためにずっと人間を観察していた賜物なのかも知れない。


 日中は母の目を盗んで隣の宿街へ向かい、身なりの良さそうな女や年寄りから金をくすねるチャンスを待ち、夜は母が寝た後にこっそり町へ出て、酒場の周辺で酔いつぶれている男の懐から金の一部を奪った。


 しかし毎日必ず金が手に入るわけではない。一回で稼げる金額もさほど多くなく、家計を支えられるほどの稼ぎにはならなかった。ただしこれはレティシアが慎重だったせいもあるだろう。もし盗み(このこと)を母に知られれば、きっと綺麗な母の世界が壊れてしまう。そうしたら母がどうなるのか想像できないほど怖くて、だから相手が金を落としたとか見間違えたという程度の額に押さえていたのだ。


 こうして稼いだ金がある程度貯まると、遠くの町へ出向いてはパンや干し肉を買い、それを『キレイな服の人がくれた』と言って母へと渡した。自分でも言ってしまうほど稚拙な作り話ではあったが、母がそれを疑うことは一度もなかった。娘が嘘を吐いているとは、夢にも思ってもいなかったのだろう。


 母を騙していることに多少なりの罪悪感はあった。けれどそれが母とレティシアの命を繋ぐ大事な食糧で、生きていくためには仕方ないのだと、そう自分に言い聞かせていた。

 全ては自分たちをこんな境遇に捨て置いた男のせいなのだからと。





 ――その憎き男が、目の前にいる。


 窓際の椅子に座り、その男を鋭く睨みつけるレティシア。隣で寄り添っているクラリスはレティシアの変貌ぶりに困惑しながらも、その手を握り締めていた。


 息をすることさえ躊躇われるほど重苦しい空気の中、切り出したのは養父のファンルドー卿だった。


「ゴホン。……改めて仕切り直すが、レティシア。こちらはラインベール公爵ローレンス……」

「無駄な前置きも不快な情報もいりません。要はお義父(とう)様は私に、この()()の養子になれと仰っているのですね」

「レティシア! 口が過ぎるぞ!」

「いいんだ、ファンルドー卿。気にしないで欲しい」

「しかし……」


 ラインベール公爵に目で制されたファンルドー卿はそれ以上は言わなかった。例えレティシアが不躾な対応をしようと、ラインベール公爵は自分よりもはるかに格上の相手。そしてなにより、レティシアの実の父親だからだ。


 ローレンスはレティシアの方に向きを正し、口を開く。


「レティシア……すまない。謝って済むことではないが」

「あなたは自分が何か言える立場だとでも思って?」


 レティシアの発言にローレンスは言葉に詰まった。ファンルドー卿とリベルトはほぼ同時にレティシアを窘め、クラリスはレティシアの手を握りしめる己の手にギュッと力を入れた。


 そんな四者三様の反応は、レティシアの眼中には全く入っていなかった。ただただ、自分と同じ顔をした男を睨みつけていた。

 母からすべてを奪い、母の全てであった男。すべての元凶である男。もしもこの場にナイフがあったのなら、レティシアは間違いなくこの男を刺していただろう。


「……レティシア」


 ファンルドー卿は想像以上のレティシアの拒絶反応に、後悔を感じつつも、今できるのは娘に父としての最後の役目を果たすことだけだと腹を括った。


「この二年、私なりに色々考えた。そしてフェンゼン家では、お前に幸せな将来(みらい)を用意できないと判断した。だからラインベール公爵に折り入ってお願いしたのだ」


 ファンルドー卿はすべては自分が決めたことなのだと、レティシアへ話し掛ける。


「情けないが、男爵家の、それも下流であるフェンゼン家では、お前の本来の身分に見合う相手と縁談をまとめることはおろか、今後降りかかるだろう苦難からお前を守りきれない」


 レティシアに責任はなくても、その生い立ちは一生涯ついて回り、例え隠していても何かの拍子で知られてしまう可能性がある。そうなった場合、レティシアの人格に関係なく好き勝手に噂され、辛い思いをすることになるだろう。


「それならばフェンゼン家よりもはるかに力があり、本当の父親であるラインベール公爵の元から嫁に行く方が障害は少なく済む。それがお前にとっても良い結果になるのだ」

「レティ。お前が怒るのは無理はない。けれど父上は本当にレティに幸せになってもらいたいと思っていらっしゃるからこそ、この選択をしたんだよ」


 ファンルドー卿が話し終えると、今度はリベルトが話しかける。子どもに言い聞かせるような、優しい口調で。


「それは僕もそうだし、もちろんラインベール公爵も同じ気持ちだ。今日のことを黙っていたことは本当に申し訳ないと思う。けれどレティが進めて欲しいと言ったあの縁談を見て、こんなにもお前に負い目を感じさせていたのだと知ってね。フェンゼン家にいる以上、きっと思慮深いレティは自分の気持ちを押し殺して不幸な結婚をしてしまうだろう。そんなことは絶対にさせたくないから、強行でも実父の元(ここ)へ連れてくるべきだと思ったんだ」


 あの縁談話を受けようとしたのが負い目からではなく、ただ単にレティシアの都合だったのだが、そんなことをリベルトたちが知る由はない。


「元々、ラインベール公爵とはいずれ交流を持てるようにせねばとは考えていた。さすがにいきなり会うというのは難しいだろうから、まずは文通から始めて、少しずつ機会を持たせようと思っていたのだけど、お前に全て断られてしまって……。機会を作ろうにも作れなかったのだ」


 ファンルドー卿の説明は嘘ではなく、本当のことだろう。それはレティシアも理解できていた。確かにリベルトの言う通り、昨年から突然、頻繁にお茶会や晩餐会に誘われるようになった。


「お養父(とう)様は全てご存知だったのですね。それにその男に私を会わせることは確定事項だったと」


 レティシアはファンルドー卿に噛みついた。今の話ではつまるところ、一年以上前から養父はこの男の存在を知っていたということだからだ。


「……お前に思うところがあるのはわかっているつもりだ。だがお前の将来を考えればそれが最善だった」

「私の将来? 現実すらみえていなかった男に託して何になると?」


 レティシアは唸るように吐き捨てる。当主への態度としては勘当ものなのだが、臨戦態勢に入ったレティシアには、そんなことどうでもよかった。レティシアにとって、今の令嬢生活なんかには何の未練も執着もない。母の希望で一緒にフェンゼン家に行っただけであり、母がいない今、自分はもう()()()()()()()()()()()()()のだから。


 怒りの頂点に達していたレティシアを宥める術も説得する術もなく、しばらく膠着状態が続いたところで、ファンルドー卿は切り札を出した。


「お前の母は何よりもお前の花嫁姿を見たいと望んでいた。お前には何の柄が似合うだろうかと、息を引き取る前日まで、毎日嬉しそうにレースを編んでいたよ」


 レティシアは即座にファンルドー卿を睨む。卑怯だ。養父は母のことを出せば、レティシアが強く出られないとわかって言っているのだから。


「……お前のお祖父(じい)様もお祖母(ばあ)様も、お前の母(マリアンヌ)を追い詰めてしまったことをずっと悔いていた。だからお祖父様から託されたのだ。せめてお前だけは、必ず幸せにしてやってくれと」


 ファンルドー卿は娘をかわいそうだと思う気持ちを押し込め、覚悟を決めた。


「レティシア。お前をラインベール公爵の元へ返す。それが私がお前を幸せにしてやれる、精一杯だ」


 この国では当主の言葉は絶対だ。女には何の権限もない。結婚も養子縁組も、必要なのは当主同士の合意だけ。そこに女の意思は一切考慮されない。


 この日、この瞬間、レティシアは世界一憎い男の養子(むすめ)になった。

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