3話 レティシアの憂鬱3
クズなら来い。
と思ったら本当にクズが来た。
『レティシアは本当にあの人そっくりね。お顔も、お星様みたいな色の髪も』
脳裏に深く焼き付いている、母の言葉。未だ見ぬ『お父さま』と似ていると言われるのは嫌だったのに、母がとても幸せそうに笑うから、レティシアはこの顔も髪も嫌いだと言えなかった。
母は本当に美しい人だった。儚さをまとった、繊細そうな顔。澄んだ声と少女のような純粋な瞳。容姿も雰囲気も性格も、そのすべてが物語に出てくる、お姫様そのものだった。
けれど、レティシアはそのどれも似なかった。性格も髪も、顔かたちも瞳の色もすべて。なぜ私は母に似なかったのか。どうしてこの苦しい生活の元凶である男に、似なければならなかったのか。
母の言葉を聞くたびに何度そう思ったことだろう。母を捨てた男に瓜二つだという、自分の容姿が、忌々しくて仕方がなかった。
レティシアに父親はいない。甘い囁きに夢見た母が駆け落ちし、そして裏切られたからだ。
例え駆け落ちしたとしても、単身だったらまだ生家に戻れただろう。政略結婚の駒としての価値が残っているから。しかし既にレティシアを身籠っていた母は、生家に帰ることもできず、一人でレティシアを生み、育てるしかなかったのだ。その後の生活は、語るまでもない。
ただ母には、あの日々が苦しいとはこれっぽっちも思っていなかっただろう。『もうすぐお父さまが迎えにくるからね』と、毎日聞かせ続けていた言葉は、己への慰めでも誤魔化しでもなく、本当に迎えに来ると信じていたからだ。そんな日が来るはずがないと、幼いレティシアでさえ理解していたというのに、母はそれをわかっていなかった。
物語に出てくるお姫様のような美しい母は、最期まであの男が迎えにくる日を夢見ていた。まさか、自分が裏切られたとは微塵も考えもせずに。
「――シア、レティシア? どうしたんだい? 酔ったかい?」
「いえ……」
馬車の中で過去を思い出していたレティシアは、知らぬ間に険しい顔になっていたらしい。養父のファンルドー卿にの言葉で、現実に意識を引き戻した。
もう長いこと母のことを思い出すことはなかったというのに、さっき観たドロ甘劇のせいだろう。今日はどうにも幸先が悪いようだ。
「義兄様はどうなされたのですか? 観劇には来られると思っていましたのに」
「リベルトは国営軍の仕事があるから、直接向かうようだ」
国営軍。この国を防衛するのは、領主に仕える騎士団と、国家直属の軍隊である国営軍の二つであり、レティシアの従兄のリベルトは、後者の国営軍に属する軍人だ。彼はフェンゼン家の嫡男だから、ゆくゆくはファンルドー領の領主である養父、ジャン=ビエの跡を継ぐのだが、それまでの期間は実績と人脈作りも兼ねて軍に所属しているのだ。
養父の話を聞きながら、そういえば劇場ではお見合い破綻計画を何一つ練られなかったことを思い出す。結局、見合い相手についても、ファンルドー卿の口は胡桃の殻以上に固くて割れなかった。
もうこうなったら相手がクズであることを祈るしかない。クズなら幾らでも対応できる。寧ろ得意分野だと、レティシアが半ば自棄っぱちになったところで馬車が止まった。
そこは王都での職務に行う上流貴族たちの別邸が建ち並ぶ、王都の一等地の一角にある邸だった。別邸とはいっても、本邸と言ってもいいくらい十二分に立派なもので、庭も手入れが行き届いる。これだけで十分家柄の良さを感じさせた。
(お養父様の親戚でこんな場所に住める地位の人っていた?)
相当上の立場にいる人物の邸に思えるが、国の中枢は王族と伯爵家以上の上流貴族で構成されているから違うだろう。ならば国営軍の士官か。レティシアがあれこれ考えを巡らせながら馬車から降りれば、いかにも品の良さそうな雰囲気の執事が深々と頭を下げ、出迎えてくれた。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました、ファンルドー卿とクラリス嬢、レティシア嬢。どうぞこちらへ」
柔和な面持ちの執事はレティシアと目が合ったほんの一瞬、嬉しそうに目を細めた。ように見えた。
(嫁が来るとか言われてんのか)
その可能性もあり得る。レティシアはげんなりしながら邸に入り、今度は眩暈に襲われた。廊下の広さもさることながら、飾られた調度品はどれも見たことのないほど精巧なもので、割ったら二度と同じものは作れないであろう花瓶などがさらっと置かれているではないか。
こんな豪邸見たことない。それはクラリスも同じようで、彼女の表情がすっかり夢の世界から戻ってきていたところを見ると、相当な身分の人物の邸だということだけはわかった。促されるまま義姉とソファに座り、レティシアは痛くなってきた頭をぐるぐる働かせる。
そもそも本当に養父の親戚なのだろうか。言っちゃ悪いが、フェンゼン家は貴族ではあるが貧乏な方だ。そして男爵家という下流の身分なので、こんな上流の家と血縁関係があるとは到底思えない。
レティシアがそもそもの前提に疑いを持って頭を抱えていれば、ノックの音が聞こえ、男性にしては少し高め、というか少々上擦った声がした。
「待たせてしまって申し訳ない、ファンルドー卿」
「そんな、頭をおあげください、公爵。この度は色々ご手配とご配慮頂き、感謝申し上げます」
(こ、侯爵?! 侯爵って、まさか五大侯爵の系譜じゃないだろうな?!)
侯爵はレティシアにとって天敵だ。思わず固まったレティシアの横で、クラリスはさっと優雅に立ち上がり――ハッと息を飲んで、戸惑ったようにこちらを見た。
早く動けということか。これは無礼を貫き通した方が身のためかと悩んだが、田舎娘を演じた方が得だろうと、レティシアはのっそりと立ち上がり、顔を上げ――頭が真っ白になった。
「……は、はじめまして、レティシア……」
養父のファンルドー卿の隣には、絵に描いたように緊張した様子でぎこちない挨拶をする男がいた。レティシアはその男を凝視したまま固まった。プラチナブロンドの髪と赤紫色の瞳、そして憎らしいほど見覚えのある顔立ち――。指の先からサッと冷たくなっていくのを感じた。
「ごほん……もう想像はついているだろうが、レティシア。ラインベール公爵はお前の」
ファンルドー卿の言葉はレティシアの耳には何も入ってこなかった。レティシアは脱兎の如く二人の男の横を駆け抜け、応接室から廊下に飛び出した。しかし直後に何かにぶつかり、その拍子に靴が片方脱げてしまい、バランスを崩した。
「……っと! レティ?! 大丈夫か」
レティシアが倒れ込んだ先は床ではなく、義兄のリベルトの腕の中だった。今ぶつかったのはリベルトなのだろう。
「離してください」
「どうしたんだ?」
レティシアはリベルトを押し退けようともがきながら、噛み付かんばかりに叫ぶレティシア。リベルトは驚きつつも、手は離さないで対応をする。そうこうしていると、レティシアを追って来たファンルドー卿がきてしまった。
「父上。ああ……状況はだいたいわかりました。レティ、ひとまず応接室に行くよ。足を挫いていたらいけないから」
使用人たちが固唾を飲んで見守る中、リベルトはレティシアを抱きかかえたまま提案した。
レティシア「こんな豪邸見たことない」
→そもそも引きこもりのレティシアは、フェンゼン家の邸しか見たことがないので当然である。