2話 レティシアの憂鬱2
馬車に揺られること三刻、邸を出てから十数日。ようやく最初の目的地に着いた。
(ここが王都か……)
内側の門を抜けた途端、ガラリと変わった景色に、レティシアは目を丸くした。
通り沿いに軒を連ねる店には贅を凝らした宝飾品や生地、流行のお菓子などが並び、街の賑わいに花を添える。さらにその建物に施された、国の守護である星をモチーフにした繊細な装飾も見事なもので、これらを見ていると、王都が誰もが憧れる星の都と言われる由縁がわかる気がする。
街だけでなく、街を行き交う沢山の人々の雰囲気も華やかで洗練されており、レティシアたちが暮らしている地方の田舎街とは全く違っていた。
所変わればこんなにも変わるものなのかと、レティシアは胸を踊らせることなく観察する。
「王都はいつ見ても素敵ね。いるだけで幸せだわ」
うっとりしているクラリスから同意を求められる前に、「義姉様が幸せそうで良かったです」と返事しておく。
「レティシアは王都に来るのは初めてだったね。観劇まで少し時間があるから街を見て行くかい?」
「本当?!」
なぜか返事をするクラリス。
「結構です。人混みを見ているだけで疲れそうです」
「大丈夫よ! お店に入れば疲れなんて忘れるわ」
「遠慮しなくて良いんだよ?」
「遠慮ではありせんし、満足な買い物ができるほどの時間はないと思いますよ、義姉様」
どこがどう大丈夫なのか。というかさっきからなぜクラリスが受け答えしているんだ。
突っ込みどころは色々あるが、ひとまず二人の言葉をバッサリ切り捨てる。残念なことにレティシアにはクラリスのように、女が好むものに全く興味はなく、従って王都には何の魅力も感じていないのだ。
だというのに、結局はクラリスの買い物に付き回されることになった。
(よく義姉様はこんなものを着て、普通の顔で動けるよな。私には無理だ)
引きこもりのレティシアは常日頃、使用人たちと同じくらいの軽装で過ごしているため、こんな鎧のような重さのドレスにも、バランスの悪いヒール靴にも慣れていない。
「義姉様、そろそろ時間ですよ」
レティシアは似たり寄ったりの書簡箋を前に、これかしら、でもこっちのも、と悩むクラリスに早く買うように促す。
「うーん、あとちょっと……」
「義姉様のちょっとは最低二刻は掛かります。明日も王都にいるんだから、買うのは明日にして、今日は視察ってことにしましょう」
「えー……わかったわ」
手に持った二種類の書簡箋を店主に渡して購入するクラリス。もう決まっていたじゃないかと思いきや、まだ名残惜しそうに他の商品に目を向けていた。
これは明日も大変だと思いながら店を出る。待ち合わせの場所はどっちの方角だっただろうか。レティシアが周囲を見渡すのに気を抜いてクラリスから目を離してしまった、そのちょっとの間に、クラリスは楽しいものを見つけたらしい。
「あら? あのお店、前来た時にあったかしら」
「義姉様?!」
慌ててレティシアが振り返ったときには、既にクラリスはその店目掛けて歩き出し――よそ見をしていたせいで、曲がり角から現れた人にぶつかってしまった。
クラリスは倒れそうになったが、相手の男性がさっと体を支えたので事なきを得た。レティシアは怪我しなかったことに安堵しつつも、無意識に眉間に皺を寄せる。男の無駄のない動きは、どことなく軍人を思わせたからだ。
「失礼。怪我はないか?」
「え、ええ、大丈夫です。申し訳ございません、ご無礼を致しました」
慌てて相手の男性に頭を下げるクラリス。レティシアは彼女の方に駆け寄りながら、ついクセで、相手の男を観察していた。
「それなら良かった。以後、気をつけるように」
男は愛想なかったが、クラリスの不注意を咎めることもなく去って行った。あまり気にしていないようだ。
「義姉様、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。一瞬恐い人に見えてびっくりしたけど」
「領地じゃないんですから、よそ見も飛び出しもしないでください。さ、もう行きましょう。お義父様が待っていますよ」
クラリスがけっこう失礼なことを言っているのは無視して、レティシアは義姉の腕を引っ張って歩き出した。また別のものに目移りして、勝手に動き回られてはかなわない。
(せっかく命拾いしたわけだし)
先ほどの男は恐らく、侯爵家か公爵家の当主だ。彼の身なりと、侯爵家以上にしか与えられない指輪を右の人差し指に嵌めていたので間違いはない。もしも偶然また会って、クラリスが同じようなことをしたら。もしくは気が変わってイチャモンを付けてこようものなら、下流男爵家のフェンゼン家は一巻の終わりだ。なのでここは早々に逃げることにした。
ファンルドー卿と共に劇場に入ったレティシアは、ただ唖然とした。領地の観劇場に一度だけ連れて行かれたことはあったが、そことは比べ物にならないほど豪華絢爛だったのだ。
考えてみれば、王都の歌劇場ともなれば国内だけでなく、他国の要人や客が訪れる場所。だから豪華で当然といえば当然なのだが、予想以上の迫力に度肝を抜かれてしまった。
吹き抜けの天井には宙が描かれ、さらに繊細な装飾を施された幾つもの吊り灯りが劇場内を煌びやかに照らす。本来なら男爵家の中でも貧乏な方に入るフェンゼン家では、せいぜい一階層の端の末席が限界なのだが。
「まあ……!」
クラリスは驚嘆の声をあげて喜び、レティシアはその場で固まった。案内されたのは一層階ではなく、三階の個室席だった。広くはないが左右を壁で仕切られた貸し切りの空間で、ゆったりとした椅子とサイドテーブルが置いてある。まるでちょっとした応接室のようだ。
初めて劇場に来たレティシアでも、一目でここが上流貴族や貴賓が鑑賞するための場所だと理解した。
(これがついで? どこがついで?)
これは目的の間違いではないのだろうか。
「……お養父様、場所を間違えていませんか?」
あまりにも場違いすぎて、レティシアは真剣に養父に確認する。
「おや、レティシアが驚くなんて珍しいね」
いつもはあまり表情を見せないレティシアが目を丸くしている表情が珍しかったらしく、ファンルドー卿は楽しげに笑う。
「そんなに緊張しなくて――」
「失礼いたします。旦那様、少々よろしいでしょうか」
「ああ、今行く。すまない、レティシア。少し外すよ」
席はここで合っているから安心しなさいと、ファンルドー卿は茶目っ気たっぷりにウィンクをする。
(むしろ間違ってて欲しかった……)
レティシアは不安を拭いきれないまま、行ってしまったファンルドー卿の背を空しく見送る。ずっと突っ立っていても仕方がないので、はしゃいでいる義姉の隣に腰掛けるが、落ち着かない。
そんなレティシアを余所に、クラリスはお姫様になったみたいとご満悦の様子で、そのたくましい精神に一種の羨ましさを覚えてしまった。
(一体いくら積まれたんだろう)
薄ら寒くなる。見合い程度で見栄を張ってこんな席を用意するなんて馬鹿な男だ。もしかしたら年収の半分くらいは余裕で費やしたのではないだろうか。
(まさか、これって見合いじゃなくて嫁入りなんじゃ……)
はたと気づく。結婚とは家のためであり、当主同士が合意していれば成立する。ファンルドー卿の様子を見る限り、相手とは話がまとまっているようだし、クラリスもすっかり餌付けされている。義兄のリベルトは、次のフェンゼン家の当主なのだからきっと養父側に付くだろう。
例え恩を仇で返すことになっても、この見合いは破綻させてやる。この観劇中にその計画を練ろうと息巻くレティシアだったが、そう思い通りにいかないのが世の常だ。
「本っ当に素敵な舞台だったわ……! 私もあんな恋をしてみたい……!」
「義姉様にはもう、素敵な伴侶様がいるじゃないですか……」
夢の世界に行ったままのクラリスの隣で、げんなりするレティシア。疲れた。それが初めての観劇の感想だ。
これは公演中、きゃっきゃとはしゃいで、腕にしがみ付くクラリスの世話疲れのせいだけではない。クラリスの心を大変くすぐった物語が、レティシアにとっては精神的疲労を与える内容だったせいだ。ちなみに内容は身分差のある男女の無謀……情熱的な恋愛物語だ。
後先考えない若気の至りの駆け落ちの結果など言うまでもない。それをどう解釈したら胸焼けするようなドロ甘な結末に書き換えることができるのか、レティシアには理解できないし、理解したくもない。
(男の甘い言葉に夢見て飛び出し、そして身を亡ぼす)
それが現実だ。男は愉しむだけ愉しんで、飽きたら女を腐った芋のごとく捨てる。それが男という生き物だから、決して歌劇のような幸福な未来になどなりはしない。
例えそうなっても、単身ならばまだマシだ。まだ駒としての利用価値があるから、生家は娘の帰宅を許すだろう。しかしそうでなかった場合、女が辿る道は――
「レティシア、どうかしたのかい?」
意識が遠くに行ってしまっていたらしい。ファンルドー卿が心配そうに顔を覗き込んでくる。何でもないと答えると、レティシアは話を逸らすことにした。
「そういえばお養父様と義姉様はお祈りに行かなくても? せっかく王都に来たことですし、大星堂に行かれてはどうですか?」
星堂とは国の守護神である初代国王を祀った礼拝堂のこと。初代国王には奇跡の力があり、国を作った際に人々を護るために、星という形で一人ひとりに加護を与えたという。それが今も引き継がれ、子どもが生まれると王の加護を賜ろうと、住んでる土地の星堂に行き、宙に星を刻み、感謝と祈りを捧げる。
今でこそ慣れたが、レティシアは引き取られた当初、皆が当たり前に星堂に礼拝に行くのを見て、ずいぶんと驚いたものだ。
「王都の星堂は巡礼者で混んでいるから、今から礼拝は難しいだろう。礼拝は明日の朝に改めるよ」
「そうですか」
話は逸らせたらしいと、レティシアは少し胸を撫でおろす。
だからこのとき、レティシアは違和感を見逃してしまった。信仰深いファンルドー卿が、礼拝をあと回しにするという、普段では考えられない行動をしていたというのに。