1話 レティシアの憂鬱1
『お星様の前ではいつも正しく、誠実で在りなさい。そうすればお星様が必ずあなたを導いてくださるから』
幼い頃、母から何度も言い聞かされた言葉。そして遠い昔に忘れた言葉。
そんなものでどうにかなるのなら、この世界に不幸な人間はいないだろうと、レティシアは心の中で吐き捨てた。あまりに長く退屈な馬車移動のせいで、昔のことを思い出して、悪い機嫌がさらに悪くなる。
「それで今回のことについてもちろん説明してくださいますよね、お養父様?」
レティシアは背凭れにドンと体を預けて腕を組み、目の前に座る養父であるファンルドー卿を青紫色の瞳で睨めつける。どこぞの女王かと思うほどの貫禄を醸し出しているのは、きっちり結ったプラチナブロンドの髪と、レースやビーズで過剰装飾されたドレスのおかげだろう。これらがレティシアの内面の迫力を引き立て、深窓のご令嬢とは程遠い像にしていた。
「それは出かける前に言った通り、親族が邸に遊びに来ないかと招待してくれたんだよ。それで観劇もついでにどうかと」
「ええ、そう仰っていましたね。義兄様も義姉様も『面識がない』、『四十路』の『独り身』の『親戚』からのご招待だそうで」
ファンルドー卿が伏せていた部分を嫌味たらしく並び立てた。これを聞けばノラ犬でもこの外出の目的がわかる。
養父は「いやそれはそうなんだけど、そういうわけでは」とモゴモゴ言葉を濁す。
(確かに限界だとは思っていたよ。いたけどさ!)
心の中で憤慨する。レティシアは今年で十八歳。令嬢ならとっくに嫁いでいるか、嫁ぎ先が決まっていて当然の年齢だが、レティシアにはそんな予定はどこにもない。成人した年は母が、去年は祖父が亡くなったことを理由に引きこもり、縁談どころか、養父家族以外の人間と一度も顔を会わせることもないまま、今日まで生きてきたからだ。
それは悪かったと思っている。養父の妹である母はともかく、何処ぞの馬の骨とも知れぬ男との娘であるレティシアの世話までしてくれ、家庭教師までつけてくれたのだ。その義理を思えばさっさと相手を決めるべきだった。
しかしレティシアにも言い分はある。レティシアには結婚など、いや、それ以前にお嬢様として生きること自体が大変不本意なもので、それでも色々考え、社交界の始まる前に片を付けようと、非常に重い腰を上げた矢先のことだったのだ。これは文句の五つや六つ言っても許されるだろう。
「それではどういう訳なのですか?」
相手に脅されているのかと言いたいのをぐっと飲み込み、言い逃れはさせまいと問い詰めれば、
「レティ、そんなに怒らないの。怒ってばかりいると幸せが逃げていくわよ」
隣からのほほんとした声が飛んできて、思わず脱力する。声の主は同い年で従姉のクラリスだ。柔らかくうねる栗色の髪に、緑色が美しい丸目。彼女はそのほんわかとした雰囲気通りの、おっとりした性格の令嬢だ。
「レティシア、そう恐い顔をしないでおくれ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
ファンルドー卿は言い訳が見つからなかったのか、クラリスの方向違いの呑気な援護を受けて、レティシアの機嫌を宥めることにしたらしい。しかしファンルドー卿が何気なく発したその言葉は、レティシアにとっては禁句でしかなく、火に油を注ぐだけの結果となった。
「……あの話はどうしたんですか? ぜひにとお願いしたはずですが」
「レティ」
クラリスがレティシアの態度の悪さを嗜める。けれどレティシアは態度を改めるつもりはない。こんな騙し討ちのような状況で、しかも一番言われたくない言葉を言われたのだ。むしろ怒鳴らなかったことを褒めてもらいたい。
「……お前が良くても進める訳にはいかないよ。そもそもあれは誰構わずに送り付けてきた、有害配布なんだ」
「ですが、あんなに(都合の)良い人なんてそう滅多にいませんよ。年齢も、身分も問わないなんて」
「お前には良い人に見えるかも知れないが、お前はまだ若い娘の結婚なんだ。親として可愛い娘には未来ある幸せな結婚をしてもらいたいんだよ」
わかってくれと、眉尻を情けなく下げるファンルドー卿。
「年齢のことは差し置いておいても、奥さんに逃げ……いや、離縁歴四回というのはさすがに問題なんだよ」
養父の口から本音がこぼれる。まあ、普通に考えればそうだろう。約三十歳も年上のジジイで離婚歴四。もうこれだけで立派な難あり品だとわかる。そのうえ隠居しているとなれば、嫁いだところで何のメリットもないだろう。普通なら。
しかしそれこそ、レティシアが結婚相手に望んでいた条件だ。
既に隠居している男だから、面倒な後継ぎ作りは必要ないし、社交界に出る必要もない。さらにこういう男はプライドだけは高いから、例え嫁に逃げられても、自分からは追いかけてはこないだろう。それにお人好しのファンルドー卿ですら問題と思うくらいの男となれば、途中で失踪しても、周囲の人間には「また嫁に逃げられた」と囁かれるだけで、大事にならないと踏んだからだ。
結婚したくない。けれどファンルドー卿への恩義は果たさなければ。そういう状態にいるレティシアにとって、その男は願ってもないほど好都合なカモだったのだ。後は頃合いをみて家出すれば、レティシアは晴れて自由の身となる。自由のためならばどんな悪条件の男だろうと一ヶ月程度は辛抱できる。
そういう理由で縁談を受けると決めたのだが、ファンルドー卿はそうとは知らず、義娘の機嫌を直そうと次の話題に移る。
「これから鑑賞する歌劇の主役は、今一番人気のアデルという役者だそうだよ」
そんなもので簡単に女を釣れると思っているのだろうか。そんな男の思考に呆れ、けれど横で胸をときめかせているクラリスを見て、簡単だったことを知る。
(義姉様は相変わらずだな)
彼女は素敵な王子さまに愛されて暮らすことが、幸せだと信じている。そんな夢見がちなクラリスを見ていると、もうちょっと現実的に生きた方がいいと言いたくなる。けれど言ったところで、彼女には他の生き方を知らないし、知ることもできないので、黙っている。これはクラリスの性格の問題ではなく、女だからだ。
この国では女には何の権利もない。男のように学問を修めることはできず、家督も財産も継ぐのは男のみ。女はたとえ長子だろうと、そのおこぼれにも預かれない。そのうえ人生を左右する結婚に必要なのは当主同士の合意であって、例え結婚相手がどんなに最低なクズな野郎で捨てたくても、女からは離縁を申し出ることも許されないのだ。
女に一切の力を持たせず、知識も与えない。それが建国時から受け継がれているこの国の方針だ。
(古の一族から守るという、くだらない)
しかしそれがこの国の常識であり、疑問を呈する者が誰もいないから、女たちはひたすら男が望む理想の女になるために淑女としての教養、美容やお洒落に精を出す。そして最高の男に見初められる日を待つのだ。その先にシアワセな未来があると信じて。
なんて無意味で、くだらない人生だろう。自分の一生を男に左右され、そして死ぬまで男に従って生きるだけなんて、レティシアはそんな人生を送るつもりなど毛頭なかった。
(私は私の思うように生きてやる)
レティシアは心の中で決意を固くする。
――このあと、結婚をはるかに上回る理不尽で最悪な目に遭うなどと、知る由はなかった。