前編
聖フォレスト記念学園の放課後。授業を終えた生徒たちが帰宅やクラブ活動のために三々五々教室を後にするいつもの光景があった。
中庭に面していた回廊を歩く王太子ウォルター・フランシスが不意に立ち止まった。
「殿下?」
彼の側に付き従っていた宰相の息子ベンジャミン・ピアースが不思議そうに声をかける。眉目秀麗な王太子は低く呟いた。
「来るぞ」
ピアース以下の側近たちがその言葉に一気に警戒態勢に入る。
「今日はどこからだ?」
「上空異常なし」
「地中の異常振動も感知しません」
まるで空襲にでも備えるような彼らの前に、それは現れた。
「やっとお会いできました! ウォルター様!」
回廊の柱の陰から姿を見せたのは、一見無害そうなストロベリーブロンドの可憐な少女だった。顔を引きつらせた王太子は、それでも丁寧に挨拶した。
「こんにちは、ミス・ホーリハン。今日は何の…」
彼に全てを言わせず、メグ・ホーリハンは緑色の大きな瞳を潤ませて情熱的に語りかけた。
「ああ、やっぱりウォルター様は夢に見るより麗しいわ! 私の想いがあなたに導いてくれたのね。ええ、これは愛の女神の啓示に違いないわ! そうよ、この澄み渡った青空が祝福してくれているんですもの、真実の愛は何より貴いのだわ。だって、そうでなければこんなにも美しい庭園で会えるはずがないもの。この世で最も貴いのは純粋な恋心。それに勝るものなど天地のどこにもありはしないわ。たとえ海が割れ、空が破れることがあっても私の想いは変わらないの。いいえ、何も言わなくても分かっているわ。これは禁じられた愛、後ろ指をさされ誹られるもの。でも、神の怒りの雷をもってしても消せはしない。何故なら真実の愛はどんな障害にも打ち勝つからよ!」
陶然とした表情でメグは空を指さした。何とか口を挟もうとする王太子にその隙すら与えず、彼女は悲痛な表情を作り両手を胸元で握り合わせた。
「言わないで。あなたは王太子、私は平民。残酷な階級が二人を隔て引き裂こうとしているの。でもきっと、あなたの勇気が全てを変えてくれる。親の決めた婚約なんて、真実の愛の前には淡雪のように消えてしまうわ。私は信じるの。全てを包み広がるこの空の下で、二人の愛が天上の聖光輪に祝福されることを」
両手を広げ、ストロベリーブロンドの少女は駆け出していった。いつしか長台詞は歌に変わり、『ああー、愛こそー、すーべーてー』と高らかなソプラノのリフレインが余韻のように聞こえてきた。
そして、回廊には緑の木々を揺らす風と呆けたように立ちすくむ王太子殿下ご一行が取り残された。
学園本館の最上階にある一室。通称「貴賓室」と呼ばれる特別休憩室に王太子と側近は集合していた。
お茶を運んでくれたメイドが去ると、彼らは一斉にソファにもたれかかった。
「……疲れた」
ウォルターが力ない声で呟いた。
「彼女、今日は普通に登場しましたね」
ピアースがうつろな目で言った。
「この前、屋上からロープ一本で降下してきた時は何事かと想ったが」
陸軍大将の子息、イアン・マッキンタイアがしみじみと語った。
「池の中から突然出現した時の方が心臓に悪かったよ」
聖光輪教会総主教の甥、パトリック・マルケイが薄ら寒い表情で回想した。
「本当にすみません、あれでもBHグループ本家の端っこに連なる子なんです」
平民だが金融界の大物を父に持つフランク・バーンズはひたすら恐縮していた。
彼らを悩ませている平民の学生メグ・ホーリハンがウォルターを見かけて一目で恋に落ちて以来、どこからともなく現れては真実の愛とやらを長々と語り去って行く日々が続いているのだ。
登場時のインパクトを重視していた頃の奇行から、学園では『屋上からのぶら下がり芸禁止』『池の中での潜水泳法禁止』などという目を疑うような追加校則が絶賛更新中だ。
彼らがうだうだとソファに懐いていた所にノックの音がした。入室してきたのは暗褐色の髪の女生徒だった。ウォルターが目を輝かせて立ち上がる。
「オーガスティナ!」
王太子の婚約者、ベッドフォード侯爵令嬢が心配そうに室内を見回した。
「ウォルター様たちがよろよろとこちらに歩いていたと聞きまして」
途端に背筋を伸ばし、ウォルターは必死で無事をアピールした。
「だ、大丈夫だ! 何なら今から校庭十周でも何でも…」
「なら充分です」
優しく微笑み、オーガスティナは婚約者と並んで座った。疲弊した様子の側近たちを見て、彼女は尋ねた。
「また、例の方ですの?」
全員が揃って頷いた。メグ・ホーリハンは黙っていれば可憐系の美少女で親しみやすい性格のため、平民生徒を中心に人気が高い。だが、王太子を見ると何かのスイッチが入ってしまうらしく、謎のポエムを朗々と語り、自己陶酔の果てに自己完結して去って行くというのが嫌なルーティーンになっていた。
「学園長に訴えるにしても具体的な被害はないからなあ…」
「精神的には色々と削られる気がしますが」
「とりあえず、危険行為を止めさせるのが精一杯だったな」
「婚約破棄しろと脅してる訳でもないし」
「真実の愛に酔っ払ってるんだろうな」
辛気くさい溜め息が室内を一周し、ほとんどやけ気味に王太子が呟いた。
「いっそ、はっきり告白してくれればその場でカタが付くのに」
それなら、婚約者がいるので受け入れられないと穏やかに断ればすむことだ。後はお祈り文で終結する。
そう思いながら顔を上げたウォルターは隣からの視線を感じ、我に返った。オーガスティナに向き直り、必死に言い募る。
「いや、断じて彼女からの告白を期待している訳ではない! そんなもの迷惑なだけだからな。…あ、いや、君は例外だ。君なら年中無休で食前食後に告白されても嬉しい。嘘ではないぞ!」
支離滅裂になりかける王太子を眺め、ピアースが頭を抱えた。
「昨日や今日の婚約でもないのに、何でオーガスティナ様の前限定で挙動不審になるんですか」
当の王太子は優しい婚約者にどうどうと宥められ、ようやく落ち着きを取り戻していた。そして彼はもう一つの懸念を思い出した。
「オーガスティナ、件のミス・ホーリハンは君にまで迷惑をかけていないか?」
少し困ったように侯爵令嬢は首をかしげた。
「時々、いきなり現れて真実の愛について語ってどうか分かってくださいと涙目で訴えられるくらいですわ。詳しいお話を聞きたくて呼び止めようとするのですけど、あまりに逃げ足が速くて一度も捕まえられませんの。でも出現する時は一人ですし、危害を加えたり中傷をばらまくようなことはありませんから」
王太子一同は生ぬるい笑顔を浮かべた。ウォルターが彼女に頭を下げた。
「申し訳ない、これも卒業までのことだから」
彼らの卒業まであとひと月を切っている。一学年下のメグ・ホーリハンとは接点がなくなり平穏が訪れるはずだ。
だが、楽観論にピアースがおずおずと水を差した。
「……もしやと思いますが、彼女、卒業パーティーでやらかしたりしないでしょうね」
全員がぎくりと身をこわばらせた。
「…そう言えば、最近は長台詞に気合いが入ってる気が……」
「いくら何でもそれは……とは言えない気がする、彼女なら」
「あー、どれだけ殿下に迷惑かけたら気が済むんだよ、あいつ」
騒ぎ出す側近たちに、ピアースが冷静に指摘した。
「いつもの調子で真実の愛だの政略結婚は間違っているだのと主張されたらただではすみませんよ」
「何故だ? 学園内のことなら大抵のことは」
「殿下、卒業パーティーは学園の公式行事で多くの来賓が出席されるのですよ」
そのことを忘れていたウォルターは青ざめた。
「まずいぞ、それは。国内の貴族に王族、外国からの留学生の親族も来るはずだ」
「我々は慣らされてしまいましたが、彼女が語り歌うのは婚約破棄礼賛ソングです。下手をすれば殿下の不貞を疑われかねませんし、ミス・ホーリハンは王室侮辱罪に問われます。投獄や国外追放もあり得ますよ」
それを聞き、オーガスティナが目を瞠った。
「それは厳しすぎませんか? 大した実害もないのに」
側近たちは首を振った。
「議会制に移行しても、王家は未だに国の顔なのです。それに泥を塗るような行為を見逃しては国の威信に傷が付くんです」
「痛くもない腹を探られて面白可笑しく尾ひれをつけて報道されるだろうし」
「どうするんだ、あのバカ。勘当じゃすまないだろ」
「いっそ、当日はどこかに監禁でもして出てこられないようにするとか」
マルケイの意見に、腕組みしていたマッキンタイアが発言した。
「…実は、監禁も軟禁も極秘に実行したことがあるのだが、彼女の異常な脱出力で失敗に終わってしまった。あの非常識な身体能力、男なら迷わず陸軍に勧誘するのに」
「……そうか、実行したのか……」
目を泳がせる王太子をよそに、対策論議は続いた。
「こうなった以上は、ブレイク監獄の独房にでも押し込めておくしか」
「いや、あそこは凶悪犯専用監獄だろ」
「さすがに裁判所命令がいるぞ」
万策尽きた様子で側近たちは押し黙った。やがて、ぽつりと侯爵令嬢が言った。
「あの方、あんな長台詞を毎回語るのに一度も間違えたことはありませんでしたわ」
それを聞き、王太子たちは頷いた。
「そうだな、内容はともかく堂々とした朗読だったな」
「歌も上手いし」
「昔から声は良かったから」
「才能を別方面に向けてくれてれば……」
ウォルターは別方面で頭が痛そうだった。
「平民内で人気がある生徒だ。罪に問えば貴族生徒との間に軋轢が生まれかねないな」
「それは、殿下の階級間融和方策に響きますね」
貴族はこれだから平民は常識が無いと蔑み、平民は貴族は横暴だと憤懣を抱えた挙げ句に学園内で対立構造が出来たりすれば、それを社会に出ても引きずる可能性がある。
「何より、彼女をこんな事で罰したくはないからな」
王太子の言葉に他の者は苦笑した。これほど迷惑な存在でありながら、彼らは何故かメグ・ホーリハンを本気で嫌悪できずにいるのだ。
「でも、あの一人芝居をどうやって誤魔化すんですか」
バーンズのもっともな疑問に、ウォルターはある解決法を示した。
「もっと盛大な芝居にしてしまおう。学園全部を巻き込む規模で」
最初、意味不明の顔をしていた側近たちは、王太子の説明を聞くうち次第に本気で検討し始めた。
「確かに、これは大勢の協力が必要になりますね」
「ピアース、交渉は任せる。難しかったら私が直接出向いて協力を求めてもいい。マッキンタイア、当日は人海戦術になるから要員をピックアップしろ。マルケイ、来賓のリストを作って余興に否定的な者を隔離する準備を。バーンズ、ミス・ホーリハンの行動を把握し、お花畑ワンマンアーミーの暴走を防ぎつつ当日まで気取らせるな」
「はいっ!」
側近たちは一斉に立ち上がった。侯爵令嬢が婚約者にそっと尋ねた。
「私に出来ることはありますか?」
「君は女子生徒たちに根回しをしてくれ。こちらにミス・ホーリハンを攻撃する意思はないことを」
「分かりました」
「よし、行くぞ!」
部屋に入った時とはうって変わった決意に満ちた顔で、チーム王太子は作戦を開始した。
後編は27日午前に投稿予定です。