一話 死 ⑤
あたしは物心つくのが他とは圧倒的に早かった。
おむつを履いて、床を這いつくばり、やっとの思いで立ち上がる。その時の光景をあたしは覚えている。あれは確か一歳のときだ。あの後あたしは尻もちをついた。
普通なら三歳くらいだろうか。基本人間が持っている最初の記憶は。
しかし今は違う。いや違う。その記憶を《見ている》。長い夢の中にいるようだ。
眼の前には見たことのない機械、ベッド。部屋の様子から、ここは病院だろう。背中と胸からは暖かさを感じる。抱かれていた。「元気な女の子です」という知らない人の声が聞こえた。
そうか。あたしはここで産まれたのか━━。
この世界で、生を受けたのか━━。
目を開けると天井が見えた。次に自分が横たわっていることに気づく。何も考えず体を起こす。すると、何かが自分の体からずれ落ちる感覚がする。その方向、下を見ると、自分の乳房と掛け布団がみえた。ここで、自分は裸で、寝ていたと判断がつく。
━━━あれ━━━━? あたし━━━━?
あたしは知らない場所に裸でいた理由を探ろうと記憶を辿った。確か、家に戻ろうとして━━━━。そこから記憶が無い。そこから先の景色を掘り返そうとするが、見当たらなかった。
とりあえず周りを見る。部屋の雰囲気からここはホテルの一室のようだ。
「あれ━━━━」
するともう一人、あたしの他に人間がいた。隣のベッドで寝息をたてている。女の子で、年齢もおそらくあたしと同じくらいだ。身長はあたしよりも高い。手足を縄で縛られていた。
「誰━━?」
ベッドから立つ。やはり肌寒いが、掛け布団をかけたまま歩くのは面倒なので裸のままだ。もう一度周りを見渡すとベッドの近くに書かれた机に置き時計がある。見ると時刻は午前十時過ぎ。あたしが思い出しうる最後の記憶から約十二時間が経過していた。
流石に縄で縛られている状態なので、尋常じゃない何かがこの子の身に起きたのだろう。そう考えたので、あたしはベッドから立ち上がる。するとピラリと一枚、手元に紙切れが置いてあった。
「stay in this room……?」
直訳すると「この部屋に留まれ」。英語がそこまで得意じゃないあたしも、これくらいならわかる。文法が正しいかの判断は無理だが。
考えても仕方がないので、今はこの子だ。立ち上がり、彼女に近づく。起きてくれれば、何か分かるかもしれない。
「あ、あのー。起きてますかーー」
女の子の体を揺する。数秒そうしていると目が開く。
「ん、ん━━━━」
「だ、大丈夫?」
こちらに目を向けた。その瞬間、彼女は驚き、目を引いた。自分が持っていた手が離れる。あたしはこの子を知らないように、彼女もあたしのことを知らない。知らないから怖い。だから、この子に自分の今を知らせようとした。危害を加える気はないことも伝える為に、両手を上げた。
「あ、あの。あたしは、ここに来て今どんな状況か分からないから、何か教えてくれないかなって思って起こさして貰ったんだけど━━━━」
彼女は数秒こちらを見つめていた。ずっと空中で止めている腕が痛くなりそうだが我慢する。何か考えているのだろう。
「名前は━━? 誰━━?」
「名前? あたしは━━━━玉蟲愛守香」
「━━━━!!」
何やらもう一度驚いた様子だった。さらに、今度は十秒ほど間をおいて彼女が話し始めた。
「た、助けて。私、今やばい状況。あの人に変なことされる━━」
かすれる声で、それでも必死に声をかけてきた。《変なこと》とは━━? と聞こうとしたが。女子学生をこんなぐるぐる巻きにして、抵抗できないようにしてすること━━━━。それは━━。
「じゃあフロントにでも言ってこようか?」
「ううん? その人たちはみんな仲間。あたしが安全なところに連れて行くから━━」
彼女の言った仲間とは、《あの人》の仲間なのだろう。このホテルの中にはあたしたちの味方はいないらしい。
「じゃあ。その縄をなんとかしないと━━━━」
体を縛り付けられて犯罪行為をさせられる。当然恐怖なはずだ。あたしが聞いた情報ではいまいち現在の状況についてピンと来ないが、とにかく逃げないといけない。
あたしはもう一度部屋を見渡す。すると、備え付けられた机の上に自分のバッグがあった。
「そうだ」
あたしはそのバッグに駆け寄る。一人暮らしをしているので、金融や郵便などの手続きを一人で行わなければならないことがある。それはいつ必要になるかは分からないため、登校以外の外出にも筆箱を用意していた。自分の記憶が正しければ、その中にちょうどハサミがあるはずだ。
女子一人を拘束するために、大人の男性がこの縄を縛ったとしたら、女子高生である自分がこの縄を解くことなんてできるとは思えなかった。
予想通りに存在したハサミを使ってなんとか縄を切った。
服に関しては、部屋に備え付けられた浴衣があった。
そのまま二人で外へ飛び出した。