一話 死 ④
浴駆市の中に《バー・ローン》という喫茶店がある。木造建築なのに、モダンな雰囲気を醸し出す。営業時間は13時から23時までとかなり遅い時間だ。
あたしはその喫茶店の中に入る。店主の「阿部」という人物が、こちらを見てきて「愛守香ちゃん。こんばんは」と言ってきた。あたしはこの店の常連だ。どれくらいの頻度で来ているのかというと━━それは毎日。あたしは学校が終わって毎晩毎晩ここに来ているのだ。
その理由は単純で、彼がいるからだ。カウンターに座っている青年。あたしの家族に一番近い存在だ。彼を見た瞬間、胸の動悸が大きく、速くなっていった。胸が痛くなった。そこに手を置きたかったが、恥ずかしいのでできなかった。できるだけ何気なく、歩こうとする。
「拓郎君。こんばんはー」
「こんばんは」
あたしは彼の席の左に座ろうとする。そこには拓郎君の私物が置かれていて、あたしが来るのを待ってくれてたのだ。挨拶を返された後、拓郎君に荷物をどいてもらって席につく。その後、店主の阿部さんに、変な声の抑揚がつかないように注意しつつ、ピザを注文した。
ここで初めて、拓郎君の存在を十分に感じるようになった。目をそらそうとしてもついつい右を向いてしまう。スマホを取り出して画面に集中しようとするも、彼の圧倒的な存在感がその意思を妨げる。
━━落ち着け。これはいつものことだ。
あたしは深呼吸をした。気持ちを整理する。何も考えるな。ゆっくり、ゆっくりとあたしの異常をなくそうとしていく━━━━。
「愛守香。ため息してるけど疲れとん?」
突然、彼から声をかけられた。先刻までの努力虚しく胸が激しく高鳴りだした。
「い、いやなんでもない━━」
「かなり挙動不審になってるけど、ホントに?」
簡単な言葉で受け答えをしたはずなのに、声が鼓動音でほとんど聞こえない。顔が火照てているのが自分でも嫌という程わかる。
「う、うん。あ、うん。だいじょぶ。それで、今日のことなんだけど━━━━」
❋❋❋
午後九時くらいまで二人で談笑をした。学校の教師のこと。編や紡のことまで今日あったことを話した。
あたしの状況を聞いてくれている。。自分の境遇を知ってくれている。親に捨てられたことと、その原因を、細かい経緯も含めて。彼は親も、そしてあたしも悪いと言ってくれた。
あたしのことを一番理解してくれてるのは紡と編の二人なのか、それとも彼なのかはわからない。だが、拓郎君は生来の親友と同程度にあたしをわかってくれているのだ。これで友だちでは無いのならば、もはや家族だろう。血は繋がっていない。しかも年はあたしと変わらない。でも、大切なのは血縁じゃない。大切に思う心なのだ。
「なあ、愛守香」
「何?」
胸の鼓動はすでに落ち着いている。何気なく受け答えた。
「これなんだけど」
彼から差し出されたのは、数学の教科書とノートだった。いきなり勉強の話になって辟易してしまうが、拓郎君の頼みなので仕方がない。
「いいよ」
快く引き受ける。拓郎があるところを指差しているので、そこに視線を向けた。内容は三角比だった。「2SIN(Π+Θ)=1」と書かれてある。最近授業でやったような気がするが、殆ど聞いていないのでわからない。
自分が真面目に勉強するのはこういうところだけだ。拓郎君に教える為に、自分が教科書を見て学ぶ。中学の頃から(比較的)数学は得意な方だったので、(あたしにとっては)簡単な問題だった。教科書の例題を数十秒だけ見て理解し、説明に入った。
「まず、範囲を確認しようか。0≦Θ<2Πだから━━」
午後十時間。そろそろ帰路につかないと、深夜徘徊になってしまう。そのあたりは、拓郎君はやけに厳しい。あたしはまだまだここにいたかったのだが致し方ない。
拓郎君と別れてあたしは帰路につく。
これがあたしの日常。あたしの全て。明日は土曜日でも関係ない。夜にまたここに来て、彼に会いにいって、また家に帰る。
きっとこれからも、ずっと、続いていく━━━━。
自宅がぼんやりと見えてきた。暗く静かな道を歩いていく。家に戻って、風呂に入って、歯磨きをして、寝る。一日が終わる。日常を繰り返す。そして今日と似たようで、幸せな日が━━━━。
その瞬間、あたしの五感を失った。