EP1『図書館の怪物』
太古の昔、人間は悪魔と約諾し魔力を得た。人間は魔力を用いた魔力術式(以下、“魔術”と称する)を編み出し、文明を発展させ、魔術世界を築いてきた。
しかし、安寧の時代は長続きしなかった。
人間には“器”というものがあったのだ。器とは一人ひとりに与えられた魔力の受け皿である。器の大きさには個人差があり、それが魔力に肥えた者と飢えた者の格差を拡大させ、平和と平等の世界を、支配と圧制の世界へと流転させた。
人々は憎しみ合い、傷つけ合った。争いのたびに器の魔力は激しく渦動し、やがて横溢した魔力は負のエネルギーを纏うと、地獄の門を開いた。
地獄の門から現じた悪魔達は混沌と殺戮の世界を齎した。しかしそれは魔力の扱いを誤った人間への罰であった。
そして地獄の門が開かれてから80年後の魔歴245年、魔導王アルトルス(198-257)の活躍により地獄の門が閉ざされると、人間たちは再び誤ちを犯さぬよう魔術法典(以下、“魔法”と称する)を定め、こうして魔法国家時代が訪れたのであった。
13
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艶やかな黒髪をカールさせた少女は、両手いっぱいに広がる荘重な書物を折りたたむと、厳かな雰囲気を醸し出す古風な机に、頬を擦り付けて突っ伏すのだった。
「——穴埋めって聞いて浮かれてたけど、なんか読めば読むほど、書いてある単語の全てが重要な気がしてくるわ……」
「たしかにね……それに9ページから25ページは範囲広すぎるって……」
少女のちょうど向かい側に座っていたプラチナブロンドの少年が苦々しい笑みを浮かべる。しかしその蒼茫さを感じさせる青い瞳は、手元の書物を注視したままだ。
そんな少年の伏し目なまつ毛を、少女の漆黒の瞳は、瞳孔に光を揺らめかせて見つめている。
「エリオってほんと真面目だよね。そんなに文字ばっか読んでて頭痛くならないの?」
少女が項垂れたまま、エリオの顔を覗き込むようにして問いかける。
するとエリオは、少女に目をやり顔を綻ばせる。
「僕は文字を読むのが好きだから」
……少女は頬を赤く染めると、ついには両腕の中に顔を埋めてしまった。エリオはやわらかな笑顔はそのままに、書物へと目線を戻し、話を続ける。
「……それに、僕にはマールみたいな実技の能力がないからね。せめて座学の方は頑張らないと」
「ふぅん……」
マールは籠った声でそう返した。
ホルマオ国立図書館は、ホルマオ魔法王国の中心部に位置するセントシティにあり、国内最大かつ唯一の国立図書館である。国内で出版された全ての書物を保管しており、魔法印を持つ者であれば、館内への出入りや保管書物の閲覧を自由に行うことができる。
また図書館は常時開館をしているため、もっぱら“期末試験が間近に迫っているにも拘らず横着をし、結果的に気忙しい思いをしている生徒”などにとって最後の砦として機能することも多かった。
(……なんか今誰かの視線を感じたような)
マールは直感的にそう思うと、こせこせと辺りを見回した。ふと日当たりの悪い、隅の席で書物を読む、大男の背中が目に止まる。大男は黒い外套を頭から被り、慎ましく書物を耽読しているようだ。
「ねぇ、エリオ? またあの大男いるよ。あの人来るたびにあそこで本読んでるよね……」
「しーっ! 聞こえちゃうよマール?」
エリオは穏やかだか険のある口調で窘める。
「……ごめんなさい」
マールは一言呟くと、矢庭に立ち上がり、向かいに座るエリオの真隣にちょこんと腰掛けた。
「——でさ、あの人、“図書館の怪物”って言われてるらしいんだけど……」
マールは図書館の怪物に気を配りながら、エリオの耳元に語りかける。
「そういう意味で注意したわけじゃなくてさ……」
エリオは呆れつつも、諦観した様子でマールの口元に耳を近づける。
「実はわたしね、この前トール街の外れであの怪物のとんでもないところを見ちゃったの……!」
「トール街ってマールの家の近くだよね? とんでもないって、一体どんな?」
エリオが食いついてきたことに気を良くしたのか、マールは饒舌に語り始める。
「一昨日さ、わたしがマグニの弟とすれ違いざまにぶつかっちゃって、マグニの弟が怪我しちゃったじゃない? あの後、マグニの奴がわたしを血眼になって探し回ってたらしくてさ、待ち伏せとか怖かったから、普段通らない道を通って家に帰ったの」
「うん。それで?」
「そしたらね……見ちゃったの! あの怪物が、大人の男を軽々と持ち上げて、絞殺しようとしてるところ!」
「ほんとに!?」
エリオは己の発した柄にもない声量に驚き、すぐさま口元を両手で覆うと、慌てて怪物の姿を確認した。
怪物が尚も粛然と着座していることがわかると、恥ずかしさに頬を赤らめて、マールにじと目を向けた。
「……ほんとに言ってる?」
マールはエリオから想像以上の反応が返ってきたことに多少同様しつつも、話を続けた。
「まあ、絞殺っていうのはちょっと大袈裟だったかも……? でも、胸ぐらを掴んで持ち上げてたのはほんとだから!」
「絞め殺すのと胸ぐらを掴むのは随分と違うじゃない……」
エリオは強張っていた肩を、ため息と共にようやく落ち着かせた。
「なにか揉め事があったんじゃない?」
「うーん、ほんとにそれだけかな……」
二人は見つめ合うと、怪物の背中に視線を移す。怪物の巨体からは、獰猛さは微塵も感じられなかった。
「……それだけか」
図書館は常時開館とは言ったものの、継続利用時間には制限があり、制限時間が近づくと、国民の身体に烙印されている魔法印により、通知が来るようになっている。
継続利用時間は年齢によって定められているが、中には時間制限の対象に当てはまらない者も存在する。——国の定めた“上級魔術職”に就く者だ。上級魔術職の主な例としては、魔療医師や魔術学校の教員などが挙げられる。
もっともマールやエリオを含む10歳から13歳の児童は10時間が利用限度であるため、試験勉強の進捗具合が芳しくなくとも、渋々帰らざるを得ないのであった。
「もうすっかり暗くなっちゃったね……!」
マールは夕焼け空を見上げると、粛々とした図書館から開放されたかのように、言葉を吐き出した。
「そうだね。はやく家に帰ろ」
エリオは革製のリュックを背負い直すと、図書館前の広い階段を降り始める。
「でも、もうちょっと勉強したかったよ……」
「マール無駄話ばかりだったじゃん」
「だってああしないと集中力続かないもーん!」
「そうかもしれないけどさ……それに、夜遅くなると危険だし、早めに切り上げたほうがいいよ。ここらで“首切り魔”が出たって話も聞くし」
首切り魔とはその名の通り、突如として現れ、人間の首を切り落とすという連続殺人事件を引き起こし、未だに魔警団の捜索を振り切り逃亡を続けている殺人鬼の通称である。また金銭などを奪われた痕跡がないことや、被害者の年齢・性別に偏りがないことから、単に斬首が目当ての快楽殺人であると考えられている。
「物騒なこと言わないでよ……」
マールは顔をしかめて身震いをした。
マールの暮らすカーメス地区は商業の町であり、日中は多くの人で賑わいを見せるものの、日没後の閑散とした町は、ゴロツキの吹き溜りとなったり、闇市場の温床となったりすることもあるのだった。
マールは一昨日、トール街で見た光景を思い出した。
(あの男と怪物、一体なにがあったんだろう……)
神妙な面持ちのマールを横目に見ると、エリオはにこやかに笑った。
「今日は家の近くまで送るよ」