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鬼のいる町

作者: 田中太郎

はじめに

 先日、私の友人が突然の病気で亡くなった。この物語は、その彼が書いた作品である。

 彼の葬式の日、彼の母親から、私宛の一つの茶封筒を手渡された。その茶封筒には、一枚の手紙とともにUSBメモリが1つ入っていて、彼の手紙には、手紙と一緒に入っているUSBメモリにはある小説が保存されている、それは少し前に君に語ったあの話だ、ほかの人はどうだったか知らないけれど、君は僕の話を一番信じていてくれそうだったから、君にこの物語を託す、なんとかして世に出してほしい、という旨が書かれていた。

 私は、彼の最期の願いに応えるべくこの小説を作成した。とはいっても、ほとんど彼の文章そのままであり、私は、形式的な修正を少ししたのみである。関西弁が少しおかしなところもあるかもしれないが、ネイティブでない彼が書いたものであるから、大目に見てあげてほしい。

 私は、この彼の物語が夢物語ではないかとの疑いを全く有していないわけではない。しかし、彼の主張することであるから、彼が本当にあったことだというなら、私はそれを信じたいと思う。ただ、みなさんが信じるかどうかは、やはりみなさんの自由であり、ご自身で判断していただきたい。それが彼の願いでもあるだろう。

 彼が亡くなったのは、もしかしたらここで述べられている「鬼」のせいなのかもしれない。そうであるとすれば、彼の死は、彼を引き留め、終電を逃させ奇妙な電車に乗って異なる世界へ行くことになるきっかけを作った私のせいなのではないかと考えられるところであり、ひどく後悔もしている。彼が向こうの世界でも楽しそうにしていたことがこの物語からうかがわれることだけが、私の唯一の救いである。

 最後に、彼の冥福を祈るとともに、私からも、多くのみなさんが、この話を読んで、別の世界を知っていただけることを祈っている。



―――私の友人に捧ぐ

 平成28年7月12日







 こんなはずではなかった。

 梅田駅の中を全力で走る僕は、頭の中で繰り返しそう思っていた。今日は梅田で友人らと飲み会をしてそのまま2軒目へ突入したのだが、終電があるため2軒目で先に退席しようとすると、友人らが「まだ大丈夫!あと5分、いやあと3分いよう!」と服やかばんをつかんでしきりに引き留めるのでなかなか帰ることができず、結局、これ以上この店にいると本当に終電に間に合わないというギリギリの時間まで、その場から解放されなかったのだ。

 通路の上の方にある案内板を頼りに、迷宮のような梅田の駅の中(通称「梅ダンジョン」である。)を、肩掛けかばんを左手で持ち、右手にはそのケースにICOCAの入っている携帯電話を持って、時間を確認しながら、今にも勝手にペースダウンさせそうな脚を懸命に叱咤して走った。しかし、その頑張りも甲斐なく、最後の広い階段を一段飛ばしで駆け上がり、改札を通った時には、ちょうど京都線河原町行の最後の電車が発車したところであった。僕は、ひざに手をついてがっくりと肩を落とした。

 終電に乗れなかったら俺んちに泊めてやるから、そのときは連絡しろよと、あの散々引き留めてきた友人が言っていたことを思い出し、彼に終電を逃したので泊めてくれという旨のメッセージを送る。

 なんだかため息が出た。疲れがどっと押し寄せてくる。近くにベンチのような腰を下ろせるような場所もないので立っているしかないが、できるならその場に座り込みたかった。こういうときに限って最近の数々の嫌なことを思い出し、とても憂鬱になる。こんな世界から逃げ出したくなった。なんならどこ行の電車でもいいから、やけくそでこのまま適当に電車に乗ってやろうか。もう一度電光掲示板を見たが、そこには23時45分発の快速急行河原町行は表示されていない。時刻は23時50分を回っていた。


 そのとき、ふと目の端に「河原町行」の表示が見えたような気がした。そちらの方を見てみると、確かに0時ちょうど発の「新・河原町行」の電車があることが、一番右端のホームにある電光掲示板に表示されていた。疲れて幻覚を見たのかと思って、目の体操などをしてからもう一度その方を見た。しかし、やはり「新・河原町行」の表示は存在していた。その一番右端のホームは、以前阪急梅田駅を利用したときは、なかった気がする。というか、さっきまでなかったような……。しかし、まぁ京都に戻ることができるのならそれでもいいだろう。

 その電車がちょうどホームに入ってきた。友人からは、

「すまんかったな。もうお開きやし、今から梅田駅までいくわ」

とメッセージが返ってきていたが、僕は、

「やっぱ終電見つかった!すまんな!」

と返信し、世の中捨てたもんじゃないと、ご機嫌な気分でその電車に向かった。そして、電車に乗って、2人がけの椅子に、隣に荷物をおいて悠々と座ることができた。乗客は僕一人だけで、少し不気味な感じがした。



 いつの間にか眠っていたようで、はっと目が覚めると、辺りをきょろきょろ見わたした。ちょうど電車が駅に着いたところのようで、車掌のアナウンスとともにドアが開き、今着いた駅が「新・河原町駅」だと知った。ここでようやく僕は、「新・河原町駅」とは何だろうと考え始めた。阪急の京都本線の駅には、「河原町駅」はあったけれど、「新」は付いていなかった気がする。名前の改正でもあったのかな。僕は、そうであってくれと願いながら電車を降りた。


 駅のホームにはやはり人はいなくて、階段を上がり、駅の改札を通ろうとした時だった。そこには、改札に引っかかって慌てふためく女の子の姿があった。

「えぇ、なんでなん。この前チャージしたばっかのはずやのに……」

どうやらICカードの残高が足りずに引っかかっているらしい。チャージすればいいはずだし、全くの他人である僕には、関係のないことである。そう思って、隣の改札から出て行こうとすると、その女の子が、僕の足音に気づいたのか、こちらを振り向いて、悲しそうな目で上目遣いで僕を見つめてきた。頭が僕の肩くらいの高さにあるので、その威力はすさまじい。

「お金、貸してもらえませんか……。今お金全然持ってへんくて、このままじゃ帰れないんです……」

 現在大学2回生であるが、大学が古都大学だと言えば分かるとおり、女子とのコミュニケーションに関して経験値が足りない僕は、この状況にただ困惑するしかなかった。いや本当は、こんなにかわいい女の子に上目遣いでお願いをされてしまって緊張しただけだったに違いない。目が大きくまんまるで、顔の形もまんまるで、ほおのあたりがぷくっとしてふくらんでいる。髪型はナチュラルショートで、左の頬の左あたりと右の頬の鼻に近いあたりに、ホクロがあった。ちなみにタイツを履いている。すばらしい加点要素だ。見逃すわけにはいかない。

「わ、分かりました……」

しょうがないので財布を取り出して、千円札を取り出して渡した。ちょろいもんである。彼女は頭を下げながら、両手で丁寧に受け取ると、ちょこちょこと乗越精算機のもとへ走っていった。


 そのとき、僕は、あることに気づいた。その女の子の後ろにしっぽがついている。最近女性の間で流行しているアクセサリーか何かなのかと思ったけど、それにしてはくねくねとよく動いている。よく見ると、頭には、動物の耳まである。カチューシャでもつけているのかと思うが、しかし……。

 しかし、である。違和感などは、どうでもいいのだ。比較はできないが、動物の耳としっぽをつけているだけで、それがないときよりも3割、いや4割増しでかわいくなっているように思われる。これは後でSNSでつぶやいて、友人らに自慢しなければならない。それにしてもあの耳としっぽは何の動物のものだろう。耳も尾もグレーを基調として、黒のラインが入っている。しっぽは細長い。きっと猫だろう。猫に違いない。猫ということにしよう。


 いつの間にかチャージし終えたその女の子がこちらに来ていた。

「すみません。ありがとうございました。この千円はいつかきっと必ず返します」

そう言って彼女は頭を下げたが、頭を上げた後、僕と似たようなことに気づいたようだった。

「あれ、頭の耳はどうしはったんです? 取れてしまったんですか」

「いや、僕は、そういうの着けないから……」

着けない、と僕が言ったことの意味を理解しかねているようで、彼女は眉間にしわを寄せて、左手をあごに添え、首をかしげていた。と思ったら、何かをひらめいたように、口を開いた。

「もしかして、鬼に取られてしまったんですかね! 鬼はふとした時に出るらしいですから。その戻し方を私のおばあちゃんが知ってるかもしれません。今おばあちゃんが駅のとこまで迎えに来てくれてるはずなので、一緒に行きましょう! 」

 そう言うと、彼女は改札を出て、ほら早くと僕に改札をさっさと出るように促し、そのまま、彼女のおばあさんが待つところまで僕を連行した。



 駅の外は暗かったけれど、四条通りの明かりはあちこちでついていて、明るかった。駅の中は、僕の知ってる河原町駅と同じで、駅の外の風景も変わらなかったけれど、(そこにいる者は僕らの知っている人間とは違うようだけれどもひとまず「人」ということにすると、)そこにいる人たちは、みんな動物の耳としっぽを着けていた。それ以外は僕らと同じ外見だった。どうやら本物の動物のもののようだ。あ然とする僕の手を引いて、彼女は、木屋町通りに止まっている一台の自動車のもとに歩いていった。

 その自動車の近くまでくるとおばあさんが、自動車の運転席から降りてきた。そちらの方は暗くてよく見えないけど、よく見ると、そのおばあさんも、動物の耳としっぽがあるようだった。

「みかちゃん、おかえり。……そちらの方は?」

彼女の後ろについてきた僕を不審そうに見て、彼女に尋ねていた。

「こちらはさっき千円を貸してくださった方やねん。さっき電車賃足りひんくて。あっ、それと、この人、鬼に耳をとられてしまったみたいなんやけど、おばあちゃんどうしたらええか知ってる?」

ちょっと顔見してみ、と言ってそのおばあさんは僕に近づいて頭を下げるように言うと、僕の頭をぽんぽんと触った。母親以外の女性にそんなことをされたことをされたことがない僕は、どきまぎしてしまい、そんな自分が少し恥ずかしかった。

「君、純粋族か」

僕は、なんを言っているのか分からず、はぁ、とだけ答えると、おばあさんは、とにかくうちに来たらええわと優しく言ってくれた。

 僕は、彼女らとともに自動車に乗り込むと、四条通りに出て、四条大橋を渡り、川端通りを北上した。自動車の中で女の子らと話をして、彼女は、三ヶ月美夏といい、おばあさんの方は、三ヶ月サトといい、ほかに、真紀という名前のすでに働いている姉と秋という名前の高校生の妹がいて、下鴨神社の近くの家で一緒に4人で暮らしているのだと紹介を受けた。美夏さんは、古都大学に通う大学2回生だった。

「僕は、かさいあやと、と言います。『三笠山』の『笠』に、『井戸』の『井』、『あやと』は、文章の『文』に『人』って書くんです。僕も古都大学に通ってます。今2回生です。」

僕は、そう自己紹介した。ふと携帯を見たら、「圏外」と表示されていて、携帯の調子がおかしくなったと思った。途中で、美夏さんが僕に、これ食べる、とお菓子を差し出してくれたが、妙な心細さと不安が心を侵食し始め、物を口にする気にはならず、断った。おばあさんは、それがええ、とだけ言った。

 彼女らの家に着くと、僕は、おばあさんに、2階にある客人用の部屋に通され、布団等を用意してくれて、今日はもう遅いからそこで寝といたらええと言ってくれた。僕は、よく分からない漠然とした不安を抱えて布団にもぐりこんだ。


 翌日、目が覚めて、自分が今どこにいるのかが分からなかった。そういえば美夏さんの家にお世話になっているんだったか。今着ているもののほかに服を持ってないので、そのままの格好で下に降りていくと、朝ごはんのいい匂いがしてきた。匂いのする部屋へ行くと、美夏さんらが、テーブルについて朝ごはんを食べていた。

「おはようございます」

「あら、おはようございます。私は美夏の姉の真紀です。昨日は妹がお世話になったみたいで……」

「あ、いえいえ、そんな。僕も泊めてもらってしまって……」

テーブルの奥の方に座っていたお姉さんが立ってお辞儀をすると、彼女は胸のあたりまであるような黒い豊かな長い髪を一つにまとめていたが、その髪が右肩の前に現れ、とても清楚な感じがした。よく見ると、右目の目じりの少し下にほくろがある。

「こちらが妹の秋です」

お姉さんがそういって、隣の椅子に座っている女の子を示すと、秋ちゃんは座ったまま、ご飯を食べながら、こちらを見て軽く会釈をした。黒いゆるふわボブの髪の上に見える耳がぴくぴくと動いたのが分かった。顔には右の頬の真ん中あたりにホクロがあった。

 それにしても、やはり猫耳はかわいい。カチューシャではなく、本物の猫耳というのがなんともいえない愛らしさを醸し出している。触りたい。しかし、ここで触ってしまうと、痴漢のような犯罪行為になってしまうのではないかと直感した。迷惑防止条例かなにかで規制されていそうではある。

 ちなみにお姉さんと妹さんは、グレーというより茶色を基調とした感じになっている。家族全員が猫耳のようであるところを見ると、どんな動物の耳・尾があるかは、親によって決まるんだろうか。しかし、かわいいことにかわりはないので、そのような些細なことはどうでもいいのだ。

「ご飯はそこにあるし、自分でよそってもらって……」

とお姉さんが言いかけたが、

「ああ、ちょっと待ってな。笠井くんは、ご飯の前についてきてもらうところがあるから。どっかにじいさんのジャージがあるし、それに着替えてきたらええわ」

台所にいたおばあさんはそう言って、何やらビニール袋の中に放り込むと、僕の前へ歩いてきて、それを僕に持たせて、こっちやでと言って、外へ僕を連れ出した。



 おばあさんが僕を連れて向かった先は、下鴨神社であった。その西参道から入って、中門をくぐると、目の前に言社が現れる。その東側にある、子の言社の前でおばあさんは立ち止った。そして、そこ言社の横にある木の棒を押し込むと、子の言社がスライドして動き、その下に階段が現れた。

「こんなところに階段なんてあったんや……」

僕は思わず独りごちていたけど、おばあさんは僕を一瞥したのみで階段を下っていった。

 まっすぐ続く階段を下りていくと、その地下には明かりがなく、今降りてきた入口のところから少し明かりが入ってきているだけだった。階段を下りきったところでおばあさんが手に持っていた懐中電灯を点けていた。下は大きな平らな石がところどころにあって、砂利が敷き詰められていた。僕とおばあさんの歩くときの靴の音や砂利を踏む音があたりに響く。暗い中おそるおそる足を踏み出しながら歩いていると、急におばあさんは立ち止り、目の前に広がる水面を照らしてこう言った。

「ここに水が湧き出てるやろ。笠井くん、君は、ここで洗った物しか食べたらあかんで。煮たり、焼いたりした物でもダメや。それだけはくれぐれも気ぃつけてな。でないと帰れなくなってしまうから。ほんまは普通入れんことになってるんやけど、君は特別やし。果物とかをここに持ってきて、ここで洗って食べたらええ。ほれ、そのビニール袋の中に入ってるやろ。ほんまに気ぃつけるんやで」

「分かりました。でも、それはどういう……」

「それは、わしにもよう分からん。せやけど、わしのおばあさんから聞いた話やと、昔おばあさんが若かったころに、この世界に純粋族の人が迷い込んだことがあって、その人が、もとの世界に戻ろうとして一生懸命調べてそのことが分かったらしい。ただ、神話とかがどうたらこうたらゆうて、おばあさんは詳しいことはよう分からんいうとった。まぁどのみち、その人は、すでにこの世界の物をおばあさんらと一緒に食べてしまっとったから、手遅れだったそうやけどな」

「えっと、その、前提として、僕は異世界に迷いこんでしまったということですか」

「それはわしにも分からん。君はその人と同じかもしれへんし、君は最初からこの世界にいてたまたま記憶を失くしただけかもしれへん。それこそ、耳と尾を鬼に取られてしまってな。君が純粋族かと思ったのは、昔この世界に迷い込んだ人に耳と尾がなくて、その人が純粋族だと言っていたと聞いていたからや。君が何者かはわしには分からん。ともかく、君にもとの世界があって、そこに戻りたいと思ったときに、戻れる状態にしておく方がええということや」

 僕は、おばあさんが何を言っているのか分からなくて黙り込んでしまった。そうしたら、おばあさんは、優しく僕の前に袋を開けて差し出してくれた。僕はそこから桃を3つ取り、そこの水で洗って食べた。

「不安でいっぱいやろうが、しっかりせなあかんで」

おばあさんは、僕の頭に優しく手をおいてくれた。



 おばあさんの家に戻ると、泊めてもらっている部屋に入って寝ころんだ。昨日、確かにこの世界に違和感を覚えた。それは僕が、この世界の住人ではないということなのだろうか。僕はいったい何者なんだろう。昔迷い込んだという人間は、どういう人だったんだろう。なぜ自分は人間だと言ったのだろう。頭の中で自問自答を繰り返したけれど、結局この疑問をぐるぐるするだけで、全く答えは出ない。新・河原町駅というのがあったのかなかったのか、記憶もあやふやになってきて、僕がなんなのかについてそれが決定的な判断要素にはならなさそうだった。

 とりあえず、もとの世界に戻る方法を探ろう。戻らないとしても、損にはならないはずだ。そう思って、僕は、古都大学の附属図書館にいって、手当たり次第に探ってみようと思った。昔人間が来ていたのなら、何か記録も残っているかもしれない。

階段を下りて、玄関を開けると、後ろから声がして、振り返るとお姉さんがいた。

「あら、どこかへ行かはるの」

「はい、ちょっと大学に行ってみようと思います」

「そうなんや、気ぃつけてな」

お姉さんは優しく手を振ってくれて、新婚生活を始めたばかりの夫のように顔がにやけた。

「あっ、ちょっと待って。うちも大学に行くし、一緒に行こ」

僕が玄関のドアに手をかけたところで、慌ただしく美夏さんが階段を駆け下りてきた。



 古都大学は、下鴨神社から徒歩20分くらいのところにある。下鴨神社の表参道を抜け、そのまま南に進み、高野川にかかる橋を渡って、出町柳駅の前の道を道なりに東の方へずんずん進んでいくと、百万遍の交差点の向かい側に現れる。僕と美夏さんは、二人で並んで歩いて行った。

「大学にいって何をするんですか」

「うちは、古事記とか読もうと思ってんねん。日本人やし、日本の神話くらい知っておきたいやろ」

「そういえば附属図書館に、古事記とかの現代語訳本があったような気がする。有名な作家が翻訳したやつで、なんとか出版が出してる……」

「なんも分かってへんやん! 笠井くんは、何しに行くん」

「僕は、とりあえず附属図書館に行こうとは思ってるんだけど、よく分からない。僕は、別世界から来たかもしれんくて、もしそうだったら、そこに戻る方法に関する手がかりがなにかないかなって。サトおばあさんの話だと神話がどうのこうのって言ってたから、僕もそういう本を調べてみようかな」

「おお、そういうことならうちも協力するで」

「そう? ありがとう。ほんとに助かる。水に関するものとか、帰ることに関することとかがあったら教えてほしい。」

「けっこうアバウトやな」

そんな感じで話していると、いつの間にか古都大学の附属図書館の前に来ていた。心配事の1つは、学生証が反応しないのではないか、ということだったけど、なんなくゲートを通ることができた。


 2階に上がり、日本文学のコーナーに行くと、彼女はまずは古事記の現代語訳を読むことにしたみたいだった。僕もそのあたりにある本を眺めていると、ある棚に「日本の神話」というタイトルの本があるのを見つけた。僕が、以前、附属図書館に来た時にこの辺りに来たことがあるけれども、こんな本はあっただろうか。その本の「はしがき」をめくってみると、

「我々の国には、古事記や日本書紀(以下「記紀」という。)があるが、それは純粋族の人たちが作った神話・歴史書である。そこでは、我々に語り継がれてきた神話はほとんどが削り取られてしまっている。そこで、私は、この国における我々の神話をここに記して遺そうと思う」

ということが書かれていた。僕は、この本を机に持っていった。

 この本には、次のような話があった。


・かつて、神は、国を作った後、神の子孫をお産みになっていき、その神々が国を作った時、人と動物は一緒に暮らしていた。しかし、人と動物の子孫たちが人側と動物側に分かれて争うようになった。このままでは、戦争になると思った神々は、一つだった世界を、人の世界と動物の世界の2つに分割した。そして神々も2つのグループに分かれてそれぞれの世界を統治した。ただ、それでも平和にはならなかった。人は動物の世界に入って、動物を襲って食べ始めた。動物も人を襲うようになった。そうして、今度は、人と動物が戦争をすることになった。そのときには、すでに、人と動物の混合したものもいた。そしてその混合族も、人に近い方と動物に近い方に分かれて戦った。そして、この戦争で人側が勝利を収めた。それで人、動物という上下関係が生まれ、そういうわけで、今では人が一番偉いことになり、人がすべての世界を支配した。純粋族の人とともに戦った、彼らに近い存在の混合族も、彼らと同様、動物の上の存在だと信じられ、純粋族とともに支配するようになった。


・人と動物が戦争をした時、人の世界を率いたオオクニヌシノミコトは、動物らに襲われ、腕に傷を負った。その傷が原因で、腕で獣化が始まったが、混合族の人の導きで、今の下鴨神社の地下にある湧き水の場所へたどり着き、そこで傷を洗うと、傷は完全に消え去り、腕はもとの形にもどった。オオクニヌシノミコトは、迎えに来た白い鹿に乗って、また戦場へ戻っていった。


・その後、神々は、純粋族の人と混合族の人との間でもこのような争いが生じないように、その間において完全に世界を分割し、互いに行きかうことができないようにした。


 かつてこの世界に来たというあの人が調べたのも、この本のことだったのかもしれない。しかし、一生懸命調べたにしては、本一冊の情報というのは、あまりにも少なすぎる。この本を読んで、帰る気がなくなってしまったんだろうか。行きかうことができないようにした、ということになっているから、そこで帰る手段はないと諦めたのだろうか。しかし、人の世界からこの世界に来てしまったのだったら、分割は不完全なもののようにも思われる。

 僕は、この本以外に何かおもしろそうなことが書いてある本がないか探してみたけど、結局何も見つからなかった。


 附属図書館から帰る時に、美夏さんに何か役立ちそうなことを読んだか聞いてみた。

「よく分からんかったんやけど、イザナギがイザナミに会いに黄泉の国へ行った帰りに、なんとか坂に行ったって書いてあったような気ぃするわ。あと、黄泉の国からの追っ手に桃を投げつけたとか。桃が悪霊邪気を祓うらしいで。なんか参考になる? 」

「うん、分からんなぁ」

「せやなぁ。……あ、じゃあ、うちの友達にも聞いてみようか。うちのおばあちゃんが知ってたみたいに、おばあちゃんがなんか知ってはるかもしれへんし」

「そうか。じゃあ、お願いします」

「ええで。千円貸してもらったしな」

美夏さんは、ニコっと笑った。



 昨日から泊めてもらっている家に戻ると、秋ちゃんが居間で勉強しているらしかった。古典の文法書が机の上に置いてある。

「なんの勉強してんの」

「明日の補習の予習。ほんまに、なんで休みやのに勉強せなあかんねんと思うわ」

「なんの話なん」

「ざいげんごうへいが女の人をパクる話や」

「ああ、伊勢物語。女の人が鬼に食べられるやつやっけ」

 姉妹がこうして話しているところを後ろからみていると、しっぽがちょろちょろと動いて、本当に猫同士でじゃれあっているように思えるから不思議だ。猫を飼ったことはないけど、こんな感じなのだろうと幸せな気持ちになる。見ているだけでいいのだ。しかも2人ともタイツを履いている。秋ちゃんは、こたつ机に向かってぺたんと座っているけれども、後ろに伸びる脚にぴったりとはりつき、素足が少し透けて見える感じがなんとも言えない美しさである。美夏さんも膝立ちになって、スカートの下から見えている脚は、細すぎず、そしてほどよい筋肉がついているようで、そのすらっとした感じがタイツによって強調され、とても綺麗に見えた。完全とはこのことである。

 しばらくして、美夏さんの友人らから連絡が来たようで、次の日から順にその友人らのおばあさんの家にうかがうことになった。

 そして、その日の夜。夜ご飯の代わりとなる桃を例の下鴨神社の地下で一人寂しく食べ、部屋に戻り、特にやることもないので、図書館で借りてきた本を読んでいた。

その時のことである。

「笠井くん、お風呂空いたからどうぞ」

「あ、はい」

そう言いながら声のした方を見ると、ドアを少し開けて、真紀さんがタオルを一枚巻いた姿でこちらをのぞいているのが見えた。突然手の中で本が暴れだし、手もそれに合わせて踊ってしまう。

 空いているドアからは右肩と右脚が見えていたが、右手でタオルを支えているようで、その手は白く、その支えている様子から、胸の少し大きい感じが伝わってきた。右胸の少し上のあたりに、ホクロが1つ見えた。タオルの下からは太ももがのぞいていて、その太ももは細すぎずに太く、脚は、色白で、筋肉がほどよくついて引き締まっていて、美夏さんと同様にとても美しかった。タオルのすぐ下には、少し暗い部分が広がっていて、もっと見たいという探究心を駆り立てる。しかし、その見えないということが僕自身に空想するように促し、美化したうえでタオルの奥にある宇宙のすべての神秘が詰まった場所として想像させるのだ。タイツは、脚を完全ではない形で覆い隠すことによって美しさを強調し、我々に魅せてくるが、素足、何も身につけていない脚は、完全に見えることと見えないことが合わさって強調し、我々に魅せてくるのであった。

 僕はその後風呂に入ったが、お湯に浸かったとき、あの3姉妹が浸かった水なのだと思うと、なんだか3姉妹に包まれている気がして興奮してきて、風呂のお湯を一口飲みたくなったが、それだけはさすがに我慢した。



 翌日、美夏さんとともに鴨川デルタのところにあるベンチに行くと、その女の子はすでに来ていた。当然と言えば当然である。近いからすぐ行けると、美夏さんが直前まで漫画を読んでいて集合時間に家を出ることになったからである。

 今日は、この子のおばあさんの家に行って、何か手掛かりになる話がないか聞きに行くことになっている。

「おはよう。遅れてごめんな。そして突然こんなこと頼んでしまって」

「ええで。おばあちゃんも嬉しそうにしてたし」

「ほんま? ならええけど……。あ、それでこっちがこの前言った笠井くん」

「笠井です。すみません。今日はお願いします」

「こっちは、高山佳奈ちゃん。かなたんやで。うちと幼馴染やねん」

「高山です。なんか大変そうやね。まぁきっとなんとかなるで」

 かなたんの頭の上にある大きな耳は、裏側が黒く、内側はもふもふとした白い毛で覆われている。後ろには、大きな太いしっぽがあり、キツネ色をしているが黒の毛もあり、全体的に暗い感じで、尾の先は白い。もちろんこちらももふもふとして気持ちよさそうだ。なんとかして触らせてもらえないだろうか。ちなみに、左頬の下あたりに、ホクロが1つある。髪は、暗い茶色で外はねのショートカットである。そして、大事なことを付け加えておくと、ショートパンツにタイツを履いていた。この世界には、タイツを履いた女神しかいないのだろうか。半分冗談だが、半分本気で、できればこの世界に残りたくなってきた。

 じゃあいこうかとかなたんが号令をかけると、我々3人は、かなたんのおばあさんのお宅へ向かった。かなたんのおばあさんの家は、出町商店街を西へ抜けたところの近くにあるらしい。途中、手ぶらで行くのも悪いと思ったので、出町三つ葉の豆大福を購入して、お土産とした。


 おばあさんの家に着くと、かなたんがずんずんと家に入っていき、おばあさんを呼び出した。玄関で、挨拶を済ませ、家に上がって居間に通してもらった。

 お茶とお菓子を出してもらったが、僕はそれを食べるわけにもいかず、それを拒むと、その理由を問われたので、美夏さんのおばあさんから聞いた話を伝えた。そして僕から本題を切り出した。

「それで、この世界と別の世界のことなんですが、何かそういうことに関する神話とか昔話は、ご存知ですか」

「う~ん、昔話は、いろいろ聞いて知ってるんやけど、どうも別の世界に関するということやと……」

「なにかそういうものを匂わせるものでもいいんですが……」

「せやな。じゃあ、こんな話はどうや。うぐいすの里という話や」




「どうや、何か参考になりそうかね」

話が終わると、おばあさんは、僕に、少し不安げに尋ねてきた。

「約束を破ったら元の世界に戻っていく、ということなんでしょうか。いつの間にか立派な館があるところへ迷いこんでいるあたりが、僕の状況に近いような気がします」

「でも誰かと約束してここにおるわけやないやろ」

そう突っこんできたのは、美夏さんだった。

「次の座敷を見ていったら、小鳥が飛ぶように姿を隠したり、宝があったりするのってなんなんやろな。木こりがなんで卵をとろうとしたかも謎やし」

かなたんは、手を顎のあたりに当てて一生懸命考えているようだった。

「卵をとろうとしたのは、酔ってたからやろ。知らんけど。でもこういう話ってよくある気ぃするわ。つるの恩返しとか。この前読んだ古事記だと、イザナギが黄泉の国から帰ることになったのも、イザナミが見ないでって言ったのに見ちゃったからやし」

「ちなみに笠井くんは、約束を破った罰っぽいっていうてたけど、元の世界に戻りたかったら罰にならんくない?」

「罰というよりかは、排除したりすることに意味があるんかもしれへんな。こういう話は、自分から積極的に約束を破りにいってるけど、もし、たまたまふすまが開いててたまたま見えちゃっても、見られたくないところを見られたんだから、つるもどこかへ行っちゃうやろ。見られたくないところを覗かれたらもうやっていかれへん! みたいな。そうすると、この話も、約束破りというより、人の中身をどんどん見ていった結果なんかもしれへんな」

「自分の過失で見られといて? それに、受け入れてもらえる可能性もあるのに、さすがに一方的過ぎやろ」

「見られるのが相当しんどかったんやろな」

「ほんまか? 浦島太郎はどうなんやろ」

「あれは……」

 美夏さんとかなたんの議論が思わぬ方向に進展し、複雑になってしまって、僕は付いていけなくなってしまった。そもそもこの3つほどの話だけでそこまで考えることはできるのか。

「そういえば、火男の話も似ているかもしれんな」

と言っておばあさんは、彼女らの話についていけていない様子の僕に話し始めた。



「こっちはふつうに帰ってきて、ふつうに富貴長者になってるんですね。でも入り方は、招かれてて、少し違うところもあるのか」

「あかんかったか? 」

「あ、いえ、参考になります。さっきの美夏さんの話に引き付けて考えると、人の中身をみることになったときに、それを受け入れるといいということなのかもしれません。帰ることができてハッピーエンドになる話もあると分かってなんだか安心しました」



「今日はありがとうございました」

「ええで。うちもいろんな話ができて楽しかった。がんばって帰れる方法見つけるんやで。また来てな」

 あの話をうかがった後、2,3時間ほど、また世間話をして我々は帰宅したのだった。結局、参考になったとは言ったものの、まだよく分からない感じがある。というか、こんなことで本当に分かるのだろうか。漠然とした不安は少し大きくなった気がした。

 そして、その日の夜も、僕は風呂に最後に入って癒しの湯に浸かった。これしか、不安を和らげる方法はないように思われた。


 また翌日、今日はまた別のところにお邪魔することになっている。今日は、下鴨神社入り口で待ち合わせていて、そこに行くとやはりすでに女の子は来ていた。昨日と同様、我々が集合時間に家を出発したからである。

「遅れてごめん」

「まぁいつものことやろ」

 昨日と同様、美夏さん主導で自己紹介をする。その女の子は、櫻井圭と言った。ナチュラルボブの茶色がかった髪であり、前髪をヘアピンで留めている。そして当然のことながらタイツを履いている。ここは天国か。ちなみに鼻の右側面あたりにホクロがある。頭に大きな耳が左右に広がっていて、そして大きな角があり、櫻井さんはお辞儀をするとき、一歩下がってからお辞儀をしていた。後ろにはかわいらしい小さなしっぽがついていた。

「この子はな、圭様って呼ばれてんねん。気分を害すると消されてしまうで」

「いや、そんなふうに呼んだことないやろ。消しもせんわ」

「そういうことや」


 圭様のおばあさんの家は、下鴨本通りを北に行き、東鞍馬口通りで西に入り、少し歩いたところにあった。お土産は、とりあえず僕が阿闍梨餅を用意していた。

 挨拶をして、家に上がらせてもらうと、やはりお菓子を出してくれたのだが、理由を説明して、それを断った。そして本題を切り出した。

「この世界と別の世界のことに関する神話とか昔話とか何かご存知ないですか」

「あんまりそういうのは、知らんけども……」

圭様のおばあさんは、少し考えてこう言った。

「こういう話はどうや。飯食わぬ女という昔話なんやけど」



 飯食わぬ女の話が終わると、おばあさんは、続けて

「それと、鬼と言えば、一条戻橋の話もあったわ。渡辺綱の話なんやけどな。源頼光は知っておるやろ。金太郎の話にでてくる頼光のことなんやけど。金太郎はその源頼光の家臣で四天王の1人で、渡辺綱もその四天王の一人やった。あるとき、渡辺綱が1人で一条戻橋を歩いていると、馬に乗せて送ってほしいという女がおった。渡辺綱がその女を乗せてやると、その女は、愛宕山に行きたいんやいい始めて、いつのまにか顔が赤く、目はどんぐりのようにぎょろっとして、頭には一つの角が生え、手の爪はおそろしいほど長くなって、鬼になっていて、そして渡辺綱に襲いかかった。しかし、彼は持っていた刀でその鬼の片腕を切り落とした。鬼は空を飛んで逃げて行ったという感じの話や。この後、鬼は自分の腕を取り戻しにきたという話がくっつくこともあるんやけどな」

「最初の話だと、笠井くんが、飯食わぬ女房っぽいやんな」

美夏さんが、ちょっと楽しそうに話しているが、僕は一瞬ドキッとした。この話では、飯食わぬ女房が鬼だったからである。

「そしたら、うちら食われてしまうやん。美夏ちゃんが男の人やろ、うちがその男の人の友人やろ」

「そんときは、よもぎとしょうぶでやっつけたらええやん。それか刀でしゅぱっと腕を切り落としたったらええねん」

「うちら刀持ってへんやん」

「そしたら圭様が消したったらええやん」

「何回いうねん」

 2人はとても楽しそうに話していて、それを見てなごんだ。美夏さんが、僕が不安を抱いていることに気づいているのかは知らないけれど、彼女が楽しそうに笑っているところを見ると、ついこちらも笑顔になってしまうのだった。


「なるほど……」

一連のやりとりが終わり、僕がこれらの話について落ち着いて考えようとしたとき、すでに考えることを放棄したらしい美夏さんは、はしゃぐのが止まらない様子だった。

「さて、解説の三ヶ月さん、これは相当難解そうに見えますが、この話、どうお考えになりますか」

「そうですね。非常に難しいと思いますが、やはり鬼というのは、悪党とかそういうものを指しているのかもしれないですねぇ」

などと声色を変えながら一人二役の一人芝居を始めた。僕はもうお手上げだったが、どうやら圭様もお手上げのようだった。ちなみにこの暴走列車のように止まらないかと思われた一人芝居は、おばあさんがお菓子を差し出してくれたことによって、あっけなく終わった。わーいと言って急に素に戻り、お菓子を食べ始める様子は、子供のようなかわいらしささえ感じられた。

 その日は、それでおいとますることにし、お礼を言って、帰宅した。



 僕は、美夏さんとともに三条の河原町通りを歩いていた。ふと、辺りがいつの間にか暗くなっていることに気づいた。そして前から一人の女の人が僕の方へ歩いて近づいてきて、迷子になってしまったのですが、ここはどこでしょうかと尋ねてきた。僕が女の人の持っている地図で現在地を指さして示そうとすると、その女の人は、突如として顔が赤くなり、頭に角が生えたかと思うと、耳元まで裂けている口を大きく開けて、僕を一口に飲み込もうとした。逃げたい。けれど恐怖のあまり足が動かない。助けてほしいけれど声もでない。もうだめだ、飲み込まれてしまう。そう思って、思いっきり目をつぶった……


 はっとして目が覚めてからだを起こすと、美夏さんの家の泊めてもらっているあの部屋にいた。あれは夢だったのか。なんだか妙に生々しくて、本当に鬼に飲み込まれてしまうかと思った。今日、飯食わぬ女の話とか一条戻橋の話を聞いたせいだろう。いまだに心臓がドキドキと動いている。部屋は暗く、どこかに鬼が潜んでいて、今襲い掛かってきても不思議ではないような感覚がある。もしくは、後ろにある窓から鬼が僕をのぞいているような感覚さえある。そう思うと急に恐ろしくなってきた。布団に潜ろうにも長く潜ると息が苦しい。いっそのこと、振り返ってしまおう。僕は、はっと後ろを向き、窓を見たが、窓は暗いままで何も見えず、鬼も見えることはなかった。

 僕は、深呼吸をして息を整えた。よく考えてみれば、鬼は空想上の生き物のはずで実在しないはずだった。布団に入ってからしばらくして落ち着くと、僕はいつのまにかもう一度眠っていた。



 次の日の朝、いつものように、洗面台へ行き、何気なく鏡を見ると、自分の頭の上に、何かがついていることに気づいて、それが動物の耳だと気づくのに、少し時間がかかった。いったこれはどういうことだ。耳は小さな立ち耳で、赤茶色である。後ろには同じ色の巻き尾があった。目を一度つむって開いてみたが、やはりある。それでも信じられず、僕は、見ることはできないのに上を向いて、頭にある耳を触ってみようとした。すると、なかった。頭のあちこちを触ってみたが、なかった。どこにあっただろうかと思ってもう一度鏡を見ると、すでに頭の上から失われていた。目の錯覚だと思いたいが、実際に鏡に映っていたのは見たから、そういうわけにもいかない。しかし、鏡はありのままを映すのだろうか。ともかく、耳のことはさておき、美夏さんの友人のおばあさんの家に行く用意をしなければならない。ご飯を食べにいく時間を考えると、あまりのんびり考えている暇はない。


 今日の待ち合わせ場所も、下鴨神社の入り口のところである。家から近いと遅刻するという逆説は今日も当てはまってしまった。女の子はすでに来ていた。

「ほんま、遅れてごめんな」

「ううん。いつものことやし……」

 自己紹介をすると、その女の子は、斎藤敦子ということだった。白色の細長い耳があり、耳の内側は薄いピンク色になっている。しっぽは、小さくて白くて丸い。髪は、黒のクラシックボブであり、メガネをかけていて、口の右端の少し上あたりにホクロが1つあった。そして、ミニスカートにタイツである。左手で右手を胸のあたりで握って、僕の方をちらちらと見ている様子を見ると、どことなく僕を怖がっているようで、ニコっとして手を小さく振ってみたところ、顔をそらされてしまった。初対面なのに、よぉ!という感じで気さくに話しかけてきたあのかなたんとは正反対の性格のようだった。彼女としては、美夏さんが来るのはいいが、知り合いでもない訳のわからぬ男を連れて行くのがいやなんだろう。気持ちは分からなくはないが、ともかく話をうかがいに行くしかないのだ。どうも話しかけても無視されてしまいそうなので、とりあえず、心の中で、土下座をしてお願いしますと繰り返した。


 高野川を渡り、北東の方へ行ったところに、斎藤さんのおばあさんの家はあった。おばあさんは、穏やかそうな人で、僕への接し方も柔らかかったので安心した。

 本題に入ると、おばあさんは、悩んだ挙句、「鬼が笑う」の話をしてくれた。



 「これは……」

 話の最後に、唐突に出てきた下ネタに僕は思わず苦笑してしまう。大事なところを見せろと言われて、着物のすそをまくったとなれば、見せている部分はなんとなく想像がつく。そしてその想像の中でその大事な部分が光っているように思われ、その光が妙に神々しく感じるのだった。母娘を連れ戻そうと必死になっていた鬼にとって、その行為のどこに笑う要素があったのか分からないが、下ネタは偉大だということなのだろうか。それにしても、尼さんは、鬼にさらわれた娘を助けようとする母親や鬼屋敷から逃げようとする母娘を終始助けているとはいえ、なんでまた鬼屋敷から逃げるときに尼さんも一緒になってすそをまくっているのか……。個人的には娘さんの分で十分である。

「大事なところを見せると帰ることができるってことなんかな」

そう美夏さんが言っている横で、少し耳を赤くしてうつむいている斎藤さんが見えた。

「この話やと、あんまり参考にならんかったか」

「いえいえ、そんなことないです。なんとなく帰る方法が見えてきた気がします」

「ほんまか。それならええねんけど……。そうか、純粋の人なんやな。そういえば、昔ばあさんから聞いたことあるわ。なんでも昔、そういう人がここに迷い込んだいうていろいろ騒ぎになったらしいねんか。なんやかんやあったけど、結局三ヶ月さんちに住むことになって、この町にもなじんどって……。でもその後、亡くなってるのが分かって、刀かなんかで刺された痕があったから誰かに殺されたんちゃうかっていう話になったんやけど、誰に殺されたのかもよう分からんし、鬼の仕業やって噂されてたらしい。」

「あの、その話、もう少し詳しく教えていただけませんか」

「う~ん、わしもばあさんから大昔に聞いた話やし、そう覚えてはおらんしな。そういえば、天狗のじいさんなら、なんか知ってるかもしれへんな。天狗のじいさんいうのは、東山のあたりに住んどるじいさんなんやけどな。その人は、いろんなことをよう知っとるし、なんか知ってるんちゃうか」

 天狗のじいさんというのは、どうやら銀閣のある慈照寺付近に住んでいらっしゃる方のようで、私設図書館を経営されているということだった。天狗というのは、物知りでいろいろな物事に通じており、そのせいか、我々のことをアホ呼ばわりしてくるかららしい。ほんとうにいろいろな物事に通じているなら、天狗ではないような気もするが。

 僕は、次の日その天狗のじいさんのところへ訪ねていくことにした。


 次の日、朝起きてお尻のあたりに違和感を覚えたので触ってみると、昨日の朝のように巻尾がついていた。頭に手をやると、耳もついていた。昨日まであの湧き水で洗った桃しか食べていないし、その水しか飲んでいない。どうしてこうなってしまったのか。同じ空気を吸っているから? 体内に取り入れるという意味では同じだが……。しかし、こちらの人たちと同じようになっていくことに、あまり絶望感はなかった。前の人もこの世界の人たちに認められたようだし、僕にも美夏さんたちがいて仲良くしてもらっていて、一人ではないのだ。大きく息を吐くと、布団から出て、桃を食べに、あの湧き水のところへ向かった。家を出るときには、僕から耳としっぽは消えていた。

 家に戻ってくると、すでに起きて仲良く朝ごはんを食べていた美夏さんと秋ちゃんがこちらに気づいた。

「おかえ……んん? 」

 美夏さんは僕の方へパタパタと駆け寄ってくると、僕の頭の上をじっと見つめていた。下から見上げられると、やはりかわいいというか、僕の目をじっと見つめているようにも見えるのですこしドキドキする。頭を見ると、その次に僕の後ろを見ようとした。そして後ろに回ると、おそるおそる手を出して僕についているしっぽをそっと触り始めたのだった。

「触ってもええ?」

 もう触ってますがなと思いながらうんと一つうなずくと、片手ですりすりとしっぽを撫で始めた。自分のとは違って、人のものは触りたくなるのだろうか。それにしても、この感覚はいったい何なのだろう。肌を直接触れられなでられているのとは違う。ピタッと肌がくっついたときのような興奮がない。くすぐったいようで気持ちいいようなこの感じ。頭をなでられたときのようなものだろうか。いや違う。あれは上からぽんぽんされるという状態もあいまって幸せな気持ちになるのだろう。自分の下で、しかもよりによってお尻の近くで撫でられるという奇妙な体験。これは今後味わうことのできそうにない、言葉にすることのできないとても革新的な体験だった。これはぜひとも言語化できるようにならなければならない。きっとこの世界にはこの気持ちを表すことばがあるのだろう。

 秋ちゃんが向こうでこちらをじっと見ているのが見えて、途端に恥ずかしくなった。

「お姉ちゃん、なにしとん」

そう言いながらこちらへ来ると、もうすでに美夏さんが何をしていたのか分かっていたかのように後ろに回り、しゃがんでこちらをじっと見つめてきた。しっぽを左右に振っている。

「よろしければ、どうぞ……」

僕がそう言うと秋ちゃんは、ぱっと顔を明るくしてうれしそうにしっぽを撫で始めた。姉妹に自分のしっぽを撫でられるというのは、いったいどういうことなのか。これを表すことばもこの世界にはあるはずだが、しかし、そんなことはどうでもよくなった。

 次第に、秋ちゃんがしっぽに関して独占し始めると、美夏さんは、僕の横に立って、手でしゃがめと合図をしてきた。犬じゃないんだからなと思いながらも、後ろにいる秋ちゃんに気を使いつつ、慎重にしゃがむと、美夏さんは僕の頭の上にある耳を触り始めた。下と上からくる、くすぐったさと気持ちよさに僕は、顔がにやけ、恥ずかしく、とても苦しい思いをし、こんなところを真紀さんに見られでもしたら、今すぐにでもあの地下に行ってお祭り騒ぎが始まるまで入り口を閉ざしてしまおうと決意したのだった。

 その決意はあっけなく崩壊した。髪を1つにまとめ、肩の前に垂らした真紀さんが2階から階段を下りてきて、僕をみて一言「あら、かわええやん」と、うふと笑って去っていったのだった。その瞬間、僕の脳はとろけてしまい、へたへたとその場に座り込み、手で顔を覆って廊下に倒れこんだ。


 この日は、天狗のじいさんのいる私設図書館に行く予定だった。今日は、特に美夏さんの友人のお宅に行くわけではないので、一人で行こうかと思っていたが、私も行ってみたいとの強い希望があり、2人で行くことになった。

 鴨川デルタまで南下し、東に進んで、百万遍まで出ると、あとは今出川通りを東に進んでいけばよい。緩やかな坂が長く続いており、歩くのも少々つらい。白川通りにでると、あるパインジュースの店があって、妙に飲みたくなったが、我慢しなければならないと思い、ぐっとこらえた。耳としっぽは、ついているとはいえ、それはいつのまにか発生したり消滅したりしているようで、どっちつかずの状態にあるようだった。

 慈照寺の前にある出店の前を通り抜けていき、左折すると、天狗のじいさんの図書館があった。木造の荘厳な大きな門をくぐると、砂利が敷き詰められ、飛び石が並んでいて、その先に倉庫のような外観をした大きな図書館があった。

 中に入ってみると、受付けには、大学生と思われるきれいな女性が座っていて、ちらっと確認したところ、どうやらスカートの下にタイツを履いているようだった。ここが天国であると確信した瞬間である。脚がすけてみえるのが、色気があって素敵だ。この人と会うために毎日でもこの図書館に通って勉強したい。

とりあえず来館の手続をすませ、天狗のじいさんと呼ばれている方に会えないかと聞くと、誰だよそいつはと言いたげに顔を一瞬しかめたけれど、何かを理解したのか、それともとりあえずなのか、潮見という館長を呼んでくれた。館長は、倉庫の奥の方から出てきた。

 潮見という館長は、背は僕よりも少し低そうだったけれど、年の割には身体はがっちりしてそうで、それ以上に、威厳があった。優しそうにほほえんではいるけれど、そのオーラに圧倒されてどうしても近づけないような感じがあった。

「きみは?」

「笠井文人と申します」

いきなり「君は?」と尋ねられて困惑しながらそう答えると、潮見さんは不満そうな顔をした。

「違う。私が聞いているのは、君は何なのかということだ」

「かつてこの世界に来ていた人について、あるいはこの世界から抜け出す方法についてうかがいに来ました」

 何なのかって、さっき名前を答えたのに、その質問こそ一体なんなのか。潮見さんは、もちろん今回の答えにも少し不満そうな顔をしたが、まぁよしとしましょうと言って、よく来たね、こちらへついておいでと僕を案内した。そして、一緒についていこうとする美夏さんを見て、

「あっ、お嬢さんは、申し訳ないけど、そこで本か何かを読んで待っていてね」

と読書スペースとして机といすが並んでいるところを指して言った。

 図書館には、私設とは思えないほどの量の本が所せましと並んでいて、本棚も3メートルくらいありそうなものがずらっと並んでいて、ところどころに脚立が置いてあり、それを使って本を取るらしかった。僕と館長はその本棚の並ぶ真ん中の空間を進んでいき、「関係者以外立入禁止と書かれた札のついている柵を越えて、地下へ続く階段を下っていった。


 地下には、一つの部屋があるだけだった。重い鎖のようなカギを外し、中を覗くと、そこは、床や壁にそのまま灰色のコンクリートが現れていて、無機質な感じの部屋だった。本棚も机も質素で、部屋の天井、机、本棚あらゆるところにクモの巣がはられている。そして少し埃っぽい。その時間だけが閉じ込められた感じが、不気味ですらある。

「え~と、どこだったかなぁ~」

そう言いながら潮見さんは部屋の中に入っていき、机の上に散らかっている本をどけながら何かを探しているようだった。

「これだこれだ」

そう言って取り出したのは、一冊の古そうな本だった。革のカバーがついているのだと思うが、とじ具もついている。埃をはらいながら、どうぞと手渡され、受け取って中を見ると、紙は黄ばんでいて、しかも、こちらにもところどころに黒い痕がついている。内容はというと、日付けとその下にその日にあった出来事が書いてあって、どうやら本ではなく、日記のようだった。

「これは……」

「それはね。前この世界に来た人が書いてた日記なのです。私もその人に直接会ったことがあるわけじゃないんですけどね。私の父が彼から受け取ったものです。その人はここで、いろいろ調べものをしていたみたいでね。同じような人が来たらぜひこれを読んでもらってほしいと遺されたと聞いています。きっと君にとっても参考になるから、一度読んでみなさい」

「一度持ち帰ってじっくり読んでもいいですか」

「もちろん」

潮見さんは優しそうな笑顔のままだった。


 私設図書館の階に上がると、本を読んでいた美夏さんに声をかけて、帰ることにした。潮見さんは受付けのところまで僕たちを送ってくれた。

「2人ともお金はいらないよ。特別だからね」

「ありがとうございます。これも借りてしまって……」

「いいんだよ。じっくり考えなさい」

僕たちは、頭を下げて、私設図書館を出た。


 「すごいええとこ見つけた気ぃするわ。誰も人おらんし、休みなくやってんねんて。ここで勉強とかできそうや。笠井くんは、何をしてたん」

帰り道、美夏さんが問いかけていた。

「地下に行って、よくわからん部屋にあるこの日記を借りてきた」

「なんなんそれ」

そう言って、美夏さんは日記に手を伸ばそうとしたが、すぐに手を引っ込めた。

「なんか触ったらあかん気ぃするわ」



 家に着くと、部屋に戻ってすぐに日記を読み始めた。ほかの人が書いた日記を勝手に読んでいいのかと思ったけれど、そういえば、書いた本人が読んでくれって言ったんだったか。


9月14日

 少しずつこの世界に慣れてきた気がする。ジュンさんのおかげでなんとかやっていけている気がする。それにしてもジュンさんは小さくてかわいい。


9月15日

 私設図書館があるというので銀閣付近まで行った。館長は優しそうな人で、事情を話したら地下の部屋を使ってよいと言ってくれた。マコさんのご飯は今日もおいしい。


9月16日

 なにも手掛かりがない。どうやったら帰ることができるのだろう。この世界に来てもうすぐ1週間が経つ。


9月17日

 図書館で缶詰めしている僕に、ジュンさんがお弁当を持ってきてくれたので一緒に食べた。卵焼きがおいしいと言ったら、彼女が箸でつかんでいた卵焼きを口に突っこまれた。


9月18日

 手掛かりになりそうな話を見つけた。古事記で、イザナミが帰れないと言っているあたりのところが参考になりそう。でも、僕はすでにこちらでおいしいご飯をごちそうになってしまっているが。


9月19日

 「日本の神話」という本を見つけた。獣化の穢れを浄化するということは、そこの水で洗えば僕も獣化を防ぐことができるということか?


9月20日

 何も進展がなかった。それと、今日もジュンさんがお弁当を持ってきてくれた。卵焼きがおいしいと言ったら、また口に卵焼きを突っ込んできた。そういえばジュンさん、学校は?


9月21日

 分からない。この世界の人たちは優しいし、僕は人間でほかの人とは違うけど、できるなら、いっそのことこの世界に住んでもいいかも。


9月22日

 ようやくオオクニヌシノミコトが傷を洗った場所を見つけた。きっとここだ。こんな仕掛けがあるなんて気づかなかった。オオクニヌシノミコトだからそこなのか。とりあえずそこで身体を洗った。少しひんやりしている。


9月23日

 調べものをしていると、大学でレポートを作成していたときのことを思いだす。そういやもうすぐ大学が始まるな。ジュンさんご飯を食べている姿がかわいい。


9月24日

 朝食をジュンさんと二人で並んで食べていたら、マコさんは笑ってて、栄さんがむっとした顔をしていた。栄さん、いい人なんだけど、怖い


9月25日

 近所で鬼が出たらしい。そんなものいるわけないでしょ。それよりも、帰る方法とかが全く分からなくて困る


9月26日

 昨日言ったことを撤回したい。僕も鬼を見た。町を歩いていた。というより、すーっと通っていた感じか? とにかく、夜中にふと目が覚めて、窓の外を見たら見えた。それをジュンさんに話したら、「そんなに怖いんだったら、一緒に寝てあげたのに」と言って笑われた。


9月27日

 こぶとりじいさんの話を読んだことがあったけど、人間が、混合種? この世界の人みたいになる昔話もあるんだな。鬼が猫耳と猫のしっぽをくっつけて、この世界の人みたいにしたらしい。その話では、逆に、鬼に耳とかをとられてる人もいたが。僕もそんな方法で、この世界の住人になってみる?


9月28日

 ジュンさんと一緒に、動物の耳と尾っぽを買いに行った。もちろんジュンさんの分。どうやら若い女性の間では、いま別の動物のやつを頭につけるのが流行ってるらしい。うまいこと耳とかにかぶせて使うんだとか。キツネのものがかわいかったので、とてもよく似合ってるねと言ったら、腕をびしびしたたいてきた。


9月29日

 昨日買ったキツネのものをもうつけているらしい。よく似合ってるねと言ったら、卵焼きを口に突っこんできた。


9月30日

 帰る方法が分かった。でもこれは……。


10月1日

 帰る方法は分かったけれど、どうしようか悩む。方法もそうだけど、この世界もすごく楽しい。それに、ジュンさんがかわいいし


10月2日

 今日、鴨川でぼけっとしていたら横にジュンさんが来て、何考えてはんのって聞くから、帰る方法が見つかったんだよ、でもこの世界も楽しいから帰るかどうしようか迷ってるって言ったら、帰ってしまうのって服を少しつかんで上目遣いで聞いてくるもんだから、心に雑念が生じてしまった。


10月3日

 僕は、この世界に残ることを決めた。マコさんも栄さんもそれがええと言ってくれた。ジュンさんもうれしそうにしてくれた。


10月4日

 若い女性の間で流行っている例のものを買ってみた。これをつけると猫耳と尾っぽがついたことになるだろうか。ジュンさんが選んでくれたので、たぶんいいやつだろう。いろんな人が、自分たちと一緒だと言ってくれた


10月5日

 そろそろ自分の家と仕事を探さなければ。いつまでもマコさん栄さんのところにお世話になっているわけにはいかない。


10月6日

 四六時中猫耳と尾っぽをつけているせいだろうか、たまに身体と一体化したしたように感じるときがある。


10月7日

 夜中にジュンさんが鬼を見たようで、枕を抱えて僕の部屋へ来て、一緒に寝てくれと言ってきた。かわいかったので、一緒に布団に入り、彼女は、僕の顔を見ると、安心したのかぐっすり眠った。翌朝布団をとられて少し寒かった。


10月8日

 ある会社で人手が足りないという話を聞いたので、今度その会社で働けないか聞きに行くことになった。


10月9日

 ふと猫耳や尾っぽをとろうとしたら、とれなくなっていた。訳は分からないけれど、これでこの社会の一員になったような気分だ。


10月10日

 今日、会社に行き、そこで働くことが決まった。ジュンさんも喜んでくれてよかった。明日で、ここに来て一か月だけど、長かったような短かったような。


10月11日

 もう、今日から働きにいってきた。この社会の一員になっている。


10月12日

 今日のお弁当は、ジュンさんが作ってくれていた。朝、その姿を見たときに、その卵焼きおいしそうだねって言ったら、卵焼きを口に突っこまれた。



 日記はこれで終わりのようだった。まだ使われてないページが20数頁ほど残っているが、このあとの書かれるであろう内容はだいたいどんなものか予想できる。僕はもうおなか一杯だ。しかし、不意に最後のページを見たとき、僕は、ゾッとした。思わず辺りを見渡し、ひとまず明かりをつけた。そこには、殴り書きで、次のようなことが書かれていた。


 鬼だ。鬼にやられた。僕と同じような人がいるならこれだけは伝えたい。どの世界にも鬼はいる。見えていないだけだ。あるいは理解できていないだけだ。僕はその鬼を乗り越えられなかった。飲み込まれてしまった。でも倒す方法はきっとある。僕はこの選択を悔やんではないが、あなたには乗り越えてほしい


 このページについている黒い指紋はきっと彼のものだろう。じゃあ、この黒は? インクをこぼしたとかではないような。彼は、この日記でいったい何を伝えたかったのだろうか。僕は、いったいどうするべきなのか。鬼とはいったい何なのか。何もかもが分からなくなった僕は、あの癒しの風呂に入り、それでも癒されぬ不安を抱えたまま布団に入った。


 翌朝、あの地下のところでいつものように桃を食べていると、あることに気づいた。この水は、どこかへ流れていき、そこからいろいろなところを巡っていく。そしてこの水も、どこからか巡ってきた水なのだ。では、ここの水に与えられていると考えられている不思議な力は? あの獣化を防ぐとされる力は、いったいどこにあるのだろうか。むしろ僕はむなしい努力を続けていただけなのか。

 ここで彼が日記に書いていたことを思いだす。彼は、ここの世界の一員になった……。そうか、この水がここにあるということ、そして、僕がここで物を洗って食べるということが重要なのだ。水自体に意味があるわけではない。そうであるとすれば、僕に耳や尾がついたり消えたりしたこともなんとなく分かる。僕はこの世界に少しずつなじんできている。しかし……。

 僕は、この世界の住人ではないと感じた。耳などがついてなくて好奇の目で見られるからとかそういうことではない。みんないい人で、受け入れてくれる。ただ僕自身が納得できないのだ。この世界の一員であると考えることに。そこに理由はないけれど。このまま生活を続ければ、時間が助けてくれて、きっと違和感を覚えなくなっていくと思うけれど、それでは、そんなことではきっと充実できない。

 彼は、きっと乗り越えようとしたのだ。自分の意思で。ならば僕も自分の意思で選択していかなければならない。彼が後悔はないと言ったように。


 その日、僕は、日記を持って、一人であの私設図書館へ行った。受付けで潮見館長はいますかと尋ねると、あのおじいさんが僕を待っていたかのようににこにこして僕を出迎えてくれた。

「結論は出たかね」

「はい」

「君は一体何者なんだ」

「分かりません。ですが、向こうの世界に戻ろうと思います」

潮見館長は、満足そうにうなずくと、

「そうか。それもいいでしょう。『僕は僕』というようなつまらない答えをしたらしばいたろうと思っていたけど、その必要はなさそうですね」

そして、こっちへおいでと言って、また例の地下の部屋へ僕を案内した。


 地下の部屋で日記を館長に渡すと、館長は僕にこう言った。

 「私も直接彼に会ったわけではないとは前に言ったけれど、私の母から聞いた話だとこういうことでした。彼は、ここの世界の住人になって、結婚して幸せに暮らしていました。ある日のこと、彼は突然姿を消したと言われているけど、その日、彼はこの私設図書館に来る予定でした。その来る途中に、いきなり後ろから刺された。後ろを見たら、見覚えのある男が刀を持って逃げて行くのが見えた。その男は、彼にお前はこの世界の住人じゃないといつもくってかかってきていた人だったそうです。彼は、この図書館に来て、この日記と帰る方法を私の父へ託して倒れ、そしてそのまま亡くなりました」

館長は、机にある一冊のノートを手に取って続けた。

 「それが、ここに書いてあります。それは、鴨川の三角州で日の出の時に全裸で踊ること。父も私も調べたけれど、これしか見つかりませんでした。一方で、正確には、これは帰っていく方法ではないということが分かりました。これは、君の見方を変えるための儀式のようなものです。君は、なんでも理解可能だと、なんでも見ることができると思っているかもしれない。けれど、実際には理解できる範囲でしか理解できていないし、見える範囲でしか、そして見ようと思ったものしか見えていない。そして、この世界にとっては、君の世界は見えないところであるし、君の世界にとっては、この世界は見えないところです。一方で、完全に分離されているわけではなくて、ほぼ同時に存在して、いつも影響を与え合っています。それこそ鬼のようにね。だからこそ、君は、見方を変えるだけでもとに戻っていくことができるんです」



 いよいよ明日の日の出とともに戻るという日になると、あのときの肩掛けかばんくらいしか持ち帰る荷物などはないのに、部屋の中で忘れ物がないかどうかそわそわしてしまう。

 あの私設図書館に行って帰り方を聞いた日、家に戻ると、おばあさんや美夏さんたちに、もとの世界へ戻ると決めたことを伝えた。おばあさんは、ええと思うと言ってくれた。美夏さんは、そうなんやとだけ言った。

 せっかくなので、かなたんや圭様や斎藤さんにも挨拶をしてお礼を言った。美夏さんに連れていってもらったのだが、かなたんは

「そうなんやー。寂しなるなー」

と美夏さんを見て言った。ちなみに斎藤さんは玄関から少し顔を出しただけだったが、おばあさんが出てきてくれて、「よかったよかった。身体には気ぃつけるんやで」と言ってくれた。

 最後の夜は、美夏さんのおばあさんがご馳走を作ってくれてみんなでご飯を食べた。とてもおいしかった。久しぶりに桃以外のものを食べたので、感動して涙がでそうになった。いや、たくさんの人と一緒に楽しくご飯を食べたからかもしれない。確かにこれは、この世界の住人になってしまいそうだった。卵焼きがあったので、卵焼きおいしいですと言ったら美夏さんが口に卵焼きを突っ込んできた。どうやら美夏さんが作ったらしかった。ちなみに、最後の風呂は、おばあさんたちが一番風呂を譲ってくれようとしたのだが、粘りに粘って交渉し、なんとか最後に入り、ついでにお風呂の水を一口飲んだ。おいしかったので、もう一口飲んだ。


 その日の夜明け前、僕は起きると、荷物を持って、一人で鴨川デルタへと向かった。全裸で踊るんだから、ほかの人には見られたくないし、ほかの人も見たくもないだろう。いろんな人が見送りに行くでと言ってくれたが、全裸で踊るので、とさすがに断ってしまった。みんな苦笑いしていて、こちらも苦笑いするしかなかった。

 鴨川デルタの先まで行き、そこで準備運動をした。あたりはまだ暗く、川端通りの街灯でそのあたりが明るく見えるくらいである。

 5時40分ごろになると、僕は携帯電話を取り出して、ダウンロードしてある曲のリストを見て踊る曲を選ぶ。踊ることのできる曲なんてそんなになくて、中学生のころの文化祭で踊ったことを思い出し、そのアニソンをとりあえず選んだ。踊るのは、日本舞踊とかじゃないとダメとかないよな。今になって心配になってきた。館長にもっとよく確認しておくんだったと後悔した。これで裸で踊ったのに帰れなかったら、なにをやっていたんだというあほらしさを感じるばかりだし、どんな顔をして美夏さんの家に帰っていったらいいか分からない。それはそれで古都大生っぽいが。

 すべての服を脱いできれいにたたみ、自分のわきに置く。周りには人がいなかった。暗くても、鴨川にはたいてい誰かがいるものだが。誰も見る人がいなさそうで安心した。そもそも誰かに見られていたら警察に捕まりそうだ。

 しかし、全裸とは、すがすがしい気持ちにさせるものだ。僕は、なぜか解放感に満ちあふれ、うおおおと叫んだ。そして曲を小さめの音で再生し、嬉々として踊り始めた。踊っているうちに、誰かに見られているかもなんてことは気にならなくなってきた。


 何度も繰り返し踊っていると、東山の方が明るくなり始め、赤の光が差し込んでくる。東山は赤に包まれて神々しく、町全体が赤く染まるようだ。

 そのときふと、後ろから声がした。振り向いてみると、あのデルタのベンチのあるところに、パジャマ姿の美夏さんがいた。

「楽しかった。ありがとう」

彼女が口に手をメガホンのようにしてあてて、叫んでいるのが聞こえた。僕もそれに応えるようにして叫ぶ。

「僕も楽しかった。ありがとう」

 そう僕が言い終わらないうちに、後ろで地響きのような大地を揺るがすような、重く力強く激しい音がした。と思うと、鴨川の合流するあたりの空中にドアが現れていて、その扉がゆっくり開いていた。そして真っ暗なその扉の中から、全く音を立てずに何かがでてきた。それは、赤く、大きさが僕の身長ほどある大きな手で、その指には長く鋭い爪があって、その手が僕の身体をつかんだと思うと、その真っ暗な扉の中へ僕を引き込んでいった。

 そのとき、僕は確かに見たのだった。扉の中にいる大きな鬼の姿を。どこかに書かれていたように、赤い顔で、目はどんぐりのようにぎょろっとし、頭には角が生え、口が耳元まで裂けているというあの鬼の姿を。




エピローグ

 目が覚めると、僕は、鴨川デルタに全裸で、そしてうつ伏せで寝ていた。僕は隣に置いてあった服を慌てて着て、周りに人がいなかったかを確認する。よかった、いないようだ。とりあえず家まで帰ってシャワーを浴びて寝ることにしよう。


 昼ごろに目が覚めると、今まであったことがすべて夢だったかのような感覚に襲われた。しかし、あの帰れなかった日から、確かに日付けは進んでいて、あの日々は現実に起こったことだと自分に言い聞かせた。

 携帯電話を確認すると、友人からの心配のメールが入っていた。終電に乗れなかった日の、ちゃんと家に帰れたかというメッセージから、最近の、生存報告ヲセヨとのメッセージまである。とりあえず生存報告のメッセージを返信しようとしたが、今回のあの世界の話をしてみよう、あのかわいい子たちと一緒に暮らした日々を自慢しなければならないと思って、ついでに友人らと会う約束を取り付けた。

 昼ごはんを食べるために大学で友人と待ち合わせをした。彼らと会ってみると、彼らにはやはり耳や尾はなくて、それまで何度も確認したことだけれども、やはりこの世界に戻って来たのだと実感した。むしろ、いろいろ頭やお尻のあたりをじろじろ眺めたので、不審がられていそうである。

 昼ごはんを食べながら、友人らに例の話をしたところ、その写真を見せろと言われて、改めて全く写真を撮ってなかったことに気づいた。写真がないせいか、冗談半分で聞かれてしまったかもしれない。あのかわいさを伝えられないことは非常に残念である。


 自分の家に戻ったとき、ふと、あの「日本の神話」という本が古都大学の図書館にあるか気になってインターネットで調べてみたが、なかった。大学の図書館にも直接行って確認してみたが、あのときあったと記憶している場所にはなかった。こちらの世界ではあの世界の存在が知られていないのかもしれない。

 このとき僕は、そうであれば自分が知らせてみてはどうだろうかと思った。小説形式で書けばいろんな人に読んでもらえるかもしれない。僕が語ることができるのは、ほんの一面にすぎないかもしれないし、誤解を生じさせてしまうかもしれない。しかし、少しでも知ってもらうことで、彼らを理解してくれる人や受け入れてくれる人も出てくるだろう。共生の可能性を見出すことができるかもしれない。なぜ見えないのかも分かるかもしれない。それに、我々にとっても、彼らを知ることは重要だ。

 では、その小説のタイトルは何にしよう。「気がついたら猫耳の街に転生していたのであえて帰還しました」? 「僕とタイツとねこみみ少女」? なんだかしっくりこない。

 そういえば、あの人の日記では、鬼を見たと書いてあった。それに、僕も、あのとき、あの扉の向こうに、確かに鬼を見たのだ。では、こうしたらどうだろうか。「鬼のいる町」。素晴らしいタイトルだ。おもしろいに違いない。どんな美少女を登場させようか。もちろん美夏さんやその他の女の子にはモデルになってもらおう。天狗の館長にも登場してもらいたい。これで書いたらおもしろくなること間違いないだろう。あとは僕の天性の文才に任せるしかない。

 彼女たちの存在が少しでも多くの人に伝わりますように。

読んでいただき、ありがとうございました。

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