第二十四話「長い夜の終りに」
「結局それが貴様の限界だった」
もはや動かない――いや、動けなくなった宿敵を見下して、ザッハークは残忍な笑みを浮かべた。
「そう、みたいだな」
動けなくなった状態で、霧島は力なく笑った。
「なぜ笑う」
「後悔してないからさ」
「あのような下等生物を救うことに、そこまで意味があったのか」
そう言ってザッハークは、今しがた悲鳴をあげながら男子生徒が消えていった方を見た。
ついでに、突き刺さったままのナイフを放り捨てる。
そして再び視線を霧島に戻す。
血まみれになって倒れており、既に戦闘能力は失われている。
あの瞬間、この場に偶然居合わせた男子生徒を霧島は助けた。
代償は、千載一遇のチャンス。
もはや永遠に取り戻すことはできないだろう。
身体は既に大半の機能を失い、不様に倒れていることしかできない。
――――結局。
無理に無理を重ねておきながら、霧島直人の中身は昔と変わっていなかったのだ。
目の前で泣いている人がいれば放っておけず、困っている人がいれば手を差し伸べる。
「意味はある」
口元を歪めて、全力で笑みを浮かべる。
「――――そのことを、嬉しく思ってるからな」
本当に、心底嬉しそうに笑う霧島を前に、ザッハークは顔を歪めた。
その内側にあるのは、理解できないという思い。
「理解できん。生き急ぎ、感情に操られ、迷い、苦しむ。人とは死ぬために生きる矛盾存在に過ぎん。それでも貴様は次第に私と近い存在になっていた」
「否定はしない」
一時期復讐のためだけに生きた時期があった。
人としての身や、家族とも言える人々を全て切り捨てた日々。
「超越種たる我らはそうでなくてはならない。異質な力を持つものは、異質な精神を持つことで初めて完成されるのだ」
その言葉を聞いて、霧島は理解した。
ザッハークの行動原理はそこにある。
力を得たものとして、超越種としてより完全たろうとする意志。
それが世間的には異常ともいえる、ザッハークの残虐行為に繋がっていた。
彼の持つ力を考えれば、なるほどその方が当たり前なのかもしれない。
力を持っておきながら、それを抑えるなどとはおかしいことなのかもしれない。
(ああ、そうか――――こいつから見れば、俺たちの方が異常なんだろうな)
そのことを思うと、ザッハークに対するおかしさを覚えてくる。
怒りや憎しみは当然消えないが、なんだか同時に哀れにも思えてくるのだ。
「結局」
ザッハークは失望の意志を含めた声で告げた。
「――――貴様も、ただの人間であったということか」
「そうだな」
霧島はここ数年でもっとも晴れやかな気持ちで、その言葉を聞いた。
「俺たちは異質な力を持っている。だから自分たちを化け物だなんだと思い込んでた。けど、なんだ。考えてみれば俺たちは変な力を持っただけの人間に過ぎない」
「そうだな。だが私は違う、貴様らのような半端者になど落ちはせぬ」
語るザッハークは、どこかしら優越感を覚えているようだった。
霧島はそんなザッハークを、滑稽なもののように見ていた。
梢は先ほどから、自分自身の精神状態がおかしいことを自覚し始めていた。
なにか、フィルタがかかっているような感覚。
様々なものが、色を変え形を変え、目に映る。
思考もはっきりせず、まるで自分が自分でないかのようだった。
だから。
その光景を見たとき、最初はなにがなんだか分からなかった。
「兄、貴……?」
ぼんやりと視界に映るのは、血の海に沈む霧島の姿。
不意に、それが吉崎の姿と重なる。
「っ」
再び吐き気がしてきた。
背負っていた遥をそっと降ろし、慌てて手で口を塞ぐ。
遥の方は立つことすらまともにできない有様だった。
(なにか、されたのか?)
ふと先ほど現れた柿澤源次郎という男を思い浮かべる。
そして遥の周囲に描かれていた魔方陣。
なんらかの儀式のようなものをするつもりだったのならば、遥がなにかをされているというのも頷ける。
意識を切り替えて、前方を見る。
霧島直人。
遠目からではよく見えないが、生きているのは間違いない。
ただしその生命力はほぼ尽きている。
そして、その側で笑っている男。
そこで、はじめて梢はザッハークの存在に気づいた。
あちらも気づいたのだろう。
梢たちの方を見て、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。
「なんだ、柿澤の儀式は失敗したのか? まぁよい、私が連れ戻せばすむことだ」
――――はっきりとしない意識の中で、梢はただ一つ確かな感情を思い出した。
平穏な日々を奪い、刃を倒し、吉崎を殺し、霧島の全てを略奪し。
さらには、遥まで奪おうというのか。
なら。
「またお前か、ザッハーク」
やることはただ一つ。
「また奪うのか」
右腕を振り上げて。
「だったら――――」
拳を力一杯握り締める。
「――――殺すしかないじゃないか」
ほう、とザッハークは嬉しそうに感嘆の声を漏らす。
「弟の方は資質あり、か。駄目な兄の下から離れたのが幸いしたか?」
「ネチネチと笑ってるんじゃねぇっ!」
戦いの火蓋は切って落とされた。
ザッハークは格闘を得意とする魔術師。
対する梢も、格闘を主体とする戦闘スタイルの持ち主。
基本的な身体能力には、実はあまり差はない。
ザッハークはあくまで己の能力の補佐のためにその身を活用しているに過ぎないからだ。
そして、梢と比べると有り余った戦闘経験がある。
「動きが読めるぞ、小童が!」
身を屈めて、がら空きの腹に掌を当てる。
ぐい、と押すだけで梢の身体は面白いように吹っ飛んだ。
亨を一撃で黙らせた、あの攻撃である。
腹に痛烈な一撃を喰らっておきながら、梢はすぐさま復活した。
よく見ると、腹に蔦が巻かれている。
あれが防具の役割を果たしたのだろう。
そして、同時にザッハークのこめかみが切れた。
「ぬ――」
血が出てきたのが気に入らないのか、苛立たしげにそれを拭い取る。
そして梢の方を、今度は少し警戒するように見た。
(霧島直人の異常な素早さとは異なる。奴の動きは読めるし、見える。だというのに一撃を喰らったのは……おそらく破壊力か)
梢が装着している新たな右腕。
以前は翠玉の篭手を使用してもザッハークには通用していなかったが、今度の腕はどうも桁が違うらしい。
そのままでも十分な破壊力を持ち、現にザッハークに一撃を与えている。
(だが慌てる必要はない。多少のダメージさえ覚悟すれば奴を倒すことなどいくらでもできる)
ザッハークは楽しんでいる。
攻撃を喰らうのは不愉快だったが、それと同時にかつてない高揚感を覚えていた。
異質であろうとする彼は他の誰よりも異常であった。
彼についてこれるものなど皆無である。
柿澤源次郎は同類といえるかもしれないが、あれはザッハークとは色は同じでもベクトルが異なる。
そんな彼に接近する者が二人も現れた。
片方には失望せざるを得なかったが、もう片方はなかなか見所がありそうである。
「さぁ、狂った夜の宴を楽しもうではないか……!」
襲い掛かる梢をまるで受け入れるかのように。
ザッハークは両腕を広げ、魔力を解放させた。
駄目だ。
倉凪梢は、その一歩を踏み出してはいけない。
梢とザッハークの戦いを見ながら、遥は不安に襲われた。
梢は先ほど、確かに"殺す"と告げた。
だがそれはおかしい。
あってはならないことだ。
遥の知る梢は、間違ってもそんなことを言う男ではなかった。
皆と一緒に笑顔でい続けたいと、それだけを願っている人だった。
とても純粋な少年だった。
(いなくなっちゃう)
その彼が消える。
それは、はっきりと形となって現れる死ではない。
しかし、それはなによりも悲しい死に思えた。
その一歩を踏み出せば、梢は壊れてしまうだろう。
梢が今ザッハークに向けている怒りは自分自身への怒りと同質のものだ。
人々の平穏を奪ったザッハーク。
人々の笑顔を守れなかった梢。
両者に共通するのは、人を超えた力の持ち主であるということ。
梢は、ザッハークと自分を同一視している。
それも無意識に。
だからか、今の彼はザッハークのようになりかけていた。
普通でない力を持ち、普通でない心を持つ。
そうでもしなければ、彼は迷いを拭えない。
戦うことなど出来ない。
彼は最早追い詰められている。
吉崎の死という事実を払い落とすには、榊原や斎藤の言葉だけでは足りなかった。
彼は踏み外そうとしている。
「駄目……」
朦朧とする意識の中、遥はどうにか身体を動かす。
「そんなことしちゃ、駄目だよ……」
ゆっくりと、歩き出す。
「私は、それを寂しいと思う」
それは、昔ある少年に教えてもらったこと。
「悲しいと、思う」
『俺の夢はさ、皆と一緒にいることなんだ』
そんな当たり前のことを望んでいた。
『俺、変なところあるけどさ。それでも認めてもらって、今はそれなりに馬鹿やってる』
そう言った少年の表情は、とても楽しそうだった。
『でも俺が変なのは本当のことだし、いろいろと難しいんだよ』
やけにおっさん臭く息を吐き出して、その少年は言ったのだ。
『だからよ、俺はそんなこと忘れさせるぐらい、皆を笑わせてやるんだ』
笑顔を。
それだけを求めていた。
それなのに、彼は唯一求めていたものさえ捨てて、遠い道を目指そうとしている。
そんなのは、無責任ではないか。
笑顔を作っておいて、逃げるなど卑怯ではないか。
なぜなら。
「今、梢君がそんなことしたら……何人の人が悲しむと思ってるのっ……」
多くの笑顔を作り上げている梢。
それが最悪の形で失われれば、どうなるのか。
考えるまでもない。
遥は確実に接近していく。
彼女の目の前では、既に梢が倒されていた。
やはり怒りに身を任せただけでは駄目だったのか。
なおも立ち上がろうとする梢に、ザッハークは魔槍を創り上げ、梢の頭へと放とうとする。
あのときと、同じだ。
だからだろうか。
――――遥の身体も、あのときと全く同じように動いていた。
真っ赤に染まった視界の中で、びしゃりとなにかが弾け飛んだ。
次第に、フィルタが薄れていくのを感じる。
それでも、それが彼女だと気づくのに、少し時間を要した。
「あ――?」
彼女が倒れているのは分かる。
だがそれを受け入れるのには、さらに時間が必要だった。
「はる、か……?」
倒れている。
彼女は血まみれで倒れている。
まるで霧島のように。
吉崎のように。
「俺を、庇ったのか」
身体を起こして、遥の元へ駆け寄る。
あちこちが痛むが、無理をすればどうとでもなった。
「馬鹿、なんでこんなことっ……!」
「……あはは、怒られ、ちゃった」
困ったような笑みを浮かべて、彼女は静かに微笑んだ。
その、青ざめた笑みを見て梢は不意に思い出した。
いや、正確にはさっき遥が倒れた時点で気づいていたのだろう。
「またっ……また、無茶しやがって!」
『遥は、ずっとお前を待っているそうだ。昔も、今もな』
そう。
それは単純な答え。
幼い頃、待ち合わせにならない待ち合わせをしていた女の子。
自分を庇って、血の海に沈んだ少女。
名も知らぬ少女。
遥。
幼い日、倉凪梢によって感情が芽生えた一人の少女。
それが、遥だった。
「馬鹿っ、この大馬鹿っ! なんでこんな無茶を、今もあのときもするんだよっ!?」
「なんで、かなぁ」
苦笑して、彼女は梢の頬を撫でた。
「怪我してる」
「お前の方が重傷だ!」
「ううん」
遥は首を振った。
それがどういう意味なのか、不思議と梢には分かる気がした。
自分が踏み出しては鳴らない一歩を進めようとしていたこと。
それを遥がどれだけ心配していたか。
その全てが、梢にありのままに伝わってきた。
「梢君さ……」
「なんだよっ」
「あんまり、無理しないで」
言葉と共に、遥の想いがダイレクトに流れ込んでくる。
ずっと、心配していた。
気づいていたのに、昔のことを言えなかったのはそのため。
もしも自分が守りきれなかった少女が、生きていれば梢は喜ぶだろう。
だが、それは同時に、梢に余計な負担をかけることを意味する。
なんでも一人で背負い込もうとする梢。
かつて守りきれなかった少女。
そんな相手を前にしたならば、梢はどれだけ無茶をするのだろう。
過去の古傷を癒す代わりに、新たな傷を生み出してしまう。
それが怖くて、ずっと言えなかった。
「梢君はさ、ずっと独りなんだよ」
「なに、言ってんだ」
「皆と一緒にいても、その中には入りきろうとしない。どこか一歩下がったところで、皆を見守ってる」
「それは」
否定しようとしたところで、やめた。
今、梢と遥はお互いの考えていることがすぐに読める。
下手な言葉で取り繕っても意味などない。
「だからどこかで、自分がいなくなっても皆の輪が壊れないって思ってる」
むしろ、皆の輪を守るために一人だけいなくなろうとしていた。
「でも違うよ。梢君だって皆と手を繋いで、輪の中にいるんだから。絶対にいなくなったりしちゃ、駄目なんだよ」
「もういい喋るな!」
握っていた遥の手から、力がどんどん抜けていく。
それでも遥は最後に一言、こう告げた。
「それでも不安なら呼んであげる。皆との絆を……」
――――そしてその瞬間、目の前が真っ白になった。
「榊原さん」
「ああ、分かってる」
公園で二人立ち並ぶ影。
「あの馬鹿は頑固だからな、一度じゃ駄目らしい」
「だったら何回でも、届けますよ」
「なんだ……?」
一人、自宅付近の公園で走り込みをしていた影。
「なんだよ、これ」
ゆっくりと走り終え、下を向く。
頭を抱えながら、自分の中に流れ込んできた思いを確かめる。
「……ちくしょう。訳が分かんねぇ」
その辺にあった小石を蹴り飛ばしながら、彼はしばらく呻いていた。
だが、やがて顔を上げる。
――――彼は泣いていた。
「分かんねぇ。だからちゃんと帰ってきて説明しやがれ……馬鹿野郎」
「……これ、は?」
歩道の脇に倒れている影。
「梢さん……零次」
ゆっくりと、だが全身全霊の力を込めて立ち上がり、強く思う。
「僕たちはもう殻の中に閉じこもっていては駄目なんです」
かつて見た、楽しげな風景。
「僕たちも、あの中で生きていくんです……」
「涼子ちゃん」
「分かる? 美緒ちゃんも」
「うん……」
静かで暗い部屋の中、寄り添う影が二つ。
「どうすれば、いいのかな」
少し躊躇っている。
そんな彼女に、自信たっぷりの言葉を送る。
「頑張って! 絶対帰ってきて! その言葉を送るんだよ!」
「……うん!」
「これは……」
意識が鮮明となっていく中、久坂零次は心の中の欠片が満たされていくのを感じていた。
その身は異形のもの。
悪魔としかいいようがない、零次の忌避していた姿だった。
「その状態で、理性を得たか」
眼前に立つ柿澤は目を細めながら、喜んでいるのか悲しんでいるのか、どちらともいえる声で告げる。
「それは己の忌避すべき姿を受け入れたということか。それとも過去を否定し逃避した結果に過ぎないのか。あるいは――――――器が動き始めたか」
最後の言葉だけは、心底悔しそうであった。
「この魔方陣なしで力を発動させたところで、世界の変革は不可能だ。それにこの段階で発動するということは器になにかあったという証拠。下手をすれば計画は全て白紙に戻る」
「構わないのではないですか」
ビルの屋上。
あれからどれだけ時間が経ったのかは分からないが、零次の身に大きなダメージはない。
つまり、柿澤とまともな勝負が出来ていたということだ。
「どのみち俺が、ここで貴方を止めます」
「ふむ、魔力は大分使い果たしたと思ったのだがな。そろそろ限界ではないのかね」
言われてみると、確かに零次の身体には魔力があまり残されていない。
だが、零次は不思議と負ける気はしなかった。
「限界などは、終わってから決まるものです」
それに、と付け加える。
「今は、誰にも負ける気がしません」
そう。
こんなにも、強い想いが胸の中にある。
なにがなんでも、生きて帰る。
そう約束したのだから――――――!
すらりと、梢は立ち上がった。
実際には、遥が槍で貫かれてから一分程度。
その間ザッハークはニヤニヤと、二人の様子を眺めていた。
「終わったか?」
「ああ、終わったよ」
ペッ、と口内に溜まった血を吐き捨てる。
「ザッハーク。なんでお前、遥を狙う。狙っておきながらこんな真似をする」
「飛び出してきたのはそちらの小娘だろう。まぁ分かっていて止めなかったのは事実だが」
クク、と面白そうに笑う。
「柿澤源次郎はその娘を使って世界変革を試みた。異常というほかない。そこに惹かれたのだよ。荒事、戦いにも飽きずにすむし、目的を持って殺戮が楽しめる。なかなかいいものだぞ?」
ああ――こいつ、心底他人を不幸にするのが好きなんだ。
感情的にならず、ひどく客観的な判断で梢はザッハークをそう見た。
「もう一つだけ聞かせろ。なんでお前、そうなった」
周囲の人間を陥れ、不幸を撒き散らし、蹂躙しつくす。
そうなった理由はなんだ、と梢は問う。
「知れたコト――――我らは世界から切り離された異端分子。それがフツウを目指してどうするか。私が目指すは、異の最果てよ」
なるほど、と言ってから梢は遥を見下ろした。
一歩間違えば、自分もああなっていたかもしれない。
人から離れ、人であることを捨てればああなってしまったかもしれない。
それを、遥は止めてくれた。
「そうか――礼と言っちゃなんだが、一つ教えてやるよ。そんなモノはここにはない」
だから、理解できた。
ザッハークという存在に対する、怒りなどとは別の憤り。
「お前自身が、既に完成された異端だ。孤立した無限の大蛇、それがザッハーク――お前の正体だよ」
「……"異端"だと?」
「お前は全て自分自身で完結している。お前は自分の尻尾を目指して走っている蛇に過ぎない」
無限を意味し、同時に無を意味する蛇。
そこには他のものが介入する余地はなく、ただ触れたものは無に巻き込まれていくだけ。
「必死に世界にしがみついてる俺たちは滑稽だけど、だからこそ生きてられるんだ」
梢たちはザッハークとは違う。
無で終わらず、異端の果てを目指さず、世界と、人とともにある道を選んだ。
合わない。
けれど、不可能じゃない。
「お前みたいな奪うだけのやつには無理だ。奪い尽くせばそこで終わる。お前の目指しているものなど、お前の内にあるだけの幻想に過ぎない!」
だから、ここで倒さねばならない。
皆との日常へ帰るため、もう一度皆と歩き始めるためには、ザッハークは……。
「だから、お前は邪魔なんだ」
拳を構える。
それだけのことだというのに、ザッハークはただならぬ気配を感じた。
「異端存在として孤立したお前にはなにもない」
それはまるで、自分の存在を真っ向から削り取られていくような――――。
「――――――異端を目指すなら、無へと帰れ」
それは、世界からの死刑宣告。
ザッハークという存在は、有の中に在りながら無を目指した。
全ての有を破壊し、異端を目指した。
そんな奴を、誰が放っておけるものか――――!
「貴様ごとき小僧が、何をほざくかっ!」
ザッハークが瞬時に創り上げた大蛇が、梢を無へ帰さんと襲い掛かる。
「こんなものはもう効かねぇ!」
右腕が軌跡を描き、大蛇は瞬時にして消滅した。
「ぐっ、ぬっ」
梢の右腕には、マジックキャンセラがある。
霧島直人の義手義足にも仕込まれてはいるが、それは段違いの性能だった。
まるで。
まるで、吉崎が右腕から梢を助けているかのように。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!」
ザッハークは今までにない力を込めて、今度は巨大な八つ頭の蛇を創り上げた。
「――――ヤマタノオロチよ、やつを消せ!」
同時に八つの頭が梢目掛けて襲い掛かる。
梢の速度では、全てを消し去る前にやられてしまう。
そのはずだった。
ザッハークは我が目を疑った。
巨大な、建物でさえ飲み込んでしまえそうな八つの蛇が瞬時に消滅する。
「馬鹿な……!」
そして、ヤマタノオロチを構成していた魔力は霧散して果てた。
その中から梢が悠然と現れる。
その身体には、今までにない力がみなぎっていた。
霧島直人の、速度倍加。
今、梢は霧島とも意識を共有している。
だから負けるはずがない。
ザッハークを倒すためにずっと戦い続けた男が、そして梢にとって最高の兄貴が助けてくれるのだから。
「悪いが」
どこか人懐っこさを感じさせる笑みを浮かべて、梢は不敵に言った。
「今夜は絶好調だ――――勝たせてもらうぞ、ザッハーク」
その笑みを前にして、ザッハークは恐怖すら超えたなにかを感じた。
負ける。
実感が、ある。
そんなザッハークに、梢は少しずつ近づいてくる。
三メートル辺り手前で、止まった。
「さっきも言ったけどよ、奪うだけじゃいつかは尽きるんだ」
梢の身体からは、溢れるような魔力。
今、梢と意識を共有している全ての人々の、力。
「共に作り続けていけば、限界なんてない」
そして、構える。
「いくぞザッハーク――――自慢の魔力を見せてみろ」
「圧壊せよ!」
引力を操作し、零次の動きを封じる。
それだけで十分相手を無力化させることはできた。
だというのに、相手は自分の能力を突破しようとしている。
「こんなもので、俺を止めることはできない!」
尽きかけていた魔力の波で、柿澤が創り上げた力場を突破する。
柿澤への距離は残り四メートル。
「引っ!」
グン、と見えない力によって阻まれる。
さすがにそろそろ零次の力も尽きかけていた。
魔力も限界に近い。
だがそれでも。
背負っているものがあるから、なにに代えても守りたいものがあるから。
――――ここで負けるわけには、いかない!
「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!」
肉が裂ける。
骨が砕ける。
されど、身体は確実に進んでいく。
「ぐっ……ぬぅっ!」
柿澤の表情に焦りが見えてきた。
それだけではなく、先ほどまで余裕の表情で使っていた能力を、今では全力で用いている。
限界が近づいているのは、どちらも同じだった。
黒き身を一歩、零次が近づける。
羽は引きちぎれ、左腕の肩が潰れた。
それでも、それでも進む。
そこで、均衡は破れた。
柿澤の腹を、二つの爪が貫いている。
顔を紅潮させ、血管すら浮かび上がらせながら柿澤は後ろを振り向いた。
「――――あ、赤根甲子郎ッ!」
にやりと笑った瞬間、赤根はビルの屋上から叩き落された。
が、それは柿澤にとって最悪の事態を起こさせた。
(しまっ――――)
思うよりも早く、鈍い痛みが腹部を襲う。
赤根甲子郎に貫かれた部分を、零次の拳が打ち据えた。
「がっ――!」
動かぬ魔人は、ついに動いた。
そして、それが彼の敗北の瞬間にもなった。
フェンスに叩きつけられ、そのまま勢いにのって屋上から落ちかける柿澤の手を、誰かが握った。
「れ、いじ……」
柿澤は心底不思議そうに零次を見た。
「なぜ、助ける……」
「……貴方は、恩人ですから」
どこか、失ったものを懐かしむような声で、零次は静かに告げた。
それは激突の連続。
ザッハークが次々と繰り出す魔力の創造物を、梢が消し去っていく。
(マジックキャンセラの発動でも魔力は消費する)
それがザッハークの唯一の希望でもある。
このまま次々とマジックキャンセラを使わせれば、梢の魔力はいつか尽きる。
そう考えていたのに。
「なぜだ……」
こめかみから冷や汗がだらだらと流れてくる。
「なぜ、押される」
梢は、右腕でザッハークの防御壁ともいえる"それら"を次々と倒していく。
そして、少しずつだが確実に近づいてきていた。
その度にザッハークは後退せざるを得ない。
理解できなかった。
「なぜ、私が貴様のような小僧に……」
そして、梢の右腕が振り下ろされた。
ガキィン!
凄まじい衝突音が二人の間で発生する。
梢の右腕を、ザッハークが創り上げた剣で弾き飛ばしたのだ。
だがそれで攻撃は終わりではない。
一撃、また一撃と、終わることを知らぬ攻撃がザッハークを襲う。
「なぜ、魔力が尽きない……」
眼前の男はただの小童にしか見えなかった。
恐怖などを感じる相手でもない。
ただ、理不尽だった。
様々な人間から、様々なものを奪いつくしてきた自分が、なぜこんなところで押されているのか。
それが理不尽でたまらず、ザッハークの中に怒りを生み出した。
「ふざけるなっ、このオレが、貴様のようなカス虫なぞにっ!」
「カス虫でもな」
梢は攻撃の手を休めない。
常にその両腕はザッハークを休ませない。
まるで、自分の進む道に立ちはだかる壁を打ち壊そうとするかのように。
「何もないお前よりは本物だってことだっ!」
ガン、とザハークの視界が揺れる。
殴られた。
誰に。
目の前の、この子供に。
「っ……こんなところで、やられてたまるものか!」
ザッハークは逃げようとした。
そこには余裕もなにもない。
ただ、理不尽な出来事から逃げようとする哀れな犯罪者が一人いるだけだった。
「くっ」
まずかった。
梢も実際のところ、限界などとうに超えている。
今こうして立っていられるのは、遥の"共有の力"によって、様々な人々とその力を共有しているからだった。
ここで逃げられたら、もう追うことはできない。
「逃がすかよっ!」
梢が手を伸ばす。
刹那、ザッハークが止まった。
「なん、だ……」
ザッハークは声を出すこともできずに、その場に止まっていた。
なぜ動けないのか、まるで理解できない。
梢もしばらくザッハークの様子を注意深く見ていたが、やがて得心したのか拳を下ろした。
「さっき兄貴が刺したナイフ」
梢が、ザッハークを睨みすえながら厳かに言う。
「――――魔力吸収の効果があるんだよ」
「……な」
なんということだろう。
魔力は活動力の源でもある。
それを失えば、動けなくなるのは当たり前だった。
「ナイフは抜いたとしても数分効果は続く。あんなにバカスカ無駄撃ちしてりゃ、そりゃ尽きるだろうよ」
「……結局最後は、奴にしてやられた、というわけ……か」
その言葉を残してザッハークは――――やっと、倒れた。
それを見届けた途端、梢も地に膝をついた。
共有の力で魔力をある程度分けてもらっていたが、今はもう効果が切れた。
梢自身の力は、とうに尽きていたのである。
「やべぇ……」
頭の中で何度も身体に命令を送る。
動け、と。
「早く……遥と、兄貴を病院、に」
視界がどんどん暗くなっていく。
(駄目だ)
寝ては駄目だ。
ここで倒れては駄目だ。
二人をなんとしても助けなければ、駄目だ。
だが、抗う力すら尽きた梢は――静かに、その場に倒れこんだ。
「……失敗、しましたね」
「ああ。長年に渡って続けてきた計画もこれで終わりだ」
屋上で互いに倒れこみながら――満点の夜空を見上げ、零次と柿澤は語り合う。
「なぜ貴方は、こんな計画をしたんですか。俺にはやはり、貴方がただの悪人であるようには思えない。いや、仮に悪人だったとしても――全ての事柄には、原因があるはずです」
「私は異質な者たちの救済を求めただけだ。世界に受け入れてもらえない人外の人。矛盾した存在。行き場がない我らの、居場所を探してやりたかった。それには、世界を塗り替えてしまうのが一番いい。矮小なる身の分際で世界の法に手を出すとは、無謀もいいところだがね」
続けて、柿澤は計画の全てを零次に話した。
失敗した以上、黙っていても仕方がない。
「正常を異質とすることで、我々を正常とする……」
「非人道的な手法であることは認めるがね。後の我が同胞たちが、夜以外の世界で生きている日が迎えられれば、それで良かった。お互い妙なものだな零次、人と我らの隔離を唱えておきながら、どこか本心では共生を望んでいたのだから」
「否定はしません。ただ俺は進む方向が貴方と違っただけです。スタートライン、そして途中までは確かに貴方と同じ道を歩んでいました」
「だろうな……我らのルーツは同じでなければならぬものだ。が、分からない――――後一歩だったのだが、なぜ失敗してしまったのだろうか」
もう零次は気づいている。
この哀れな策謀家の正体に。
彼のしたことは到底許されることではない。
零次も、許すことはできないだろう。
「……隊長、貴方の敗因は気づかなかったことです」
それでも、いや……だからこそ、もうこの男を楽にしてやりたかった。
「――――我らが、人であることに」
その言葉に、柿澤は苦笑した。
まるで、子供が自信満々で間違えた答えを言った時の、親のような顔で。
「おかしなことを言う。我らは人とは似て非なる異質な存在。それこそが全ての大前提だったではないか」
「俺もそう思っていました。しかし、俺は冬塚や倉凪を見て、気づいたんです」
答える声は子供のものではない。
はっきりと、対等な位置から零次は柿澤に語りかけている。
「俺たちは確かに異質……しかし、人になろうと思えば、いつでもなれたんです」
――――――。
「――――なるほど、お前は私と正反対の結論に至ったのだな。我らが正常になればいいだけの話、か」
そのことに柿澤が気づかなかったわけではない。
ただ、彼にしてみればそちらの方が困難なものに思えただけだった。
こんなところで、すれ違ってしまった。
それが少しだけ、柿澤には物悲しくもある。
「だがそれはとても難しい。お前はそれを知っている。私もそれを知っている」
「それでも、俺はその道を生きます。俺は、人でありたいから」
「そうだな。やれるだけのことをやってみろ。私の分まで、な」
そう言って、柿澤は零次の頭を乱暴に――撫でた。
不器用で、ごつごつしていてあまり気持ちのいいものではなかったが――――それが、零次にとってはとても懐かしいもののように思えた。
柿澤の出血は激しい。
もはや助かることはないだろう。
だから零次は、昔よく言っていた言葉を柿澤に送った。
「はい、頑張ります。それと、おやすみなさい――――父さん」
柿澤は少しだけハッとしたように目を広げたが……すぐに、嬉しそうに笑って、ありがとう、と言った。
静かにその瞳が閉じる。
零次も静かに瞳を閉じる。
とても長い夜が、ようやく終わる気がした。
校庭に倒れている影の一つが、ゆらりと起き上がる。
そのままおぼつかない足取りで別の影の近くへと歩み寄り――そこで、また倒れた。
「不様だなぁ、ザッハーク。お前は異端であろうとするあまり、なにもかもなくしちまったわけか」
「確かに、これでは道化だ。私は自らの尾を獲物とし、喰らいつくそうとしていたわけか」
「まさに異端だな。異質でも、異常ですらない。孤立し、ありえない道を目指す」
そう言って霧島は力なくカラカラと笑っていた。
もはや顔以外動かせそうにない。
「……我が命を、虚無へ還された者たちへの手向けとするか。復讐者」
「いいや、やめておこう。俺もお前と同じく異端へと落ちかけた身だが、かろうじて踏みとどまれた。お前なんぞを殺して、共に異端へと落ちる趣味はない」
「愚かなことを。長年そのために私を追い続けていたのだろう。それをなぜ、そのような感傷のために打ち捨てる」
あー、とだらしない声を上げて、霧島は苦笑した。
「……お前、さっき"人は死ぬために生きる矛盾存在"と言っていたな。俺は少し違う答えを見つけた」
少しだけ間を空けて、霧島は快活に笑ってみせた。
「人はな、虚無の蛇よ。――――死ぬときに満足でいられるよう、必死に生きるんだ」
そのために、誰かと一緒になったり。
自分と違うものを認め合ったり。
ときには傷ついたり、傷つけたり。
そんなことを繰り返しながら、それでも最後に笑っていたい。
「それが、理由だ」
「……なるほど、貴様どのみちもはや長くはなかったのか」
ザッハークの方は不快そうに顔を歪めた。
「だが、そのために一度は選びかけた異端を捨てると言うのか」
「ああ。それに気づいちまった。俺は異端であるが故の孤独に、きっと耐えられない」
「……弱者め」
「孤高の強者よりは、楽しい弱者を選ぶさ。それにその方が、あっちで優香に会えそうな気もするしな」
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夜は静かに更けていく。
静かに、より静かに。
蛇は冷たい地に伏せながら。
男は天高く、夜空を見上げながら。
それがこの二人の、生き方の違いであった。




