第二十二話「人々の行進」
「世界を変える……!?」
遥はその言葉に、驚きを隠せない。
自分を通して世界を変えると、柿澤源次郎は言う。
が、自分程度の存在がそれだけのことを出来るなどとは、遥には思えなかった。
「世界を変えるなんて、そんなこと私に出来るはずがない」
「いいや、それが出来るのだよ」
柿澤の口調には躊躇いがない。
それだけ自分の考えに確信を持っている、ということなのだろう。
柿澤は先ほど遥に見せた映像――集合無意識の図――を見ながら、遥に問いかける。
「時に君は、世界が何によって構成されていると思うかね?」
「……え?」
唐突な問いかけに、遥は答える術を持たない。
そんなことは今まで考えたこともなかったのだから、当然である。
「そもそも世界とは何なのだろうか。私は、認識し得るものこそが世界だと考えた」
「認識……?」
「そうだ。今そこに在る物を我々は認識し続けている。人、動物、床、壁、建築物、空、海、風景。そうしたものは、我々の認識によって初めて、我々にとっての世界として形創られる。
逆に言うならば、我々の認識能力が変化すれば、世界もまた変わる。自分自身が山を海と認識すれば、それは海となる。空を大地と認識すれば、それは大地となる」
無茶苦茶な話だった。
そんな風に考えている人間がいるならば、それは異質な存在でしかない。
山は確かに山であり、それを海と認識するのは単に誤りではないのか。
だが、考え方によってはこうも言える。
山が山であり、大地が大地であるなどと、己の認識を除いて何が保障してくれるというのだろうか。
この世で確かなものは何一つとして存在しない。
ただ自分の認識能力を通して、人は"自分の世界"をソウゾウしているに過ぎないのではないか。
……が、それならば人それぞれ認識している世界が異なるということになる。
そうした差が明確に現れれば、人は人として統一された存在にはなりえない。
どこかで基本的な認識が繋がっているのだろうか。
(――――まさか)
そこまで思い至り、遥は柿澤が自分を使ってなにをしようとしているのか、おぼろげながら察することが出来た。
世界を変える。
それはつまり、認識を変えるということになる。
遥の推測が正しければ、人は"人としての基本的な認識"はどこかで繋がっている。
認識があまりにもバラバラで、不統一なものであれば、人は一個の種として存在できない。
ならばそれはどこで繋がっているのか。
柿澤が先ほど話したばかりだ。
――――集合無意識。
全ての人が共有する、深層無意識よりもさらに深い精神の極地。
遥の生家である式泉家は、精神の共有についての研究を重ねていたらしい。
その研究の成果が、独自の魔術式として遥やその姉妹の体内に息づいている。
精神の共有を操る能力者とは、自ら集合無意識――源泉の役割を果たすことに他ならない。
「察したようだな」
遥の顔色が青ざめたのを見て、柿澤は無表情で頷いた。
「"器"とはそういう意味だ。私は君の能力を拡張し、君の精神を書き換えることで新たな認識を世界へと浸透させる」
「そ、そんなことが――」
「可能なのだよ。君の姉で大概のことは実験済みだ。式泉家の研究内容は全て把握している。結果、君の精神は崩壊し――認識を通すだけの媒体となる。が、それでも君には器となってもらう。残念ながら式泉家の血筋の者でなければ、魔術式との相性が良くないようだからな」
あくまでも冷徹に、柿澤は恐ろしいことをさらりと言った。
遥の精神が、崩壊する。
確かに世界全体へと認識を広げるということは、相当な数の人間と意識の共有を行わねばならない。
何千何万という桁ですらない。
そんなものに、たった一人の少女の精神が耐え切れるわけがなかった。
心が崩壊するのは、ある意味当たり前のことである。
柿澤にとっては、認識を広めるための器として、魔術式が埋め込まれた遥の身体があれば、後はどうでもいい。
むしろ遥自身の心があるならば、共有される側の人々に違和感を与えてしまう。
柿澤が書き込む新たな認識以外は、遥の中身は空っぽにしておいたほうが、都合が良かった。
「なぜ、そんなことを……」
遥の声には、力が入らない。
自分の心がバラバラに砕ける様を想像するだけで、身体全体に悪寒が走る。
ザッハークに捕まったときや、研究所での実験の前も怖かった。
が、そうしたものとは比較にならない恐怖が、今遥を包み込んでいる。
死ね、と言われているのと同じことだ。
「未来のためだ」
柿澤はそんな遥の様子を見ても眉一つ動かさず、厳かに告げるだけだった。
そこに、遥に対する同情心などは一切見られない。
「未来の、ため……?」
「君がどう感じているかは知らないが、我々異能力者と普通の人間との間には消し難い溝が存在する。迫害し、される関係だ。決して分かり合えない悲劇がそこにある」
その溝を埋める、と柿澤は言った。
柿澤が遥を通して世界へと浸透させる認識は、二つ。
一般の人間の害になるようなことに、能力を一切使わないこと。
能力者に対し、恐れず蔑まずに接すること。
それを新たな"常識"として世界中に広める。
柿澤の目的は、シンプルでいて、なおかつ壮大過ぎるものだった。
世界を変える。
確かに柿澤源次郎は、それを実行可能なところまで持ってきた。
「私はこの目的のために長年動き続けてきた。様々な魔術的要素、異能力者の実態、それらを知るために幾多の同胞も犠牲にした。だがそれもこれで終わりだ」
その目には、暗い炎が宿っている。
別に触れたわけではないのだが遥はなんとなく、この柿澤源次郎は望んでこのようなことを仕出かしたわけではない、と直感した。
言うなれば、やらねばならないという使命感。
誰も手を汚したくないのであれば、自らその任を全うしてみせる。
そうした、負の使命感が隠されているような気がした。
「あなたは」
その言葉を発したとき、先ほどまであった恐怖感は遥の中から綺麗さっぱりと消え去っていた。
「何かを、失くしたのですか」
「――――」
遥の言葉に、柿澤はそれまで決して見せなかった感情らしきものを、わずかながら表した。
口元をきつく結びながら、どこか寂しげな視線を遥に向けた。
「……肯定だ。妻と娘を、何年も前に失った。原因は、我々能力者の存在が人々に受け入れられなかったことにある……本当ならばそうなる前に、この目的を果たしたかったのだがな。
お互いが分かり合える世界を創ると約束し、私は家族から離れた。私と共にあっては、彼女らが辛い重いをすることになるのでな。
が、それは判断を誤ったと言うべきだろう。一緒にいてやればよかったと、今でも後悔している」
ともあれ、柿澤はそのことから決意した。
もう二度と、このような悲劇を繰り返してはならない。
妻との約束は、柿澤が生きるうえで全うすべき第一の目的となった。
どんな手を使ってでも、お互いが分かり合える世界を創り上げる。
柿澤源次郎はこの数年間それだけを考えて生きてきた。
そこに善悪を初めとする道徳概念は一切存在しない。
卑怯だと、非道だと、外道だと呼ばれても、彼は一切気にすることはない。
目的達成とその手段しか、この男の頭の中にはない。
が、一つだけ例外があった。
「――しかし、奇妙なものだ」
「なにが、ですか」
「息子がな。昔、君と同じ質問をした」
それだけだ、と柿澤は言ったきり、口を閉ざした。
その間横にいるザッハークはずっと無言だった。
自然、遥も無言にならざるを得ない。
柿澤の目的そのものは、遥は別に間違っているとは思わなかった。
能力者と普通の人間とが分かり合える世界が来たならば、どれだけいいことだろう。
もはや自分のように研究材料として扱われる能力者もいなくなる。
吉崎のように、能力者の犠牲となる者もいなくなる。
それでも。
それでも遥は、榊原家での日々を忘れることが出来ない。
脳裏にそれがある限り、彼女は諦められない。
(絶対に、死にたくない)
梢の顔を思い浮かべると、ますますその思いが募っていく。
簡単には死ねない。
いや、絶対に死にたくない。
生きたかった。
梢や美緒、榊原といった、初めて得た"家族"。
能力者だったりとか、そうしたものを越えて分かり合えた、あの家族。
彼らと一緒に、遥は生きたかった。
だから諦めない。
最後の最後まで、遥は決して屈すまいと誓った。
梢は一人、夜の公園にいた。
右腕が未だ馴染みきらないので、少し調子を見ていたのである。
それだけではなく、休憩もかねていたのだが。
ここのところ、梢は自分の体調が悪化していると感じていた。
おそらくは精神的なものだろう、と踏んでいる。
それだけになかなか良好な状態にはならなかった。
吉崎の死が、梢の調子までもを下げている。
食事もまともに取らなくなったし、運動もろくにしていない。
このままではしっかりと動くことが出来ないと判断した梢は、幸町のところから出るとすぐさま適当な食べ物を二、三買って公園で食べた。
すぐに吐いた。
(どうも俺は重症らしいな)
公園のトイレから出て、梢はベンチに座り込んでいる。
気分は最悪だった。
幸町の言葉を思い出すと、頭までが痛くなる。
吉崎の死の責任は、自分が背負うべきものだと思っていた。
自分との付き合いがなければ、吉崎は普通に生活することが出来た。
今もきっと生き続けられていただろう。
それを壊したのは、自分に他ならない。
そう思っていた。
が、幸町はそれを吉崎の判断、そしてその結果に過ぎないという。
吉崎の決断を梢が背負うなどとは、無礼ではないか、とも言った。
しかし梢はそうした意見を聞き入れるわけにはいかない。
そうしてしまえば、それは自分に対する言い訳になってしまう。
それは、駄目だ。
自分は普通の人々がいる世界にいるべきではなかった。
零次の言葉の重みが、梢にはようやく理解できたのである。
自分がいなくなれば、吉崎のような被害者はいなくなる。
自分という要因がいなくなれば、美緒や榊原。それに能力は持っているものの人に害を与えそうにもない遥などは、平和に暮らしていけるだろう。
もっとも、けじめはつけなくてはならない。
遥の平穏を脅かす者たちがいる。
異邦隊、それにザッハーク。
その両者を倒さねば、梢は去るに去れない。
だから、早く倒さなければならない。
(そろそろ、行くか)
気分は悪かったが、そうも言っていられない。
まずは赤間カンパニーにでも向かってみるべきだろう。
(本当に異邦隊の連中がいなくなったのかどうか、確認しなけりゃならねぇ)
亨の情報だけでは、確信するに至らない。
念には念を、と梢はそこを目指すことにした。
……その刹那。
激しい駆動恩を響かせながら、梢へと一台の車が突っ込んできた。
「ちっ、敵さんかよ!?」
咄嗟に戦闘態勢に入ろうとした梢の目に、見覚えのある人の姿が飛び込んできた。
車を運転する男。そして、後部座席に座っている男――。
車は梢の寸前で止まった。
そして、中からずいっと出てきた影が二つ。
「よう、探したぞ……この家出小僧」
榊原と、斎藤だった。
「な」
「なんでここに、なんて古典的な台詞吐くなよ。お前を探してたんだ」
榊原は苛立たしげに梢の方を睨みすえた。
今の梢にはその視線に真っ向から立ち向かうだけの気力がない。
つい視線を逸らした。
「どうした、だんまりか? こっちとしては言いたいことが腐るほどあるんだがな」
「……」
梢は目を逸らしたまま動かない。
榊原のことを無視してこの場から離脱しようと思っているのだが、なかなか身体が動かせずにいる。
そんな梢を見て、榊原はますます苛立たしげな表情になった。
ちらりと梢の右腕に視線を向ける。
「右腕、取り付けたのか」
「ああ」
「戦うつもりは、まだあるみたいだな」
ふぅ、と一息ついて、なるべく平常心を保つように心がけながら、榊原は告げた。
「遥がザッハークに捕らえられた」
「なっ!?」
突然の言葉に、梢は動かせずにいたはずの身体を一気に榊原の前まで持ってくると、凄まじい形相で問う。
「捕まったってどういうことだよ、おい。いつだ、なんで!」
「てめぇが勝手に姿消してる間にだよ! 一緒にいた亨も重傷、美緒はどうにか無事だったが一歩間違えば殺されてた!」
勢いだけで問いかけてくる梢に、堪忍袋の緒が切れたのだろう。
榊原は梢の倍以上はあるであろう怒声を鳴り響かせた。
あまりの剣幕に、梢は茫然自失となって、その場に立ち尽くしてしまう。
「だってのにてめぇはこんなところで何腑抜けてやがる!」
「っ……どこだ!」
遥はどこにいる、と梢は尋ねた。
が、無論そんなものは榊原も知らない。
「今は直人や久坂が居所を探っているところだ」
「くっ!」
梢はたまらず駆け出そうとする。
どこへ、というわけではない。
ただこの場に居続けることが、様々な意味で我慢できなかった。
「待て、梢」
そんな梢を榊原は止めた。
「遥からお前に伝言があったそうだ」
「なに?」
榊原の言葉に、梢は眉をしかめる。
思わず脳裏に浮かんだのは、もう自分のことは放っておいてくれて構わない、と言う遥の姿。
梢が知っている遥という少女が、一番選びそうな選択肢だった。
しかし、榊原の言葉は梢の予想とは違った。
「遥は、ずっとお前を待っているそうだ。昔も、今もな」
「――昔も、今も?」
「言葉の意味は知らん。だがそれが遥からの伝言だ。それと俺から一言だ」
吸わない煙草を手で遊ばせながら、榊原は梢に言った。
「お前がいなけりゃ、榊原家の日常は始まらねぇんだ。それだけは、忘れるなよ」
「僕からも」
と、それまで黙っていた斎藤が手を挙げた。
梢は恐る恐るといった調子で、斎藤のほうを見る。
斎藤は静かに、梢を見据えた。
「倉凪、僕はお前の背負っているものは知らないし、おそらく理解はできないだろう。そして僕はお前を許すことができそうにもない」
「……そうか」
「ああ。だから必ず帰って来い。帰って来たとき、藤田と共にきっちり絞ってやる……友人として、な」
「――――」
斎藤の最後の言葉に、梢は目を大きく見開いた。
そして勢いよく、がっくりとうなだれる。
「ったく、どいつもこいつも人の気も知らないで勝手なことばっかほざきやがって」
泣き笑いをしているようでもあり、溜息をついているようでもあり、その表情は隠れていてよく読み取れない。
きっと梢自身も自分がどんな表情をしているのかは、分かっていない。
「……ちくしょうが」
だが、その声は震えていた。
梢はそれ以上は何も言わないまま、姿を消した。
残された榊原と斎藤は、梢が今までいた場所をじっと見つめている。
「あれで、通じたでしょうかね」
「さぁな。最後に決めるのはあいつ自身だ。そこまでは分からん」
淡々と告げながら、榊原は黙って煙草を踏みつけた。
「……」
赤間カンパニービル前。
久坂零次と霧島直人は闇に紛れて、そこにいた。
「結局ここか。他のポイントは全てダミーだったしな」
霧島はいくつものポイントが記された地図をくしゃりと握りつぶした。
そして傍らにいる零次にもう一度確認する。
「覚悟はいいか、零次。この先にはザッハークと柿澤がいる。もしかすると異邦隊員とも争うことになるかもしれんぜ」
霧島の言葉は、二重の意味を持っている。
敵戦力が強大であること。
そして、その相手がかつての同胞たちである可能性もある、ということ。
零次は二重の覚悟をしなければならなかった。
かつての零次ならば、ここで躊躇っただろう。
と言うよりも、異邦隊を離れ、自分一人の足で歩き始める、などということはしなかったに違いない。
それでも今の零次には、支えとなるものがある。
人はたったそれだけのことで、何倍にも強くなれる可能性を秘めている。
「大丈夫だ」
躊躇うことなく頷く零次を見て、霧島はポン、と彼の肩に手を置いた。
「涼子が帰り待ってるんだからな、お前、やばくなったら逃げるんだぞ」
「お前こそな」
霧島の忠告に、零次は皮肉げな笑みを浮かべて返した。
その表情を見て、霧島はククッ、と愉快そうに笑う。
「なんか、久々だな」
「なにがだ」
「お前のそういう表情。最近はうじうじ悩んでばっかだったからな。ああ、お前はそのくらいが丁度いいよ」
ははは、と笑って霧島は流した。
零次としては彼にはい、と言わせることが出来なかったのが気になったが、それを今更追求する雰囲気でもない。
視線をカンパニーへと戻す。
「急ごうぜ、梢のやつが万一先に突入してたらヤバイ」
「ああ。では、突入開始だ――!」
決戦が今、始まろうとしている。
役者はまだ、揃わない。
「兄さん……っ」
自らの前に立ちはだかる黒き巨漢。
その姿は間違いなく、矢崎刃の姿だった。
おかしい。
刃は今、幸町の病院で寝かされているはずだった。
それがなぜこんなところにいるのか。
そして、なぜ自分の前に立ちはだかるのか。
身体が動かせない。
亨は、矢崎亨という人間はあれには逆らえない。
それは壁。
常に亨を世界から守り続けてきた壁は、今となっては亨の行く手を阻む障害となった。
「そんな、嘘だ」
そして亨は、彼を越えることなど出来ない。
兄には決して敵わないという、思い込みを超えた実感が亨に襲い掛かる。
「……」
黒き巨漢は黙して語らず、ただ構えた。
矢崎刃はいつもそうだった。
口で語ることをせず、常に態度で示し続けてきた。
「兄さんは、やる気なんですか」
本当に。
本当に、兄は自分を倒そうというのだろうか。
「なら、僕は間違ってたんですか」
その声に答えることはなく。
巨大な拳が、亨目掛けて放たれる。
「……もしそうだと言うなら」
拳が眼前に迫る。
だと言うのに、亨は手を下げた。
無防備な姿勢のまま、まるで攻撃を受け入れるかのように。
「僕は」
そこまで言って、鈍い音が響いた。
拳が、静止する。
「――――例え貴方でも、倒さないといけません」
黄金の盾でその拳を止め、亨は静かに宣言した。
「ええ、僕はこれでも自分で歩き始めました。まだ全然駄目ですけど、もう歩き始めたんですから」
自らの心臓に手を当てる。
心を落ち着かせるように。
そして、弱い心を強くするように。
(大丈夫。もう迷わない)
思い浮かぶのは、初めて梢たちと出会い、遊んだ日のこと。
終始笑っていたのは、美緒や藤田。
調子を合わせて、なんだかんだと楽しんでいたのは涼子や斎藤。
一歩引いたところで、嬉しそうにその光景を眺めていた梢と遥。
そして、自分を導き隣ではしゃいでいた吉崎。
あのとき、亨はもう歩き出していたのかもしれない。
他人に流された結果だとしても。
偶然による一歩だとしても。
そのとき、亨は刃から離れて、新しい道を見つけたのだ。
あの光景を見ると心躍るような気分になった。
それはきっと、刃すら関与していない、本物の意思。
あの中に入りたいと思った。
けれど、失ってしまった。
守ることが出来なかった。
泣いていた美緒。
どこか壊れてしまった梢。
そして、二度と会えないところに行った吉崎。
もうそんな光景は見たくない。
彼が見たいのは、入りたかったのはそんな光景ではなかった。
「だから」
今彼は戦っている。
これ以上失わないようにするための戦いを。
「兄さんの壁だって――――大きすぎたその背中だって」
子供の頃に見た、兄の大きな背中。
絶対に敵わない、乗り越えられないと思っていた背中。
例えそれが相手であろうと、一歩も引くことなんかできやしないのだから――――!
「――――越えてみせます!」
言葉と同時に右手を掲げる。
「銀の剣、鉄の剣」
掲げた右手に銀の剣。
下げた左手に鉄の剣。
そこに、ありったけの魔力を流し込んで強化する。
「……戦闘準備完了。いきます」
一歩。
今までは踏み出せなかった兄への一歩を、踏み出す。
手が動く。
この相手を越えなければ、もう先にも後にも行くことが出来ない。
ならば行くしかない。
振り下ろされる右手の軌跡が黒き刃に到達する。
が、相手は避けることもせずにそれを受け止めた。
効いていない。
「斬撃では無意味ですか……!」
ならば、と左手の剣を刃目掛けて突き出す。
それはしなやかで、無駄のない動きだった。
斬るという方法が通じないのであれば、突く。
しかし相手の方も黙ってはいない。
突き出される鉄の剣を掴み止め、瞬く間にへし折る。
剣に流し込んでいた魔力が身に逆流してくるのを感じて、亨は呻いた。
(攻撃が、通じない)
それは刃と戦った者のほとんどが抱く感想だろう。
刃の頑強な肉体は、衝撃操作という能力を除いても高い防御能力を持つ。
そのことを一番よく知っているのは、他ならぬ亨だった。
「それでもっ」
黄金を手元に呼び寄せ、亨は一つの武器へと変化させた。
――黄金の鞘。そして、銀の刀。
光り輝く鞘に刀を収め、亨は構えた。
居合いの構え。
亨は多少の心得がある程度だったが、今の相手に効く唯一のものだろう。
亨の異様な気配を察知したのか、漆黒の巨漢は動きを止めた。
お互い容易に動かない。
亨は相手が飛び込んできたときこそ、と思っている。
相手の方も、自らの身が危ういということを察したのか動こうとしない。
膠着状態が続いた。
夜が静けさを増していく。
そんな中、亨は口を開いた。
「兄さん」
視線は真っ直ぐに相手へと向けられている。
「倒させてもらいます。せめて、僕の中だけでも」
返事はない。
あるはずがない。
それは音を持たぬ存在。
なにより、それは矢崎刃ではないのだから――。
影が迫る。
亨は腰を深く落とし、手を刀にかけた。
巨大な拳が再び襲い掛かる。
だがそれはもう亨にとって、恐れるべきものではないのだから。
カッ!
一瞬、闇の中に光が放たれた。
もっともそれは余韻すら残さず、闇の中へと溶け込んでいく。
亨の刀は、陰を的確に切り裂いていた。
「貴方の負けですよ――藤村」
「……その、ようだな」
その能力と同じく、今まで音を放たなかった相手。
藤村亮介は、道路際の塀に寄りかかりながら答えた。
久々に見る藤村は、顔色が優れず今にも死にそうだった。
亨はそのことに軽い驚きを覚えつつ、彼に駆け寄った。
もはや藤村が亨に襲い掛かることもないだろう。
彼にはそれだけの力が残されているようには見えなかった。
「どうしたんですか、藤村。顔色が悪いようですが……」
「はは、そんなに悪いかな。僕にはもう見えないからなぁ」
苦笑する藤村の言葉に、亨は引っかかるものを覚えた。
……よく見ると、藤村の目には光が宿っていない。
その瞳は、さながら今の夜のように、先ほどの刃の虚像のように暗かった。
「貴方、目を……」
「ああ。柿澤隊長に能力強化をされたときの影響だよ。もう見えない」
「っ!」
亨は息を呑んだ。
柿澤が今回の件の黒幕だということは、先ほど聞かされた。
だが改めてその被害者とでも言うべき男を前にすると、許しがたいものを覚える。
「映像を実体化させてたさっきのアレは、強化した結果ですか。しかも直接僕に触れているわけでもないのに、僕の心から出していたようですし」
「そうだけど、よく分かったね」
「実際に兄さんと戦ったら僕は確実に負けるでしょうからね。僕が勝てたのは、あれが兄さんではないと気づいたのと、絶対に負けられないという想いがあったからです」
「……そうか。強くなったんだなぁ、亨は」
嬉しそうに、屈託なく笑う。
そして静かに言った。
「柿澤隊長を責めないでくれ」
亨の様子が気配として伝わったのだろう。
彼は笑いながら首を振った。
「このことはね、俺が望んだことでもあるんだ」
言いながらも、藤村は激しく咳き込んだ。
慌てて抑えた彼の手のひらには、べったりと血がついている。
「なぜ、貴方はそこまでして」
「亨で例えるなら、俺は刃についていく道を選んだんだよ。亨は自分一人で歩き始める道を選んだみたいだけどね」
「理解できません。なぜそこまでして貴方は隊長に忠誠を誓うのですか」
「……隊長の計画。知ってるか?」
「いえ。ザッハークと組んで何かをしようとしているということしか」
「あの人は、世界から差別をなくそうとしているんだ」
どきりとした。
それでは、自分たちと目指すところが同じなのではないだろうか。
「でも、手段を間違えてるんだよ。あの人の計画だと、女の子が一人死ぬことになる。いや、今までにも何人もの犠牲者を出している。間違ってるんだ、あの人は」
「それだったらなんで? 間違ってる人についていく道理なんてないじゃないですか」
「かもね。でも今の俺があるのは全部隊長のおかげだし……一人くらい、最後までいてもいいんじゃないか、って思った」
血を吐きながら、暗き瞳で亨を見据えて藤村は必死に語る。
もう助からないのは眼に見えていた。
わずかな命。
それを削ってまで何かを伝えようとする藤村の話を、亨は真面目に聞き入っている。
「零次、霧島、刃、赤根。そして亨……みんな異邦隊からいなくなった。それは、当然だろう」
目的と手段の矛盾。
裏にある、真の目的。
そして、管理され尽くした……まるで猛獣のように扱われる日々。
どれをとっても、無理があったのだ。
平和を作るために、平穏のために法というものは存在する。
けれど、普通の人間社会においてもそれを破る者がいる。
満足できない。
異邦隊の法と方針は、厳しすぎた。
受け入れられる者は結局いなかったのだ。
社会の中にありながら、自分たちの殻に閉じ篭りきることなどできない。
ならばせめて外へ一歩踏み出してみるべきだった。
結局。
殻は空となり。
全ては過ぎ去ってしまった。
「あの人はね、それを承知で動いていたんだ。ずっと」
「……」
「一人になると。独りになると、分かっていたんだ」
だから。
「一人ぐらい、最後まで残ってたかったんだ……せめてもの、恩返しで」
「……馬鹿ですか、貴方は」
「ああ。きっとかなり馬鹿だ。この様を見れば、否応なく分かっちゃうよ」
はは、と笑う藤村。
だがそれは唇を曲げるだけに留まり。
もう、声は出なかった。
もう、動くことはなかった。
「……馬鹿ですよ、藤村」
がん、と地面を殴りつけて亨は呻き声を発する。
こんな光景を、もう見たくないから戦っているのに。
なぜ、こうなってしまうのだろう。
それでも、亨はもう止まるつもりはなかった。
「僕は、貴方の分まで良い思いをしてやります。そのときになって後悔しても、遅いですよ」
乾いた笑みを浮かべながら。
「でも、僕も無茶したから……同じくらい、馬鹿ですね」
亨はその場に倒れた。
限界が来ていた。
どうやら亨はいきなり上り坂から歩き始めることになってしまったようだ。
だったら、ここで少しくらい休んでも罰は当たらないだろう。
また歩き始めるために、休むのだから。
「誰もいないな」
赤間カンパニーの会議室を覗いて零次は首を捻った。
強化能力者の隊員はもはや藤村くらいしか残っていないだろうが、一般の隊員はまだいるだろうと思っていたのだ。
一般の隊員と言っても、身体能力を除けば零次たちと大差はない。
油断していればいくらでも敗北の危険性はあった。
「他所の支部に移されたんじゃねぇか」
「なぜそのような真似を?」
「邪魔だったんだろ、多分」
肩を竦めながら霧島は視線をあちこちへと向けている。
霧島の脳裏には最悪、一般隊員は全員柿澤によって殺されているかもしれないという考えがあった。
が、それを零次にいちいち言ったりはしない。
「ま、いないならいないに越したことはない。隊長とザッハークさえ倒せば終わるんだからな」
「そうだな」
言いながら、零次は会議室へと足を運ぶ。
「待て」
それを霧島が止めた。
「どうした?」
「いるぞ」
と、霧島は会議室の奥――――柿澤の私室へと繋がる扉を睨みつけながら言った。
同時に、扉が音もなく開く。
その中にいたのは――――。
「久々だな、復讐者に久坂零次」
「……ザッハーク!」
姿を見るだけで相手におぞましさを感じさせる男。
絶対に許すことの出来ない元凶の片翼が、ここにいる。
ザッハークは不気味な笑みを浮かべながら、スッと身を引いた。
まるで"通れ"とでも言いたげである。
「久坂零次は通れ。柿澤が待っているぞ」
「……っ」
拳を握る力が自然と強くなった。
霧島から聞かされてはいたが、ザッハークの口から柿澤の名が出ると改めて実感させられる。
柿澤が、黒幕なのだと。
「なにやってんだ。行ってこいよ」
霧島は笑って零次を促した。
だが零次はなかなか進めない。
零次と霧島、そして梢が組んでも、ザッハークには敵わなかった。
それを、今度は霧島一人でザッハークの相手をすることになる。
置いていっていいのだろうか。
そうした疑問が脳裏をよぎる。
だが霧島は笑って言った。
「吉崎が一撃食らわせたんだ。兄貴分として、それを越えてみせなきゃ格好悪い」
あくまでも、いつもと同じ軽口。
下手に殺気立っているときの霧島よりも、こちらの方が何倍も彼らしく、また頼もしかった。
「なら、頑張って名誉挽回することだ」
だから、零次はもう振り返ることすらせずに真っ直ぐに進む。
目指す先は暗闇に包まれている。
あの闇の中に、柿澤源次郎がいるのだ。
「で、俺たちはどうするよ」
おどけた様子でザッハークと対峙する。
ザッハークの方は霧島とは違い、粘着質な笑みを浮かべていた。
「決まっておろう。復讐者のすることはただ一つではないか」
「――――違いない」
そう答える霧島の顔には、あくまでも笑みが浮かんでいた。




