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異法人の夜-Foreigners night-/第一部  作者: 夕月日暮
第三章「新たな日々へ」
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第十八話「目覚める者、眠りにつく者」

「久坂、零次……」

 自分の背後に立っていた男を見て、梢は思わず声を上げた。

 ある程度可能性を考慮してはいたが、既に目覚めているとは思っていなかった。

 そんな梢を、零次は怪訝そうに見下ろした。

「何を驚いている。驚くべきは俺の方だろう」

 梢は、すぐには言葉の意味が分からなかった。

 だが冷静になって考えてみれば、零次にとっては梢との戦いの最中意識を失って以来の目覚めになる。

 目を覚ましてみれば、見慣れぬ場所で、しかもなにやら戦いが始まっている。

 戦っているのが、自分と戦っていたはずの倉凪梢と、同僚だったはずの霧島直人。

 零次にとっては本来、混乱してもおかしくはない状況である。

 だが零次は冷静だった。

 梢と出会って以来、一番落ち着いているかもしれない。

 妙な夢を見たせいか、その心は静かに現実を直視していた。

 ここがどこかは分からない。

 眼前では霧島直人が、見覚えのある男と激闘を繰り広げている。

 おそらくは、アレがザッハークなのだろう。

 そしてザッハークにやられたのか、倉凪梢が自分の目の前まで吹き飛ばされてきている。

 何をすべきか。

 そんなことは決まっている。

「手を貸そう」

「は?」

 梢は心底訳が分からない、という風に零次を見上げた。

 まるで零次を信用していない。寧ろ警戒している。

 梢にしてはここまで露骨に、相手に不審の視線を投げかけることは珍しい。

 相性が悪いのだろう、と二人は同時に思った。

「何のつもりだ」

「別に、考えあってのことではない。霧島とはザッハークの件では同盟を結んでいたし……」

 と、梢に不快そうな視線を投げかけながら、

「優先順位の差だ。俺は貴様が気に入らん。状況次第ではお前を戦う相手と定めるだろう……が、ザッハークは許し難き悪人だ。どちらを優先させるかなどは明白なことだろう」

「言ってろ」

 梢は梢で、零次に視線を向けることもせずに立ち上がった。

 目前の戦いに意識を集中させる。

 飛び出す隙をうかがっている。

「ボロボロだな、無理はしないほうがいいんじゃないのか?」

「うっせぇよ」

 と、梢が言ったときには、零次は既に梢の脇を通り抜けて飛び出していく。

「あ、待てこのっ!」

 それにつられる形で、梢は隙をうかがうことすら忘れ、無我夢中で飛び出していった。


 世界が揺れる。

 幾多もの衝撃は、やがて正常な感覚を奪っていく。

 激闘とは即ち、そういうモノだ。

「オオオオオオォォォォォォォォォォッ!」

 止まらない叫びは慟哭にも似ている。

 腹の内に溜まって溜まって、吐き出さねば自分を保つことが出来ない。

 霧島の叫びはそういうモノだった。

「いい加減に、死ね」

 吐き出される呪詛は、相手のもの。

 揺れ動く世界の中で、ただそれだけが不動の存在として映る。

 当たり前だ。

 霧島直人は、既に相手――ザッハークしか見ていない。

 ザッハークの手から、薄紫の糸が射出される。

 それらは素早く霧島の四肢に絡みつき、その動きを封じた。

 そう、ほんの一瞬だけ。

「しゃらくせぇっ!」

 腰を軸に、上半身と下半身を勢いよく振り回す。

 即座にその糸は断ち切られて、果てる。

 ザッハークは汗一つかいていない。

 しかしその顔つきは決して平素のものではない。

 不快感による変化がある。

 もっともそんなものでは、霧島は満足できない。

「てめぇに死を」

「貴様に死を」

 同時に紡がれた呪詛が力を発揮したのか。

 両者の間に、凄まじい衝撃が走る。

 ばち、と空間に溜められていた魔力が行き場を失い放出する。

 ザッハークの用いる魔力も異常だったが、霧島はそれをことごとく無効化している。

 そこで両者の均衡は破られた。

「――解放、第一段階」

「っ!」

 突如割り込んできた謎の声に、双方の意識が僅かに逸れる。

 声は自らが作り出したその隙を、逃しはしない。

かいなッ!」

 刹那、漆黒の豪腕がザッハークの周囲に張られている結界に直撃した。

 その破壊力、尋常なものではなく、結界は音を立てて破壊された。

「ぬっ!?」

 ザッハークは舌打ちをして、飛びのいた。

 あまりにも素早い霧島との戦闘では、いちいち強力な結界を用意することができない。

 故に魔術師十人分程度の魔力を用いた結界を使っていたのだが……。

「まさか、力押しで破壊されるとは思わなんだぞ――久坂零次!」

「俺の名を知っていたか。ザッハーク」

 黒き腕をヒュンヒュンと振り回しながら、零次は地に降り立つ。

 隣にいた霧島とは視線を交わしただけだが、それで十分だったのか、すぐに視線をザッハークの方へと戻してきた。

 さらに遅れて倉凪梢も着地し、場は三対一の構図になった。

 それでもなお、ザッハークは顔色一つ変えない。

 自身の勝利が揺るぎないものだと、この期に及んで確信している。

「まだ余裕そうだな」

 皮肉を込めたつもりで、零次が告げる。

 ザッハークは口元を歪めながら、高らかに笑い出した。

「余裕も何もあるものか。貴様らなぞ、幾人集まろうと我が敵ではない」

「ちっ……確かに、この状況じゃあな」

 忌々しげに霧島が吐き捨てる。

 ザッハークを一番よく知っているであろう彼の反応に、梢と零次は警戒した。

「この状況じゃあ、ってどういうことだ?」

 梢が当然の疑問を発する。

 先ほどから見ている限りでは、霧島はザッハークと互角以上に渡り合っているように見えた。

 なんら問題があるようには見えない。

 だが、霧島は悔しそうな表情で言った。

「奴は持久力のケタが違う。俺たち三人相手ぐらいなら、何十日でも戦ってられるんだよ」

「……そういや妙だと思ってたんだが、あいつのあの魔力はなんなんだ?」

「取ってるだけさ、他からな」

 その言葉に梢は眉をひそめた。

 魔力というのは個々人の質が現れる。

 自分と合わない質の魔力は取り込んだとしても、すぐに吐き出してしまうものなのだ。

 故に他の人間の魔力を吸収、略奪するなどの魔術は現時点では存在していない。

「無理だろ、そんなの」

「あいつにはそれが可能だ。"魔力の変質"こそが奴の能力なんだからな」

 霧島の言葉は、梢の疑問を全て晴らした。

 魔力をありとあらゆるものへと変える。

 その能力ならば、無数の光弾も、魔槍も、針も、結界も、糸も。全てが、再現可能だ。

 空中浮遊に関しても、なにか仕掛けをしたに違いない。

「……なるほど。兄貴の結界も破ったんじゃなくて、変化させられたのか」

「ああ、だから一気に塗り換わっちまったんだろう」

「――駄論はそこまでだ」

 ザッハークの言葉により会話は断ち切られた。

 自分の能力を公表されてもなお、動揺を見せない。

 知ったところで、今の三人には対策がないということを知っているからだ。

「私は自分の魔力を、使った後も残さずに回収している。即ち、この戦い方を維持する限り私は永遠に全力で戦うことができる」

「それがどうしたと言うのだ」

 会話に割り込むように、ザッハークの前に零次が現れた。

 霧島には及ばないものの、相当なスピード。

 零次は双腕を以ってザッハークの顔を叩き潰さんと、一気に迫る。

 が、ザッハークは避けもせずに零次の攻撃を受け止めた。

 結界で防いだのである。

「先ほどのものよりも威力が落ちているようだな、久坂よ」

 告げて、ザッハークは右手を零次の腹に触れた。

「吹き飛べ」

 その言葉がトリガーとなる。

 零次の身体は、物凄い勢いで吹き飛ばされる。

「零次っ!」

 駆け寄ろうとした霧島の背後から、声が聞こえた。

「そんな暇は与えんぞ、復讐者」

「っ!」

 霧島は咄嗟に振り向く。

 そこには全方位をザッハークに囲まれた、梢の姿があった。

 正確には、それらはザッハークの影だった。

 形だけの影が次々と現れ、梢の逃げ場をどんどん奪っていく。

 本体のザッハークはいつの間にか姿を消し、どこにいるのか皆目検討もつかない。

 ただ、声だけが聞こえる。

「まずは、こいつから始末しよう」

 ――――梢目掛けて、無数の影が迫り来る。


 辿り着いたのは、榊原邸に勝るとも劣らぬ広大な屋敷だった。

 なんでも榊原家と同じく、長い歴史を持つ良家らしい。

 特に魔術全般に秀でており、屋敷には五重もの結界が張られている。

 表には「飛鳥井」と書かれていた。

 日本の魔術師全体の中でも古参の部類に入るらしく、ここはその分家の一つらしかった。

「ここなら、あの野郎も簡単には来れない」

 榊原は邸内に遥や美緒を入れながら、そう言った。

 どうも榊原はザッハークと面識があるようだったが、あまりに機嫌が悪そうなので誰も追及しない。

 吉崎にはそれよりも危惧していることがあった。

 あれから大分経つというのに、梢が来る気配がまるでないのである。

 本来梢の役割は、皆が逃げるまでの足止めのはずだった。

 少なくともここにいる五人は、そう思っていたからこそ梢にあの場を任せた。

 いざとなれば、ちゃんと逃げる。

 吉崎もそう思っていたのだが、時間が経つに連れて不安が大きくなっていった。

 他の皆も心配なのだろう。

 遥などは、

「私、様子を見に……」

 などと言い出そうとしたので、吉崎らが必死になって止めたほどである。

 が、吉崎にしても様子を見に行きたいという気持ちは同じだった。

 だから――

「どこに行く」

 屋敷の門から出ようとする吉崎の背後から、榊原が声をかけた。

 吉崎は気まずそうに振り返る。

「ちょっと散歩に」

「だったらバイクはいらねぇだろ」

 吉崎が押しているバイクを一瞥し、榊原は嘆息した。

「遥といい、お前といい……止めておけ」

「はは、こりゃまいったな」

 困ったように頭を掻きながら、吉崎はその場に立ち尽くす。

 このまま行かせてもらえそうにはなかった。

「俺は、行かなきゃいけないんすけど」

「誰が決めた」

「俺」

「勝手な話だ」

 榊原の鋭い視線が、容赦なく吉崎に突き刺さる。

 少したじろぎながらも、吉崎は目を逸らさず榊原を睨み返した。

「勝手なのは重々承知。それでも相棒がヤバイかもしれないってときに、黙って見てられるほど俺は人間出来てないんで」

「……」

 榊原は黙った。

 言うべき言葉が見つからない。

 本当は榊原も吉崎と同じなのである。

 門のところにやって来たのも、案外吉崎と同じ理由なのかもしれない。

 そう思うと、吉崎はなおさら榊原を説得しなければ、と思う。

「師匠、あいつって無茶ばっかしするっすよね」

「ああ」

 突然話題を変えた吉崎に、戸惑うことなく榊原は答えた。

 吉崎の言おうとしていることが、分かっているのだろう。

「なんでだと思います?」

「無茶できるだけの力がある。あるからこそ、逆にしなけりゃならんと気負っちまうんだろ」

「ええ、あいつは余分に持っちまった力を皆のために使おうとしてる。皆を助けようとしてる。結果として、あいつは当たり前のものを失くしちまった」

 それはなんなのか。

 仮初とは言え家族がいる。友人もいる。

 一見、梢は異邦隊の隊員たちに比べて、幸せな環境にある。

 だが、異邦隊員ですら持っているものを、梢は持っていない。

 自分自身への思い。

 それが、梢には決定的に欠けている。

 日常生活の中では目立たないが、梢はやはりどこかで孤独だった。

 自分自身を化け物のように見ている。

「ま、俺は人類の規格外だしな――」

 零次はそんな自分を普通の人間から離そうとした。

 梢は、必死に"善い化け物"になろうと努めてきた。

 そうすることで、かろうじて梢は家族や友人を得ている。

「そうか……やっぱりそうだよな。一緒にいちゃいけないなんてことねぇよな」

 梢は、どこかで自分を化け物だと思っている。

 だからか、いつ死んでも構わないという思いを無意識に持っていた。

「俺が足止めしとく。だから、お前はさっさと逃げろ」

 人を守るために、化け物たる自分が死のう。

 化け物なんだから、自分が死ぬことに問題はない。

 その代わり、生きている間はせめて、同じ時を過ごしたい――。

「約束する。絶対にくたばったりしないで、ちゃんとこの家に戻ってくる」

 迫害された幼年期が、そういった梢の危うい一面を作り出した。

 加えて、いつかの少女の出来事もある。

 梢はますます、自己を追い立てるようになった。

「――――そんなの、認めたくないんすよ」

 語り終えて、吉崎はそう言った。

「あいつはそうやって、誰かを助けてばっかで、自分のことを助けようとしない。だから――俺ぐらいは、あいつを助けてやりたいと、そう……思ったんです」

 そのまま吉崎は榊原も返事も待たずにバイクに乗り込んだ。

 もはやどんな制止も聞くつもりはなかった。

「――吉崎」

「なんすか」

「持ってけ」

 ポイ、と榊原はある物を投げつけた。

 振り向き様に、吉崎はそれをキャッチする。

 それは、奇妙な筒だった。

 発炎筒のような形をしているが、明らかに異質のもの。

「あっちに行って、もしヤバそうだったらそいつを使え」

「なんすか、コレ」

「この家の主人は魔術道具の作り手でな。何か適当なのに思い切りぶつけりゃ起動する」

「……ありがとうございます」

 笑ってそれをポケットにねじ込み、吉崎はバイクを発進させた。

 見送る榊原の表情は、どこか憂鬱だった。

「馬鹿が。あいつのために命投げ捨てる覚悟なんて、俺たちにだってある」


 霧島は、信じられないものを見た。

 目の奥が熱い。

 心臓の鼓動は早まり、心は焼き切れるようだった。

「――梢」

 その光景は、あまりに凄惨なものだった。

 こんなものは、見たくなかったのだろう。

 からからに渇ききった唇から、息が漏れる。

「っ……あ……」

 血まみれになりながら、梢も呻いた。

 苦悶の声は、無音となった戦場に響き渡る。

「あ、あぁ……あ、あ」

 意志ではなく、痛みゆえに身体から発せられるだけのもの。

 そこに理性はなく、本能によってのた打ち回る、一人の男がいるだけだった。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッ!!」

 欠けている。

 あるべきものが、梢にはない。

「……なかなかに、美味であった」

 満ち足りた声が、苦悶の声に紛れて空に放たれた。

 喜悦の声。

 それはあまりに小さい声であったが、その場にいた誰もが聞き逃さなかった。

 影はもうない。

 ――――梢の右腕を食い千切り、跡形もなく消え去った。


 ずきりと、胸が痛む。

 なにか嫌な予感がした。

 治まらない鼓動を胸に抱えながら、吉崎はバイクで疾走する。

「着いたとき、死んでたりしたら一生許さねぇからな」

 力を込めた言葉を吐き出す。

「あ、こら、待て!」

 すれ違い様に警官に呼び止められた。

 当然だ。

 制限など無視し、バイクが壊れても構わないという程の速度で疾走しているのだ。

 もちろん、警官の呼び声など吉崎にとってはどうというほどのものではない。

 一大事なのだ。

 そんなことに、いちいち構っているほど暇ではない。

「早く、もっと早くっ」

 速度は下がることなく、むしろどんどん加速していく。

 もう止まれない。

 止まるつもりもない。

 吉崎は、無鉄砲な相棒を助けにいく。


 小さなプールが出来そうな気さえした。

 錆の匂い、毒々しい朱色。

 それを作り出しているのが自分なのだと、梢は理解している。

「……っ、ぐっ」

 ない。

 感覚はある。

 拳を握っているという感覚はまだそこに残留している。

 しかし、見下ろせば分かる。

 今まであったものがない。

 戦うときに武器となった腕が。

 料理を作るときに振るった腕が。

 たまに人の頭をゴシゴシ撫でたりしていた腕が、もうどこにもない。

 屋根の上からに、影が一つ。

「なかなか良い味だったな。魔力を凝縮させていたからか」

 満足感に溢れる声を聞いて、動いたものがいた。

「貴様ァァァッ!」

 ザッハークに吹き飛ばされていた、久坂零次。

 その零次が、怒りの形相でザッハークへと肉薄する。

「ハ」

 ザッハークは嘲笑すると同時に、右腕を零次に突き出した。

 いつのまにか、その腕には槍が握られていた。

「突き殺せ」

 零次が眼前に迫ったと同時に、槍が伸びる。

 回避出来ない一撃。

 零次はそれを、敢えて受けた。

「ぬっ」

 相手の思いがけない行動に、ザッハークは身を一歩引く。

 肩口を突き抜かれた零次は、無事だったもう片方の腕でザッハークを肩を掴む。

 そしてそのまま、

「ぐっ!」

 ――屋根の下に叩き落した。

 予想外の行動ゆえか、結界すら張る暇もなかった。

 この戦いではじめて、ザッハークがその身にダメージを受けたのである。

「なかなかやりおるな、久坂」

 が、それでも致命傷には程遠い。

 三対一でありながら、戦力の差はなお歴然としていた。

「だが不可解だな。倉凪の小僧がやられたのがそんなに悔しいのか? それはあるまい、貴様と奴とは敵対関係にあると聞いていた」

「苦しんでいる人間を前に、嘲笑を浮かべる輩は許せん。それだけのことだ」

 零次は屋根の上から飛び降り、梢の方へと視線を向けた。

 霧島が治療したらしく、血は止まっている。

 梢はどうにか立ち上がってはいたが、息は荒く、顔色は悪い。

 どうにか壁に寄りかかっていられるかどうか、という程度のものだった。

 出血量を考えれば、当然と言える。

 まだ立っていられるということの方が、おかしいのだ。

「――ザッハーク」

 梢の隣にいる霧島が、震える声でその名を告げた。

 恐怖ではなく、怒りに震える声。

 零次は霧島のこのような声を、かつて聞いたことがない。

「お前は、優香だけでなく、梢まで……!」

 下げていた顔を上げ、ザッハークに向けた視線は殺意に満ち溢れていた。

 憤怒の表情がそこにある。

 いつも軽薄な笑みを浮かべていた霧島とは、とても思えない。

 そんな霧島の視線を、ザッハークは涼しげに受け止めた。

「貴様も飽きぬ男だな。たかが女一人のことで、数年も私を追い続けるとは」

「うるせぇよ、このクサレ外道。てめぇが優香にしたこと、忘れろって方が無理あんだよ」

「……ふむ、あの女のことに関しては確かに私がどうこう言うべき事柄ではなかったか」

 クク、と笑いながらザッハークは言った。

 明らかな挑発。

 そうと分かっていても、霧島は怒りを抑えることができそうにない。

「だが復讐者よ。倉凪の小僧に関しては自業自得だぞ? 死ななかっただけでもマシであろう。――勘違いしているようだから言っておこう。これは"戦い"ではなく"殺し合い"だ」

 その言葉は、真実。

 故に誰も反論はできない。

 ただ、事実がそうであったとしても。

「だからって、弟分こんな目にあわされて怒らねぇわけがあるか!」

 霧島が突進する。

 それはなによりも速く、零次はその姿を光の軌跡と見間違えた。

 止めることなどできない。

 ましてや、回避するなど不可能。

 その攻撃を、ザッハークはいとも容易く受け止めた。

「チッ!」

 自分の失策に気づいたのだろう。

 霧島は舌打ちし、即座にザッハークへの第二撃を放つ。

 身体全体を捻った綺麗な回し蹴り。

 しかしそれも、ザッハークに止められた。

「はぁっ!」

 すかさず零次が加勢する。

 漆黒の腕をなぎ払うように振るい、霧島の腕を掴んでいるザッハークの手を弾き飛ばす。

 それを幸いとし、霧島はザッハークから離れる。

「どうした、どちらも動きが単調になっているぞ」

 離れた二人を見ながら、ザッハークは悠々と告げる。

 それを聞く二人の表情には、怒りと大量の汗とがあった。


「……おか、しい」

 掠れた声で、力なく梢が言った。

 梢がいる位置からは、全員の姿が見える。

 自らが戦闘不能となり、冷静な目で戦いの場を見てみると、どうにも不自然なところがあった。

 ザッハークは戦闘開始直後、余裕は多少あったが、霧島とはそれなりの戦いをしていた。

 それが今では、霧島だけでなく、零次をも同時に相手にしても大分余裕がある。

 なにかあるな、と思い――怪しいのは、榊原邸を包み込んでいる結界だと判断した。

 その間も、戦いは繰り広げられている。

 目を凝らして戦闘を見て、梢はあることに気づいた。

「まさか」

 普通に見ていただけでは分からないほど、微量ではあるが……少しずつ、零次たちから魔力が漏れて、ザッハークの方へと流れている。

(まずい)

 このままでは、零次たちは負ける。

 ザッハークの攻め方が、梢には完全に理解できた。

 まず下準備として結界を張る。

 外界との隔絶、遥脱出の妨害。

 表向きの理由はその二つだったが、その裏に更なる効果が隠されていた。

 魔力吸収、である。

 これはザッハークの"魔力の質を変える"という能力と併用したものだろう。

 敢えて一気に奪うということをせず、本人たちにも気づかない程度の量を、少しずつ時間をかけて奪っていく。

 今の梢のように、注視すればその流れは見えなくもない。

 だから、様々な手段を用いてザッハークは零次と霧島を挑発し、彼らの意識を自分自身へと集中させた。

 あとは、彼らがそのことに気づかなければ、ザッハークは適当に防戦をしていれば、相手が力尽きる。

 相手から活動力とも言える魔力を吸収しているザッハークが二人よりも先に力尽きることはない。

 疑われない程度に攻撃を織り交ぜながら、相手からの攻撃を防ぐことに集中する。

 ――――必勝の持久戦。

 それが、ザッハークのやり方だった。

 既に零次たちの疲労は相当なものになっている。

 これ以上戦闘を続ければ、取り返しがつかなくなる。

 梢は声をあげて、二人にそのことを告げようとし、


 そこで、蛇に睨まれた。


「……っ!」

 梢が気づいたことに、ザッハークもまた気づいたのだ。

 今度は先ほどまでと比べ物にならない殺意が、梢に向けられる。

「ホウ」

 右腕で零次の脇腹を突き刺し、左腕で霧島の右足を断つ。

 そうして、ザッハークは梢へと視線を向けた。

「その目、気づいたようだな……ならば、お前から殺すとしよう」

 狂気の犯罪者が一歩ずつ歩み寄ってくる。

 足を断たれた霧島は立つことが出来ず、零次は既に魔力が尽きかけていた。

 梢を助けられる者は誰もいない。

 死が目前に迫った。

「潔く死ね」

 蛇が近づいてくる。

 梢は動くことが出来ない。

(――死か)

 ぬうっ、と伸びてきた死神の手を見ながら、梢はぼんやりと考えている。

(死ぬのか、俺が)

 そのことについて、自分がどう考えているのか。


 結論を出そうとするよりも早く、伸ばされた手は持ち主ごと、乱入してきた一台のバイクによって弾き飛ばされた。


「待たせたな、相棒」

 どこか弾んだ声で、吉崎和弥が言った。


 間に合ったことに安堵しながら、吉崎は周囲の状況を見渡した。

 梢はまだ生きている。ただ、あるべきものがなくなっていた。

 離れたところに零次と霧島が倒れている。

 二人とも傷は深く、霧島に至っては右足が断ち切られていた。

 ただ、そこから出血していないことを考えると、義足かなにかだったのかもしれない。

 そこまで観察している余裕は、吉崎にはなかった。

 バイクから降りて、倒れかけていた梢の身体を支える。

「大丈夫かよ馬鹿野郎!」

 自然と視線は右腕のあった場所へと向けられる。

 地には赤い液体の跡があった。

「馬鹿はてめぇだ、なんで、戻ってきた」

 力なく、しかし思い切り非難するような声で梢は言った。

 梢からすれば、あのまま自分が殺されることよりも、こうして相棒がこの場に着てしまったことの方が嫌だった。

 そのことが吉崎には分かった。

 一言言ってやりたい衝動を抑えつつ、梢をバイクの荷台に乗せる。

 そしてすぐさま零次たちに駆け寄った。

「大丈夫か? すぐに逃げるぞ」

 零次と霧島を両肩に乗せながら、バイクの元へと運ぼうとする。

「やめろ、吉崎……お前が逃げろ」

 霧島が警告するが、吉崎は頭を振った。

 意識が薄れ掛けているのか、ひどく声に力がない。

「既に着ちまったんだ。どうせなら全員助けてから逃げる」

 言いつつ、その足取りは重かった。

 彼もまた、結界の中に居続けることで魔力を吸われている。

 魔力は普通の人間にとっても活動力となる。

 それを奪われていては、自然と力も失われてくる。

「ちっ、重いな……」

「――――そうか、ならば楽にしてやろう」

 その声は、梢や霧島、そして零次のものではなかった。

 両肩に怪我人を背負う吉崎の眼前に現れたのは、ザッハーク。

 今まで余裕に包まれていた表情が、怒りの色に染められていた。

 素早く吉崎の頭を掴むと、力任せに投げ飛ばした。

 肩に乗っていた零次たちごと、吉崎は宙へと舞い上がる。

 地面に叩きつけられる寸前というところで、落下してきた身体をザッハークが蹴り上げた。

 再度宙に舞うその身体の腹を、ザッハークは手加減無用で殴り飛ばした。

 吉崎は、かつてない衝撃を受けながら地面に叩きつけられる。

 すぐさま、喀血した。

「ぐっ……えぇぇっ!」

 内臓がやられたのか、動きがおかしくなっていた。

 痙攣しながら、どうにか立ち上がろうとし――また倒れる。

 そんな吉崎にザッハークは近づき、再びその頭を掴んだ。

「能力者ならばともかくとして……貴様のような下等生物に、傷つけられるとは思ってもみなかったぞ……!」

 ぎりぎりと、掴む力を強められ、吉崎は苦悶の声を上げた。

 その声を聞いてもなお怒りが収まらないのか、ザッハークは吉崎の手を取った。

 無造作に、小指をへし折る。

「ぐあああぁぁっ!」

 絶叫が響き渡る。

 これは戦闘ですらない、ただの拷問だった。

「やめろ、てめぇ!」

 耐えかねて、梢が叫んだ。

 動かないはずの身体を動かし、ザッハークの身体に渾身の蹴りを放つ。

 それはひどく不恰好で、威力も半端なものだったが……吉崎を解放させることには、成功した。

 ザッハークが梢に意識を移し、その足を手で止めたからである。

「――ふん、この期に及んでなお動けるとは、魔力をまだ隠しているのか?」

 訝しげに梢を観察し、放り捨てる。

 その場に立っているのは、今やザッハークだけとなった。

「まぁいい。とりあえずは、この愚者に制裁を加えねばならん」

 ザッハークは再び意識を吉崎に向ける。

 吉崎は苦悶の声を上げながら、倒れていた。

 そんな彼に、ザッハークは手を向けた。

「私は優しいからな。苦しまぬよう、一瞬で殺してやる」

 手の中には光弾が一つ。

 それだけでも、普通の人間なら軽々と殺すことができる。

 ザッハークの吉崎に対する、処刑道具だった。

「待て」

 そばで、なおも立ち上がろうとする梢が言った。

 もっともその声にも、もう力はない。

 零次や霧島に至っては、既に意識を失っている。

「寝ていろ。次はお前だ」

「ふざけ、んな……」

「ふざけろも何もあるか」

 ふん、と鼻を鳴らして吉崎を睨みすえる。

 そして静かに、処刑宣告を下す。


「――――さらばだ」


「やめ、ろぉぉぉっ!!」


 光弾が放たれると同時に、梢は駆け出した。

 速かった。

 梢は満身創痍の状態にありながら、この期に及んでなお、走った。

(間に合えっ!)

 後がどうなろうと、この足が砕け散ろうと、構わない。

 ただ走って、吉崎の身体を突き飛ばすか引っ張り込むかをすればいい。

「おおおおおおおぉぉぉぉぉっ!」

 内側から溢れ出る力を駆使し、梢は吉崎の眼前まで迫った。

 間に合う。

 咄嗟に梢は、右腕で吉崎の身体を引っ張り――――

(右、腕?)

 ない。

 あるべきものは、既に失われている。

 救いの手は、虚空に舞い……

 ――吉崎の胸を、光弾が貫いた。


 世界は灰色に染まる。

 全ての景色が白黒にしか見えず、まるで全ては止まっているかのよう。

 けれどそれは倉凪梢にとっての話。

 このまま時間が流れることを拒み、無駄と知りつつ時が止まることを祈る。

 なぜなら。

 このまま時間が一秒でも流れてしまえば、梢は相棒を――吉崎和弥を、失ってしまうから。

「あ――」

 世界にとって一瞬でしかなかったその時の中、梢はどれだけ心の中で呪詛を唱えたことか。

 伸ばしたはずの腕は幻でしかない。

 それは確かに相棒の身体を掴んでいた。

 確かに掴みながら、空の道を辿る。

 ――――そして、吉崎和弥の身体が地に落ちる。

「よし……ざ、き?」

 声にならぬ声を発しながら、梢もまた地に倒れる。

 吉崎の一歩手前、というところだった。

 吉崎はうつ伏せに倒れているため、どんな表情をしているのか分からない。

 ただ、先ほどまで痙攣していた身体はやけに静かになっていた。

 そのことが、梢にはたまらなく怖い。

 この瞬間、梢は何もかもを忘れて、吉崎に手を伸ばした。

 今度は確かに存在する、左腕で。

 が、伸ばした手は踏み砕かれる。

 骨が砕け、血まみれになったその手は、まるで他人のモノのようだった。

 痛みすら感じない。

 梢にとっては、自身の身体が訴える痛みなどよりも、吉崎のことの方が優先されている。

 ただ、手を踏んでいる足の主は邪魔だった。

「……どけろよ」

「無様なものだな」

 無感動な声が頭上から降り注ぐ。

 梢にとってはたまらなくうざったくて、異常なまでに鬱陶しい声。

「こいつも我らの戦いになど関わらねば良かっただろうに。なにを考えて戻ってきたのか。

 ――――我らに下等生物が関われば、こうなるのは目に見えておるだろうにな」

 その言葉が、決定的だった。

 ザッハークにとっては、当たり前のこと。

 かつて零次が梢に言ったことと、意味は似ている。

 しかし、その本質はまるで異なる。

 梢と吉崎が共に過ごしてきた時間。

 それをザッハークは奪った挙句、土足で踏みにじった。

(――駄目だな)

 ふつふつと湧き上がる衝動を胸に、梢は決めた。

「ザッハーク」

 掠れた声で、弱々しく、だがしっかりと一字一句噛み締めるように言う。

「駄目だ。我慢できない。――――俺は、お前を、殺す」

 哄笑が響き渡る。

 この状況で何を言い出すのか、とザッハークが笑ったのだ。

 状況は圧倒的にザッハークに有利だった。

 梢には最大の武器がもはやなく、既に身体も限界間近である。

 が、哄笑はそう長く続かなかった。

「……む?」

 梢の手を踏みにじりながらも、ザッハークは寒気を感じた。

 ここ数年、霧島直人を相手に何度か感じた程度の寒気。

 それは、恐れだった。

「――なん、」

「縛れ」

 ザッハークの言葉を途中で打ち砕き、梢は静かに命じた。

 途端にザッハークは、梢が具現化した蔦の鎖に縛り上げられる。

 思わぬ反撃に一瞬戸惑ったザッハークだったが、すぐに蔦を引きちぎる。

 その間に梢はザッハークの足から逃れ、静かに立っていた。

 その姿を見たとき、ザッハークは恐怖の正体が分かった。

「貴様」

 はじめて見せる、余裕でも怒りでもない表情。

 それは、警戒。

 ザッハークの長年の経験が告げている。

 今目の前にいる男は、危険だと。

「何者だ、貴様。何ゆえに、そのような莫大な魔力を持ち得るのか」

 そう。

 梢の身体からは、エメラルドグリーンの魔力が溢れ出ている。

 並の量ではない。

 零次や霧島と比べても、その違いは歴然としている。

 次いで、驚くべき事態が起きた。

 魔力が尽きて、意識を失っていたはずの零次と霧島が、意識を取り戻したのである。

 少しばかりのうめき声をあげながら起き上がる彼らを、ザッハークは驚愕の目で見ていた。

(まさか、分け与えたと言うのか……あの二人に)

 有り得ない。

 そんなことができるのはザッハークのような、魔力の質に関わる者だけだ。

 梢の能力はそんなものではない。

 ならば、いったいなにが起きているのか。

「……ち」

 が、そんな不可解な状況を作り出した当人は、忌々しげに呟いた。

 視線の先にあるのは、ザッハークの黒き結界。

 これがある限り、梢がどれだけ魔力を放とうと、それは全てザッハークのものになってしまう。

 ザッハークを驚愕、恐怖させたことには違いないが、未だに状況はザッハークに有利だった。


 手足は動かず、痛みも失せた。

 まるで身体が自分のものではなくなってしまったかのようだった。

 そんな状況でも、視覚や聴覚はまだ無事らしい。

「お前を、殺す」

 そう言う相棒の姿が、吉崎にははっきりと見えた。

(あの、馬鹿――)

 吉崎は、梢にそんなことを言わせるために戻ってきたのではない。

 ただ梢を助けたかった。

 それだけなのだ。

 おそらくここでザッハークを殺し、遥を守りきったとしても、梢は二つの罪を背負うことになる。

 ザッハークを殺した罪と、吉崎を守れなかった罪。

 そんなものを背負わせるわけにはいかなかった。

 それは、吉崎が梢に対して密かに決めていた意志に反する。

 ――助けてやろう。

 傷だらけで、無茶ばかりして。

 誰かのために一生懸命になれる相棒を、歪んだ形から救ってやろう。

 ずっと、そう決めていたのだ。

 だから――。


「ば、か……が」

 注意しなければ聞き取れないほどの、か細い声。

 しかしその声は、その場にいた四人の耳にはよく聞こえた。

「吉崎……!」

 梢と霧島が、歓喜の声をあげる。

 が、吉崎はそれには答えない。

 ごろんと転がり仰向けになった。

「おまえと、倉凪を……一緒に、するな」

「なに」

 どうやら自分へ向けられた言葉らしい、と気づいてザッハークが吉崎を凝視した。

 吉崎はそれも無視して続ける。

「俺は、"能力者"なんてもんに、こんなめにあわされたんじゃねぇ。お前だよ。お前はお前だから、こんなことができるんだ。

 "能力者"だろうと、お前なんかとは違う奴は……大勢、いる。倉凪たちは、お前なんかとは……違う」

 ――その言葉を聞いて、心を大きく揺さぶられた者がいた。

 零次である。

 かつて"能力者"であるが故に、母と妹を死なせた自分。

 零次はずっとその認識の下で、苦しみ続けていた。

 涼子という光に憧れながらも、ついに一歩を踏み出せない原因がそこにある。

 しかし、この吉崎の言葉は零次を後押しすることとなった。

 どうしても踏み出せなかった一歩。

 その後押しをする人間が零次のことをよく知る人間や、同じ能力者であったならば、零次は逆に余計踏み止まろうとしただろう。

 だが、その言葉を発したのは吉崎和弥。

 零次との接点はほとんどなく、彼の言葉も零次に向けられたものではない。

 それでも、"能力者であること"を肯定してくれた普通の人――それは、零次にとって今まで得られなかったものだった。

(俺は、俺でいていいのか)

 零次にとって、自分という存在はあくまで"能力者"という意識が強い。

 その部分を零次はずっと抱えながら、自分自身で黙殺してきた。

 あの夢に出てきた自分。

 あれが、その表れなのかもしれなかった。

「吉崎」

 霧島が、這いながらも吉崎の元へと近づいていく。

 一刻も早く弟分も安否を確かめたい一心だった。

 ザッハークに対する底なしの憎悪さえ、霞んでいる。

「……ああ、そうだ。それと、同じこと」

 と、そこで吉崎はなにかを手にした。

 それは、出発前に榊原から手渡された筒のようなもの。

「だから、俺が……お前に決定的な打撃を与えても、おかしくない。今は、俺だけがそれをできる」

「――――まさか」

 吉崎の言葉に、はじめてザッハークが異様な反応を示した。

 視線の先には、吉崎の手に握られた筒のようなものがある。

「ははっ」

 乾いた笑いと共に、吉崎は手にしたソレを大地に叩き付けた。

 強く叩けば反応する。

 榊原から聞かされた通り、ソレはすぐに効果を現した。

 叩きつけられた地点から、不思議な色の光が溢れ出る。

 それは円を描くように拡大していき、すぐさま榊原邸全域に行き届いた。

「ちぃっ!」

 ザッハークがこれまでにない、焦りの色を浮かべた。

 ――パキン。

 ガラスの破片を砕いたような音と共に、榊原邸を包んでいた闇のドームが、次々と消えていく。

 その向こう側にあるのは、日常の世界。

 戦いに夢中になっていたせいで誰もが忘れていたが、今はまだ朝だった。

 人通りも多くなる時間帯。

 結界が消え去ったことで、榊原邸の惨状が一気に人々の視線に晒された。

「お、おい」

「なんだあれ」

 通りすがりの人からすれば、いきなり家がボロボロになったかのように見えたことだろう。

 ザッハークも派手にやり過ぎた。

 隠すカーテンがなくなった以上、彼の仕出かしたことが全て明るみに出たのである。

「ちょっと、あれ榊原さんの……」

「なにか様子が変だぞ」

 人通りは決して多くないはずだが、それでも事の異常さ故か、人々の声がすぐに聞こえてきた。

 こうなるとまずいのはザッハークである。

 彼には梢たちを含め、周辺の住人全てを抹殺し、黙らせる実力がある。

 しかし、能力者というものは基本的に派手過ぎる行動を好まない。

 個としては強力な彼らだが、集団社会を敵に回すことになればどうにもならないからだ。

 ましてやザッハークはただでさえ顔が知られている犯罪者である。

 すぐにでも、この場を離れなければならない。

「下等生物の分際で、私を二度も出し抜くとは……!」

 憤怒の表情で、低くくぐもった声をあげる。

 が、それだけだった。

 それだけを言い残すと、ザッハークはすぐさま姿を消した。

 全速力で退却――逃げ出したのだ。


「ざまーみろ」

 おかしそうに吉崎は笑う。

 その吉崎の元に、梢、霧島、零次が集まった。

「吉崎、大丈夫か!?」

「お前が大丈夫かよ」

 元気な声で吉崎が梢の胸を叩く。

 すると梢は、勢いに負けてあっさりと倒れてしまった。

「ほれみろ、お前の方が重傷だ馬鹿」

「けどよ」

 なおも食い下がる梢を、吉崎は片手で制した。

「大丈夫だって。俺はお前の相棒だぞ? そんな簡単にくたばってたまるかよ」

「頑丈さだけなら梢並だもんな」

 横から霧島が茶化すように言う。

 考えてみれば、義兄弟の数年ぶりの再会である。

 その雰囲気を察したのだろう。

 零次は霧島の肩を叩いた。

「俺はどうにか動ける。すぐに医者を連れてこよう」

「ああ、それなら近場の闇医者に行ってくれ」

「分かった。場所は?」

「ほれ、この名刺に住所書いてある」

 霧島が胸ポケットから一枚の名刺を取り出す。

 そこには『幸町 孝也』と書かれていた。

「では、すぐに戻ってくる。それまで、持ちこたえていろ」

 駆け足で去っていく零次の姿を見送りながら、霧島は吉崎を見た。

 割と元気そうに、梢と言い合いをしている。

「ったく、その腕……遥ちゃんにどう説明すんだよ」

「うっ」

「そもそもお前は足止めのために残ってたんだろ? なんでガチンコバトルしてんの」

「ぐっ」

「あと簡単に殺すとか言わない。そんな物騒な相棒はいらん」

「……すみません」

 すっかり言い負かされて、梢はうなだれている。

 ――いや、言い負かされたことだけが原因ではなかった。

 あまりに多くの血を流しすぎたために、意識が薄れてきているのだ。

「っ、やば、寝ちまいそう……」

「だったら寝ろよ」

 呆れたように吉崎が言う。

 そう、疲れたならば眠ればいい。

「ん、でも、お前本当に大丈夫なのか……?」

「大丈夫じゃなかったら、お前とこんなアホな会話できません」

「それも、そっか」

 その一言で安心したらしい。

 いつものような会話。

 そこには、人がどこか安心できるものがある。

「んじゃ、悪い……ちょっと寝るわ」

「ああ、おやすみ」

「兄貴、吉崎のこと、頼むわ」

「……おう」

 そう言って、梢ががくりと頭を下げた。

 静かな呼吸音だけが聞こえる。

 眠りについたのだろう。

 これだけの重傷だ。

 そう簡単には目覚めない。

「ったく、いつも無茶ばかりしやがって」

「お前も、こいつの相棒は大変だっただろう」

 軽い調子の吉崎に、霧島も同じような調子で合わせる。

 霧島はどちらかと言うと、性格的には吉崎に近い。

 だからか、自然と意志が通じ合う。

「ああ、まったく、大変だった」

 そう告げる顔はどこか誇らしげで。

 だからか、霧島は涙を抑えることができなかった。

「でもよ、お前も馬鹿だと思うぞ」

 涙ぐみながらも、必死で明るい風を装い、霧島は続ける。

 兄貴分がこんなところで大泣きしては駄目なのだ。

 弟分の望んでいることを、叶えてやらねばならない。

「ああ、そう、だな。こいつの馬鹿、うつっちまった」

 はは、と笑う吉崎の声には迷いがない。

 そのことが、霧島の不安を決定的なものにした。


 ――――吉崎は、もう助からない。


 そして最期に、なにかを告げようとしている。

 それがなんなのかは霧島には分からないが、吉崎が望む形でそれを聞いてやろうと思った。

 ずっと離れてしまっていた弟分。

 兄貴分失格と言われても仕方がない身だったが、それでも出来る限りのことをしよう。

 そう、胸に誓う。

「なぁ、兄貴」

「なんだ」

「兄貴の目的に、差し支えない範囲でいいんだけどさ……」

 そこで、吉崎はとびきりの笑顔を見せた。

 いつもはどこか、なにか別な意味合いを含んだ笑い。

 が、そんなものではない。

 そのときの吉崎の笑顔は、あまりにも爽やかだった。

「こいつのこと、頼むわ」

「ああ」

「遥ちゃん、て子のことも頼む。このことで、多分かなり傷つくと思うから、こいつと一緒に、助けてやってほしい」

「ああ」

「それから、美緒ちゃんや師匠……亨……ああ、そうか。はじめから、こう言や、よかったんだ」

 だんだんと声が小さくなっていく。

 その何一つ、聞き漏らすまいと霧島は耳に意識を傾けた。

「みんなのこと、頼むわ」

「……ああ」

 最後の返事を聞いて、吉崎は心底ホッとしたのだろう。

「ああ、よかった……」

 本当に嬉しそうに、そう言った。


 夢の中で、誰かの背中が見えた。

 どこかで見たことのある背中。

 あまりにうろ覚えで、どうしても思い出せない。

 走って追いかけようとしても、どうしても追いつけなかった。

 名前を呼ぼうとしても、どうしても口から出ない。

「――待てよ!」

 そう言うのが精一杯で。

 そんな相棒の声に、彼は一度だけ振り返って笑顔を見せた。

 笑顔で、片手をあげる。

 軍隊の「敬礼」のポーズにも見えたが、どうやら手を振っているらしかった。

 だから、こちらも手を振り返した。

 相手に見えるように、相手に届くように思い切り振った。

 そのうち手が疲れて、お互い振るのを止めた。

 相手は、また背を見せて去ろうとしていた。

 どうしても行かせたくなかったから、また呼び止めた。

 すると今度は少し困ったように振り返った。

 そして、両手を上げた。

 両手で、思い切り手を振っている。

 こちらも、また振り返した。

 ないはずの右腕と、かろうじて動く左腕。

 壊れたオモチャみたいに、ずっと振り続けた。

 結局、夢はそこで終わり。

 二人はずっと、手を振り合ったままで、最後の別れを終えた。


 鳥の鳴き声がうるさい。

 ひどく身体が重く、目を開けるだけのことさえ難しい。

 目をこすろうとして、右腕がないことに気づいた。

 そういえばと、今まで見ていた夢を思い出そうとしてみる。

 どうしても思い出せず、それでも胸が締め付けられるような、耐え難い哀しみは確かにあった。

「――――っ!」

 そのことに思い立ったとき、梢は全ての疲労感を無視して、飛び起きた。

 周囲を見回す。

 病室のようだった。

 ベッドの上に寝かされていたらしい。

 応急処置は終わったのか、包帯があちこちに巻かれていた。

 ベッドから飛び降りると、スリッパも履かずに歩き出す。

 勢いよくドアを開け放ち、あちこちに視線を送る。

 梢がなにかを見つけるよりも先に、ドアの近くにいた霧島が梢の肩を掴んだ。

「っ、兄貴!」

「……」

 しっかりと梢の肩を掴んだまま、霧島は離さない。

 異様な力だった。

 梢はどうにか振り解こうとするが、どうにもうまくいかない。

「梢、聞け」

「嫌だ!」

 まるで駄々っ子だった。

 霧島の顔すら見ようとせず、明後日の方ばかりを見ている。

「いいから聞け、聞かなきゃいけないんだよ、お前は!」

「うるせぇ、知ったことか! あんたは嘘が好きだったからな、どうせつまらねぇ嘘でもついて俺を脅かそうとしてるんだろ、吉崎と一緒に!」

 まるでそうであることを望むように、最後の言葉は特別力を込めて言った。

 そして、霧島の力が緩んだ隙に抜け出し、駆け出す。

「……梢!」

 霧島の制止の声も聞かない。

「どうせ俺を霊安室かなんかに連れて行くんだろ、そしてタイミング見計らって吉崎が起き上がって……いい、俺が先に行ってやる! あんたらの嘘になんかハマるもんかよ!」

 物凄い錯乱振りに、霧島も言葉を次げない。

 いや、それだけではない。

 梢は既に感じ取っている。

 そのことを認めまいと、必死になっているのだ。

 なにしろ倉凪梢にとって吉崎和弥とは、ずっと苦楽を共にしてきた親友なのだから。

 だから、そう簡単には認めてはいけない。

 例え現実という壁があったとしても、最後まで抵抗する。

 梢はそのつもりなのだと、霧島には痛いほど実感できた。

「だったら自分で行って、確かめてこい」

 走り去る梢の背中を、霧島は悲痛な思いで見送った。


 バン、と勢いよく――と言うよりも、暴力的な勢いで扉は開かれた。

 部屋には誰もいない。

 ただ一人、ベッドの上で眠っている人物を除けば。

 ここまで凄まじい速さで駆け抜けてきたにも関わらず、扉を開けてからの一歩は重かった。

「……おい」

 暗い部屋の中、ベッドに向かって呼びかける。

「起きろよ、吉崎。バレてんだよ」

 わざとらしく、呆れた風な声で語りかけながら、ゆっくりと近づく。

 が、その顔は今にも泣き出しそうだった。

「なぁ、黙ってんなよ。面白くねぇよ、つまんねぇよ」

 やがて、その前に辿り着く。

 その顔には、白い布が被せられていた。

 それが、梢にはいかにもわざとらしく見える。

「おい、取るぞ。こんなん取るぞ」

 ゆっくりと、その布を取ろうと触れたとき、気づいた。

 吉崎の身体が、とても冷たくなっていることに。

 緩慢とした動作から一転、梢は一気に布を取り去った。

 その下にあるのは間違いなく、ずっと共に馬鹿なことをやりあってきた仲間。

 一番の親友が静かに眠る顔だった。

「……嘘だ」

 かちかちと、歯を鳴らしながら、よろめいて尻餅をついた。

 どんな戦いのときよりも強い恐怖感に、全身が包まれる。

 這うようにして進み、白い手を取る。

 さきほどよりも確かな、"死"の実感が伝わってきた。

「嘘だ。お前、大丈夫って言ったじゃないか」

 そう。

 確かに梢は眠る寸前、吉崎のその言葉を聞いた。

 だから安心して眠っていた。

「なんだよ、嘘つき……」

 その手を握る力を強める。

 そうすればまた、温かくなると信じて。

 だがそんなことは有り得ない。


 ――――吉崎和弥は死んだ。


「う…………ウアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァッ!!」

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