第十五話「雪の記憶」
最初は悲しみから。
次に喪失。
そして、僅かな期待。
結末は、どこまでも遠く。
母と妹を失い、一人途方に暮れる零次に声をかけたものがいた。
その名は柿澤源次郎。
今より若かりし日のこの男は、街角にて一人たたずむ零次の姿を見て、静かに声をかけた。
「君は何かを失くしたのか」
「はい」
うん、と言わずにはい、と答える。
そんな幼子を見て、柿澤は悲痛に顔をゆがめた。
「君は、変わっているな」
「普通ではないと、母さんは言っていました」
「私も同じだ」
同じとは、どういう意味なのか。
異能の存在であることか、それとも――。
「貴方も、何かを失くしたんですか」
「そうだ。大切なものを、失くしてしまった」
「普通ではないから?」
「普通ではないからだ」
零次の問いかけに、静かに頷く。
その言葉に込められた重みは、この二人にしか分からないだろう。
「一緒にいてはいけないのだろう。私や君は、この世界において異物だ。どこにも、受け入れられない」
「みにくいアヒルの子、みたいですね」
「否定はしない」
風を確認し、零次に煙がいかぬよう気をつけながら、柿澤は煙草を吸った。
しばらく無言の時が続く。
沈黙の幕を閉じたのは、柿澤だった。
「一緒にくるか」
「受け入れられないのでは、ないんですか」
「異物同士ならば問題ない。みにくいアヒルの子は、白鳥の群の中では正常なのだよ」
その一言が、彼のスイッチを押した。
「それでは、やはり」
「やはり?」
「アヒルと白鳥とは、分け隔てるべきなのですか」
「アヒルたちが寛容であれば、その必要はないのだがな」
柿澤はそう告げた。
心中、何を考えているかは分からない。
ただ、こんな子供を相手に語っているにしては、柿澤は本気の様であった。
雪の積もる日。
「あれ?」
一人の少女が、公園の入り口で立ち止まった。
いつも遊んでいる、郊外の公園。
町中にある公園と違い、人はいない。
彼女は時折、この"自分だけの秘密の場所"にやって来ていた。
その場所に、自分以外の人がいた。
同年代ぐらいの、少し暗い表情の男の子。
なんだか自分の場所が取られたみたいで、気に入らない。
そんな子供じみた考えから、彼女は男の子の側に近寄るなり、
「えいっ」
と、いきなり雪を投げつけた。
自分だけの場所を守るために、追い出そうとしたのだろう。
感情的なものであって、そこに理屈はなく。
だからこそ、少年の心を傷つけた。
「……ごめん。いちゃ、いけなかったんだね」
寂しそうに呟くと、少年――零次は、ゆっくりとその場を立ち去った。
慣れていた。
雪をぶつけられることなど、優しい方である。
ひどいときは石を投げつけられたり、直接蹴り飛ばされたり、箒かなにかで頭が割れるぐらいに叩かれることもあった。
――普通では、ないから。
零次は周囲の人間を恨むよりも、まず自分自身を恨んだ。
なぜ自分は他の人と違うのか、と。
誰にも受け入れてもらえないのは、自分のせいなのだと。
だから、そのときも少女に対し何を言い返すでもなく、そのまま立ち去ってしまった。
また別の日。
零次は一人、郊外の木の下で眠っていた。
この頃には彼は異邦隊の隊員となっていたが、何分幼い。
また、当時は現在と比べても規律がいい加減だったので、その行為を咎めるものはいなかった。
と、そこに一つの影が忍び寄っていた。
幼いながらも、零次は気配には敏感な方である。
すぐに気づき、どこかへと立ち去ろうとした。
逃げようとした、と言い換えてもいい。
「待って!」
影が発した声に、零次は動きを止めた。
自分に対して、どこかへ行け、あっちに行け、近づくな、といった言葉を向ける者なら何人もいた。
しかし、待ってくれ、などという言葉が送られてくるとは思っていなかった。
その声に、恐る恐る振り返る。
そこにいたのは、先日零次に雪を投げつけた少女だった。
「っ!」
零次は咄嗟に駆け出し、少女が見えなくなるまで足を動かし続けた。
後ろから「待って」という声が何度も聞こえてきたが、聞き入れる余裕などなかった。
やがて十分ほど走り続け、零次は後ろを振り返った。
少女の姿はない。
よくよく注視してみても、その姿はどこにも確認できなかった。
当然だろう。
強化能力者の零次と、一般人の少女とでは脚力が違いすぎる。
「これでいいんだ」
そう言い聞かせ、零次は自分にあてがわれた一人きりの家に向かった。
ただ、胸の中に僅かな痛みを残して。
また別の日。
零次は、あの日の少女のことが妙に気になっていた。
(あの木のところに行ってみようかな)
そこにあるのは、ほんの僅かな痛みと罪悪感。
雪を自分に向かって投げてきた少女。
待って、という少女を振り切って逃げた自分。
(どう、違うんだろうな)
そんなことを思いながら、その場所へと足を運ぶ。
そこに、少女はいた。
辛そうな顔をして、座り込んでいる。
零次はどうしたものかと、迷っていた。
なんだか放っておけない。
しかし、話しかけてまた雪をぶつけられるのも嫌だった。
と、どうすればいいかと悩んでいるうちに、足元にあった枝を踏んでしまった。
その音に気づき、少女は顔を上げて零次を見た。
目に見る見るうちに涙を浮かべ、ゆっくりと――本人は走ろうとしているようだったが――零次の方にやって来た。
そして、頭を下げる。
「ごめんなさい」
「え……?」
零次は何を言われているのか、分からなかった。
謝られることなど、久しくなかった。
「なんで……あやまるの?」
「私、雪ぶつけちゃって。そのときすごく、寂しそうだったから」
涙ぐんでいるせいか、その声は聞き取りにくかった。
それでも、零次は少女の一言一言を、漏らすことなく心に刻み込んだ。
心の中の痛みが、僅かに癒えた。
ひょっとしたら。
この女の子なら、自分を受け入れてくれるのではないか、と。
「僕も、ごめん」
「え?」
「待って、って言ってたのに、逃げちゃったから」
「あ、でも……」
「あやまろうと、してくれてたんだよね?」
「……うん」
弱々しく、だがしっかりと少女は頷いた。
なぜか、零次の方も涙を浮かべてしまっている。
「僕、久坂零次」
震える声で、名前を告げる。
「私は冬塚涼子」
少女――涼子も頷いて、応じる。
その名前を確認して、零次は小さな声で告げた。
「もしよかったら、友達になってくれませんか――」
ふと、うたた寝をしてしまっていたらしい。
机の上にうつ伏せになりながら、涼子は寝ぼけた頭を必死に覚醒させようと務めた。
目の前には昔のアルバム。
収められているのは、まだ幼かった自分や、健在だった家族。
そして隅の方にある写真。
そのたった一枚には、幼き日の零次が写っている。
涼子と二人で、手を繋いでいた。
「そっか。これ見てたから、昔の夢見ちゃったのかな」
零次と初めて出会った日。
何もかもが懐かしい。
罪悪感と、後悔。
そこから始まった、一冬の思い出。
「……あれ?」
しかし、その結末は思い出せない。
両親が死に、慕っていた姉が死に。
それ以来、気づけば零次もどこかに姿を消してしまっていた。
何があったのか、どうしても思い出せない。
今までは両親の死んだ時期、ともあって思い出そうとすらしていなかった。
無意識に避けていたのである。
しかし、いざ思い出そうとすると、そこだけ霧に包まれているかのように、不鮮明で曖昧になっている。
これは、どういうことだろう。
「うーん」
首を捻りながら、考え続ける。
しかし結論が出る前に、涼子は別のことを思い出した。
「あっ、お買い物行かなくちゃ」
夕飯だけならば問題ないのだが、明日は零次の分の弁当も作らねばならない。
そうなると、いささか材料の残りが不安だった。
「ってもうこんな時間っ……早く買いに行かないと」
慌てて上着を身につけ、部屋を飛び出していく。
あとに残されたのは、見開かれたままのアルバム。
その中にいる久坂零次は、どこか誇らしげで、嬉しそうな表情をしていた。
壊れた正義はどこへ向かうのか。
過去と現在と。
期待と義務と。
危ういバランスを保ちつつあった零次の精神がにわかに傾き、崩壊が始まった。
「ちぃっ、こいつ……!」
目の前に立つ悪魔を目にし、梢は動けずにいた。
異様な威圧感が、彼の行動を妨げている。
咆哮一つごとに、地が揺れ天が震える気さえした。
刹那、梢の身体が吹き飛ばされた。
成す術もなく壁に叩きつけられ、胃の中に溜まっていたものを吐き出しそうになる。
「――っ……お……!」
声が思うように出ない。
もともと刃との戦いで大怪我をしている身。
脱走する際や零次との戦いでは無理をして動かしてはいたが、本調子とは言えない状態であった。
いや、本調子であったとしても梢では、今の零次にはかなわないだろう。
久坂零次の内に秘められた、禁断の能力。
彼は悪魔をその身に宿していると言われていた。
その悪魔の力を限定的に解放し、自らの力として使役する。
結果の一つが、あの黒き腕というわけだった。
しかし、悪魔は常に破壊を求める。
あまり過度に解放してしまっては、零次自身制御することができない。
制御には能力者の精神状態が深く関わっている。
平常心を乱してはならない。
己を追い詰めてはならない。
その二つが、能力制御のために零次が自身に言い聞かせていたことだった。
しかし、その均衡は倉凪梢の出現、冬塚涼子の存在によって崩れ落ちた。
零次の心は追いやられ、悪魔が目覚めてしまった。
梢如きの実力では、どうにもならない相手だ。
「く……そっ」
見ると、零次は先ほどから動いてすらいない。
おそらくは魔力を用いて、近くにいた梢を吹き飛ばしたのだろう。
触れるまでもない相手。
そう思われていることに気づき、梢は激昂した。
「このクソ野郎がっ!」
そう言って拳を振り上げる。
寸分の合間もなく、眼前に漆黒の身体が迫ってきた。
刹那。
零次と梢との間に、黄金の盾が現れた。
「っ!?」
突如現れた盾を警戒し、零次は引き下がった。
訳が分からないのは梢も同じで、この黄金の盾を警戒しながら見ていたが、あいにくとあまり身体は動かせない。
「なん、だ?」
「なんだとは失礼な。せっかく助けに来たんですよ?」
と。
聞き覚えのある声が、訓練場に響き渡る。
声の主は姿を現すよりも先に、
「白銀よ、敵を討て!」
と、命を下した。
その声と共に零次目掛けて十の銀の刃が降り注ぐ。
「ああああぁぁぁぁっ!」
零次は雄叫びを上げつつそれらの刃をなぎ払う。
全て、地に叩き落された。
その隙に、梢の隣に降り立った男がいる。
「お前は……」
「矢崎刃が弟、矢崎亨」
亨は、梢の方を振り返ることなく、零次に向き合った。
「一身上の都合により、助太刀します!」
広い訓練場で彼らは対峙していた。
もはや理性を失い、己の力をありのままに振るう零次。
その眼前に、梢と亨がいる。
「逃げましょう」
颯爽と現れた亨がまず言い出したのは、そんなことだった。
だが無理もない。
普段の零次ならばともかく、力を解放した零次に対して勝ち目はない。
「なんでだ」
そんなことは分かっているはずなのに、梢は亨に問う。
いかにも不機嫌そうで、逃げるという行為には頭から反対しているようだった。
「なんでって、アレに勝てると思いますか?」
「思わない」
「じゃ逃げるしかないでしょう。僕が手を貸しますから、すぐに……」
「馬鹿野郎」
差し伸べられた手を跳ね除けて、梢は自力で立ち上がった。
ふらふらになりながらも眼前の敵を見据える。
「あんなん放っておけるか」
梢は危惧していた。
見たところ今の零次は理性を完全に失っている。
単純な破壊衝動によって、行動していると見るべきだった。
そんな相手が町にでも出たとしたらどうなるのか。
「いや、でも」
亨は梢の言わんとすることが分かったが、賛同する気にはなれない。
ここで二人、戦ったとしてもすぐに倒されてしまうのがオチであろう。
「まぁ心配すんな」
ニッ、と笑って梢は亨の肩を叩いた。
「お前が着てくれたんだ。勝てる見込みも少しは出てきたってもんだぜ」
「……?」
勝てる見込みなどあるのだろうか、と亨は疑問に思った。
梢は見ただけでも分かるほどの手傷を負っている。
亨は到底零次に敵うだけの実力など持っていない。
「なぁ亨。お前、魔力は活動力の源だって知ってるか?」
と、突然梢はそんなことを言ってきた。
亨は頷く。
その"源"を失ったせいで、他ならぬ兄が昏睡状態に陥っているのである。
「ええ、それがなにか……?」
ちらりと、怪訝そうに梢を振り返った瞬間。
ごうっ、と凄まじい音を発し、零次が亨に迫ってきた。
それだけでも物凄いプレッシャーとなる。
零次の身体から放たれる魔力が、亨の全身に襲い掛かるようであった。
「くっ、黒金、我が盾となれ!」
言葉と同時に、亨のポケットから鉄球が飛び出した。
それは瞬く間に強固な盾なり、零次の攻撃を受け止める。
が。
零次の攻撃はそんなものでは防ぎきれない。
鉄の盾は瞬時に鉄屑と化し、その背後にいた亨にまで攻撃の手は伸びた。
(なんて、圧倒的……!)
底冷えするような気持ちでその攻撃を眺めている。
と、そこで亨は横から強い力で引っ張られ、投げ飛ばされた。
梢が零次の攻撃から、亨を助けたのである。
亨がいた空間を突きぬけ、零次の拳は壁にまで達した。
その瞬間、建物全体に激震が走る。
零次は壁を突き破り、そこに巨大な空洞を作り上げていた。
(あんなものをまともに喰らったら、身が持たない……!)
破壊の跡を見つめながら、亨はグチャグチャになる自分を想像してしまった。
ひどく気分が悪くなる。
そんなものは想像するべきではない。
してはいけないものだ。
そう言い聞かせるようにして、亨はその雑念を振り払った。
「梢さん、やはり」
「まぁまともに戦ったら死ぬわな」
「何を気楽そうに言って――」
そこまで言いかけて、亨は言葉を飲み込んだ。
梢の顔が真っ青だったからである。
それに汗だらけ。
あの破壊力を目の当たりにして、何も感じないはずはない。
「ただ、時間さえ稼げばどうにかなる」
「どうにかなるって……」
「いいから、十分ぐらいだ。必死に持ちこたえるぞ」
それで話は終わりなのか、梢は亨から離れて構えを取った。
「おら、早くかかってこいや!」
「ぐぅぅぅぅぅ……アアアアアアアアアアァァァァァ!!!」
絶叫。
それは獲物を狩る獣の叫びではなく、悲しみを纏った嗚咽。
零次は、梢に向かって突撃する。
そんな零次を、梢は笑顔で迎え入れた。
「お前が何を抱えてるかは知らねぇが……とことん、付き合ってやる!」
地下十二階。
そこは異邦隊隊長である、柿澤源次郎の私室。
隊員は誰も入ることができない、禁断の地。
そこに、霧島直人はいた。
周囲は薄暗くてよく見えないが、どうも何かの遺跡のようになっていた。
石造りで、ひどく古いものに見えた。
電気などは見当たらない。
もっとも、あったとしてもつける気は霧島にはなかったが。
(さっきの揺れは、零次のアレが発動したか?)
手探りで未知の遺跡を進みながら、霧島は危惧していた。
梢は死ぬかもしれない。
零次が能力を完全に解放した場合、その戦闘能力は平常時の比ではない。
まともに相手をしていては、梢は死ぬしかない。
また、そんな結果は零次としても望んでいないだろう。
その行いを自らの咎とし、さらに自分を責め続けることになるだろう。
そのような結果は霧島とて、望むところではない。
彼は梢に対してもそうだが、零次にも自分の弟のような感情を持っていた。
いや、彼からすれば吉崎も美緒も、矢崎兄弟も赤根も藤村も。
それら全ての者が、自分の弟分、妹分であるかのように思えている。
助けに行こうかと何度も考えたが、結局は行かずにいる。
と言うよりも、行きたくても行けなかった、と言った方が正しい。
彼は彼で、あまり好ましくない状況に陥っていたのである。
(周囲に三十人)
それが今の彼が置かれている状況である。
彼の周りに、何者かがいる。
姿は見えないが、敵意と気配だけは、やけに濃厚に感じ取れた。
(奴さん、完全に俺に気づいてるようで)
一応気配遮断は行っているのだが、それも無駄なようであった。
進める道は二つ。
一つは一目散に逃げること。
もう一つは、相手を全員蹴散らすこと。
しかし、それはあくまで進める道のこと。
(進むべき道は、ハナっから一つだけよっ!)
そう念じ、一番近くに感じた気配に飛び掛り、一気に突き上げる。
「ギ――!」
手応えあり。
相手は人型のようであった。
(この感覚……そして今の声)
結論を思い浮かべるよりも先に、霧島の一撃に反応したのか周囲の気配が一斉に飛び掛ってくる。
しかしそんなものは霧島の敵ではない。
ただ、その正体が霧島にとっては重要であった。
なだれ込むようにして襲い掛かる敵を蹴散らしながら、霧島は一人確信した。
「こいつら、強化人間か!」
人間の身でありながら異能たる者への進化を強制され、全てを失った哀しき亡者。
そんなものが、柿澤源次郎の私室にいる。
それがどういう意味を持っているのか。
「ハッ――前からクサイクサイと思ってはいたが……決定的だな、隊長!」
自分は喜んでいるのか、怒りに打ち震えているのか。
それすらも分からないままに、霧島は甲高い声をあげながら、強化人間を蹴散らし続ける。
「げほっ」
口から血が吹き出る。
梢は喉を押さえながら、足を立てようとする。
しかし膝に力が入らず、途中で倒れてしまった。
眼前では亨が零次から必死に逃げまわっていた。
どうやら亨の能力は金属を操作、擬態化させることのようだ――と梢は読んでいた。
そして、彼の能力では零次には絶対に勝てないということも。
根本的な戦闘能力が違いすぎるのである。
梢が瓦を十枚割れるとしたら、あの零次は五十枚は割ってのけるだろう。
亨の金属防御などは瓦で言うならば七、八枚分程度でしかない。
あまりに差がありすぎる。
それでも梢は、喜色を浮かべていた。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!」
悪魔の怒号が響き渡る。
その声にまで威圧的な魔力が含まれているようでもあり、聞くだけで空恐ろしくなる。
だが、それこそが奴の弱点だ、と梢は見ていた。
残された魔力を解き放ち、飛び交う零次の足に蔦を巻きつける。
すぐさまそれは引きちぎられるが、そのことで梢の存在を思い出したのか、零次がギョロリと梢の方を見た。
無様に倒れている敵対者。
握りつぶすことはいとも容易く、またその意志も十分にある。
零次は梢に向かって、何度目かの突撃をし、
「黄金よ!」
途中で、亨の放った黄金の鎖によって捕らえられた。
亨はその鎖に相当の魔力を送り込んでいた。
「この鎖から逃れることは、容易じゃありませんよっ!」
その刹那、快音と共に黄金の鎖は粉々に砕け散った。
「なっ……」
信じられないという風に全身を硬直させる。
今度は、零次の敵意が亨に向けられた。
「グゥゥゥォオオオォォォォォァアアアアアアアア!」
「ひっ!」
地の底から響くような声で、零次は亨に迫る。
だが。
「もう、いいだろ」
梢は、そう呟いた。
そう大きい声ではない。
しかし、その声はやけに響いた。
その一言で、亨も、そして零次さえも止まった。
そして、零次の身体が地に沈む。
「……っ!」
突然の事態に、亨は驚きを隠せない。
言われたとおり、死ぬ気で十分ほど持ちこたえた。
するとどうだろう、結果として零次は……絶対に敵わないと思っていた相手は、倒れている。
「なぜ?」
「あん?」
動くこともできないのか、梢は倒れたまま聞き返した。
「ああ、なんでこうなったか、か? 簡単だよ、魔力切れたんだ、そいつ」
「そんなに簡単に魔力が枯渇するはずないでしょう?」
普通活動できなくなるぐらいに魔力を使い切るということはない。
無意識のうちに、ある程度魔力の消費は抑えられているものなのである。
「いや、それがするんだな。こいつの場合」
零次の場合は、事情が異なる。
純然たる破壊本能だけに突き動かされ、そこに理性は一切存在しない。
また、雄叫びや、周囲へ威圧感を放つというだけのことにも魔力を用いている。
要するに、無駄が多い。
その手加減のなさは確かに比類なき恐怖を相手に与えるが、長持ちしないのである。
結果、十分も戦えば力尽きる。
もっとも刃と違い、根こそぎ奪われたという状態ではない。
しばらくは目が覚めないだろうが、数日経てば再び目覚めるだろう。
「なるほど……」
梢から説明を受けて、亨は納得した。
と同時に、梢を見直す気になった。
思っていたよりも、状況判断能力がある。
「大丈夫ですか」
梢に肩を貸しながら尋ねる。
亨も零次との戦いで手傷を負っていたが、梢に比べれば随分とましである。
「ああ、すまねぇ」
「すぐに脱出しましょう。吉崎さんにも連絡してあります」
「……ちょっと待ってくれ」
と、出口へ向かって歩き出そうとする亨を止めた。
「どうかしましたか?」
「あいつを、連れて行きたい」
梢が示したのは倒れている零次だった。
今では黒く変貌した姿も解け、元の人間の姿に戻っている。
漆黒の翼も、今はない。
「僕は反対です、零次は異邦隊という組織の考えに最も忠実な人間の一人。貴方とは合いませんよ」
「それは分かってる。別にこいつを仲間に加えたいわけじゃない」
「ではなぜ?」
亨の問いかけに、梢は面白くもなさそうに呟いた。
「こいつ、迷ってるみたいだからな。ここに置いておくよりは、外に出してやった方がいいんじゃないかって思っただけだ」
「……分かりました」
渋々亨は頷いて、零次を抱えた。
それを辛そうだと見たのか、梢は亨から離れた。
「いいんですか?」
「ああ、俺は自分で歩ける」
そいつは、まだ歩き始めていない。
そんな意味を言外に込めながら、梢は皮肉げな表情を浮かべた。
その様子を遠くから眺め、霧島は満足そうな笑みを浮かべた。
「どうやらどっちも無事だったみたいだな……」
心底ホッとした様子である。
が、すぐに表情を引き締める。
「ちと派手にやり過ぎちまったし、協力者も外に出る。となれば、ここに長居は無用だな」
異邦隊員用に支給される携帯を握りつぶしながら霧島は一人、赤間カンパニーから姿を消した。




