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異法人の夜-Foreigners night-/第一部  作者: 夕月日暮
第二章「異邦隊」
16/26

第十五話「雪の記憶」

 最初は悲しみから。

 次に喪失。

 そして、僅かな期待。

 結末は、どこまでも遠く。


 母と妹を失い、一人途方に暮れる零次に声をかけたものがいた。

 その名は柿澤源次郎。

 今より若かりし日のこの男は、街角にて一人たたずむ零次の姿を見て、静かに声をかけた。

「君は何かを失くしたのか」

「はい」

 うん、と言わずにはい、と答える。

 そんな幼子を見て、柿澤は悲痛に顔をゆがめた。

「君は、変わっているな」

「普通ではないと、母さんは言っていました」

「私も同じだ」

 同じとは、どういう意味なのか。

 異能の存在であることか、それとも――。

「貴方も、何かを失くしたんですか」

「そうだ。大切なものを、失くしてしまった」

「普通ではないから?」

「普通ではないからだ」

 零次の問いかけに、静かに頷く。

 その言葉に込められた重みは、この二人にしか分からないだろう。

「一緒にいてはいけないのだろう。私や君は、この世界において異物だ。どこにも、受け入れられない」

「みにくいアヒルの子、みたいですね」

「否定はしない」

 風を確認し、零次に煙がいかぬよう気をつけながら、柿澤は煙草を吸った。

 しばらく無言の時が続く。

 沈黙の幕を閉じたのは、柿澤だった。

「一緒にくるか」

「受け入れられないのでは、ないんですか」

「異物同士ならば問題ない。みにくいアヒルの子は、白鳥の群の中では正常なのだよ」

 その一言が、彼のスイッチを押した。

「それでは、やはり」

「やはり?」

「アヒルと白鳥とは、分け隔てるべきなのですか」

「アヒルたちが寛容であれば、その必要はないのだがな」

 柿澤はそう告げた。

 心中、何を考えているかは分からない。

 ただ、こんな子供を相手に語っているにしては、柿澤は本気の様であった。


 雪の積もる日。

「あれ?」

 一人の少女が、公園の入り口で立ち止まった。

 いつも遊んでいる、郊外の公園。

 町中にある公園と違い、人はいない。

 彼女は時折、この"自分だけの秘密の場所"にやって来ていた。

 その場所に、自分以外の人がいた。

 同年代ぐらいの、少し暗い表情の男の子。

 なんだか自分の場所が取られたみたいで、気に入らない。

 そんな子供じみた考えから、彼女は男の子の側に近寄るなり、

「えいっ」

 と、いきなり雪を投げつけた。

 自分だけの場所を守るために、追い出そうとしたのだろう。

 感情的なものであって、そこに理屈はなく。

 だからこそ、少年の心を傷つけた。

「……ごめん。いちゃ、いけなかったんだね」

 寂しそうに呟くと、少年――零次は、ゆっくりとその場を立ち去った。

 慣れていた。

 雪をぶつけられることなど、優しい方である。

 ひどいときは石を投げつけられたり、直接蹴り飛ばされたり、箒かなにかで頭が割れるぐらいに叩かれることもあった。

 ――普通では、ないから。

 零次は周囲の人間を恨むよりも、まず自分自身を恨んだ。

 なぜ自分は他の人と違うのか、と。

 誰にも受け入れてもらえないのは、自分のせいなのだと。

 だから、そのときも少女に対し何を言い返すでもなく、そのまま立ち去ってしまった。


 また別の日。

 零次は一人、郊外の木の下で眠っていた。

 この頃には彼は異邦隊の隊員となっていたが、何分幼い。

 また、当時は現在と比べても規律がいい加減だったので、その行為を咎めるものはいなかった。

 と、そこに一つの影が忍び寄っていた。

 幼いながらも、零次は気配には敏感な方である。

 すぐに気づき、どこかへと立ち去ろうとした。

 逃げようとした、と言い換えてもいい。

「待って!」

 影が発した声に、零次は動きを止めた。

 自分に対して、どこかへ行け、あっちに行け、近づくな、といった言葉を向ける者なら何人もいた。

 しかし、待ってくれ、などという言葉が送られてくるとは思っていなかった。

 その声に、恐る恐る振り返る。

 そこにいたのは、先日零次に雪を投げつけた少女だった。

「っ!」

 零次は咄嗟に駆け出し、少女が見えなくなるまで足を動かし続けた。

 後ろから「待って」という声が何度も聞こえてきたが、聞き入れる余裕などなかった。

 やがて十分ほど走り続け、零次は後ろを振り返った。

 少女の姿はない。

 よくよく注視してみても、その姿はどこにも確認できなかった。

 当然だろう。

 強化能力者の零次と、一般人の少女とでは脚力が違いすぎる。

「これでいいんだ」

 そう言い聞かせ、零次は自分にあてがわれた一人きりの家に向かった。

 ただ、胸の中に僅かな痛みを残して。


 また別の日。

 零次は、あの日の少女のことが妙に気になっていた。

(あの木のところに行ってみようかな)

 そこにあるのは、ほんの僅かな痛みと罪悪感。

 雪を自分に向かって投げてきた少女。

 待って、という少女を振り切って逃げた自分。

(どう、違うんだろうな)

 そんなことを思いながら、その場所へと足を運ぶ。

 そこに、少女はいた。

 辛そうな顔をして、座り込んでいる。

 零次はどうしたものかと、迷っていた。

 なんだか放っておけない。

 しかし、話しかけてまた雪をぶつけられるのも嫌だった。

 と、どうすればいいかと悩んでいるうちに、足元にあった枝を踏んでしまった。

 その音に気づき、少女は顔を上げて零次を見た。

 目に見る見るうちに涙を浮かべ、ゆっくりと――本人は走ろうとしているようだったが――零次の方にやって来た。

 そして、頭を下げる。


「ごめんなさい」


「え……?」

 零次は何を言われているのか、分からなかった。

 謝られることなど、久しくなかった。

「なんで……あやまるの?」

「私、雪ぶつけちゃって。そのときすごく、寂しそうだったから」

 涙ぐんでいるせいか、その声は聞き取りにくかった。

 それでも、零次は少女の一言一言を、漏らすことなく心に刻み込んだ。

 心の中の痛みが、僅かに癒えた。

 ひょっとしたら。

 この女の子なら、自分を受け入れてくれるのではないか、と。

「僕も、ごめん」

「え?」

「待って、って言ってたのに、逃げちゃったから」

「あ、でも……」

「あやまろうと、してくれてたんだよね?」

「……うん」

 弱々しく、だがしっかりと少女は頷いた。

 なぜか、零次の方も涙を浮かべてしまっている。

「僕、久坂零次」

 震える声で、名前を告げる。

「私は冬塚涼子」

 少女――涼子も頷いて、応じる。

 その名前を確認して、零次は小さな声で告げた。

「もしよかったら、友達になってくれませんか――」


 ふと、うたた寝をしてしまっていたらしい。

 机の上にうつ伏せになりながら、涼子は寝ぼけた頭を必死に覚醒させようと務めた。

 目の前には昔のアルバム。

 収められているのは、まだ幼かった自分や、健在だった家族。

 そして隅の方にある写真。

 そのたった一枚には、幼き日の零次が写っている。

 涼子と二人で、手を繋いでいた。

「そっか。これ見てたから、昔の夢見ちゃったのかな」

 零次と初めて出会った日。

 何もかもが懐かしい。

 罪悪感と、後悔。

 そこから始まった、一冬の思い出。

「……あれ?」

 しかし、その結末は思い出せない。

 両親が死に、慕っていた姉が死に。

 それ以来、気づけば零次もどこかに姿を消してしまっていた。

 何があったのか、どうしても思い出せない。

 今までは両親の死んだ時期、ともあって思い出そうとすらしていなかった。

 無意識に避けていたのである。

 しかし、いざ思い出そうとすると、そこだけ霧に包まれているかのように、不鮮明で曖昧になっている。

 これは、どういうことだろう。

「うーん」

 首を捻りながら、考え続ける。

 しかし結論が出る前に、涼子は別のことを思い出した。

「あっ、お買い物行かなくちゃ」

 夕飯だけならば問題ないのだが、明日は零次の分の弁当も作らねばならない。

 そうなると、いささか材料の残りが不安だった。

「ってもうこんな時間っ……早く買いに行かないと」

 慌てて上着を身につけ、部屋を飛び出していく。

 あとに残されたのは、見開かれたままのアルバム。

 その中にいる久坂零次は、どこか誇らしげで、嬉しそうな表情をしていた。


 壊れた正義はどこへ向かうのか。

 過去と現在と。

 期待と義務と。

 危ういバランスを保ちつつあった零次の精神がにわかに傾き、崩壊が始まった。

「ちぃっ、こいつ……!」

 目の前に立つ悪魔を目にし、梢は動けずにいた。

 異様な威圧感が、彼の行動を妨げている。

 咆哮一つごとに、地が揺れ天が震える気さえした。

 刹那、梢の身体が吹き飛ばされた。

 成す術もなく壁に叩きつけられ、胃の中に溜まっていたものを吐き出しそうになる。

「――っ……お……!」

 声が思うように出ない。

 もともと刃との戦いで大怪我をしている身。

 脱走する際や零次との戦いでは無理をして動かしてはいたが、本調子とは言えない状態であった。

 いや、本調子であったとしても梢では、今の零次にはかなわないだろう。

 久坂零次の内に秘められた、禁断の能力。

 彼は悪魔をその身に宿していると言われていた。

 その悪魔の力を限定的に解放し、自らの力として使役する。

 結果の一つが、あの黒き腕というわけだった。

 しかし、悪魔は常に破壊を求める。

 あまり過度に解放してしまっては、零次自身制御することができない。

 制御には能力者の精神状態が深く関わっている。

 平常心を乱してはならない。

 己を追い詰めてはならない。

 その二つが、能力制御のために零次が自身に言い聞かせていたことだった。

 しかし、その均衡は倉凪梢の出現、冬塚涼子の存在によって崩れ落ちた。

 零次の心は追いやられ、悪魔が目覚めてしまった。

 梢如きの実力では、どうにもならない相手だ。

「く……そっ」

 見ると、零次は先ほどから動いてすらいない。

 おそらくは魔力を用いて、近くにいた梢を吹き飛ばしたのだろう。

 触れるまでもない相手。

 そう思われていることに気づき、梢は激昂した。

「このクソ野郎がっ!」

 そう言って拳を振り上げる。

 寸分の合間もなく、眼前に漆黒の身体が迫ってきた。


 刹那。


 零次と梢との間に、黄金の盾が現れた。

「っ!?」

 突如現れた盾を警戒し、零次は引き下がった。

 訳が分からないのは梢も同じで、この黄金の盾を警戒しながら見ていたが、あいにくとあまり身体は動かせない。

「なん、だ?」

「なんだとは失礼な。せっかく助けに来たんですよ?」

 と。

 聞き覚えのある声が、訓練場に響き渡る。

 声の主は姿を現すよりも先に、

「白銀よ、敵を討て!」

 と、命を下した。

 その声と共に零次目掛けて十の銀の刃が降り注ぐ。

「ああああぁぁぁぁっ!」

 零次は雄叫びを上げつつそれらの刃をなぎ払う。

 全て、地に叩き落された。

 その隙に、梢の隣に降り立った男がいる。

「お前は……」

「矢崎刃が弟、矢崎亨」

 亨は、梢の方を振り返ることなく、零次に向き合った。

「一身上の都合により、助太刀します!」


 広い訓練場で彼らは対峙していた。

 もはや理性を失い、己の力をありのままに振るう零次。

 その眼前に、梢と亨がいる。

「逃げましょう」

 颯爽と現れた亨がまず言い出したのは、そんなことだった。

 だが無理もない。

 普段の零次ならばともかく、力を解放した零次に対して勝ち目はない。

「なんでだ」

 そんなことは分かっているはずなのに、梢は亨に問う。

 いかにも不機嫌そうで、逃げるという行為には頭から反対しているようだった。

「なんでって、アレに勝てると思いますか?」

「思わない」

「じゃ逃げるしかないでしょう。僕が手を貸しますから、すぐに……」

「馬鹿野郎」

 差し伸べられた手を跳ね除けて、梢は自力で立ち上がった。

 ふらふらになりながらも眼前の敵を見据える。

「あんなん放っておけるか」

 梢は危惧していた。

 見たところ今の零次は理性を完全に失っている。

 単純な破壊衝動によって、行動していると見るべきだった。

 そんな相手が町にでも出たとしたらどうなるのか。

「いや、でも」

 亨は梢の言わんとすることが分かったが、賛同する気にはなれない。

 ここで二人、戦ったとしてもすぐに倒されてしまうのがオチであろう。

「まぁ心配すんな」

 ニッ、と笑って梢は亨の肩を叩いた。

「お前が着てくれたんだ。勝てる見込みも少しは出てきたってもんだぜ」

「……?」

 勝てる見込みなどあるのだろうか、と亨は疑問に思った。

 梢は見ただけでも分かるほどの手傷を負っている。

 亨は到底零次に敵うだけの実力など持っていない。

「なぁ亨。お前、魔力は活動力の源だって知ってるか?」

 と、突然梢はそんなことを言ってきた。

 亨は頷く。

 その"源"を失ったせいで、他ならぬ兄が昏睡状態に陥っているのである。

「ええ、それがなにか……?」

 ちらりと、怪訝そうに梢を振り返った瞬間。

 ごうっ、と凄まじい音を発し、零次が亨に迫ってきた。

 それだけでも物凄いプレッシャーとなる。

 零次の身体から放たれる魔力が、亨の全身に襲い掛かるようであった。

「くっ、黒金、我が盾となれ!」

 言葉と同時に、亨のポケットから鉄球が飛び出した。

 それは瞬く間に強固な盾なり、零次の攻撃を受け止める。

 が。

 零次の攻撃はそんなものでは防ぎきれない。

 鉄の盾は瞬時に鉄屑と化し、その背後にいた亨にまで攻撃の手は伸びた。

(なんて、圧倒的……!)

 底冷えするような気持ちでその攻撃を眺めている。

 と、そこで亨は横から強い力で引っ張られ、投げ飛ばされた。

 梢が零次の攻撃から、亨を助けたのである。

 亨がいた空間を突きぬけ、零次の拳は壁にまで達した。

 その瞬間、建物全体に激震が走る。

 零次は壁を突き破り、そこに巨大な空洞を作り上げていた。

(あんなものをまともに喰らったら、身が持たない……!)

 破壊の跡を見つめながら、亨はグチャグチャになる自分を想像してしまった。

 ひどく気分が悪くなる。

 そんなものは想像するべきではない。

 してはいけないものだ。

 そう言い聞かせるようにして、亨はその雑念を振り払った。

「梢さん、やはり」

「まぁまともに戦ったら死ぬわな」

「何を気楽そうに言って――」

 そこまで言いかけて、亨は言葉を飲み込んだ。

 梢の顔が真っ青だったからである。

 それに汗だらけ。

 あの破壊力を目の当たりにして、何も感じないはずはない。

「ただ、時間さえ稼げばどうにかなる」

「どうにかなるって……」

「いいから、十分ぐらいだ。必死に持ちこたえるぞ」

 それで話は終わりなのか、梢は亨から離れて構えを取った。

「おら、早くかかってこいや!」

「ぐぅぅぅぅぅ……アアアアアアアアアアァァァァァ!!!」

 絶叫。

 それは獲物を狩る獣の叫びではなく、悲しみを纏った嗚咽。

 零次は、梢に向かって突撃する。

 そんな零次を、梢は笑顔で迎え入れた。

「お前が何を抱えてるかは知らねぇが……とことん、付き合ってやる!」


 地下十二階。

 そこは異邦隊隊長である、柿澤源次郎の私室。

 隊員は誰も入ることができない、禁断の地。

 そこに、霧島直人はいた。

 周囲は薄暗くてよく見えないが、どうも何かの遺跡のようになっていた。

 石造りで、ひどく古いものに見えた。

 電気などは見当たらない。

 もっとも、あったとしてもつける気は霧島にはなかったが。

(さっきの揺れは、零次のアレが発動したか?)

 手探りで未知の遺跡を進みながら、霧島は危惧していた。

 梢は死ぬかもしれない。

 零次が能力を完全に解放した場合、その戦闘能力は平常時の比ではない。

 まともに相手をしていては、梢は死ぬしかない。

 また、そんな結果は零次としても望んでいないだろう。

 その行いを自らの咎とし、さらに自分を責め続けることになるだろう。

 そのような結果は霧島とて、望むところではない。

 彼は梢に対してもそうだが、零次にも自分の弟のような感情を持っていた。

 いや、彼からすれば吉崎も美緒も、矢崎兄弟も赤根も藤村も。

 それら全ての者が、自分の弟分、妹分であるかのように思えている。

 助けに行こうかと何度も考えたが、結局は行かずにいる。

 と言うよりも、行きたくても行けなかった、と言った方が正しい。

 彼は彼で、あまり好ましくない状況に陥っていたのである。

(周囲に三十人)

 それが今の彼が置かれている状況である。

 彼の周りに、何者かがいる。

 姿は見えないが、敵意と気配だけは、やけに濃厚に感じ取れた。

(奴さん、完全に俺に気づいてるようで)

 一応気配遮断は行っているのだが、それも無駄なようであった。

 進める道は二つ。

 一つは一目散に逃げること。

 もう一つは、相手を全員蹴散らすこと。

 しかし、それはあくまで進める道のこと。

(進むべき道は、ハナっから一つだけよっ!)

 そう念じ、一番近くに感じた気配に飛び掛り、一気に突き上げる。

「ギ――!」

 手応えあり。

 相手は人型のようであった。

(この感覚……そして今の声)

 結論を思い浮かべるよりも先に、霧島の一撃に反応したのか周囲の気配が一斉に飛び掛ってくる。

 しかしそんなものは霧島の敵ではない。

 ただ、その正体が霧島にとっては重要であった。

 なだれ込むようにして襲い掛かる敵を蹴散らしながら、霧島は一人確信した。

「こいつら、強化人間か!」

 人間の身でありながら異能たる者への進化を強制され、全てを失った哀しき亡者。

 そんなものが、柿澤源次郎の私室にいる。

 それがどういう意味を持っているのか。

「ハッ――前からクサイクサイと思ってはいたが……決定的だな、隊長!」

 自分は喜んでいるのか、怒りに打ち震えているのか。

 それすらも分からないままに、霧島は甲高い声をあげながら、強化人間を蹴散らし続ける。


「げほっ」

 口から血が吹き出る。

 梢は喉を押さえながら、足を立てようとする。

 しかし膝に力が入らず、途中で倒れてしまった。

 眼前では亨が零次から必死に逃げまわっていた。

 どうやら亨の能力は金属を操作、擬態化させることのようだ――と梢は読んでいた。

 そして、彼の能力では零次には絶対に勝てないということも。

 根本的な戦闘能力が違いすぎるのである。

 梢が瓦を十枚割れるとしたら、あの零次は五十枚は割ってのけるだろう。

 亨の金属防御などは瓦で言うならば七、八枚分程度でしかない。

 あまりに差がありすぎる。

 それでも梢は、喜色を浮かべていた。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!」

 悪魔の怒号が響き渡る。

 その声にまで威圧的な魔力が含まれているようでもあり、聞くだけで空恐ろしくなる。

 だが、それこそが奴の弱点だ、と梢は見ていた。

 残された魔力を解き放ち、飛び交う零次の足に蔦を巻きつける。

 すぐさまそれは引きちぎられるが、そのことで梢の存在を思い出したのか、零次がギョロリと梢の方を見た。

 無様に倒れている敵対者。

 握りつぶすことはいとも容易く、またその意志も十分にある。

 零次は梢に向かって、何度目かの突撃をし、

「黄金よ!」

 途中で、亨の放った黄金の鎖によって捕らえられた。

 亨はその鎖に相当の魔力を送り込んでいた。

「この鎖から逃れることは、容易じゃありませんよっ!」

 その刹那、快音と共に黄金の鎖は粉々に砕け散った。

「なっ……」

 信じられないという風に全身を硬直させる。

 今度は、零次の敵意が亨に向けられた。

「グゥゥゥォオオオォォォォォァアアアアアアアア!」

「ひっ!」

 地の底から響くような声で、零次は亨に迫る。

 だが。

「もう、いいだろ」

 梢は、そう呟いた。

 そう大きい声ではない。

 しかし、その声はやけに響いた。

 その一言で、亨も、そして零次さえも止まった。

 そして、零次の身体が地に沈む。

「……っ!」

 突然の事態に、亨は驚きを隠せない。

 言われたとおり、死ぬ気で十分ほど持ちこたえた。

 するとどうだろう、結果として零次は……絶対に敵わないと思っていた相手は、倒れている。

「なぜ?」

「あん?」

 動くこともできないのか、梢は倒れたまま聞き返した。

「ああ、なんでこうなったか、か? 簡単だよ、魔力切れたんだ、そいつ」

「そんなに簡単に魔力が枯渇するはずないでしょう?」

 普通活動できなくなるぐらいに魔力を使い切るということはない。

 無意識のうちに、ある程度魔力の消費は抑えられているものなのである。

「いや、それがするんだな。こいつの場合」

 零次の場合は、事情が異なる。

 純然たる破壊本能だけに突き動かされ、そこに理性は一切存在しない。

 また、雄叫びや、周囲へ威圧感を放つというだけのことにも魔力を用いている。

 要するに、無駄が多い。

 その手加減のなさは確かに比類なき恐怖を相手に与えるが、長持ちしないのである。

 結果、十分も戦えば力尽きる。

 もっとも刃と違い、根こそぎ奪われたという状態ではない。

 しばらくは目が覚めないだろうが、数日経てば再び目覚めるだろう。

「なるほど……」

 梢から説明を受けて、亨は納得した。

 と同時に、梢を見直す気になった。

 思っていたよりも、状況判断能力がある。

「大丈夫ですか」

 梢に肩を貸しながら尋ねる。

 亨も零次との戦いで手傷を負っていたが、梢に比べれば随分とましである。

「ああ、すまねぇ」

「すぐに脱出しましょう。吉崎さんにも連絡してあります」

「……ちょっと待ってくれ」

 と、出口へ向かって歩き出そうとする亨を止めた。

「どうかしましたか?」

「あいつを、連れて行きたい」

 梢が示したのは倒れている零次だった。

 今では黒く変貌した姿も解け、元の人間の姿に戻っている。

 漆黒の翼も、今はない。

「僕は反対です、零次は異邦隊という組織の考えに最も忠実な人間の一人。貴方とは合いませんよ」

「それは分かってる。別にこいつを仲間に加えたいわけじゃない」

「ではなぜ?」

 亨の問いかけに、梢は面白くもなさそうに呟いた。

「こいつ、迷ってるみたいだからな。ここに置いておくよりは、外に出してやった方がいいんじゃないかって思っただけだ」

「……分かりました」

 渋々亨は頷いて、零次を抱えた。

 それを辛そうだと見たのか、梢は亨から離れた。

「いいんですか?」

「ああ、俺は自分で歩ける」

 そいつは、まだ歩き始めていない。

 そんな意味を言外に込めながら、梢は皮肉げな表情を浮かべた。


 その様子を遠くから眺め、霧島は満足そうな笑みを浮かべた。

「どうやらどっちも無事だったみたいだな……」

 心底ホッとした様子である。

 が、すぐに表情を引き締める。

「ちと派手にやり過ぎちまったし、協力者も外に出る。となれば、ここに長居は無用だな」

 異邦隊員用に支給される携帯を握りつぶしながら霧島は一人、赤間カンパニーから姿を消した。

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