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異法人の夜-Foreigners night-/第一部  作者: 夕月日暮
第二章「異邦隊」
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第十一話「急変」

 その男と知り合ったのは、榊原家で暮らすようになって間もない頃のことだった。吉崎に出会ったのと同じ頃のことだ。

『まだまだだなあ、坊主』

 理由は忘れたが、吉崎のときと同じく、その男とも喧嘩をした。そして負けたのだ。徹底的な実力差を見せつけられて。

 それまでの梢は、自覚こそなかったものの、異法人としての優越感を持っていた。力勝負になれば負けるわけがない、と考えていたのである。

 そんな自信を最初に打ち砕いたのが、その男――霧島直人だった。

 霧島は、梢や美緒よりも早い時期から榊原家へ出入りしていたらしい。梢たちが榊原家に引き取られたときには、既に天我不敗流の門下だった。

 馬鹿なことをやる男だった。また、何をやるにしても大袈裟な男だった。そのせいだろう――人見知りが強かった当時の梢たちも、彼には心を開いた。

 彼は多くのことを語った。子供に言い聞かせるように語るのではなく、ただ一方的に自分の言いたいことを喋っていた。ある意味、一番子供っぽい兄貴分だった。

 皆から慕われた霧島が突如姿を消したのは、今から七年前だった。何も告げず、何の前触れもなくいなくなった。榊原は心当たりがあるようだったが、梢たちは何も教えられなかった。

 それから、彼の名前を聞くことすらなくなった。

 本当に――懐かしい名前だ。

「霧島……そいつが俺のことを言ってたのか」

 驚きの次にやって来たのは、苦笑だった。こんな形で彼の名前を聞くことになるとは、思ってもいなかったのだ。

「なんだ、あの馬鹿兄貴は異邦隊にいんのか」

「ああ」

「ったく、連絡ちっともよこさねえで。久々に名前聞いたと思ったら」

 まったく馬鹿馬鹿しい。

 一気に力が抜けて、戦う気すら失せてしまいそうだ。

「こっちの気なんか知ったこっちゃないってのは、変わってなさそうだな」

「……俺は、お前たちの関係までは聞かされていないが」

「別に兄弟ってわけじゃねえよ。ただの兄貴分だ」

 それも昔のことだ。今となっては、さして関係ない。

 今大切なのは、刃に勝つことだ。彼の攻撃を防ぐヒントは得た。後は活路を見出すだけだ。

 刃も梢の雰囲気が戻ったことに気づいたのか、表情を引き締め構えを取った。

「やるか」

「ああ。白黒つけようぜ」

「――――いいや、今宵はこれで幕引きだ」

 突如、声が割り込んできた。それとほぼ同時に――空気が変わる。

 静かで穏やかだった夜の森が、突如として、昔話の『魔女の森』のような雰囲気になった。

 梢と刃の視線が動いた瞬間、そいつはその場に現れた。夜の森が内包する闇から、音もなく。

 直に目にしても、なお現実に存在するものだとは思いがたい。そんな空気を纏っている。

 その男は、髪を後ろに流してびっちりと固めていた。まるで皮膚のようだ。目が異様に大きく、獲物を品定めするかのようにこちらを見ている。年の頃は分からなかった。二十代のようにも、五十代のようにも見える。

 しかし、そうした外見上の特徴を塗り潰すかのように――男の周囲は、禍々しい魔力で覆い尽くされていた。

 ……やばい。

 強弱の度合いを考えている余裕すらない。あれを相手にすれば確実に殺されると、梢の第六感が告げていた。

「貴様、何者だ」

 声も出せずにいる梢に代わって、刃が男に問いかけた。先ほどまで苦戦していた彼でさえも、この男を前にしては小さく見える。彼自身もそれを実感しているのだろう。表情に、先ほどまでにはなかった焦燥が現れている。

「既に貴様は解答を得ているのではないか、矢崎刃」

「……」

 どうやら向こうは刃のことを知っているらしい。刃の方は、面識こそないものの、相手の正体に心当たりがあるようだ。ただ、とても友好的には見えない。

「刃」

「説明している余裕はない」

 こちらの問いかけを、刃は即座に遮った。

 それに応ずるかのように、男の魔力に変化が生じた。毒ガスのように漂っていただけのそれは、次第に明確な形を取った。

 矢だ。それも、一本や二本ではない。数十本はある。

 その全てが、こちらに向けられている。

 それがなぜかは――考えるまでもない。

「……要するにあれか。敵ってことか」

「そうだ。俺とお前、あるいはもっと多くの――来るぞ」

 言葉が終わるよりも早く、光の矢が滝の如き勢いで押し寄せてきた。


 それとほぼ同時刻。

 赤間カンパニーのビルの地下では、重苦しい沈黙が漂っていた。

「本当なのかね、あの噂」

 零次の隣に立っている霧島が、疑わしげに問いかけてくる。零次としても信じがたい噂だが、こうして主要な隊員が呼び集められた以上、何かが起きたのは間違いない。

「霧島。それよりも、刃や亨はまだ来ないのか」

「刃は外せない用事があるってよ。亨は……宿題でもやってるんじゃないか?」

「宿題?」

「ああ。当たり前でいて、意外と多くの人が出来ない宿題だ」

 意味が分からず、顔をしかめる。が、霧島はむしろそれを面白がっているようだった。

「霧島、近頃のお前は謎かけじみた会話に凝っているようだな」

「いやあ、ストレートだぜ俺は。ただ、こっちの言葉をそのまんまストレートで投げつけたら、押し付けにしかならないだろ? だから、俺は匂わせる程度にしてるのさ」

「やはり言っている意味が分からん。……とりあえず、亨も来ないということか?」

「多分な」

 もったいぶった言い回しだったくせに、答えは曖昧なものだった。零次は呆れと苛立ちを織り交ぜた溜息を吐く。

「――待たせたな、諸君」

 会議室の議長席についた柿澤が語り始めた。

「既に噂を耳にしている者も多いだろうから、単刀直入に述べる。赤根甲子郎が脱走した」

 柿澤の言葉を受けて、場が喧噪に包まれる。それを鎮めたのは、柿澤の咳払いだった。

「諸君も承知だろうが、我らは己が力を組織によって管理することを良しとしている。ゆえに脱走とは、異邦隊におけるもっとも重い罪の一つだ」

「何者かに拉致されたというわけではないんですか」

 霧島が指摘する。確かに異法人である赤根は、それ自体が貴重なサンプルだ。研究機関の人間なら喉から手が出るぐらい欲しがるだろう。まして、彼は今弱っているのだ。連中にしてみれば、絶好の機会というわけだ。

「いや、私がこの目で確認した。赤根が逃走するところをな」

「他に目撃者は?」

 間髪入れず、霧島が問う。柿澤はそれには答えず、ただ冷徹な眼差しだけを返した。

 二人の沈黙に、他の隊員たちが霧島の言葉の意味をようやく悟る。

 霧島は、柿澤だけの証言では不十分だ、と暗に言っているのだ。

 異邦隊日本支部における柿澤の重さを知る者にとって、それは畏れ多い言動だと言わざるを得ない。

「霧島」

 零次が小声で注意を促すが、霧島は見向きもしなかった。柿澤と霧島は、まるでこの場に自分たち以外の者がいないかのように思っているようだ。

「――」

 両者が口を開こうとした瞬間、会議室にいる全員の身体が震えた。

 どこからかは分からない。ただ、そう遠くない場所でマグマのような力が噴出するのを感じた。

 地震が来たときと似たような感覚だ。このぐらいなら、ここは大丈夫、いやもしかしたらまずいかもしれない――そうした思考が零次の脳裏をよぎる。

「……!」

 霧島の顔色が目に見えて悪くなった。双眸は剣呑さを増し、ここにはいない誰かに向かって「野郎」と罵るように言う。

「まさか、ザッハークなのか?」

 霧島がもたらした情報とこの途方もない力の波からすると、それしか考えられない。

 が、その呟きがまずかった。すぐさま他の隊員たちにも"ザッハーク"の名が広がっていく。恐怖が伝染し、やがて場はパニックに包まれる――。

「落ち着け」

 それを、柿澤の一言が鎮めた。

「隊長、俺が様子を見に行く」

「駄目だ」

 霧島の要求を一言で切って捨てる。なおも霧島が食い下がろうとするのを見越したのか、柿澤は即座に視線を零次へと移した。

「零次、お前が様子を見に行け」

「隊長!」

「お前はその"速さ"を活かし、すぐさま矢崎兄弟を探し出せ。お前にしろ零次にしろ単身で向かわせるには危険な相手だ。それがザッハークであるかどうかは、まだ分からん。ただ深追いはするな、そして無理もするな。私情で動くことは許さんぞ」

 畳みかけるように命じる柿澤。その言葉は理に適っており、反論する余地がない。

 霧島が露骨に舌打ちする音が聞こえた。それを打ち消すように、零次は「了解」と口にする。

 他の隊員たちが動き出すよりも早く、二人はその場を後にしていた。エレベーターに乗り込み、一階へと向かう。

「なぜ喧嘩腰だった?」

「俺は隊長のことがあまり好きじゃなくてな」

 霧島が答えるのと同時に、エレベーターが一階に辿り着いた。


 何か良くない気配を感じ取って、吉崎はベランダに出た。

 彼は普通の人間だ。ゆえに魔力を感知する能力や異変を察する能力は、さほど持ち合わせていない。それでも、梢と長く行動を共にしてきたからなのか、ただの一般人よりはそういうことに鋭くなっている。

 そのとき、眼下に矢崎亨の姿が見えた。彼はこちらに気づいてないようだった。ただ、戸惑ったように立ち尽くし、あちこちをきょろきょろと見ている。

「……何か嫌な予感がするな」

 慌てて上着を着けると、吉崎は一階に駆け下りた。意外にも亨は、まだその場に残っている。

「おい矢崎、どうかしたのか」

 声をかけられて、ようやく吉崎に気づいたらしい。こちらを振り返った亨の表情には、戸惑いだけではなく、怯えの色も入り混じっていた。

「吉崎さん……?」

「ああ、そうだ。どうした、何かあったのか」

「分かりません。ただ、とんでもない力が……まるで津波の音でも聞こえたかのように」

 亨の説明はさっぱり要領を得ない。それでも、何か異常な事態が起きているということは分かった。

 そのとき、またも肌を撫上げられたかのような嫌な気配を感じた。予感というにはあまりに鮮明な感覚だ。

「やっぱり、何か戦ってる……。で、でも、こんな強い力感じたことないっ……」

「それは、両方共強いのか?」

「え、え……?」

「戦ってるんだろ? つまり、その場には最低二人以上いるはずだ。どっちも、そんなとんでもない強さなのかって聞いてんだよ!」

 言いながら、吉崎は携帯を鳴らし続けている。無論、相手は梢だ。十秒、二十秒と待ってみるが、反応がない。

「どうなんだ、矢崎」

「……わ、分からない。でも山の方で戦ってます」

「そうか。よし、ちょっと待ってろ」

 亨の返事も待たずに、吉崎は愛用のバイクを引っ張り出してきた。すぐさまエンジンをかけると、後部座席を叩いて亨に示す。

「ほれ、早く乗れ。案内してもらわんと」

「行くんですか!?」

 亨は狂人を見るかのような眼差しをこちらに向けてきた。吉崎はげんなりしつつ、曖昧に頷く。

「どうも現場に倉凪がいそうな気がしてならないんだよ。……どのみち、放っておけない雰囲気だしな」


 槍が雨のような勢いで降って来た。

 分かったのは、そこまでである。

「……」

 梢は痛む頭をさすりながら、腰を持ち上げた。膝が震えているのは、それだけ脳への打撃が強かったのか、それとも恐怖のせいなのか。

 目をつぶった一瞬の間に、突風で吹き飛ばされ、何かに身体を打ちつけた。そして、反射的に閉じてしまった目を開けたときには、既に周囲が小さな荒野と化していたのである。

「どんな冗談だ、こりゃあ……」

 例の男は先ほどの位置から動いていない。こちらを見ている。その眼差しには、獲物を狩る獣が持つような慎重さが見え隠れしている。にも関わらず、口元には嘲笑が浮かんでいた。まるで目だけが別の生き物のようだ。

 すぐ近くで何かが動いた。そちらに目を向けると、刃もゆっくりと腰を上げようとしている。

「ザッハークだ」

 刃が短く言い捨てる、と同時に、第二の矢雨が降り注ぐ。梢と刃は、反射的に後ろへと飛び退いた。

 嬲るかのように、断続的な矢雨が来る。避けるのがやっとだ。

 タイミングが恐ろしくいやらしい。体勢を整え、息を深く吸い込もうとした瞬間に次の攻撃が来る。このまま数分も続けられたら、緊張もあって体力はすぐに尽きるだろう。そうなったら逃げられない。

 ……ザッハークねえ。

 その名前は梢も聞いたことがある。異国の地で恐るべき大虐殺を行った男として、一時期報道されていた。その奇妙な通称が印象的だったからか、それとも殺し方のやり口があまりに凄惨だったからか、今でも時折話題に上ることがある。

 まさか異法人だとは思わなかった。自分と同種だと思うと、とても不愉快な気分になる。

 しかし、なぜそんな男がこんなところにいるのか。

 ……いや、それは考えてる場合じゃない。今大事なのは、どうやってこいつを切り抜けるかだ。

 梢が視線を投げかけると、刃は小さく頷いた。一時休戦、そして共闘の受諾と見ていい。この場で窮地に立たされているのは向こうも同じだ。

 ……そうとなれば、前に出るしかない!

 何度も見たからか、梢は矢雨の動きを見切っていた。僅かな隙間を潜り抜け、ザッハークの元に飛びかかる。

 だが、矢雨を抜けた瞬間、梢が見たのは、眼前に迫る拳だった。咄嗟に左腕でそれを弾く。

 見えたのは、ザッハークの顔だった。そこからは、どんな感情も読み取れない。

「寝ろ」

 顔を掴まれ、その場に頭から叩き落とされた。さらに首を勢いよく踏みつけられる。悲鳴を上げることすら出来ない。

 もう一撃来るかと思ったが、頭上で拳が風を切る音がした。飛び起きると、刃が拳を前に突き出していた。ザッハークはそれを飛び退いて避けたらしい。

 しかし、息つく間もなくザッハークは姿を消した。咄嗟に視線で追うが、影しか見えない。

 ……この野郎、速い!

 最初、遠距離攻撃を仕掛けてきたことから、無意識に近距離が苦手なのだと高をくくっていた。が、とんでもない。近接戦闘においても、相手はこちらを凌駕している。

 まずい、と思ったときには、既に衝撃が走っていた。咄嗟に脇を守ろうと動かした腕に、鈍い痛みが走る。

 だが、梢もただやられるだけではなかった。思考よりも速く直感を働かせ、攻撃を喰らった瞬間にザッハークの身体を蔦で縛り上げようとした。

 それを、ザッハークは身を屈めることで避ける。それを踏み砕こうと梢が足を動かしたとき、ザッハークの姿は五歩ほど離れたところにあった。

 刃が動く。

 ――ぞくりと、背筋が震えた。

「……っ、待て、刃!」

 咄嗟に声を上げる。しかし、その声が刃に届くよりも先に――上空から落ちてきた一本の矢が、刃の胸を貫いた。

 巨体が、勢いあまって倒れ込む。

 その向こう側にいる男が、嘲笑を浮かべていた。

 ――そんな光景を、前もどこかで目にした気がする。あれは、遠い昔。雪景色の中、一人の女の子がああやって命を落とした……。

 刹那――梢の中で何かが切れた。

「てめえええぇっ!」

 何を考えたわけでもない。ただ、がむしゃらに殴りかかった。

 稚拙な攻撃はいなされ、次々と反撃を浴びせられる。

 それでも、梢は何度でも起き上がり、拳を振るった。

「なぜだ?」

 息切れ一つせず、ザッハークは呆れ顔で問いかける。

「貴様とあの男は敵同士だったのだろう? なぜ、奴がやられて怒る」

 顎に鋭い一撃が抉り込まれた。意識がぶれる。だが、梢は意地でザッハークの腕を掴む。

 両腕で掴まれた腕は、みしみしと音を立てていた。それでもザッハークはまったく動じることなく、空いたもう片方の腕で梢の顔面を殴りつけた。

「があっ……!」

 鼻に鈍い痛みが走り、数メートル吹き飛ばされる。木に激突した梢の鼻からは、血がだらだらと流れていた。

「敵わぬと分かっておるのだろう。だのに、なぜ無謀にも仕掛けてくる」

「んなの決まってる」

 顎をやられたのが大きかったらしい。頭がふらふらする。周囲のことなど考える余裕はない。ただ、ザッハークという敵だけを見据えることで、かろうじて意識が保たれている。

「刃は俺のダチ公だ……。そいつがやられて、黙ってられるわきゃあねえだろうがあぁっ!」

 そうして梢は――再びザッハークに飛びかかった。


 不覚を取ったらしい。

 右の胸が、何かに貫かれた。そして、戦えなくなった。

 それしか分からない。ただ、身体が急速に冷たくなっていく。

 ……俺は、ここまでか。

 あまりにも呆気ない、幕切れだ。

 無念だった。自分はまだ何も成し得ていない、という思いがある。そもそも、成すべきことさえ見つけられずにいるのだ。

 ……なぜこんな風に生まれてしまったのだろう。

 もっと普通に生きたかった。そうすれば、家族四人で平穏に暮らしていけたのだ。こんなところで、冗談みたいな戦いに加わることもなく、ただ静かな人生を歩んでいけたはずなのだ。

 そんなとき、梢の声が聞こえた。

 ダチ公。

 自分のことをそう言った梢に、刃は内心苦笑した。しかし、それと同時に、何かが心に満ちていくような気がした。

 ……なんだ。そういえば、あんな風に言われたのは初めてじゃないか。

 ふとそれに気づいて――死ぬのが嫌になった。

 意識は明確になり、傷だらけになりながらも敵に向かっていく梢の背中が見えるようになる。

「……死ぬな」

 少しずつ遠ざかっていく背中に向けて、刃は精一杯の声援を送った。

 こんな風に誰かを応援するのも――もしかしたら、初めてのことだったかもしれない。


 大気が震えている。吉崎でさえも分かるほどの激しい力の奔流。それを感じ取って、亨は真青になっていた。

「一つ、消えた……」

 零れ落ちた言葉には、怯えの色が含まれていた。

 ある程度近づいたとき、亨は戦っているのが三人だと見当をつけた。そのうちの一つが、兄・刃であるらしいことも。

 消えたのは、刃の気配だった。

 刃と共に戦っていたらしいもう一つの気配は、今もなお化け物じみた何かと戦っている。

「あれは……!」

 亨の指し示した先に、一人の男が倒れていた。かなりがっしりとした身体つきだ。似ても似つかないが、これが亨の兄だという。

 胸を何かで貫かれたらしい。ただ、まだ息はあるようだった。

「兄さん、兄さんっ……!」

「おい、あまり揺らすな! すぐ病院に連れて行く! お前も手伝え!」

 うろたえる亨を叱咤しながら、吉崎は荒れた森を見て息を呑んだ。何があったかは知らないが、この惨状を引き起こした者が相当の規格外であることは察することが出来る。

「っ!」

 と、亨が何かに反応した。彼の視線を追うと、遠方の上空で動く二つの人影が視認出来る。

 そのうちの一つは――。

「やっぱりあいつか」

 梢だ。

 遠目からでは表情は窺えないが、相当頭に来ているらしい。動きは直線的で、なおかつ激しかった。

「駄目だ、梢さん……逃げないと。あんなのには勝てない!」

 立場を忘れて、亨が悲鳴を上げた。しかし、吉崎は彼の言葉をあえて無視した。

「……知り合いに腕の良い医者がいる。その人のところにお前の兄貴を連れて行こう」

「け、けど梢さんが……!」

「重傷を負ってる奴を山道走るバイクに乗せるのは怖い。お前が背負っていく方がいい。けど、お前はその先生の診療所を知らない。だから俺がバイクで先導する。二人で連れて行かないと、助かるものも助からなくなるぞ」

 そう言って吉崎は亨の肩を力強く掴んだ。骨に食い込むほどの力を込めている。

「助けられる奴から助けるんだ。早くしろ」

「……っ」

 亨は遠方で戦う梢を見て逡巡したようだが――やがて小さく頷いた。

 だが、その表情には不安の色が見え隠れしている。吉崎はにやりと口元を歪めた。

「大丈夫だ、倉凪はこんなとこで死ぬようなタマじゃねえ。頭が冷えたらとっとと逃げ出すはずだ」

 それより急げ、と踵を返す。

 ……ああ、そうだよな。無事でいてくれるよな、倉凪よ。

 そのとき吉崎が浮かべた苦悩の表情は、誰に見られることもなく、ヘルメットの中に消えていった。

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