魔法が解けたら
人間が環境に順応する力には目を見張るものがある。
例えば、引っ越したばかりの頃は家の中の些細なシミも気になったりして、新しい発見がある度に目移りをしていた。けれども、一ヵ月もすれば全てが当たり前となり、確かに視界には入ってきているはずなのに、些細なシミのことなんて意識に上がっては来ない。
新しい環境というものは、新しい情報が入って来るということである。新しい情報が入って来ることによって脳が刺激され、興奮するのだ。しかし、毎日同じカップ麺だと味に飽きるように、いつも同じ情報が入ってくると驚きがなくなり、何も感じなくなる。
そして、人間は重要でない情報を無意識的に遮断する機能を持っている。この機能によって、私たちは常に新しいものを要求する一方で、すぐに飽きて古い物を捨てていくのだ。付き合い始めたばかりで脳が興奮状態にあるカップルが、時間が経つにつれて刺激に慣れてしまい、別の新しい刺激を求めて別れる時のように。
その点、彰人は優秀だ。色々な場所に連れて行ってくれるし、知識も豊富なので、飽きることがない。彰人の方は、私と結ばれることを運命付けられているため、飽きて捨てられる心配もない。
毎日電話で言葉を交わし、毎週こうして遊びに出掛けていれば、たとえ彰人のような存在自体がフィクションのような男でも、信じてしまいそうになる。
信頼と依存は表裏一体だ。
相手に自分が期待しているもの以上を求めてはいけない。そして、自分は相手が期待しているものを与えてあげなくてはならない。
このバランスが崩れた時、依存関係が始まる。どちらかが損をするような関係なんて、ただの搾取だ。長続きするはずがない。
私は彰人に何かを与えられるのだろうか。
彰人は私と一緒に居られるだけで幸せなのだと言う。だけど、その天命に甘えて生きるのは、今までの私の生き方を否定することだ。『天命』なんかなくても、私一人で生きていける。そう思って、これまで研鑽を積んできたのだから。
だから、彰人とこれからも付き合っていくのであれば、せめて彰人の隣に立って、支えられるようになりたい。
今日は彰人と出会ってから四度目の日曜日。
私達は約束通り、彰人の車で都内の公園まで遊びに来ていた。
まず目に入るのは、まるで湖のような大きな池だ。池にはボートがいくつか浮かんでおり、家族やカップルが穏やかな時間を過ごしている。他にも、グラウンドやテニスコートがあって、それぞれアウトドアを楽しむ人々で賑わっていた。
「そうしてると本当に王子様みたい」
乗馬体験をしている彰人の様子を見て、私は柄にもなく歯が浮くようなセリフを吐く。
彰人は褒められて嬉しかったのか、ポニーの上からポーズを決めていた。
これで白馬に跨っていれば完璧だったのだが、煽てられて調子に乗る彰人を見て声を漏らして笑った。
「礼奈ちゃんも乗れば良かったのに」
「私は触れ合ってる方が好きなので」
そうして、乗馬体験を終えた私達は、ボートに乗ってゆったりとした時間を過ごしていた。
周りを見渡すと私達の他にもボートに乗る人達が見受けられたが、そのほとんどがカップルであった。
私は急に恥ずかしくなって、目の前にいる彰人をあまり意識しないように景色に集中する。
「いやぁ、普段デスクワークばかりだから、こうして体を動かすのも気持ちがいいな」
そう言いながら、彰人は張り切ってオールを漕いでいる。
「モデルのお仕事していて体を動かさないんですか?」
「一応、本業はアパレルメーカーの経営管理なんだけど、社長の奴が僕をモデルとして使わないのは勿体ないとか言い出して、いきなり自社PRのためのモデルに起用されただけなんだ。だから、モデルとしての仕事はちょっとした広報活動の一環で、本業はデスクワークなのさ」
「確かに、その顔とそのスタイルでデスクワークだけさせてたら会社の損失ですね」
「一応誉め言葉として受け取っておくよ。まぁ、そのおかげで色々なコネが出来て、こうしてキミに出会えたのだから、やっぱり運命を感じちゃうな」
彰人はオールを漕ぐ手を止めると、私の手を取りジッと見つめてくる。
彰人には私がどのように写っているのだろうか。
『天命』なんてものがなかったのなら、彰人は私のことなんて歯牙にも掛けなかっただろう。そう思うと、途端に不安が募る。
「調子に乗らないでくださいね。彰人さんがゆっくりで良いと言ったんですから、ちゃんと自分の発言には責任を持ってください。外見だけに頼る男なんて、程度が知れますよ」
「か、軽いスキンシップでもダメなのか……それはそれで安心だけど、ちょっと辛辣過ぎない?」
彰人は今にも涙を流しそうな瞳で私を凝視しながら、そっと私の手を放す。
彰人の言動が妙に芝居がかっているのは意図的なのである。
ハイスペック王子として売り出したのだから、それに相応しい行動を取るよう心がけているらしい。
しかし、私の前ではモデルとしてのAKITOではなく、篠原彰人として接して欲しかった。
芝居のようなセリフでは、それが本心かどうか分からなくなってしまう。
「私を幸せにしてくれるのでしょう? だったら、もっと普通で居てください。彰人さんは器用貧乏と言いますか……間違った道でも器用に進んでしまうので、たまに凄く残念ですよね」
「うん、それは遠回しに貶しているね? でも、悪い所を面と向かって言えるくらい僕のことを知ってもらえて嬉しいよ」
「彰人さんのそういうポジティブな部分は、本当に尊敬します」
私の言葉一つで一喜一憂して表情を変える彰人を見ているだけで、何だか充実した気分になる。
誰かと時間を共有して、言葉を交わし、気持ちをぶつけ合う瞬間に、私は確かにこの世界に存在していて、価値のある時間を過ごしているのだ。もしかしたら、彰人と一緒なら私の人生が幸せで、価値のあるものになるのではないか。そのように思わせてくれる。
ふと、意識して初めて気が付く。
私は今、笑顔を浮かべていると。
いや、今だけではない。今日、彰人と待ち合わせをしてから、ずっと頬が緩みっぱなしだった気がする。
その事実に思い至り、先程からニヤニヤと笑みを浮かべる彰人を張り倒したくなった。
「礼奈ちゃん、真面目な話があるのだけど」
彰人は姿勢を正すと、前置きをして話を進める。
私も自然と背筋が伸びる。
「そろそろ、人目を憚らずに外を出歩くのは限界だと思う。いつまでマスコミを欺けるのか分からないし」
私は恐る恐る彰人の様子を伺う。
彰人は伊達メガネや髪染めスプレーなどを駆使して、簡単な変装をして周囲の目を欺いている。
それでも、やはり彰人は目立つので、周囲の人に「素敵な彼氏ですね」と言われることがある。私と彰人が釣り合っているかどうかはこの際置いておくとしても、全てが白日のもとに晒されるのは時間の問題なのかもしれない。
「私が高校を卒業するまで、隠し通すことは出来ませんか?」
「うん。僕としてもその方が良いのは分かってる。でも、このままだとどこかで絶対に特定されるだろうし、礼奈ちゃんが卒業するまで接触を避けるなんて嫌だ。だから、ちゃんと公表して、誰にも憚ることなく堂々と会いたいんだ」
彰人の熱がこもった説得に、私はどうすれば良いのか考えあぐねていた。
問題は大きく二つある。
まず、公表するとして、学校生活はどうなるのかということ。おそらく、学校中で噂になって息苦しい生活を余儀なくされるだろうが、それは時間が解決してくれるように思う。とするならば、あらかじめ学校に理解者を増やしておくのが得策だろうか。と言っても、私の味方になってくれそうな相手と言えば、多恵子と静香くらいだ。
それと、私が『悪魔の子』であることは、絶対に隠さなければいけない。大袈裟かもしれないが、神からの啓示である『天命』に、『悪魔の子』と一生を共にするなんてものが存在するのが知れたら、彰人も私も過激派に命を狙われるかもしれない。
それだけが唯一のバッドエンドだ。
「少しだけ、時間をもらって良いですか?」
私は絞り出すような声で言った。
「分かった。返事を待つよ。でも、これだけは忘れないでね」
私の不安を悟ったのだろうか。彰人はじっと私の瞳を覗き込む。
思えば、彰人はいつもこうして私の目を見て話をする。
その瞳に安心感を抱くようになったのは、いつの頃からだったのだろうか。
「キミは絶対に僕が幸せにするから」
彰人はそう言って軽く頬えむ。
その光景は、まるで物語の一幕のようで。
――だから、そういう臭いセリフは禁止なんですってば。
私の声にならない叫びは、彰人の曇りのない笑顔にかき消された。
休日が過ぎ、憂鬱な月曜日が始まる。
昨日のデートで体力を使い果たした私は、授業のほとんどをうつ伏せで過ごした。
そのおかげで退屈な授業もすぐに終わり、あっという間に放課後になった。
優等生で通っている私が机に突っ伏していても、先生に具合が悪いのかと声を掛けられるだけで済んだのだが、一方、同じく授業中のほとんどを寝て過ごした多恵子は只今、絶賛説教中である。
生徒指導室に連行されていく多恵子を見送った私と静香は、いつものように教室でその帰りを待っていた。部活や習い事で忙しいクラスメート達が教室を去っていく中、ポツリと私と静香だけが残される。
「毎回、多恵子の奴には困ったものだね」
「えっ? ……あぁ、そうね」
何気なく発した私の一言に、静香は上の空で応じる。
今日に限って言えば、私も多恵子を悪く言う資格はない。そのことで静香から突っ込みが入ると思ったのだが、何の反応もなくて面を食らう。
――二人には全てを打ち明けた方が良いのかもしれない。
昨日の一件で、私はもう引き返せない所まで来てしまったと悟った。
最近、休日は彰人と出掛けることが多い。
昨日も、バイトだと偽ってまで多恵子からの誘いを断り、彰人と会っていたのだ。
そろそろ本当のことを打ち明けて、彰人との関係を認めてもらって味方になって欲しい。なんでそんな面白そうなことを黙っていたのだと、多恵子辺りに怒鳴られてしまうかもしれない。
私が彰人の運命の人であると公表することによって、多恵子と静香には迷惑をかけてしまうだろう。
それでも、ちゃんと全てを打ち明けて、受け入れてもらいたかった。
そう思った私はもう一度、大きく深呼吸をしてから静香に話し掛ける。
「あのね、静香に相談したいことがあるのだけれど――」
「AKITOとの噂の件でしょう?」
「……」
今度は間髪入れずに返してきた静香の発言に、私の思考は停止した。
AKITOとの噂とは、いったい何の事を言っているのか。
私がAKITOの運命の人であると既にばれていたということだろうか。それにしては、教室内で私を見る目に変化はなかったように思う。
「なんで分かったのかって? 先月、AKITOの噂を聞いた時の礼奈、凄い顔していたから。他にも、近所でAKITOの目撃証言があったのと、最近のあなたの様子がおかしかったこと、そして、一番の証拠は――私の勘よ」
「はぁ、相変わらず静香の観察眼には恐れ入るよ。それならそうと言ってくれたら良かったのに」
「そこは、礼奈の意志を尊重しようと思って。でも、ようやく話してくれる気になったみたいね」
静香はイタズラが成功した子供のように、悪びれもせずに微笑んでいる。
その様子を見て、私はなんだか脱力してしまった。
「話の腰を折ってごめんなさい。それで、相談したいことと言うのは?」
静香が居住まいを正して、私に続きを話すように促す。
毒気を抜かれた私は、事のあらましを包み隠さず答えていった。
「つまり、AKITOとの関係を続けるために世間に顔出しするか、あなたの生活のためにAKITOとの関係を一旦終わらせるか迷っていると……そういうことね?」
「はい。その通りです」
静香は私の話を驚くほど早く、正確に理解した。
『天命』を持っている正常な人間からすれば、突然現れたストーカーが運命の人だと言って迫って来る状況をすんなりと受け入れることが出来るのだろうか。
「礼奈の『天命』の障害にならないのであれば、付き合ってあげるべきじゃないかしら? 公表することによって世間に注目されるとは思うけれど、すぐにみんな飽きるだろうし、難しく考える必要はないと思うわ。結局は、礼奈がAKITOとどうなりたいか、でしょ?」
「はい、全くもっておっしゃる通りです」
「それで、礼奈から見てAKITOは一生を共にするに値しない男なの?」
「そんなことは……ないけど」
「じゃあ、もう答えは決まっているじゃない。あぁ、パパラッチから礼奈を守ってあげるくらいのことはしてあげるわよ」
「ありがとう。静香に相談して良かった」
「別に、お礼なんか言わないでよ」
お礼の言葉に、静香は張り付いたような笑顔で応える。
「私ね、このままだったら多分、ロクな人生歩めなかったと思うんだ。いつも何かに焦って、急いで答えを見つけようとしてた。でも、ゆっくりでいいって、最後に残ったものが大切なものだからって、彰人がそう言ってくれたから。彰人となら、その答えが見つけられそうな気がするんだ。だから、その、応援してくれると凄く嬉しい」
静香がガタンと音を立てて、椅子から立ち上がる。
「ほ、本当にいいの? 礼奈はAKITOを信頼に値する奴だと本気で思ってる?」
「……? 何が言いたいの?」
ついさっきまで付き合ってあげるべきだと言っていたのに、なぜ急に不安を煽るようなことを言い出したのか。
確かに、彰人はストーカーっぽいし胡散臭い発言ばかりだけど、私に対してはいつだって誠実だった。
私が悪態を吐いても笑って受け流して、連絡が取れないと本気で心配してくれて、忙しいはずなのに毎日私のために時間を割いてくれる。何より、私を幸せにすると何度も言ってくれた。
そんな彰人を信頼出来なければ、私は何を信じれば良いのだ。
「礼奈っ! あなた騙されているんじゃないの?」
「本当にどうしたの突然? 静香が男嫌いなのは知っているけど、さっきと言ってることがまるで違うじゃない」
「だって……まさか、ここまで深入りされているとは思っていなかったから。礼奈、お願いだから、あの男にはこれ以上関わらない方がいい」
どうして今になってそんな事を言い出すのか、意味が分からない。
私はだんだん腹が立ってきた。
「一から説明してくれないと、静香が何を言いたいのか分からないんだけど」
「私だって……もう、何をどうしたらいいのか……分からないのよっ!」
「はぁ? 埒が明かない。何があったのかは知らないけど、彰人は人を騙して傷付けるような奴じゃないよ。仮に、私が彰人と付き合って何の問題が起こるって言うのよ」
「あなたがそれを言うのね……。第一、都合が良過ぎるとは思わなかったの? 他の誰でもない、あなたがAKITOの運命の人に選ばれたという事実にっ」
確かにそれは疑問に思った。だからこそ真っ先に質問したし、その回答が「『天命』だから」だったので納得した。
その後は強引に押し切られて、一悶着あって、今の関係に落ち着いたのだ。
そして、今の関係を続けることが難しく、世間を必要以上に騒がせた責任もあるため、ちゃんと運命の人を公表して祝福されることを望んでいる。
彰人の行動は常に一貫しており、ここまで大掛かりなことをして私一人を騙すなんて考えられない。
彰人のことを何も知らないくせに、何を知ったような顔を浮かべているのだ。
「なに大声で怒鳴り合ってんだ? 二人とも」
私と静香が睨み合っている中、最悪なタイミングで教室に入ってきた多恵子が、怒気を露わにしてこちらを見ていた。