生き方
戸籍上、私には両親と六つ歳の離れた姉がいる。
父は地方銀行に勤め、母はピアノ教室を営んでいる。そして、姉はバンドを結成し、各地でライブをして回っているらしい。
姉の名前は松崎優華。
優華は昔から私の面倒を見てくれる良い姉であった。
そんな姉の背中を見て育った私が、優華に憧れを抱くのは当然の結果だった。
私は何事も優華の真似をするようになり、ピアノを習い始めたのだって優華の影響だ。
母は『子ども達に音楽を教える』という目的のため、実家でピアノ教室を開いており、そこで私と優華は幼い頃から稽古を受けていた。
母の指導は大変厳しく、毎日最低三時間はピアノを弾かされた。
「姿勢が悪い! 背筋を伸ばしなさい」
「腕に力を入れ過ぎ。もっとリラックスして軽やかに弾きなさい」
「そこ! 急にテンポが速くなった。もう一度頭から」
母の注意が飛び交う中、私は懸命に鍵盤を叩く。
母によって決められた練習曲をこなし、演奏技巧を磨くだけの日々。当時小学生だった私にクラシック音楽の良さなど分かるはずがない。そもそも練習曲は技能を磨くために一定のパターンで構成されており、音楽としての体をなしていないものが多かったため、余計に好きにはなれなかった。
他の受講生は最近流行りの曲を弾いて楽しそうに稽古しているのに対し、私と優華は厳しい指導を受けていた。
確かにピアノは私からやりたいと言ったことだ。でも、こんなに大変だなんて思わなかった。
練習が辛くて何度も止めようかなと思ったけれど、優華が一緒に頑張ろうと励ましてくれたのでなんとか続けることが出来た。
一方で、優華は本当に楽しそうにピアノを弾いていた。まるで、ピアノを弾くために生まれてきたかのように。
優華の『天命』は『たくさんの人の前で演奏すること』である。将来ピアニストになって、大きなステージでリサイタルを開くのだと常々口にしていたものだ。
そんな優華を見て、「私もいつかお姉ちゃんと一緒のステージで演奏する」と家族全員の前で宣言していた。
だから当然、家族は私の『天命』も音楽に関係するものであると勘違いしていたのだ。
今にして思えば、優華と私の目標のために、母は心を鬼にして私たちに厳しいレッスンを施していたのだろう。
「お母さん、私ピアノ止めてバンドに全力を出したい」
そう言って優華は突然ピアノを止めた。私が小学四年生の時だった。
人は『天命』に従って生きることを強いられているが、その手段までをも強制される訳ではない。
最終的に目標を果たせるのであれば、優華のように途中で方向転換する者も少なくなかった。
既にピアノに対して楽しみを見出せなくなっていた私は、姉が止めるなら私も止めると言い出した。姉の影響でピアノを始めただけの私は、ひたすら辛いだけの練習にうんざりしていたのだ。
母は残念がったが、他にやりたい事があるのなら挑戦しなさいと言ってくれた。
しかし、当時まだ小学生だった私は友達と外で遊ぶ方が楽しくて、ピアノの練習がない解放感で溢れていた。
いつまで経っても遊んでばかりいる私に、母は違和感を覚えていたに違いない。
私に『天命』がないと発覚したのは、ピアノを止めて一ヵ月が経った頃であった。
人間が『天命』に従おうとする欲求は物心ついた時から既に存在する。
しかし、所詮は子供だ。目的に向かって行動しようにも、出来ることは限られている。
その限られた行動の中で、子供達は『天命』のために動き出すのだ。それは勉強であったり、音楽などの芸術であったり、運動であったり様々である。
子供達の行動を見て、親は子供の『天命』の方向性を理解し、手助けをするのだ。
だから、私が姉の影響でピアノをやりたいと言い出した時は、誰もが音楽に関係する『天命』なのだと思っただろう。
そんな私が一ヶ月に渡り音楽から離れ、外で遊んでばかりいたら、不自然に思われるのは当然だった。
「礼奈。あなた、もしかして……やりたいことがないの? 大人になった自分を想像出来る?」
外から帰って来た私に母が訪ねてくる。
この時には既に疑惑が核心に変わりつつあったのだろう。
「大人になった自分」と言われて思い付いたのは、学校で書かされた将来の夢という題目の作文。授業参観の時に、親の前で読まされた記憶が脳裏をかすめる。
ピアノを習っていた時は姉と一緒にステージに立ちたいと思っていたが、ピアノを止めたばかりで特に思い浮かばない。
「んー……? まだ分かんない」
私がそう言った後、母は怖いような悲しいような、そんな顔をしていた。
その日から、私に対する家族の反応が大きく変わった。
「何か欲しいものがあったら何でも買ってあげるからね」
「何でも好きな事をして生きていいんだからね」
私はただそこに存在しているだけで許される。欲しいものは何でも買い与えられる。厳しいだけだった母は優しく私に接するようになり、まるでお姫様になったかのようだった。
『天命』を持たないということは、生きる意味を持たないということに他ならない。
少なくとも両親はそう思っており、それでも私に幸せに生きて欲しいと願っていたのだと思う。だから、存分に私を甘やかして、人生は素晴らしいとでも伝えたかったのだろう。
それは、随分と的外れな同情だった。
「生きる目的もないのに、生まれてきて可哀想」
その言葉は面と向かって言われた訳ではなかったが、きっと私に向けられたものだと直感する。
そう言って泣き崩れる母を父が黙って支えてあげているのを、ドアの隙間から見てしまった。
それまでお姫様気分だった私は一気に奈落に突き落とされた感覚に陥る。
当時、小学四年生だった私には難しい話なんて分からなかったが、生まれてきて可哀想とまで言わしめた自分という存在を酷く呪った。
このままじゃダメだ。
そう思った私はピアノを再開した。
もう一度ピアノを始めたいと言い出した私を見て、母は涙を流すほど喜んでいた。しかし、前のように厳しい指導はなく、私の好きなように弾かせてくれた。
もちろんそんなこと長くは続かない。
将来自分が何かになりたくて、そのために必要な努力をする時は楽しい。しかし、目標がないまま努力を続けられる人間は、ほんの一握りだ。将来役に立つから勉強しろと言われて、その通りに勉強を続けるのは苦痛でしかない。
だから、目的もなくただ流行りの曲を弾くだけなんて、長く続く訳がなかったのだ。
一年と経たずにピアノから離れた私を見て、さらに母を落胆させてしまった。
常に私の中にあったのは危機感だ。中学生にもなると、周りは『天命』を意識し出して本格的に行動を開始する。周りが何かに打ち込み始めているのを肌で感じ、一層の焦燥感が私を襲った。
私はなんとか自分を変えたくて、中学に入ってから部活でバドミントンを始めた。
家族の目の届かない所で本気で何かに打ち込んで、『天命』なんかなくても生きていけると証明したかったのだ。
元々体を動かすのが好きだった私は、部活に明け暮れた。家に帰っても息苦しいだけだったし、体を動かしている間は余計な事を考えずに済んで気が楽だった。
将来の夢なんて見えて来ない。自分でも前に進んでいるのか、それとも逃げているだけなのか分からなかった。
その頃、私に近づいてきたのが多恵子である。今でこそ素行不良の問題児であるが、当時の多恵子は化粧っけもなく、可憐で清楚な優等生だった。それでも、本質的な部分は今と全く変わっていない。
「あんた、なんかいつも必死だよね」
多恵子と初めて会った時、そんなことを言われたのを思い出す。
私は人とは違う。でも、人と同じように本気を出して取り組んでみたら、人と同じになれる気がしたから。
だから、ひたすら走り続けるしかなかったのだ。
「私はあんた以上に生きてるって感じの奴、見たことないよ」
何も言わない私に多恵子はポツリと口に出して去っていく。
突然現れて恥ずかしい言葉を残して去っていく多恵子に、私はなんだか可笑しくなって笑い出す。
同時に、なんだか私の生き方を認めてもらえたような気がして、多恵子の言葉は頭の中で反響していた――
雨の日は憂鬱な気分になる。
雨が好きだと抜かす輩は、他と違う自分に酔っているだけだ。
日光を浴びないと、精神を安定させる神経物質が分泌されず気分が上がらないし、雨に濡れて服が張り付く感覚は不快感を助長させるだろう。
雨具として多くの人が使う傘は、雨を完全に遮ることができない欠陥品だ。
その点、レインコートと長靴は防雨性に優れるが、雨の日にしか使用しないことを考慮すると、オシャレで高価なものは買いにくい。
一人暮らしをしているのだから、経済的に余裕はない。なので、今日も私は安っぽいビニール傘を差して、雨に濡れながら歩いてきたのである。
喫茶店の窓から外を眺めながら、私は小さく溜息をついた。
「テスト終わったっていうのに、礼奈は元気ないね? 彼氏にでも振られた?」
「……そんなんじゃないし」
「ふぅん。どうだか」
多恵子が訝しむような目でこちらを睨む。夜遅くまで勉強していたのだろう。目元にクマが出来ているのを、化粧で必死に誤魔化しているのが見てとれた。
一方、静香は我関せずとノートパソコンを持ち込んでタイピングを続けていた。テスト期間中に溜まった鬱憤を、文字にぶつけているようだ。
土曜日の半日授業が終わり、今日はバイトも休みだったため、先日行われたテストの復習という名目で、放課後に馴染みの喫茶店でお茶を楽しんでいた。
復習とは言ったものの、間違えた問題なんて数える程しかなかったので、すぐに終わらせてお喋りに花を咲かせているという状況だ。
私と彰人の関係は数週間経った今も続いている。
約束通りに彰人は毎日欠かさず電話を寄越し、休日には遊びに出掛けた。
大切にされているという自覚はある。
しかし、運命の人というよりも、少し歳の離れた妹みたいに扱われているような気がしていて、私の中では複雑な感情が芽生えていた。私は対等な関係を望んでいるのだが、社会人である彰人のお世話になっているというのが現状だ。
不安はあるが後悔はない。彰人の運命の人として恥じない人物になるという目標も手に入れた。世間から祝福されるような、立派で魅力的な大人になろうと、そう決めたのだ。
彰人といることで、今度こそ変われるような気がしていた。
「なに? あげないよ?」
多恵子がデザートのケーキを乗せた皿を持ち上げる。
窓の外に追いやっていた視線が、いつの間にか多恵子のケーキに移っていた。
「まだ気にしているの?」
「だって静香が言ったんじゃん! 最近私が太ったって!」
「幸せ太りね。ご馳走様です」
「静香までまだ疑ってるの?」
「だって最近、礼奈の付き合いが悪いものだから、てっきり」
「断じて違います」
静香が器用にもパソコンを操作しながら、会話に入ってくる。
彰人と日曜日に出掛けるようになってから、私に彼氏が出来た疑惑が浮上しているのだ。休みの日に二人の誘いを断っていたら、疑うのは当然であろう。
この二人になら彰人との関係を言っても良い気がするのだが、やはり私はまだ逃げ道を用意して置きたかった。
「でも、気を付けておきなさいよ」
静香が見慣れない眼鏡を抑えて、神妙な顔つきで忠告する。
「何を?」
「どんなに取り繕っていても、男はみんな野蛮で理性の働かない狼だってことよ」
「静香の男嫌いは相当だね」
「……忠告はしたからね」
今まで何回かデートを重ねたけれども、彰人はこっちが驚くほどに紳士だ。静香が心配するような事態になるとは思えない。
明日は日曜日。彰人の車で少し遠くの公園までドライブする予定だ。毎回遅くとも八時には家まで送って貰っているし、安心している。
よく分からない空気になってしまい、何となく居心地が悪くなった所に、ケーキを食べ終えた多恵子がフォークを置いて叫んだ。
「学校教師っていう職業、数十年後には滅んでいて欲しい!」
「さらっと凄いこと言い出すわね」
「憂さ晴らしで言ってるんじゃなくて、無くなって欲しいちゃんとした理由があるのよ」
「ふぅん。どんな?」
多恵子が聞いて欲しそうに話を勿体ぶるのを、静香が画面から顔を上げて反応する。多恵子は待っていましたと言わんばかりの顔をしており、凄く嬉しそうだ。
「教育ってルーチンワークの極みじゃない? だって生徒に教える内容は決まっていて、教師は毎年同じ講義をする訳でしょ?」
「先生も生徒の反応を見て、どんな風に教えたら分かりやすいか毎年研究を重ねているとは思うけれど」
多恵子の挑戦的な発言に静香がフォローを入れる。
『天命』によって教育者になることを定められている人は多い。私の母もその内の一人だったりする。
『天命』とは生まれた意味であり、生きる目的だ。多恵子の発言は、教師として生きる人の目的を否定するようなものであったため、私は怖くなって話を聞かれていないか周囲を見渡す。
私達と同じようにお茶をしている生徒は数名いるが、幸い席が離れており、話を聞かれた形跡はない。
そんな私の様子とは裏腹に、多恵子は気にした様子を微塵も見せずに続ける。
「じゃあ結局は全部教える側の経験則で、要は自己満足じゃない。ノウハウを共有して分析してより良いものにして、最適な教え方っていうのを導き出せば、後は機械にでも任せられるでしょ?」
いや、簡単に言うが。せっかくなので、私も話に混ぜてもらうことにする。
「もし、それが実現出来たとして、ロボットに教わりたいと思えるかな? プライド高い人は反発しそう。人には当たらないけど物には当たる人もいるし」
「そういう輩が科学よりも風評や経験則を信用したりするのよね。ロボットにも出来ることしか取り柄がない人って、同情するけど性質が悪い」
多恵子がまるでそういう人を見てきたかのように答える。確かに人間は機械を使う側であるが、計算スピードと正確性は既に人間の性能を超えている。
「逆にロボットに出来ないことが出来る人ってそんないるかな……?」
「そんな疑問が出てくる時点で発想が貧困だぞ? 機械なんて人間が設定した以上のことは出来ないし、想定されていないアクシデントに弱いし。一部分に特化して計算する能力は持ってるけど、私達人間のように総合的な判断や課題発見がまだ全然出来ないじゃない。戦うフィールドが全然違う訳よ」
「な、なるほど」
話が膨らみ過ぎて着地点を見失った時に流れる、独特な静寂が訪れる。
そういう時は原点に返るのが良い。
「なんでこんな話になったんだっけ?」
「教師滅ぶべしって話だったわね。物事の道理を分かってない人が多過ぎるってのも問題だと思う。なんでも詰め込めばいいってノリ、あれが諸悪の根源。だから勉強嫌いな人が続出するのよ」
「確かに、英語とかで同じ単語を何度も書かされる時とか、本当に意味があるのか疑っちゃう」
「えっ、ウチの英語教師そんなことさせんの?」
「いや、多恵子も同じ授業受けてるでしょ」
いつも授業中に寝ている多恵子には寝耳に水だったようだ。
「英語に関しては、日本の教育は最悪って聞くよね。多分、言葉の本質を理解しようとしていないんだと思う」
多恵子が紙と鉛筆を取り出して説明を続ける。紙には目、耳、そしてリンゴ……らしきモノが描かれていく。分かりやすく説明しようとしてくれているのだろうが、残念な絵心のせいで全て台無しである。
「意味を表現するために、文字からの視覚情報と読みからの聴覚情報を割り当てたもの。これが”言葉”であるという前提で話を進めるね。例えば外人さんは、色が赤くて形は丸い、食べると甘味と酸味がするといった意味を持つものにアップルという“言葉“を割り当てた訳よ。一方で、私達はリンゴという言葉を割り当てた。だからと言って、アップルという言葉を見て聞いた時に、リンゴという言葉に変換してから意味を連想するのって無駄じゃない? そうやって英語を日本語で考えようとするから余計な手間がかかって、英作文する時にまず日本語を書いてから、それを英訳するとかアホなことをやり出すのよ」
「その道理は分かるのだけれど、日本人的な思考が英語文法によって歪められてしまうのではないかしら?」
長ったらしい多恵子の説明を聞き、それに対して静香が問題点を指摘する。英語圏の人達が普段使う言葉を模倣することによって、外国人の思考パターンに陥ってしまうのではないかと静香は懸念しているようだ。
大和撫子然とした静香が、外国かぶれのように過度なリアクションをする姿を想像して残念な気持ちになる。
「それは文法と思考に相関があるのなら、起こり得る現象でしょうね。けど、言葉は単に自分の頭ん中を相手に伝えるための道具だと私は思うな。文法がなくても、いや、そもそも言葉でなくたって、絵や音楽やジェスチャーでだって思考を伝えることが出来るはずでしょ? それによって多少感じるものはあるかもしれないけど、本質までは変わらないんじゃない? どちらかというと、周りの環境による影響の方が大きいと思うなぁ。だって、同じ日本人でも思考パターンがまるで違う人ばかりだし」
「ほへぇ」
「何よ礼奈、急に間抜けな声出して?」
「ん? いや、多恵子って頭良さそうな話も出来るんだなって」
「一応、これでも学年成績トップなんですけどね……」
多恵子が愚痴以外でこんなに喋るのは珍しい。最近の説教が余程腹に据えかねているようだ。
「そんなに言うんだったら、多恵子が先生になればいいんじゃない?」
「いやぁ、残念ながら、あたしは医者になるって決まっちゃってるからさ」
「だよねー」
多恵子は沢山の人の病を治すという『天命』を背負っているが、バカを治すために教師になるという選択肢はないようだ。
「ねぇ、テストも終わったことだし、日曜日どっか出掛けない?」
「私はいいですけれど」
多恵子の誘いに静香が答えた後、二人はじっと私に視線を向ける。
「あー、ごめん。日曜日はちょっと予定が入ってて」
「バイト?」
「う、うん。そんなとこ」
「ふぅん。へぇ」
多恵子は含みを持たせた返事で煽る。
私は誤魔化すように視線を窓の外に戻した。
暗い雨雲を仰ぎながら、明日のデートは晴れますようにと願うのだった。