AKITO
玄関の扉を閉めて鍵をかけた後、真っ暗な壁をまさぐって照明のスイッチを探り当てるまでの時間が嫌いだ。時間にすればたった数秒のことで、明かりがつく頃には嫌だったことさえ忘れてしまうのだが、それでも触覚を頼りに玄関を恐る恐る進む度に思い出す。
まるで私の人生の縮図のようだ。暗中模索するだけの人生。
もしかしたら、私は難しく考え過ぎているだけかもしれない。何事にも意味を見つけようとするから、意味がないものに価値を見出せなくなるのだ。意味がないものに対してだって、私たちは思考するより先に湧き出る感情に心揺さぶられることがある。その感情は純粋で、価値あるものだと頭で理解しているはずだ。
彰人に頭を撫でられた光景を思い出して、私は必死に首を振る。湧き上がるこの感情は、果たして本当に価値のあるものであろうか。
この感情を私は思い出すべきではないと、頭の中で警鐘を鳴らしていた。
「うわっ」
携帯電話のメール着信音が突然鳴り響き、驚いて声を上げる。
私の交友関係は広くない。メールで連絡するような相手と言えば多恵子と静香くらいである。他には月に一度、親に生存報告をするだけだ。
多恵子と静香は学校で会っているため頻繁に連絡することもなく、携帯電話なんて時計の代わりくらいにしか思っていなかったのだ。だから、久々の着信音に驚いてしまったことに、酷く悲しい気持ちになった。
カバンから携帯を取り出して差出人を見ると、そこには登録した覚えのない彰人の名前が表示されており、悲しみは怒りに変わった。
怒りで震える指でボタンを操作し、メールの中身を確認する。
『件名:彰人です。今日は付き合ってくれてありがとう!
夜遅くにごめんね。彰人です。
礼奈ちゃんがお手洗いへ立った時にメアド交換しておきました。何かあったらいつでも連絡してね。
今日は楽しい時間をありがとう。
帰り際は礼奈ちゃんの気持ちも考えずにごめん。決して君に嫌な思いをさせるつもりじゃなくて、
一人で頑張ってる礼奈ちゃんをただ励ましてあげたかったんだ。
ところで明日なんだけど、礼奈ちゃんはバイトだよね?
昨日と同じように外の駐車場で待っているので、帰りに送っていきます。逃げないでね?
それじゃ、おやすみなさい。』
「あのストーカー野郎」
やはり、誕生日なんて安易なパスワードにするべきではなかった。連絡先くらい言ってくれれば交換するのに、勝手に人の携帯を弄るなんて最低だ。何故ストーカーのような真似をするのだろうか。
彰人に対する返信として、抗議の文面を打ち込む。
しかし、腹立たしい気持ちの中に、私はどこか充実したものを感じていた。
次の日になると、教室中でAKITOの運命の人が見つかったという噂が広まっていた。おそらく噂の中心には多恵子がいるのだろう。
AKITOの運命の人は私だ、などと言えるはずはなく、黙って噂に耳を傾ける。
すると、どうやらAKITOの運命の人がどんな人なのか、勝手な妄想が一人歩きしているようだった。彼に似合うような女性なのだから、美人でスタイルの良いセレブが相手だろうと、クラスメートが口々に言っているのを聞いて、私は頭を抱えたくなる。
冗談ではない。
私は休み時間の大半を机に突っ伏し、寝たふりをして過ごす羽目になった。
「お先に失礼しますー」
「礼奈ちゃん、お疲れさま」
いつも通りにバイトを終わらせた私は、おばちゃんから労いの言葉を受け取り、バイト先の食堂を後にする。
時刻は九時半過ぎ。彰人との待ち合わせ場所である駐車場へ颯爽と向かった。
意気込んで駐車場までやって来た私は辺りをぐるりと見渡して、三台の車を確認する。
その内二台は中岡食堂のおばちゃんと店主である旦那さんの軽自動車だ。
残りの一台に目を向けると黒いミニバンが駐まっていた。あの車だろうか――だが、この前バイト先で見た彰人の車は青のセダンだったはずだ。
そう思いながらも私は恐る恐る近づき、車の中を覗き込んで彰人の姿がないか探す。
運転席ではガラの悪そうな男性がタバコを吹かしながら携帯を耳に当てており、他の座席に人影は見えない。
男性は私が車の中を覗き込んでいるのに気付くと、眉間にシワを寄せて不審な目を向けてくる。車の窓越しに男の顔を見たが、彰人とは似ても似つかない強面の中年男性だった。
「ごめんなさい」
居たたまれなくなった私は頭を下げ、まるで鬼から逃げるように駆け出す。
途中何度も振り返って青い車を探すが、どこにも見当たらなかった。
どうして?
その言葉だけが頭の中で反芻される。
どのぐらい走ったのだろうか、ついに身体が限界を感じて立ち止まる。
すると、いつの間にか私の家が見える所にまで来ていた。
大きく息を整えながら呆然とする頭を整理すると、たった一つの事実だけが残った。
彰人はいなかったのだ。
思い返せば、バイト中だって一度も顔を見せていない。
「帰り送っていくって言ったのに……もう家に着いちゃったよ」
淋しい気持ちが押し寄せるが、一方でどこか安心している自分がいた。
この結果を私は望んでいたはずだ。
変に期待する前で良かった。
もしかしたら私は騙されていて、どこかで私の様子を見て笑っているのかもしれない。
何も持っていない私と何でも持っている彰人とでは、笑えるくらいに釣り合いが取れていないのだから。
たどたどしい歩みで家の前までたどり着き、カバンの中から玄関の鍵を取り出す。そして、玄関錠を開けて中に入ろうとした時、車のエンジン音が聞こえてきた。
既に夜の十時を回ろうという頃。この時間に車が通るのは珍しい。
まさかと思い振り向くと、ちょうど一台の車が私の家の前に停まる所だった。
「礼奈ちゃん! 良かった!」
想像した通り彰人が車から降りてきて、開口一番に安堵の声を漏らした。彰人はビジネススーツを着込んでおり、こうしていると立派な社会人に見える。
――もう、遅いよ。
私は自覚してしまった。
思えば両親の元を飛び出した時も、今と似たような気持ちだった気がする。
私はもう彰人に期待するのが怖くなってしまった。
こうして私の前に現れた以上、きっと何か事情があったのだろう。
でも、次は? もしかしたら、次こそ私を裏切るかもしれない。
こういう事態が起こる度に、ビクビクしながら彰人を待っていなければならないのだろうか。
そんな人生を送るくらいなら、今まで通り一人で生きていく方が何倍もマシだった。
私は黙りこくったまま、どうやって彰人を諦めさせようか頭を悩ます。何も運命の人なんて、私でなくて良いじゃないか。
「バイトは終わっているはずなのに電話に出ないし、駐車場にもいないし、なにかあったのかと思って心配したよ」
「あ、そっか、携帯……」
「携帯の電源切ってただけなんだね。それにしても、礼奈ちゃんに何事もなくて本当に良かった。夜の一人歩きは危ないからね」
慌ててカバンの中から携帯を取り出し、電源を入れて開くと彰人からのメールと電話の通知が来ていた。バイト中は携帯の電源を切っており、いつも家に着くまで電源を入れないため気が付かなかった。
口数の少ない私を見て怒っていると勘違いしたのか、彰人はひたすら謝ってくる。
「遅れてしまって本当にごめん。言い訳にしかならないけど、会社からこっちに来る途中に渋滞に捕まってしまって」
そう彰人に言われて、今まで意識してこなかった事実に考えが至る。いや、冷静になって考えてみれば、当たり前のことだった。
彰人は別に私の地元の人間ではない。会社は首都圏にあるはずだから、どんなに少なく見積もっても、ここまで二時間はかかるはずだ。
バイト先から家まで私と一緒に帰る三十分のために、二時間もかけてここまで来ていたのか。
――馬鹿みたいだ。
「あの、心配かけてごめんなさい」
「いや、無事なら何でもいいんだ。今度からは携帯の電源はちゃんと入れて持ち歩いてね。困ったことがあったら、いつでも連絡して来ていいからさ」
そう言って彰人は笑みを浮かべる。
白い歯を覗かせながら微笑む彰人を、不覚にも素敵だなと思ってしまった。
なんて綺麗で、残酷な笑顔なのだろうと。
「どうして……そこまでするんですか」
答えなんて分かりきっているけれど。
私に向けられる感情が純粋で、本当に価値のあるものなのか、私はちゃんと知っておかなければならない。
「どうしてって、礼奈ちゃんは僕の運命の人で、一番大切な女性だからさ」
彰人はさも当然のように、サラリと答える。
ほら、思った通りだ。
「それは、つまり、『天命』だからですよね?」
いま、化けの皮を剥がしてやる。
「やらなきゃいけないことだから、仕方なくやってるんだ。自分の意志とは関係なくっ!」
そう言った瞬間、彰人の笑みが崩れた。
まだ出会って三日しか経っていないが、その顔には初めて負の感情が浮かんでいるようだった。
「礼奈ちゃんは」
彰人がポツリと呟く。
「僕が悪魔か何かに見えていたりするのかい?」
言われた意味がよく分からなかった。
悪魔は、私だ。
人の親切を、生きる意味を、生まれて来た目的を、無価値であると言ったも同然だ。
どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。
分かり合えないことに疲れてしまって、つい口に出してしまったのかもしれない。
「僕が……急ぎ過ぎていたのかもしれないね。本当の意味で分かり合うためには、いくら時間を掛けたって、足りないくらいだから。人の想いを信じることって結構怖いよね?」
優しく諭すように語る彰人の言葉をじっと聞き入る。
「ごめんなさい。多分、素直に受け入れられない私が変なんです。私だってみんなと同じことを体験して同じように感じたい。でも、それがとても難しいことだから」
私の言葉を聞いて、ちゃんと頷いてくれる彰人。これで彰人には、私が『天命』を持っていないことを知られたかもしれない。
『天命』に従うことが生理的欲求として当たり前に存在する彼らに対して、その当たり前を否定したのだ。
例えるなら、性欲を持っているから仕方なく愛情を注いでいる、と言ったようなものか。
そして私は、その愛情を価値あるものだと受け入れることが出来いでいる。
きっとこれは『悪魔の子』に課せられた業なのだろう。
「時が来たら、礼奈ちゃんに紹介したい人がいるんだ」
しばらく沈黙が続いた後、唐突に彰人が口火を切る。
「時が来たら、紹介したい人?」
「うん。キミがキミのまま、僕のことを信じて受け入れてくれたなら」
「私、もう分かりません……。彰人さんが何を言いたいのか、私自身どうなりたいのかも」
「礼奈ちゃんは難しく考え過ぎなんだって」
彰人は一呼吸置いて、私の頭に手を乗せる。
「礼奈ちゃんは幸せになりたいと思っているし、僕は礼奈ちゃんを幸せにしたいって言ってるんだ。ただ、それだけなんだよ。そこに余計な天命入れて考えなくていいの。純粋に感じたまま、そして、最終的に残ったものが本当に価値があるものなのさ。キミより十年以上生きてる僕が言うんだから間違いない」
彰人はそう言って私の頭を撫で回す。
グリグリと乱暴に撫でるものだから、視界か揺れる。
やがて、彰人は手を引っ込めてニッと笑顔を向けてくる。
私はボサボサになった髪を梳かしながら、彰人を睨みつける。
「それじゃあ、彰人さんはピンチですね。私の中での彰人さんは、空気読めなくてストーカーで清々しい程に気障な人ですから」
「酷いなー。うん、でもそれでいいんだ」
「ありがとうごさまいます。少しだけ、スッキリした気がします」
私はいつしか、想いをぶつけ合うことを臆するようになっていたのかもしれない。
私は少数派だから皆と同じであろうと、表面だけなぞって相手のことを理解した気になっていただけだ。
姉の影響でピアノを始めた頃の純粋な気持ちが蘇る。姉のようになりたいという欲求はあったと思うが、あの頃は生きる意味とかそんなもの考えずに、唯々ピアノを楽しんでいたはずだ。別に他の人がピアノのために生きているからと言って、私が臆することなんてなかったはずなのだ。
「と言うわけで、明日も来ていいかな?」
「ダメです」
「この流れでダメ!?」
私の言葉に今度こそショックを隠し切れない彰人。
今年二十八歳になる男が女子高生に振られて落ち込んでいる姿が余りにも情けなくて、今まで悩んでいた私が本当に馬鹿らしくなってきた。
「お仕事大変だろうから、流石に毎日来られるのも申し訳ないってだけです。彰人さんがゆっくりで良いと言ってくれるのなら、まずは友人としてメールや電話でやり取りするのじゃダメですか?」
言うなれば、まずはお友達から始めましょうという返事である。彰人から何度もプロポーズのような言葉を聞かされた気がするが、私は物事の順番を大切にするタイプである。それをすっ飛ばしていきなり結婚とか言い出すから、話が拗れるのだ。
横目でチラリと彰人を盗み見ると、目を輝かせた彰人がそこにいた。
「ありがとう。その代り毎日電話かけるからね。休みの日くらいはやっぱり直接会いたいから、予定を空けておいてくれると嬉しいな」
私は土曜日もバイトがあるため、毎週日曜日に遊びに行く約束をした。今日は木曜日なので、次に会えるのは明々後日である。
「それじゃ、礼奈ちゃん。また日曜日に」
「はい。帰り道お気をつけて」
最後に別れの挨拶を交わし、私は家の中へ入っていく。玄関の扉が閉まり部屋に明かりが点くまで、彰人の車からエンジン音が聞こえることはなかった。
「ちょっと礼奈聞いてる?」
「へ? あぁ、うん。聞いてる聞いてる」
本日も多恵子は担任に素行不良を注意されたらしく、こうして愚痴を垂れ流している。
頭が良いのだから要領良く生きればいいのに、自分の価値観や思想を他人に矯正されるのが嫌いらしい。
周りがそうしているから。
それが常識だから。
だって人間だもの。
そのような言葉で分かったような気になって、本質を理解しようとしない人間の価値観なんてたかが知れてる。そう豪語する多恵子はある意味で大物だ。
一方で、多恵子の場合は全てを理解した上で、道理にズレたことを言うので性質が悪かった。
えらく刹那的なのだ。
「礼奈。あなたここ数日挙動不審よ」
「えっ?」
そんな多恵子とは正反対で、思慮深い性格の静香が私に向かって挙動不審だと言う。
「授業中ずっと難しい表情をしていたかと思えば急にソワソワしだして。かと思えば突然頭抑えて机に突っ伏していたし」
「そんな変な行動してたかな私?」
「自覚なし……重症だわ」
静香が呆れたように頭を抱えた。
平穏で慎ましやかな生活を送るように心掛けていたが、ここ最近は自分でも驚く程に波乱万丈な人生を送っていると思う。
主に彰人のせいで。
いずれ二人には色々相談しようとは考えてはいた。
しかし、こういった色恋沙汰には縁の無さそうな二人に、一体何を聞けば良いだろうか。
「悩みがあるなら、多恵子姉さんに話してみなさいな」
何かを話したそうにしている私の意を組んだのか、多恵子が悩みを打ち明けるように促してくる。
この二人とは中学時代からの仲であるのだが、浮いた話というものを一つとして聞いた覚えがない。
二人ともタイプは違えども美人に相当するはずだが、確かに人を選ぶ性格をしている。
「ちょっと礼奈、あんた今失礼な事考えてたでしょ」
「まさか、違うよ?」
勘が鋭い多恵子を対して、誤魔化して答える。
「じゃあ折角だから質問があるんだけどね。二人はさ、男の人と付き合ったことある?」
私の発言に目を細める多恵子。
「まさかあんたの口からそんな話題が出るとはね。もしかして悩みってソッチ系の話?」
「いや、多分だけど多恵子が思ってるような事ではないと思うけど」
「あたしみたいな女には馬鹿な男しか寄ってこないから、偉そうなこと言えないんだよねー」
多恵子は望み薄みたいなので、今度は静香の話も聞いてみようとじっと顔を見つめる。
静香は嫌そうな顔をしていたが、観念したのか渋々と口を開く。
「私はそもそも男子が苦手だから」
「でもクラスの男子とは普通に話せてるよね?」
「用事があればちゃんと話す。それだけ」
どうやら本気で嫌そうな雰囲気を出しているので、これ以上追求するのは可哀想だ。
だが、そんな空気を無視して多恵子が追い討ちをかける。
「とか言って、私たちに隠れて最近誰かとメールのやり取りしてるでしょ」
「それは……」
多恵子が軽く肘打ちしてくるのを静香が鬱陶しそうに受け流しながら、軽く眉をひそめる。
助けを求めるよう私の方にチラッと目を向けるが、その視線がどこか非難めいているように感じだ。
「あなた達には関係のない話だわ」
ぴしゃりと冷たい言葉を言い放つ静香を前に、結局何も相談する事は叶わなかった。




