昨日の出来事
彼との出会いは必ずしも劇的ではなかった。
曲がり角でぶつかった訳でもなければ、暴漢に襲われている所を助けられた訳でもない。
何気ない日常の一幕に突如現れたエキストラのような存在。
しかし、今にして思えばその出会いは必然だったのかもしれない。
――歩きながら思考するのが好きだ。
その日はバイトのシフトが入っており、家から歩いて三十分ほどの距離にある勤務先に向かっていた。現在、仕送りを受けながら両親と離れて暮らしている。我が儘で別居している以上、両親に全てを頼りたくなかったので、学校に許可をもらってバイトをして生計を立てていた。雀の涙程度であるが、それでもないよりはましで、両親に出来るだけ迷惑をかけないよう配慮しているという気持ちを持つことが精神的な支えとなっていた。
通い慣れた道を無意識に、プログラムされているかのように歩いていると、まるで私という意識が世界の外側に居て、命令一つでアバターを動かしているかのように感じることがある。その間、私は世界の外側で何者にも縛られずに自由である――そう感じる瞬間が好きだ。
もちろん視界は目の前の光景を捉えているが、人間の脳は必要でない情報をカットして意識に上らせないようにしてしまうらしい。文字通り、見たくないものを見えなくしてしまうのだ。
だから、目の前を歩いている男性が私に向かって来ていることに、声を掛けられるまで気が付かなかった。
「きみが松崎礼奈さん、だよね?」
男性にしては少し高めで落ち着く声が耳に届いた。
突然名前を呼ばれ、驚いて目の前の男性を見上げる。
青年と言ってよい年齢だろうか、男は頭一つ上の高さから私を見下ろしており、その顔はサングラスとマスクで隠されていた。見るからに怪しい男性に名前を呼ばれ、私は体を硬直させる。
逃げるべきか、助けを呼ぶべきか。
辺りには数件の民家が見受けられるが他に人影はなく、目の前の大男ならば容易に私を誘拐することが可能であろう。
私はいつでも警察に通報できるようにカバンから携帯電話を取り出そうと身構える。
そんな私の警戒心を感じ取ったのか、男は「そんな警戒しないでください。怪しい者じゃないです」と口にして、サングラスとマスクを取り払った。
長い睫毛に儚げな眼差し、筋の通った美しい鼻、よく見れば髪型や服装も最近の流行を取り入れたようなオシャレな恰好をしている。
不審な大男から一転して、お伽話から抜け出してきたかのような爽やかさを全身から振りまくこの男性を、私はテレビや雑誌で目にしたことがあった。
「そう言うあなたはモデルのAKITOさん……ですよね?」
「よかった。僕のことを知っているみたいだね」
「まぁ、有名人ですので」
意外な来訪者に私の頭の中は混乱していた。
テレビ番組の撮影か何かだと思い辺りを見渡すが、生憎スタッフやテレビカメラは見当たらない。
動揺している私をよそに、ダメ押しとばかりにAKITOが爆弾を投下した。
「ようやく見つけたよ。礼奈さん、きみが僕と一生を共にする運命の人だ」
「……へ?」
思考がまとまらずに、何とも腑抜けた声が飛び出して自分で自分に驚く。
私はパニック寸前の頭を必死に回転させて、先月辺りにテレビで話題に上がっていたAKITOの『天命』を思い出していた。彼の『天命』は『運命の人と一生を共にすること』である。つまり、先程のAKITOの発言は、私が彼の運命の人であるという内容だと理解できた。
それにしても、胡散臭い。
それが私のAKITOに対する第一印象だった。
ファンの女性にしてみれば泣いて喜ぶ状況なのかもしれないが、別に私はAKITOのファンではない。急に運命の人だなんて言われても反応に困る。
さらに困るのは、AKITOが嬉しそうに笑顔を浮かべながら期待したような目で私を見ていることだ。一体どんなリアクションをすれば良いのか。
とにかく、信頼に足る情報が少ないと思った。悪質な勧誘業者のマシンガントークに気圧されて、内容が不透明のまま契約させられそうになる、みたいな状況だ。そんな状況に陥った時は情報を聞き出すことが重要であると一人暮らしを始めて学んだ。
伝達手段として言葉は万能ではない。言葉は思考を相手に伝えるために作られた記号であり、思考の代用品だ。人の言葉ほど胡散臭いものはない。それが、初対面の人物であるのなら尚更。
「急にそんな事を言われましても……ええっと、まずはいくつか質問してもよろしいですか?」
「どうぞ」
AKITOはさりげなく席をゆずるような仕草で、手をくるりと前に突き出す。
ただそれだけの動作であるのに、妙に様になっているように感じるのは、流石は今人気のモデルであると言えるだろう。
目の前に立っている男性のカリスマ性に呑まれないように、必死に自分を奮い立たせる。
「どうして、私なんですか」
「どうしてと言われても、それが僕の『天命』だからさ」
『天命』とは生きる意味そのものであり、人生において必ず達成しなければならない使命である。
したがって、AKITOの人生において、私と一生を共にすることがゴールであり全てなのだ。
私と一生を共にするために生まれ、そのために生きて、そのために死ぬのだ。それ以外の選択肢なんて彼には存在しないのだ。
――本当か?
果たしてそんな『天命』が存在するのだろうか。
これで私の『天命』がAKITOと結ばれることであったのなら、まさしく彼との出会いは天によって仕組まれた宿命であっただろう。
しかし、私は『悪魔の子』である。『天命』なんて知らない。私の生にどんな意味があるのかも分からない。
それなのに、AKITOの運命の人として私が選ばれるのは不自然ではないか。
「すいません。私にはまったく心当たりがないのですが」
「礼奈さんに心当たりがなくても、きみと一緒になることが僕の『天命』だから、諦めて僕のものになってよ」
「諦めろって……そ、そんなこと言われても気持ちの問題とか、ありますし」
「僕じゃダメかな?」
「その前に、段々と近づいて来るの止めてもらっていいですか?」
話している最中にも段々とにじり寄って来るAKITOに気圧された私は、じりじりと後退していく。
私の指摘通りにAKITOは近づくのを止めたが、いつの間にか私を抱きしめられる程の距離まで接近していた。端整な顔立ちが目の前に現れて、免疫のない私はどこを見てよいのか分からずに視線を彷徨わせる。
そこで、ふと疑問が浮かんできた。
「もう一つ質問があるのですが、どうやって私を見つけたんですか? 特定した経緯を詳しく」
極力、AKITOの顔を見ないように顔を背けて話し掛ける。AKITOの顔を見ていると何だかこっちが恥ずかしくなってしまい、上手く話が出来ないから。
だが、それがいけなかったのだろう。
「君と、此処で、こうして出会うことが運命だったんだ」
耳元で気障ったらしいセリフを甘い声で呟かれ、思わず顔が熱くなり不自然に引きつる。小さな悲鳴を上げて、今度こそAKITOとの距離を取った。
AKITOはイタズラが成功した子供のように意地悪そうに笑っているが、初対面の人との距離感を考えない無神経さに警戒心の方が強まる。
AKITOには悪いが、いくら『天命』だからと言って大人しく従うつもりはない。
どう考えても、AKITOの相手として私は爆弾を抱え過ぎている。
「真面目に答える気がないのなら時間の無駄ですので、ここで失礼させていただきたいのですが」
「素っ気ない顔も可愛いね……あーごめんごめん、ちゃんと答えるから行かないで」
AKITOはそう言って、黙って横を通り抜けようとした私の腕を掴む。
私はやんわりと掴まれた腕を振り払いながら、ため息をついて仕方なくAKITOの話を聞くことにした。
「まず、前提条件として運命の人ってのは最初から一人に決まっているはずだろう?」
「大抵は一人ですね」
「前提条件からして受け入れられてない? 礼奈ちゃん、その歳でもう冷めちゃってるの」
さん付けからちゃん付けに変わった。物理的な接近がダメなら精神的に近付こうという魂胆であろうか。
「で、その運命の人が松崎礼奈ちゃんなんだけど……感覚的なものだから説明が難しいな。前世で付き合ってた彼女の生まれ変わりが運命の人で、僕は前世のことを覚えていないけど、現世でもその彼女と付き合いたいと思っている。そんな感覚なんだ。それで、テレビに出て有名になれば探しやすくなるかなって」
「言葉にするとなんだか陳腐ですね。アレ見ましたよ。AKITOが運命の人を探すとか言って、街ゆく女の子を口説くだけの番組。煽るだけ煽って結局違いましたって酷い茶番でした」
「その方が盛り上がると思って。それにしても、見つけるの大変だったんだよ? 人もお金も沢山使ってさ」
「そういう話は反応に困ります……」
AKITOの説明に私はなんとなく理解を示したが、ちょっとした疑いのようなものを感じていた。
私が知っている『天命』はAKITOのように具体的なものでなく、様々な解釈を考えられるものが多い。
多恵子の『たくさんの人の病を治す』という『天命』を例にとっても、『たくさんの人』は具体的に決まっている訳ではなく、病を治すことに関しても外科や内科、創薬などの手段が考えられる。
静香の『物語を書いて人に感度を与える』という『天命』も同様に、誰にどういった種類の感動を与えるのか明白ではない。
であるのに、AKITOの『天命』が『運命の人=松崎礼奈と一生を共にすること』であるのは不自然に思う。『天命』について分かってないことの方が多いため、一概には言えないが。
「納得できない部分もありますが、大体は理解しました。AKITOさんは納得してるんですか? 『天命』だからとはいえ、どこの馬の骨とも分からない私のようなのが相手なんて」
私の質問にAKITOはしばらく考え込んだ後、私の肩に両手を乗せてまっすぐこちらに顔を向けてきた。その表情には先程までのようなヘラヘラした笑みはなく、真剣な眼差しで私の目をじっと見つめてくるものだから、私は緊張して狼狽えてしまう。
「僕は礼奈ちゃんじゃないとダメなんだ。それに、君のことはよく知ってるよ」
「今日初めて会ったのに、何を知ってるって言うんですか?」
「きみのことなら大体のことは知っている。松崎礼奈、16歳。7月16日生まれ。血液型A型。私立天野森高校二年二組。幼少期に姉の影響でピアノを嗜む。中学校時代は部活動でバドミントンをやっており、最高成績は県大会ベスト8。凄いね。高校に入ってからは勉学とバイトに勤しんでおり、仲の良い友人三人と一緒にいることが多いみたいだね。他にも――」
「ちょっと、いったん止まってください!」
AKITOが得意げな表情で私の経歴を話し始めたので、恐怖から肩に乗った手を払いのけて一歩後ろに下がる。
どうやって調べたのか分からないが、AKITOは私の個人情報を一通り知っているようだった。
SNSやブログなど、個人を特定されるようなものは一切使っていないはずなのに、情報化社会って怖い。
「そういうの世間一般ではストーカーと呼ぶと思います」
「……違うよ? なにせきみは運命の人だから」
多少の沈黙の後、AKITOがさらっと爽やかな笑顔で答える。
運命で私の個人情報を知られてはたまらない。突然のストーカーじみた発言に頭の中に危険信号が走る。
一体どこまで知られているのだろうか。
私が『天命』を持たない『悪魔の子』であることは家族しか知らないはずだ。
一般的に自分の『天命』を言う機会はないため、上手く立ち回っていればバレることはない。
そして、私は上手く立ち回っている方だと自負している。
「運命の人だか何だか知りませんが、それで何をしても良いとは思わないでください!」
「あっ、ちょっと!」
それでもなんだか怖くなって、AKITOの制止を躱して一直線に駆け出す。
途中まで追いかけてきていたようだが、背中に感じていた気配が遠ざかっていく。中学まで運動部に入っていた私の走りには付いて来られなかったようだ。後ろを振り向くとAKITOの姿は見えなくなっていた。
少し早めにバイト先へ到着した私は、走って疲れた体を休めるようにゆっくりと深呼吸をする。
それにしても、大変な目に遭った。
これで諦めてくれたら良いのだが、AKITOの『天命』が事実であったのならば、これからもアプローチが続くのだろう。それ程までに『天命』を成し遂げようとする人の執念には驚くべきものがある。人が食事を我慢し続けることができないように、『天命』を成し遂げようとする生理的欲求に抗うことは出来ない。
いっそのこと諦めて受け入れてしまおうかとも考えたが、それにはリスクが大き過ぎた。『悪魔の子』という爆弾を抱えている以上、高望みはせずに人並の暮らしをするのが私の理想とする人生だ。
生きる意味も分からないまま同情されて生きていく人生なんてまっぴらだし、自分のことで精一杯なのにAKITOの事情になんか構っていられない。
考え事をしている内にバイトが始まる時間になったので、気持ちを切り替えるように「よし」と声を出して仕事場に向かう。
「いらっしゃいませ!」
さっそく最初の客がやってきたので、私は営業スマイルを向けた。
すると、そこに立っていたのはサングラスを掛けた大男。まさかとは思ったが、案の定、先程別れたはずのAKITOであった。
「やぁ、礼奈ちゃん。また会ったね。やっぱりこれは運命だ」
AKITOはわざとらしく驚いた表情をしているが、どう見ても演技と分かった。
バイト先を知られている可能性も考慮していたが、こうして店までやって来るとは思わなかった。
私がバイトをしている中岡食堂は個人経営の定食屋さんだ。ここの店主の『天命』が『小さなお店をひらくこと』だったため、夫婦二人で小さな定食屋をひらくことにしたと聞いている。
中岡食堂は老若男女に人気の、地元民のお袋の味として知れ渡っている。しかし、そんな地元民御用達の定食屋に、都会暮らしのAKITOが偶々入ってくるとは考えにくかった、
私はAKITOを空いている席まで案内した後、用意したお冷を乱暴に叩きつける。
「私に好かれたいんですか、それとも私を怒らせたいんですか。後者だとすれば大成功ですね」
「まぁまぁ、そんな怒んないで」
「チッ……お客様、ご注文お決まりですか?」
「どんどん言動がフランクになって僕は嬉しいよ」
私の態度をどこまでもポジティブに受け取るAKITOに腹を立てるが、AKITOは気にすることなく続ける。
「シフトって九時までだよね? 女の子の一人歩きは危ないし家まで送っていくよ。駐車場に停めてある青い車で待ってるからさ」
そう言って窓から見える青のセダンを指差す。この男と帰る方が危険を感じるが、真面目に話をするのも馬鹿らしくなったので無視を決め込んだ。
しかし、勤務時間中であるため、こんな男にでも最低限の接客をしなければならない。
私が語気を強めて注文を聞き返すと、AKITOは乾いた笑みを浮かべながら本日のおすすめを頼んだ。
「あと、最後にスマイル一つ」
そんなAKITOの軽口に対して一喝入れる寸前、厨房の方からやけに熱い視線を感じて思い止まる。その代り、私は他の客が来ていないことを確認してニッコリ笑うと、迷わずAKITOの足を踏みつけた。
怒ったかなと思いAKITOを見つめると、痛がる素振りすら見せないで平然とこちらを見つめ返してくる。
そうまでしてこんな年の離れた面倒な女に愛嬌を振りまくなんて、AKITOは本気なのだろうか。AKITOの気持ちを試している私は何様のつもりなのだろうかと、自己嫌悪に陥りそうだった。
私は何だかいたたまれなくなって、逃げるようにその場から離れるのだった。
「あのハンサムはどなた? 知り合いかい?」
厨房に行ってオーダーを伝えると、作業していた店主の奥さんがAKITOの方を見て質問をしてくる。
私とAKITOのやり取りを最初から見ていたらしい。オープンキッチンのため厨房からでもホールの様子が良く分かるのだ。
当然、ここで話していてもホールにまで声が届いているようで、先程からAKITOが嫌な笑顔でこっちを見ている。
「今日突然話しかけて来たストーカーです」
「あらあら、礼奈ちゃんも隅に置けないのねぇ」
「おばちゃん違うって! 本当そういうのじゃないから」
「そうかいそうかい。それにしてもどこかで見たことある顔だねぇ」
店主の奥さん――おばちゃんはそう言ってAKITOの方を見て記憶を探っているようだ。
AKITOの正体がバレたらマズイと思った私は「ほら、注文来てるから」と言っておばちゃんの注意を逸らすのだった。
九時にバイトが終わり、お店を出る頃には九時半を回っていた。
にもかかわらず、AKITOは食堂を出てからも外の車でずっと私を待っていたらしい。
そして現在、私はAKITOと二人っきりで夜道を歩いている。
「遠慮しなくても車で乗せてくのに」
「私のことは放っておいて、さっさと車で帰っていいですよ」
「礼奈ちゃんのいけず」
歩きながらAKITOが会話を試みようと話しかけてくるが、私はまったく取り合わなかった。
私の一歩前を歩くその背中を見つめる。私の家に向かっているはずであるのにAKITOが先を歩いている状況に、もはやツッコミをする気力もない。
AKITOが例え危険人物であったとしても、社会的地位もあるので馬鹿な真似はしないと信じたい。直接的な害がないからと言って放置しておくのが最善であるとは言えないが、他にどうすればいいのか見当もつかなかった。
無言で三十分ほど歩いた頃、何事もなく私の家に到着した。
私は玄関の鍵を開けて滑り込むように中に入ろうとするが、その前にAKITOが声を掛けてくる。
「明日も学校帰りに待ってるから」
「待たなくていいです。遠回りして帰るので」
「礼奈ちゃんが心配で学校まで迎えに行っちゃうかも」
「っ――分かりました。待ち合わせをしましょう」
学校で待ち伏せされて周囲にあらぬ噂を立てられたりしたら、色々と取り返しがつかなくなる。未だに身の振り方が分からない状況なのだ。慎重に話を進めたい。
半分脅しのようなセリフに私は折れる他なかった。
「そうこなくっちゃ。それじゃ明日午後五時に駅前集合で」
そう言って笑うAKITOを横目に、私は玄関の扉を閉めるのだった。