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魔王が紡いだ御伽噺(フェアリーテイル) ~tutelary編~  作者: シオン
~tutelary編~ 第一章「影と幻」
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第四話『Kreuz Keuschheit』

 背中に刻まれた十字架は、一生消えることはない。

 黄泉の國をさ迷う私がわけも分からず、ただこれだけは離してはならないと言う感覚に従って抱えている双剣。

 双剣が納められている革製の鞘には、ドイツ語で〈Kreuz Ke(十字架)uschheit(の処女)〉と刻まれていた。

 一度たりとも抜剣したことのないその双剣に導かれるように、私は黄泉の國をさ迷い続ける。

 絶え間なく疼く背中の傷は、私の中から消え去られたすべてを思い出させようとする。

 だが私が思い出せることは何一つなく、あるのはやり残したことがあると言う不確定曖昧な感覚のみ。

 双剣から放たれる感覚と、背中の十字架から伝わる感覚の二つに従い、私は裸足で歩いた。


「やっほ、愛梨ちゃん。あれ、今日は深影ちゃんいないんだね」


 徹頭徹尾様子のおかしかった深影が集合場所の広間を後にしてから数日が過ぎた。

 何事もなかったかのように一番早く到着した愛梨は、一人古そうな分厚い本とにらめっこしている。

 そこにまだ眠たそうな優を連れたコロナが現れた。

 しかし二人の到着にも気づかず、愛梨は以前古い本に目線を固定している。


「おーい、愛梨ちゃん? どうしたの?」


「……ふぇ、あ、お、おはようございますっ!」


 ようやくコロナの声に気づき、反射的に頭を下げた愛梨。

 しかし目の前にあるのは言うまでもなく分厚い本だ。

 本に思いっきり顔面をぶつけ、ソファの上で悶絶している。


「……ねえ、深影ちゃんの次は愛梨ちゃんなの?」


「深影さんも、愛梨さんも……おかしい……」


「え、ああ、ごめんね……何か食べる?」


「それより、白夜ちゃん起こしにいかなくていいの?」


「あっ、忘れてたっ……ありがとうコロナちゃん!」


 いつもなら絶対に忘れないはずなのに、いつも起こす時間より三十分もオーバーしている。

 幸い今日は休日だが、白夜は目を覚ますまで時間がかかる。


「ん……お前達だけか?」


「あ、深影ちゃんっ!」


 愛梨と入れ違いで、深影が広間に入ってきた。

 これで残るはまたモノクロだけだ。


「ちゃんをつけるなと言っているだろう……」


「おはよう皆。おや、深影君じゃないか。今日も早いね」


「俺は一番遅いと思っていたが……いつもならもっと早く起床している貴様がどうした?」


「す、すみません……私が起こす時間を誤りまして……」


「たまには自分で起きる練習でもしろ。愛梨に頼りすぎるからこうなる」


 部屋の入り口に近いソファにどかっと座り、足をテーブルに上げる深影。

 いつもと同じように見える深影だが、少し落ち着かないようにも見える。


「あ、愛梨、俺が昨日渡したままの本だが……」


「あ、はい! ちゃ、ちゃんと保管してあります。肌身離さず持っていましたので……」


 やはり愛梨の持っていた本は深影のものだった。

 優は子供なりに次の展開を予想し、コロナを連れて広間を後にする。

 白夜も何となく雰囲気を察し、転移魔方陣を使ってその場から消え去った。


「そうか、すまないな。迷惑だっただろう?」


「い、いえ! そんなことないです。あれから辞典で調べながらちょっとずつ読み進めてみました」


「努力家だな、お前は。よければこのまま貸しておく。それで感想を聞かせてくれ」


「い、いいんですか? た、大切に読ませていただきます! ……って、か、感想ですか?」


 愛梨の両手に収まる古い童話の表紙を撫でて、深影は昔を思い出すように目を細めた。


「ああ、昨日、この本を書いたのは幼い頃の姉だと言っただろう?」


「あ、あの……お姉さんのこと……」


「……お前になら話してもいい。何故かそう思えたんだ」


 初めて見た深影の優しそうな表情。

 愛梨は思わず顔を赤くし、小さく胸を押さえた。


「俺なんかより、お前のような子に読んでもらった方が姉も喜ぶはずだ。俺の代わりに姉に感想を聞かせてやってくれ」


「……分かりました、じゃあ最後まで読んでみますね」


 深影と深影の姉の思いが染み込んだ古い童話を抱き締め、愛梨は無邪気な笑顔を浮かべた。

 深影はそんな愛梨の頬に手を添え、ほんの少し、本当の少しだけ頬を緩めた。


「……二人だけ……?」


「「っ……!?」」


 揃って飛び上がる二人の後ろで、黒いローブを被ったモノクロがずっと立ち尽くしていた。

 恐らく二人のいい雰囲気を邪魔しないようにと、気配を殺して待っていたのだろう。


「い、いたんですかモノクロさん……」


「盗み聞きとは、白夜には劣るが悪趣味だな……」


「そ、それは酷くないかい? 僕は一度も盗み聞きなんて……」


「貴様は存在自体が気に食わん」


 項垂れる白夜に続き、部屋の外で顔を真っ赤にしながら隠れていたコロナと優が入ってくる。

 これでようやく、今日も〈tutelary〉全員集合だ。


「え、えっと、朝ご飯を作ってきますね。深影さんは──」


「これからは毎回貰う。だからいちいち聞くな」


「は、はいっ!」


 きつい言い方をされたのにも関わらず、愛梨は跳び跳ねるように厨房へと向かった。

 深影は相変わらずテーブルに足を乗せ、そっぽを向いていた。


「そう言えば深影君、憤怒の死神サタンは知ってるよね?」


「知らない契約者がいると思うか?」


「そうだよね。そのサタンが最近強力な神機を手に入れたんだって」


「下らん。それにアンドラスの君主はベルフェゴールだ。サタンは俺に関係ないだろう」


「それもそっか。聞いたこともない神機の名前だったから、ついね」


 皇クラスの中でも群を抜く力を持つフラガラッハを携える契約者が、今更名前の知らない神機ごときに何を危惧することがあるか。

 深影は鼻で笑って切り捨てようとしたが、次の瞬間、深影の呼吸が止まった。


「その神機がね、ティソーナって言うんだって」


「……ティソーナ、だと……?」


 闇を照らすたいまつの意味を持つその名前は、幼い頃の深影の記憶に深く刻まれている。

 何故その神機がサタンの手に渡ったのか。


「そ、その他にサタンが手に入れた神機は?」


「ううん、それだけだよ」


「そう、か……ではまだ、封印されたままか……」


「その様子だと、ティソーナと言う神機について詳しく知ってそうだね」


「……ティソーナは、死んだ姉の形見だ……」


 姉の墓に供えていたはずの神機がティソーナだ。

 本来は〈次元歪曲〉を使いこなせても、墓を見つけ出すことは至難の技。

 姉の墓が存在しているのは次元の狭間の深層部だ。

 絶対に誰も近づけないような場所にあったはずの神機を、どうしてサタンが手にすることが出来たのか。


「形見なら取り返さなくちゃね」


「貴様には関係ない。俺一人で取り返す」


「もー、そんな時くらいは協力させてよ深影ちゃ──」


「お前達には関係ないッ!!」


 深影から放たれる威圧感が、深影の意識とは関係なく魔力の波となり、コロナを吹き飛ばした。

 変身した優に受け止められ、コロナは体を硬直させたまま目に涙を溜める。


「……この件には関わるな。お前達を危険な目にあわせたくない」


「ど、どうしたんですか深影さん? いきなり怒鳴り声が聞こえて……」


「すまない、俺の分は冷蔵庫にでも入れておいてくれ。しばらく顔を出せないかも知れん」


「ま、また戻ってきますよね……?」


「無論だ。今度は一緒に本を読もう」


 愛梨の頭に手をおくと、深影は次元の狭間を開いてその場からいなくなった。

 せっかく初めての料理に挑戦したのにと、愛梨は残念そうに厨房へ戻った。


「ビーフシチュー頑張ったのにな……深影さんのバカ……」


 頬をぷくーっと膨らませると、愛梨は先ほど自分の頬に触れた深影の手の温もりを思いだし、無意識に顔に熱が帯びた。


「……ここが仮想空間ですかぁ。殺風景な所ですねぇ」


 無数のタイルが全方位を囲む殺風景な空間。

 漓斗とアザゼルは未だにこれから戦うと言う実感が持てず、その場に立ち尽くしていた。


「ここで殴り合うのか。……と言っても、変な感じだな」


「パートナー同士が争うなんてぇ、考えられませんねぇ」


「強くなる為とは言え、お前をこの手で傷つけるのかと考えると胸が痛む」


「そうですかぁ? 私は痛みませんよぉ。ここは仮想空間ですよぉ? ここで死んでもぉ、それは夢として片付けられますぅ」


 漓斗のように誰もがそう割り切れるものではない。

 アザゼルは揺らぐ気持ちを抑え込み、拳を握った。


「さぁ、行きますよぉ」


「ああ、来るがいい」


 おっとりとした漓斗の眼差しが、瞬時に契約者のそれへと変貌した瞬間、アザゼルの腹に漓斗の拳がめり込んでいた。

 まさに先手必勝、漓斗は渾身の一撃にすべてを込めた。


「……そんなものなのか? お前の力とやらは」


「……やはり、そう簡単には決めさせてくれないですよねぇ」


「ここは仮想空間だ。死んでもそれは夢として処理される。その事実を飲み込めていないのはお前の方じゃないか?」


「何の寝言ですかぁ? まだ本調子じゃないだけですぅ」


 殴り込んだ拳を地面へとスライドさせ、逆立ちの要領で横回、回し蹴りの連打を浴びせた。

 しかしアザゼルはそれを手刀で難なく払い、漓斗の足首を掴んでいとも簡単に投げ飛ばす。


「流石はアザゼルですねぇ……」


「お前も体の使い方が上達しているな」


 空中でバランスを整えた漓斗は、バックステップで距離をとって綺麗に着地した。

 効いているかどうかは除いても、アザゼルと一体化している時とほとんど変わらない身体能力で動けている。


「今度はこちらから行かせてもらうぞ」


 強く地面を踏み込んだアザゼルは、氷上を滑るような軽やかなステップで漓斗の背後をとる。

 だが漓斗も素早く反応し、払い蹴りの勢いで振り返ったが、そこにはもうアザゼルの姿はなかった。


「〈暗殺魔術(アサシン・スペル)〉っ……!?」


「堕天使の帝ともあろう俺がジャパニーズの殺法を知らないはずがないだろう」

 

 パートナーであるアザゼルの能力を、漓斗が完全に理解していなかっただけ。

 アザゼルにはまだまだ可能性があるのに、漓斗が活かせていないだけ。

 それを突きつけるように、アザゼルの魔術が漓斗の隙を誘った。

 背中の真ん中に直撃したアザゼルの蹴りは、漓斗の体を海老反りに折って吹き飛ばした。


「かはッ……痛みは、感じるんですねぇ……っ」


「他にもまだまだ使える魔術はある。だが今のお前ではどれも手に余る。いくらお前が器用とは言え、すべてを覚えることなど不可能だ」


「では、もう一度今の技を見せてもらいましょうかぁ。次で私のものにして見せますよぉ」


「好きにすればいいが、〈暗殺魔術〉は一つ間違えれば肉体に多大な負担をかけることになる。下手をすれば、体を壊すぞ?」


「ここは仮想空間ですぅ。死んでもそれは夢として処理されるのにぃ、その事実を飲み込めていないのはあなたの方じゃないですかぁ?」


 アザゼルの言葉をそのまま返し、漓斗は再び距離をとった。

 確かに手に余るかもしれないが、体に直接負荷がかかると言うことは複雑な術式を用いるものではないはずだ。

 アザゼルは素直に漓斗の挑発に乗り、再び〈暗殺魔術〉を発動して漓斗に接近した。

 それも漓斗が背後へ振り向かないことも計算に入れてだ。

 アザゼルが現れたのは漓斗の真正面、漓斗は咄嗟のことで反応が遅れ、単純なストレートパンチをもろに腹に受けた。


「あぐぅッ……くぁ、ぐ……や、やはり貴方は……面白いですぅ……ですが、これで読み切りましたよぉ」


 思いの力がすべてを左右する仮想空間、漓斗はその法則を利用して腹を殴られた痛みを消し去った。

 思いの力を左右することは、即ちこの空間の支配を意味する。

 先ほど真正面に来てくれたおかげで、アザゼルの動きをよく観察することが出来た。


(アサシンの魔術は大きく分けて二つのタイプがありますぅ。一つは決められた領域を一定時間支配するものでぇ、もう一つは自分の肉体の密度(・・・・・)を操作するものですぅ)


 つまり先ほどアザゼルが見せた、瞬間移動とも錯覚するほどのスピードは前者。

 漓斗の周囲の領域を支配し、その領域の中にいる漓斗の反応速度と身体能力を大きく引き下げた。

 つまりアザゼルが早くなったのではなく、漓斗が遅くなったと言うことだ。


「暗殺とは本来、相手と戦って殺すことを目的とせずにぃ、相手に悟られず命を奪うことが目的ですぅ。つまり影響を受ける対象は自分ではなくぅ、相手と言うことですよねぇ」


「それがどうした? 一度領域に入れられてしまえば、お前はもう俺にはついてこれない」


「相手にかける魔術なんですからぁ、当然リスクやコストがかかるはずですぅ。例えば領域支配系なら相手をその領域に入れる時ぃ、相手と一定以上距離をあけてはならないとかぁ」


「見事な推理力だな。確かにアサシンには一つ一つの魔術に制限がある。だがそうだとしても、お前はどうやって逃れる?」


「逃れるぅ? 何をバカなぁ、逃れるのではなくぅ、迎え撃つんですよぉ」


 さっき言いましたよねぇ、と漓斗はいやらしく口元を歪めた。

 いつも穏やかで柔らかい物腰の少女が見せる悪魔のような微笑みは、堕天使の帝でさえも悪寒を禁じ得なかった。


「読み切りましたよ、とねぇ。……もう、私には通用しないと言ったんですよ」


(猫を被った口調をやめたか。ならばそろそろ来るな)


 一つの種族の頂点に立ち、玉座でふんぞり返っている貴方には分からない。

 最底辺で歯を食い縛り、泥をすすり生きてきた者の思いなど。

 微塵の愛情も与えられず、空白を生きてきた者の気持ちなど。


「私がヒルデさんとグリムさんを探すと決意した時、貴方は北極で言いましたよね」


 本来まず何をすればいいのか、パニックに陥ってもおかしくないあの状況で、漓斗は正確にやるべきことを自覚していた。


『臨機応変だな。前にもこんな経験があったのか?』


「いいえ? こうしなければ死ぬと言う状況におかれ続けた為に身に付いた存命術ですわ」


 自力で食いつかなければ、一瞬で振り落とされる。

 誰かに差し伸べられる偽善の手など触れたくもない。


「貴方には一生分かりません。世界から切り離された者の気持ちなんてね……分かられたら困るんですよ……」


 すべてを嗤い、すべてを踏みにじり、すべてを跪かせる。

 それこそがアザゼルと契約した理由。

 アサシン、領域支配系の魔術を二人は同時に発動した。

 互いの反応速度が同時に低下し、鈍重と化した世界で二人は互いへ向かって腕を伸ばす。

 体がひどく重たい、魔術の仕組みを理解してから余計そう感じる。


(私と貴方は正反対の存在としてこの世に生まれた……私は貴方が羨ましくて仕方がない……!!)


 鈍重な世界であらかじめ用意しておいた解術(デイスペル)の術式を発動した。

 解術とはその名の通り、かけられた魔術を解除するものだ。

 しかし反応速度と身体能力を低下させられた今では、それを発動するにも時間がかかる。

 だからあらかじめ発動するように設定しておいたのだ。

 アザゼルの空間支配から解放され、漓斗は今までの重たさを振り払うようにお返しの蹴りと拳を叩き込んだ。


「……ふむ、やるようになったな」


「っ……ノーダメージ……!?」


「確かにアサシンの魔術はマスターしたようだな。だがもう一つ、アサシンにはタイプがある。空間支配系が相手にかけるものならば、密度操作系は自分にかけるものだ」


 つまりアザゼルは自分の肉体の密度を操作して、海里華や遥香には及ばずとも、体を流体に限りなく近い状態に変化させたわけだ。


「これには少しコツがいる。何せ肉体の性質を変化させた状態でそれを維持しなければならないからな」


「……どうせ、私がどれだけ魔術を駆使したとしても、貴方にはそよ風が吹いたほどしか感じない……どうして……?」


「お前と俺の思いの差だ。簡単な話、俺の思いの力がお前の思いを凌駕していると言うだけ。お前には明確な願いがあるだろう?」


 〈soul brothers〉にいると知った腹違いの妹と、もう一度やり直したい。

 意地を張って拒絶してしまった唯一の家族と、もう一度会いたい。

 だが恨まれているかもしれないと考えると、どうしても決断出来ないのだ。


「何が怖い? 自分よりも先に四大チームのステージに上がっていたからか? 失望されることが怖いのか? 違うだろう」


「ええ……私が怖いのは……期待を裏切られることが……次に裏切られたら、黒音さん達のことまで信頼出来ないようになる気がして……っ」


 やっと、ようやく信頼出来る仲間に出会えたと言うのに、もし妹に拒絶されてしまったら。

 次こそ本当に心の扉が開かなくなってしまいそうで。


「恐れるな、立ち向かえ。俺はお前より何前年も長く生きている。その中で仲間に裏切られた回数など数え切れん。それでも俺は今いる仲間のことを信頼して一つの種族を背負っている」


「……貴方のことを、私は少し勘違いしていたのかもしれません。地位に恵まれているからと、力があるからと。でも、貴方も同じなんですね」


「俺はお前が羨ましい。何にも縛られず、自由に生きているお前が」


 アザゼルが、私のことを羨ましい?

 私は決して自由なんかじゃない。

 むしろ過去に縛られて毎日が苦しいくらいなのに。


「高い地位だからと言って、必ずしも恵まれているとは言えない。地位が高い分、それだけ自由が利かんのだ。だがお前は自分のしたいことをしたいだけやれる。何のしがらみもない」


「そんな……私は……」


「もっと自分に自信を持て。いつもの調子はどうした? 澄ました笑顔で俺を罵ってみろ」


「う、うぅ……あ、アザゼルのバカっ!」


 ……とてもいつもの調子とは言えないが、今の漓斗にはこれが精一杯だった。


「ここからが本番ですからねぇ。絶対に負けませんよぉ!」


「臨む所だ。さあかかってこい!」


 上下、左右、前後と言う概念が存在しない次元の狭間。

 黒いブーツの靴底の音が響くこともない虚ろな空間で、深影は少しばかりの後悔と自責の念を誤魔化しながら、迷宮のような狭間を一切迷うことなく進んでいた。


『……コロナが可哀想……』


「分かっている……だが巻き込んで大怪我を負えば、今度は優が悲しむだろう」


『貴方はいつもそう……そうやって重荷を全部一人で背負おうとするんだから……』


「それが俺に出来る償いなんだ。俺は死ぬまで苦しむ。そして苦しむのは俺だけで十分だ」


 ぐにゃりと歪んだ次元の狭間を抜けると、深影は狭間の深い場所へとさらに潜っていった。

 光は愚か、音すらも届かない虚無の深淵。

 そこに姉の墓はぽつんと存在していた。


「やはり……ティソーナだけがない」


『でもコラーダは忘れたようね……クスクス……コラーダがないとティソーナは使えないと言うのに……』


 深影は墓の影に隠れた一振りの長剣を腰に差した。

 それは光を飲み込む洞窟の異名を持つ剣、コラーダだ。


『コラーダを餌にサタンからティソーナを取り返す……そこまではいいけど、どうやってサタンと接触するの……?』


「どんなことをしてでも探しだす。方法はいくらでもあるからな」


 だがそれ以前に、サタンは七つの大罪でも一二を争う力を持つ上に、誰よりも狂暴だ。

 もしコラーダを餌に呼び出せたとしても、コラーダが奪われないとは限らないのだ。

 もっとも確実に出会う方法は単体ではティソーナが使えないと理解してここに戻ってきてくれることだが……。


『仲間に頼ればいいのに……』


「俺なんかの為に死ぬ必要はない。どうせアイツらが加わったところで大した足しにはならんしな」


『なら白夜は……?』


「アイツにだけは頼りたくない。……まあ、どうしてもと言う時は一人だけ頼れる奴がいる」


『モノクロね……同じ死神で、ベルゼブブはサタンといい勝負……』


 だが素直に協力してくれるかは分からない。

 あの魔術師もどきは本当に何を考えているか理解出来ない。


『そうだ……あの未愛 黒音とか言う契約者に頼れば……? もうチームメートを全員揃えてるかもよ……?』


「白夜以上に頼りたくないな。アイツと再会する時は決戦の時と決めている」


 結局の所、誰にも頼る気はないのだ。

 頼れるのはパートナーのみ、信じられるのは自分のみ。

 深影は次元の狭間を通って直接冥界に行こうとしたが、見えないバリアのようなものが張られていてそれ以上は進めなかった。


「許可がなければ通れんと言うわけか。……この壁、壊せるものなのか?」


『そうね……これは神の壁だから、多分……』


「ふん……神など端から信用したことはない」


 試しに、ダメ元で魔力のこもった拳を叩きつけてみた。

 だが見えない壁はびくともせず、手が痺れるだけと言う結果に終わった。

 深影はその場にあぐらをかき、眉間にシワを刻む。


「やはりモノクロに頼むべきか」


『手をこまねきたくないならね……』


 次元の中からモノクロへと通信用の魔方陣を展開し、深影は咳払いを一つ。

 モノクロと繋がったことを確認して口を開いた。


「も、モノクロ……さ、さっきはすまなかった」


『……深影……? どうしたの……?』


「じ、実は、俺一人では冥界に行けないんだ。ち、ちち……力を、その……貸してくれないか……?」


『……普段からもっと頼ればいいのに……』


 今の深影にもっとも効果的であろう言葉が、魔方陣を通して放たれた。

 深影は胸を押さえながら歯噛みし、他にアンドラスしかいない次元の狭間で頭を下げる。


「た、頼む……」


『……分かった……大切なものを取り返したいと言う気持ちは……痛いほど分かるから……』


 何やら意味深な言葉を残し、モノクロが突如次元の狭間に割り込んでくる。

 深影の専売特許と言っても過言ではないそこに、モノクロは何の手間もなく侵入してきたのだ。


「魔方陣の反応を逆探知してきたのか。早くて助かる」


「……トリーズンの特性は〈次元歪曲〉……」


「神機を使ったのか。じゃあサタンの邸まで頼む」


 モノクロが先ほどの壁に触れた途端、最初からなかったかのようにすんなりと道が開いた。

 七つの大罪、憤怒を司る最強の死神の一柱、サタン。

 気性は荒く、殺し合うことが何よりも好きで、すべての上に立つことを好む狂王気質。


「深影よ、最初に言っておくぞ。サタンは俺とほぼ互角、モノクロの本気を知らないだろうから教えてやるが、サタンは強い。モノクロに頼ったのは正解だ」


「悪夢が死神に勝てる道理は存在しない、か……」


 現実を突きつけるようなベルゼブブの言葉に、深影は爪が食い込むほど拳を握り締めた。

 誰よりも強く、誰も越えられないほど強くなることだけが、自分にとっての生き甲斐だ。

 でも結局は誰かの力を借りなければ大切なものも取り返せない。


「……そろそろ着く……死ぬ覚悟は決まった……?」


「元より生きている意味もない。心残りは……愛梨と一緒に本を読めないことか」


「……なら愛梨も連れてくる……?」


「いや、いい。本来お前も危険な目にはあわせたくなかった」


「……人間らしくなった……」


「なに? 俺が、人間らしくだと?」


 質問されたことには最小限の言葉で答え、何一つとして自分のことを語らず、他人のことはもっと感心なさそうなモノクロが、深影のことを人間らしくなったと言った。

 今まででは考えられない一言だ。


「……形見……取り返せるといいね……」


 その時、初めてモノクロの口から感情のこもった言葉を聞いたような気がした。


(……まったく、人間らしくなったのはどっちだ)


 ローブで顔が見えないはずなのに、モノクロの表情が少し緩んだような気がした。

 冥界は死者の国と言われるだけあって、有害の霧が一面に漂っている。

 死神のモノクロには一切の影響はないが、悪魔の深影にはほんの一吸いで致死量に到達する。


「……深影……これを……」


 モノクロに差し出された立体的な魔方陣。

 深影はそれを受け取ると、口を覆っていた手を下ろした。


「毒の霧を無効化する術式か。悪魔には作れないものだな」


「……それをなくしたらすぐに死に至る……私から離れなければ問題はない……」


「分かった。ところで……どこにサタンの邸がある?」


「……ついてきて……サタンの邸はこっち……」


 モノクロとベルゼブブに導かれ、深影はサタンのいる邸へと向かう。

 もしかしたらこれから同じ死神と戦うかもしれないと言うのに、まったく恐れや緊張と言った様子が感じ取れない。

 肝が据わっていると言うか、無関心と言うか。


「……質問……いい……?」


「珍しいな。答えられることなら、何だ?」


「……何故白夜を嫌うの……?」


「嫌いだからだ。それ以上でも以下でもない」


「……あの人も貴方と同じ……」


 モノクロは〈tutelary〉に入隊する時、素顔で白夜と話したと聞いた。

 その時に白夜がジブリールと契約した理由を聞いたのだろう。


「お前は俺の目的を知っているのか?」


「……知らない……でも……過去に囚われて苦しんでいる所はよく似てる……」


「俺が苦しむのは償いだ。苦しめられているのではなく、苦しむことを自分で選択している。白夜とは違う」


「……やっぱり……同じ……自分で苦難を選ぶ所……」


 あの男は何の目的もなく、ただ魔王に選ばれてその地位に居座っているだけだと思っていた。

 だがそんな理由であそこまで強くなることは出来ない。

 どれだけ毛嫌いしていても、深影は白夜の強さを認めている。


「……着いた……ここがサタンの邸……」


 やはり死神の所有する土地と言うのは、悪魔のそれを遥かに超越している。

 悪魔が与えられた地位と土地が貴族と豪邸だとすれば、死神が与えられた地位と土地は王と城。


「……ベルゼブブ……」


「分かっている。おいサタン、いるか?」


 サタンの邸、と言うより城の入り口で、ベルゼブブが声を張り上げた。

 すると突如、扉を突き破って極太のレーザーが飛んでくる。

 破壊魔術の一種と見切った深影は、使い魔で神機のフリスヴェルグを展開した。


「フリスヴェルグ、特性発動」


 巨大な鳥の姿をした生物系の神機、フリスヴェルグは放たれたレーザーを胸で受け止め、それを吸収していく。


「……これは……無効化……?」


「少し違う。コイツの異名は"すべてを飲み込む幻影"、その名の通りあらゆる魔術をエネルギーとして吸収出来る」


「その声はベルゼか……俺様は今ご機嫌斜めなんだよ」


「お前はいつもそうだろう。少し訪ねたいことがあって来た」


 煙が立ち込める城の入り口から、一人の青年が現れた。

 赤と黒が混じった髪に、赤と青のオッドアイ。

 機械のような鱗に包まれた尻尾、背中には羽がなく、骨格のみの翼が広げられている。

 そこにいるだけで足元が崩壊するような恐怖を誘う。

 死神のツートップ、その片方。

 七つの大罪、憤怒を司る死神サタン。


「俺様に訪ねたいこと? しょうもねえことだったら消し飛ばすぞ」


「しょうもないことじゃない。お前の手に入れた神機についてだ」


「……あぁん……?」


 ……どうやらサタンの逆鱗に触れてしまったらしい。

 サタンがいつになく怒っている原因は、恐らくコラーダがいないことで使い物にならなかったティソーナだろう。


「あれは、俺の大切なものなんだ」


 あえて深影のものだとは言わず、ベルゼブブがサタンに探りを入れる。


「……まあいい、とりあえず入れよ。茶くらい出すぜ」


 ベルゼブブの真剣な表情でようやく怒りが収まり、サタンは骨のような翼を引っ込めた。

 サタンの部下に案内された応接間で、サタンは普段の深影のようにソファに座り込んだ。


「あの神機、まったく反応しやがらねえんだよ。何でなんだ?」


「それは……あの神機はもう壊れているからだ。だが俺が一時期一番好んで使っていたもので、今でもとってある」


「だから墓まで作ってたのか。お前が好んで使ってた神機ならそりゃあんな噂も立つわな」


 サタンはどうやら墓が深影の姉ではなく、神機の為に建てられたものだと勘違いしているらしい。

 だがそんなことよりも、気になることをサタンは言った。


「噂……? サタン、様……その噂とは?」


 使い慣れない敬語で、そもそも敬語と呼べるかも分からない口調で、深影がサタンに訪ねる。


「ああ、あの神機はジャパニーズの冥界に繋がる門だとか」


「日本の冥界……? 黄泉の國のこと、でしょうか?」


「そうだ、ヨミだ。そのヨミに珍しい女神がいるって聞いたもんでな。会ってみたいって俺のパートナーが言うんだよ。だからどうしても会わせてやりたかったんだが、肝心の神機が死んじまってるなら仕方ねえよな」


 サタンは部下の悪魔にティソーナを持ってこさせ、ベルゼブブへと投げつけた。

 それを片手で受け止めたベルゼブブは、深影を自分の部下のように見せかけて神機を渡す。


「お前の大切なモンなら返してやるよ。どうせ使えねえしな」


「すまないな、何の土産もなく急に来て」


「暇してたんだ、堅苦しいのは苦手だしよ」


「ならばよかった。おい、その神機を元の場所に戻してきてくれ」


「は、はい……畏まりました……」


 深影は最後まで慣れない敬語を使い、次元の狭間へと消えていった。

 モノクロとベルゼブブの協力のおかげで、サタンと戦うこともなく無事にティソーナを取り返すことが出来た。

 流石の深影でも、死神と戦っては無事で済まないし、モノクロだって同じだ。


「……もういいんじゃねえか?」


「何がだ?」


「あの人間、いや契約者と契約してたのはアンドラスだろ。アンドラスはベルフェの部下。あの神機は本当はお前のじゃなくて、あの野郎のモンだろ」


「……だとしたら、何だ?」


 前までは喧嘩っ早くて細かいことには気の回らないような奴だったのに、久しぶりに会ってみれば勘の鋭い奴になったものだ。


「いーや、使えねえ神機に興味はねえが、お前が俺に嘘ついてまで手を貸してやるほどの奴なのか?」


「俺の仲間なんだ。あの神機はあの青年の姉の形見……だからどうしても返してやりたかった」


「形見か……俺のパートナーもな、家族の形見を大切に持ってるんだ。正直にわけを話しゃあ普通に返してやったのによ」


「そうだったのか、お前のことだ。悪魔風情に神機を持つ権利はないとか言って強奪しそうなものだったからな」


「バカ野郎、俺にも守りてえパートナーが出来たんだ。ちったぁ丸くなるさ」


 荒っぽい所も喧嘩っ早い所も治ってはいない。

 だが少しは誰かの気持ちを考えるようにはなったようだ。


「ところで、お前のパートナーとは誰なんだ?」


「俺の相棒か。俺の相棒は──」


「サタン様、そろそろお時間です」


 サタンがパートナーの名前を口にしようとした瞬間、それを妨げるように部下の悪魔が時間を知らせる。


「……だってよ、悪ぃな。来てもらって悪いが、しばらく戻れそうにねえ」


「パートナーにでも呼ばれたのか?」


「その通りだ。また遊びに来いよ。そん時は久しぶりに力比べでもしようぜ」


「ああ、楽しみにしている。じゃあな」


 二人の死神が同時に転移魔方陣を潜り、その場から姿を消す。

 残された悪魔はコーヒーの入れ物を回収し、応接間を後にした。


「あ、モノクロちゃん、おかえり~」


「何かあったの……?」


「……問題ない……」


 転移魔方陣を潜って帰って来たモノクロを待っていたのは、いつの間にかまたブルーに陥った愛梨と、ビーフシチューを頬張るコロナと優。

 白夜はまた書斎に籠っているようだ。


「戻ったぞ、愛梨。俺の分はあるか?」


「あっ……深影さんっ!」


 魂が抜けたように落ち込んでいた愛梨が、深影の声を聞いた瞬間、息を吹き返したようにソファから飛び上がった。


「深影さんっ……深影さんっ……!」


「ど、どうしたんだ愛梨、お前らしくもない……」


 コロナと優の目も憚らず、愛梨は深影の胸に飛び込んだ。

 今まで我慢していた感情が涙となり、堰を切って溢れ出す。


「深影さんが、とても思い詰めた表情をしてたのでっ……もしかしたら、このまま帰ってこないのかとっ……」


「バカだな。約束しただろう、一緒に本を読もうと。それに俺は野暮用を片付けただけだ。それよりも腹が減った。早く俺の分を温めてくれ」


「はい、今すぐにっ!」


 愛梨と入れ違いで、書斎から白夜が戻ってきた。

 白夜は紅茶のカップを片手に、深影の肩に手をおいた。


「愛梨ちゃんってば、自分もご飯を食べすに君を待ってたんだよ?」


「何だと? 俺はしばらく顔を出せんと言って出てきたのに……」


「あの様子だったら、君が戻ってくるまで何日でも食べずに座ってそうだったよ」


 深影は毛嫌いしている白夜に触れられていることすら気にならないほど、愛梨のことが心配でならなかった。

 このまま自分が一人で行動して心配をかけ続ければ、愛梨はいつか体を壊してしまうかもしれない。


「お待たせしました、一緒に食べてもいいですよね? 嫌だとは言わせませんからね」


「ああ、好きにすればいいが、これからは待たなくていいぞ」


「好きで待ってたんです。一人で食べるご飯なんて、味気ないじゃないですか」


「お前と言う奴は、まったく……」


 愛梨の優しさが、どうしても素直に受け入れられない。

 この優しさに溺れてしまったら、楽になってしまう。

 一生苦しまなければならないと誓ったのに。


「ビーフシチューか……他人の作ったビーフシチューを食べるのは初めてだな……」


 深影がビーフシチューを口に運ぶ瞬間を、じっと見つめる愛梨。

 生唾を飲み込み、深影の言葉を待った。


「……うまいな……お前は本当に温かい」


「ふぇ、わ、私ですか?」


「お前といると癒されるんだ。自然と苦しくなくなる」


 半場告白のような言葉を、深影は真顔で連ねた。

 愛梨の顔が真っ赤に染まり、気絶しかけていることも構わず、ビーフシチューを食べる度に愛梨を褒め続ける。

 それはもう、聞いている白夜達まで恥ずかしくなってくるほどだ。


「これからも俺の陽だまりでいてくれ。影は光がないと生きられないんだ」


「はわ、はわわっ……あうぅっ……!」


「み、深影君……君はそう言うタイプなのかい……?」


 俗に言うクーデレと言うやつだ。

 本人にはその自覚がないようだが、出会った頃に比べればえらく優しくなったものだ。


「久しぶりに、いや初めてだな。俺も守護者らしく、護ってやるとするか」


 愛梨の頭に手をおいた深影の表情は、今までずっと陰っていた大地に太陽の光が差し込んだようだった。

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