第一話『shadow nymph』
誰かの気配を感知して、意識が引き戻された。
少し長いまつ毛が揺れ、本に隠されたまぶたが持ち上がる。
薄暗い視界に飛び込んできたのは、さっきまで読んでいた本の文字だ。
「ん……ぁ……寝て、いたか……」
「あっ……ご、ごめんなさいっ」
「お前……来ていたのか」
次に視界に飛び込んできたのは、申し訳なさそうに身を縮めるオレンジ色の瞳をした愛梨だ。
どうやら自分のせいで起こしてしまったと勘違いしているらしい。
とくに気を利かせる意味も理由もないが、今は仕方ない。
「暗い顔をするな、見ていて目障りだ」
「ひうっ……ご、ごめんなさい……」
……余計に怖がらせてしまった。
オレンジアイの瞳を涙で揺らす愛梨は、その時だけは年齢相応のか弱い少女に見えた。
こうなってくると、特に理由もないのに申し訳なくなってくる。
深影は精一杯の優しさを絞り出し、
「別にお前のせいで起きたわけじゃない。そんなことでいちいち暗い顔をするな。それよりも、あの胸くそ悪い男を起こすのはお前の役目だろう?」
「あ、はい! 失礼します!」
何故ここまで他人の為に気を回しているのだろうか、大方は自覚している。
久しぶりに幼い頃の夢を見たからだ。
深影は読んでいた本に使い古した栞を挟み、テーブルの上に放り投げた。
「およ、深影ちゃん!? 私達よりも早く来るなんて、すっごく珍しいね」
「いつも最後に来るのに……どうしたの……?」
「騒がしい……お前らには関係ない」
愛梨と入れ替わって広間に現れたのは、コロナと優の最年少コンビ。
二人は深影から見て右側のソファに仲良く座り、深影のことを珍獣でも見るような目で見つめた。
自分達よりも早く来ていることが不思議でならないのだ。
だが二人の意識はすぐに違う方へ移り変わる。
「あれ、モノクロさんがいない……」
「いつもはいつの間にか来てるんだけどな」
「皆お待たせ──あれ……まだ寝ぼけてるのかな……深影君の幻覚が見える……」
「貴様は普段から寝惚けているだろう。はあ……貴様の顔を見ると吐き気がする」
「もう深影さん、チームリーダーに向かって口が悪いですよ」
どうやら本当に深影がいるらしいと理解した白夜は、何度も目を擦りながら広間の中心にあるソファに座った。
「これだと、モノクロちゃんが最後か。今日は本当に珍しいね」
「本当ですね。いつも私かモノクロさんが一番早くに来ているのに、いつも一番遅くに来る深影さんが一番早くて、モノクロさんが最後だなんて」
「……遅れた……」
噂をすればなんとやら、漆黒の転移魔方陣をくぐって黒いローブを被った少女が現れた。
〈tutelary〉の中では白夜しか知らないモノクロの正体。
コロナと優は何とかその顔を見ようと目を細めるが、顔が見えないように魔術で隠しているようだ。
「僕……モノクロさんの声、久しぶりに聞いた気がする……」
「私もだよ……ねえモノクロちゃん、何であまり喋らないの?」
気になったことはその場ですぐに聞く。
空気を読まずに質問出来るのは、幼い子の特権だ。
「……苦手だから……」
「なんだ、苦手でも喋れるんだ」
「ちゃんと答えてくれた……♪」
「二人とも、あまり詮索はしないであげてよ?」
「「はーい」」
こうしてチームメートが全員集まるのは、ただ紅茶を飲んで談笑したり一緒にご飯を食べたりする為だけだ。
深影は今までその行動に意味や価値を見出だすことが出来なかったが、黒音と戦ってからその考えが少しだけ改められた。
「皆さん、朝食はまだですよね。深影さんはどうされます?」
「……ああ、貰おう」
「……ふぇっ!?」
「何だ、お前から聞いておいて」
「い、いえ、分かりました。で、では作ってきますね」
あまりにも意外すぎた為、白夜は顎が外れたようにあんぐりしていた。
「み、深影君、どうしたんだい急に?」
「も、もしかして……熱があるの……?」
「……触れるな。熱などない」
優が額に触れようとした瞬間にいつもの冷たい深影が現れ、一同何故か安心する。
優はいつも深影が怖くてびくびくしていたが、いつものようにマスケット銃が向けられずにとにかく安心していた。
「ね、ねえ深影ちゃん、一体何に影響されたの?」
「ちゃん付けするな、不愉快だ。俺はただあの男の力の源を知りたいだけだ」
「あの男って、黒騎士のことかい?」
「そうだ、あの男は下らん友情や絆などを大切にしている割に、他の契約者とは違う魅力がある。それこそ、伸び代が計れんほどに」
深影が気紛れで一度だけ開戦の空に訪れた時、出会ったのは他の契約者と何ら変わりない男。
だがその男は自分達と同じように神機を使い、フリスヴェルグを石化させた上に腰の魔方陣に収納した武器をすべて封じた。
一瞬の判断力、巨大な化け物に食われても決して諦めない根性、先を見通すようなまっすぐな瞳。
すべてが深影の思考をひっくり返した。
四大チームの契約者以外に、まさかここまでの才能を持った契約者がいるとは。
一時はあれほどの才能がありながら仲間に依存しているのはもったいないと思ったことがあるが、もしそれがあの男の才能を支える源だとすれば、学ぶ価値はある。
「だ、だからこうやって僕達とコミュニケーションをとろうと?」
「そう言うことだ。俺を越えるかもしれないライバル候補が現れたんだぞ? どうしても返り討ちにしたいだろう。馴れ合うことが強さに繋がるのならば、俺は喜んで馴れ合おう」
「き、君がまさかそんな性格だったなんて……」
「強くなる手段を厭う意味が俺には理解出来ん」
テーブルから脚を下ろし、脚を組む深影。
それと同時に愛梨が料理を乗せたワゴンテーブルを押して、部屋に戻ってきた。
「お待たせしました。あ、深影さんは嫌いな食べ物とかありましたか?」
「特にはない。手間をかけた」
「ひぃっ……!?」
愛梨はまさか料理を作ったことに対して、深影から礼を言われるとは思っていなかったので、思わず小さな悲鳴をあげて仰け反ってしまった。
「……何なんだその反応は」
「い、いえすみません。他人の手料理を食べること自体が驚愕なのに、まさかお礼を言われるとは思っていなかったので絶句しているわけではありませんから……」
「……一応言っておこう。俺が他人と関わることを嫌っているのは他人が嫌いだからではない。ただ……怖いだけだ……」
恥を圧し殺したように、深影は自ら"怖い"と言う単語を発した。
「深くは聞きませんけど、何故怖いんですか?」
「俺は他人と関係を持つことが怖い……別に、お前達のことが憎くて、嫌いで邪険にしているわけじゃない……」
深影は珍しく、本当に珍しく優しい声音で、コロナと優の頭に一度だけ手をおいた。
一同は驚愕や絶句を越え、冷や汗を流しだした。
もしや何か危険な魔術をかけられているのか、それとも中身の人格が入れ替わったのか。
それほどまでに、今の深影は不気味で不思議だった。
「飯が冷める。早く食べるぞ」
「あ、う、うん……」
何事もなかったかのように、愛梨の運んできた料理を食べ始める深影。
白夜達もそれに釣られて食べ始めるが、
「言い忘れていたが白夜、貴様のことだけは心の底から毛嫌いしている。それだけは忘れるなよ」
……ああ、やっぱりいつもの深影だ。
一同は白夜の毛嫌い宣言に安心して愛梨の作った朝食を平らげた。
「あ、深影さん。よかった、まだいたんですね」
コロナと優は広間を出て庭の方でパートナーと遊んでいて、白夜は書斎で何やら勉強をしている。
今だ広間にいるのは深影と愛梨だけだ。
「何だ? 俺の過去については深く聞くな……」
「い、いえ違うんです。深影さんっていつも難しそうな本を読んでますよね。それって古い魔術書なんですか?」
「いや、確かに古いがこれは童話だ」
長々と英文が連ねられているが、所々に子供が書いたようなイラストが載っている。
イラストの雰囲気からして、確かに童話だ。
「童話、ですか……」
「意外か? これは俺の思い出の品だ。読めるなら貸してやる」
「あ、ありがとうございます。えっと……」
想像していたよりも少し重たい本を両手で抱え、愛梨は栞が挟まれていた所から読み始めた。
「や、やっぱり難しいです……」
「やはりな。それを書いたのが小学生と言えば、お前は信じられるか?」
「へ、ま、まさか深影さんが?」
「いや、俺じゃない。俺の姉が──いや、何でもない……」
深影にとって姉と言うワードは禁句だ。
それを深影から口にするなんて、途中で言葉を飲み込んだとは言え、今日の深影は本格的におかしい。
「み、深影さん、も、もし何か悩みがあるのなら、話してください。私なんかじゃ聞くくらいしか出来ないですけど、差し出がましいかも知れないですけど、もし一人で抱えられなくなった時はっ……」
「ああ、心配をかけた。だがこれは俺自身の問題だ。気持ちだけ受け取っておこう」
深影は〈次元歪曲〉の魔術を展開し、いつもと同じように広間からいなくなった。
「あ、深影さん……やっぱり、踏み込みすぎたのかな……」
せっかく深影さんが優しく接してくれているのに、調子に乗ってあんなことを言ってしまった。
「あ、深影さん、本を忘れて……返さなくちゃ……って、私深影さんの自宅知らない……」
愛梨は深影から渡された本を抱き締めて、目尻に少しだけ涙を浮かべた。
「ほーれ、猫じゃらしだぞー」
「にゃっ……うぅ……にゃっ」
学校の屋上にて、五人の男女が授業をサボっていた。
そのうちの一人は生徒ではないが。
緑色のフェンスに腰かけて脚をぶらぶらと遊ばせている、ポニーテールの少女。
日陰でチェス番を凝視している、黄色いパーカーを着た豊満な体の少女。
生徒会役員なのにも関わらず、黄色いパーカーを着た少女と一緒にチェス盤を眺める赤毛の少女。
そしてどこから持ってきたのか、或いは作ってきたのか。
赤や緑のふさふさがついた猫じゃらしで遊ばれるネコミミの生えた少女と、一緒に遊んでいる青年。
さらに屋上の入り口から目尻をつり上げて現れた蒼い髪の少女。
全員が全員、体の一部に三本の剣を重ねて作ったような『A』のマークが刻まれている。
統一されたエンブレムはチームの証。そのマークは開戦の空に集いし最初の六種族で構成された、超新星〈avenger〉のマークだった。
「ちょっと黒音、アンタいつまでこうしてるつもり!?」
「おお、海里華もサボりか? お嬢様なのに」
「んなことはどうでもいいのよ。私達がチームを結成してからもう一ヶ月よ? ろくに修行もしてないで、いつまでダラダラ過ごしてる気なのよ? アンタ達も、特に焔! 〈tutelary〉の天使は因縁の相手なんでしょ? 何でそんな呑気に……」
「じゃあ今から〈tutelary〉に挑もう」
「は、はあ!? 急すぎるでしょ、まだ調整とか準備が……」
一体何を考えているのかと言う様子で取り乱す海里華。
しかし梓乃達は黒音の発言に一切興味を示さず、梓乃はフェンスに座って日向ぼっこを、漓斗と焔はチェス盤を睨み、遥香は黒音に猫じゃらしで遊ばれている。
「今から〈tutelary〉に挑むから海里華、目的地まで連れてってくれよ。〈tutelary〉と魔王のいる場所まで」
「そんなの──あ……居場所が、分かんないのね……」
ようやく黒音達が無意味にダラダラしている理由に気づき、海里華はその場にへたり込んだ。
「俺達がチームを結成したってことはもう〈strongestr〉に伝わってる。もし〈strongestr〉が厚意でその噂を流してくれてたら、あっちから接触してくるだろ。深影辺りが」
「つまり完全な手詰まりってわけね……」
「そうでもねえよ。〈strongestr〉がダメなら〈soul brothers〉って手もある。梓乃は一度〈soul brothers〉の天使に勝利してるし、居場所も教えてもらってる」
「確かに同じ四大チームなら接触することも……」
「ただ問題が一つ。〈soul brothers〉の中で唯一まともに話せる和真は今、誰かさんのせいでとても気が立ってる、はずだ」
黒音との決闘を優先する為、たった一手で和真を完封した誰かさんのせいで。
「ま、まさか私のせいなの……?」
「〈Despair phoenix〉は〈tutelary〉よりも謎。〈soul brothers〉もお前が怒らせたから無理。〈tutelary〉に接触出来ない以上、もう俺らは〈strongestr〉が俺らの情報を流してくれることに期待するしかねえんだよ」
限りなくゼロに近い可能性だが、死ぬ覚悟があるなら賭けてみるか?
黒音は猫じゃらしを振る手を止めてそんな視線を向けてきた。
「にゃっ……捕まえた……にゃんっ……♪」
「ねえねえ、ベターな方法なんだけどさ、魔王って言うくらいだから魔界にいるんじゃない?」
「その線は多分、ねえな……確かに可能性はあるが、そんなとこに拠点を置けば死神どもが黙ってねえだろ」
『黒音君、私達死神はどんな奴が魔界や冥界に居座っていても、私達自身に危害を加えない限りは干渉しないのよ?』
行ってみる価値はありそうだ。
だらしない、もとい自由な死神のおかげで、魔王と接触出来る可能性が生まれた。
「どっちにしろ、海里華、漓斗、焔はお留守番な」
「やっばりそうなるのね……」
「私達はこうなる可能性も講じていましたぁ」
「だから戦争シミュレーションでもして戦術を考えてたってわけ」
おそらくは今思いついたことだとは思うが、深くは聞かないことにした。
黒音は遥香と梓乃を引き連れ、転移魔方陣を展開した。
「へ、今から行くの?」
「柊先生に急用で魔界に行ったって伝えといてくれ」
「私魔界って初めて行くよ」
「私はアダマスを探す時に一度だけ行った」
遊びにいくみたいにはしゃぐ仔犬と仔猫を引き連れ、黒音は転移魔方陣をくぐった。
遥香がいるから大丈夫だとは思うが、やはり三人だけだと心配になってくる。
梓乃は子供みたいに能天気だし、黒音は自分から危ない戦いをしようとするし、遥香はそも危機感がない。
「あーもう、歯がゆいわね……」
「魔界についてくことが私達のやることじゃないわ。夫を信じて待つのも、妻の役目よ」
「わ、分かってるけど……って私は妻じゃないしっ」
少し嬉しそうに反論する海里華を適当にあしらい、焔と漓斗は再びチェス盤に視線を移した。
「……着いたな」
「ここが、アズちゃんの邸なの?」
「やっぱり広い……悪魔も死神と似てる」
「悪魔と死神の違いは貴族か神様かってことだけだからな」
アズは魔界に来ると姿ががらりと変わる。
アスモデウスのように妖艶な美女へと姿を変えるのだ。
アスモデウスは姿自体は変わらず、実体化のみ。
フィルも同じくだ。
「まずはどうしたもんか……魔界に魔王はいますかって聞き込みするのも変な感じだしな……」
「だったらこの魔界で一番偉い人に聞けばいいんじゃないかな?」
「その魔界で一番偉い人は今死神の邸でメイドをしてるわ」
「ガープのことね……あの子も苦労をしているわね」
魔界を管理するトップは死神の邸で専属メイドを、序列で言うトップの人は人間界でパートナーと平穏な生活を送っている。
七つの大罪に聞いた所で、まともに領地を管理している死神など一人もいないだろう。
「ちょっと堕落しすぎじゃねえか死神」
「残念だけれど、堕落していなければ死神に選ばれていないわ」
堕落して自分の罪に溺れることが七つの大罪の仕事。
そんな天職がこの世にあるなど。……いや死神なのだからあの世と言うべきか。
「結局は手詰まりか……いや待てよ……? なあアスモデウス、フクロウと狼に関連する悪魔を知ってるか?」
「フクロウと、狼……? えらく限定的ね。……確か……フクロウの使い魔を連れていた悪魔がいたかしら。狼の姿がデザインされたローブを羽織って……名前は……そう、アンドラス。でもその子はベルフェゴールの領地にいる悪魔。簡単には手出し出来ないわよ?」
「手出しするつもりはない。そのアンドラスって悪魔に接触出来ればそれでいい」
序列六十三位、あまりにも狂気に満ちた性格の為、怠惰の死神ベルフェゴールが直々に部下にしている悪魔だ。
もし予想が正しければ、深影のパートナーはアンドラスで間違いない。
「あの方は本当に面倒くさいわよ。引きこもりだし、ニートだし、最近パートナーが出来て外出はするようになったみたいだけれど」
「俺はただアンドラスに会いたいだけなんだがな……確か前フォルカスに会った時は特に許可をとることもなかっただろ?」
「アスタロトとフォルカスは同じベルゼブブの領地にいる悪魔だからでしょう?」
そう言えば以前言っていたか、ベルゼブブには顔が利くと。
その理由までは教えてくれなかったが、もしベルゼブブの協力が頼めるならば、アスモデウスと二人でベルフェゴールに許可をとることも出来そうだ。
「なるほど……使えそうだな。頼むぞアズ」
「ええ、あまり気は進まないけどね……」
何故これほどまで広い領地を与えてくれているベルゼブブに会いたくないのか。
フォルカスの領地を見て思ったが、アズの領地は特に広かった。
優遇されているならばむしろ会いに行くのは礼儀だと思うのだが。
「じゃあベルゼブブの所まで私が転移魔方陣を展開するわね」
アスモデウスが展開したのは、冥界に続く特殊な魔方陣。
自由に冥界へ行き来する為には、その死神から許可を貰うか同じ死神に頼むしかない。
つまりこの計画は最初から一人でも死神がいなければ始まらなかったと言うことだ。
「ベルゼブブ、私よ。アスモデウスよ」
『ん……ああ、お前か。他人に干渉しないお前がどうした?』
アスモデウスが展開した魔方陣をくぐると、そこは巨大な古城の目の前だった。
アスモデウスが少し大きめの声で呼び掛けると、全員の意識に直接語りかけるように声が返された。
「今日は客人を連れてきたわ。いえ、この場合私の方が客人かしらね」
『ん……? どう言う意味だ? 俺は今食事中だ。ぞろぞろとよそ者を連れてくるなど──』
「貴方は一日食事してない時間なんてないでしょ」
『その声は、まさかッ……嘘だろッ!?』
ドンガラガッシャーン! と言うような効果音が実際に聞こえてきた。
食器が割れるような音やら、誰かがこけたような音。
一通りの騒音が落ち着くと、古城の入り口から一人の青年が現れた。
「ま、まだいるか……アスタロト……」
アスモデウスと同じく眼球は黒く染まっているが、瞳孔の部分は対照的に蒼い。
シワの入ったカッターシャツに袖を通しているものの、ボタンを止めている余裕はなかったようだ。
その上から羽織っているのは、ふんだんにあしらわれた毛襟が特徴的な大きいコート。
だらしなさこそあるが、その風格はまさに王のそれだった。
「悪いな、こんな格好で……」
「だらしないわね……邸の中でも服くらいは着てたら?」
「もっともだな。それで、わざわざお前が訪ねてきたのは何故だ? お前が俺の所に来るなんて、珍しすぎるぞ」
「序列六十三位のアンドラスと面会したいんだけど……こんな所じゃ落ち着いて話せないわ。入るわよ」
「あ、おい、まだ片付いていないんだぞ!」
いくら顔が利くからと言って、これではまるで兄妹だ。
だらしない兄に愛想を尽かして出ていった妹。
そう考えると、何となくアズがベルゼブブと親しくしている様子にも合点がいく。
だがそれは絶対にあり得ない。
何故ならばもしアスタロトが本当にベルゼブブの妹ならば、アスタロトも同じ死神でなければおかしいからだ。
ベルゼブブは元から死神として生まれた、正真正銘の神。
だがアスタロトは最初から悪魔として生まれている。
「……私達も行きましょうか」
「アスモデウス、あれが七つの大罪で帝王の二つ名を持つ死神なの……?」
「ええ、ルシファーと並ぶには至らないけれど、サタンとはまったくの互角よ。ただ本人はあまり他者と関わらないからそんなに知られてはいないの。ベルゼブブが本気で戦った所は一度たりとも見たことがないわ」
「でも前にガープに殴られたって言ってた……本当に強いの?」
六種族最強の名を欲しいままにしている七つの大罪も、実は大したことないような気がしてきた。
完全に忘れ去られた遥香と梓乃は、項垂れながらアズの後ろについていく。
「ったく、応接室に案内する。こっちだ。っておい、俺より先に進むなよ!」
「この邸の構造は熟知してるわよ。入るわね」
ベルゼブブを無視して応接室に入り、君主のベルゼブブよりもアスモデウスを優先して席に座らせるアズ。
黒音はアズのパートナーと言うこともあり、その辺に適当に座った。
遥香も同じく一度他の死神、マモンと接している為、そんなに緊張することもない。
だがただ一人、悪魔がどのような社会を築いているのか、死神とどう接していいのかも分からない梓乃は、小さいサイズのままのフィルを力一杯抱き締めて黒音の側で縮こまっている。
「そんなに緊張すんなよ、大丈夫だ。……多分」
「た、多分ってなにさ……余計に怖いよ……」
「じゃあ改めて聞こうか。確か序列六十三位のアンドラスと面会したい、だったな。だがアイツはベルフェゴールの領地にいる悪魔だぞ? 何で俺に相談してきた?」
「ほら、ベルフェゴールはあんな性格でしょう? だから私だけだと不安なのよ。七つの大罪でも比較的権力のある貴方に少し顔を貸してもらいたいの」
「わざわざアスタロトまで連れてきたわけだし、それほど急用なら仕方ないな。まったく、ソロモン様も何でこんな面倒くさい貴族社会にしたんだか……」
服を着崩した魔王クラスの死神が、目の前で産みの親に愚痴を垂らしている。
何ともシュールな光景だ。
「お飲み物をお持ちいたしました」
お手伝いの悪魔が運んできた紅茶をすすりながら、アズはその最終目的をこぼした。
「本当はアンドラスにではなく、アンドラスの契約相手と直接会いたいんだけどね」
「アンドラスの契約相手と言ったら、まさか……なあアスタロト、お前は何故アンドラスに接触しようとしている?」
「アンドラスのパートナーが〈tutelary〉にいる可能性が高いのよ。でも本当は逆。〈tutelary〉の悪魔がアンドラスの可能性が高い」
「やはりか……ならお前が俺の所に来たのはビンゴだな」
何やらベルゼブブの中で何かが繋がったようだ。
ベルゼブブは魔術を用いてシャツのシワを伸ばし、丁寧にボタンを止めていく。
「なあアスタロト、〈tutelary〉の情報を探っていると言うことは、最終目的は魔王だろう?」
「そうよ、私のパートナーの復讐相手、それが魔王」
「俺はアスタロトのことは大切に思っているが、正直言ってそのパートナーであるお前には特に興味ない。だから死のうが殺されようが知ったことではないが、一応教えておいてやる。魔王には、いやそれ以前に〈tutelary〉には挑むな。仲間を大切に思うならな」
格好が正され、ようやく外見と雰囲気が釣り合い、威厳と言うものが現れる。
ベルゼブブは面倒くさそうにため息をつくと、
「アスタロトのパートナー、お前の名は?」
「未愛 黒音だ」
「……お前が……じゃあ黒音、〈tutelary〉に挑むに当たってチームはもう完成させていることだろう。なら今度は敵の情報だ。相手のメンバーやその戦力、戦術について事細かに分析しているか?」
「いいや、知っての通り深影の、〈tutelary〉の悪魔のパートナーがアンドラスだってことも予想でしかないくらいだ」
「ではメンバーのプロフィールや、そのパートナーすらも未だ分かっていないんだな? いや、分かっていないだろうな」
でなければここに訪れることはないだろう。
ベルゼブブはアスモデウスに何か言いかけ、でも言葉を飲み込む。
「お前はモノクロと言う存在を知っているか?」
「知らねえな。人の名前か?」
「〈tutelary〉のメンバー、その死神だ」
「まあ強いんだろうな。でも遥香も強いぞ。何せ俺達六人の中で唯一イートカバーを経験してるんだからな。つまり遥香たった一人が四大チームの契約者と同じステージに──」
「たった一人、だと? それもまだイートカバーのステージで留まっているのか……? おいアスモデウス、悪いことは言わない。お前はチームを抜けろ。こんな奴らの中ではせっかくの才能が台無しだ」
いきなり失望されてしまった。
確かにたった一人しかイートカバー出来ていないのは、不味いと理解している。
しかしアスモデウスは首を縦には振らない。
ベルゼブブは心底呆れたように頭を抱え、
「はあ……いいか? イートカバーは踏み台でしかない。イートカバーが意味を成すのはその次。パートナーから預かった半身を自分に移植する為だ」
「パートナーの半身を、移植……?」
「確かにイートカバーに至ったまではいいだろう。だがそれでは仮の状態に過ぎない。おいそこのドラゴン、お前はロキの子フェンリルだろう?」
「いかにも。それが何だ?」
「お前ならグレイプニルを知っているだろう?」
フェンリルにとって、もっとも憎むべき忌々しい名だ。
六体の聖霊により編まれた神話の鎖、グレイプニル。
フェンリルはその鎖に縛られ、封印されていた時期がある。
「その鎖はお前のような危険な存在を封印する為の他にもう一つ、使い道がある。それがイートカバーの次に繋がる」
「預かった半身を接合する糸が、その鎖ってことか?」
「そんな所だ。厳密にはその鎖の魔術をベースに作られた、別々のものを繋ぎ合わせる為のチェーンが、分離した半身を別の半身に繋ぎ止める糸になる」
しかしその鎖の魔術も破壊魔術と同じく、禁忌に分類されている。
何故ならばその魔術は、死んだ人間の魂を現世に繋ぎ止める魔術にも応用出来るからだ。
「そしてその鎖が自分の体の一部だと、体や魔術回路が誤認するまで約一週間。それで初めて四大チームの契約者と同じステージに立ったと言える」
「質問してもいい?」
今までほとんど口を開かなかった遥香が、初めて口を開いた。
遥香は人の姿となったアダマスを呼び出し、
「隔てやイートカバーを編み出したのは〈Heretic〉……あってる?」
「ああその通りだ。四大チームの契約者はその技術を様々な魔術書から集めた断片的な情報で解明した。〈Heretic〉もその技術が次世代の契約者に継承されるように残したんだろうな」
しかも悪用されない為に、パートナーの半身を移植する鎖は悪意に反応して痛みを与える仕組みになっている。
「じゃあその鎖も〈Heretic〉が……?」
「元祖のグレイプニルは神々が造ったものだ。半身を移植する為の鎖はグレイプニルをプロトタイプとした改良版となる」
「それを今の私とアスモデウスに移植すれば……私はそのモノクロ……? と互角になるの……?」
「さあな。恐らく無理だとは思うが、いい勝負にはなる」
軽く無理だと否定されたことに、遥香はあからさまに頬を膨らませて不機嫌になった。
「むぅ……無理じゃ、ないもん……私、強いもん……」
「そこまで言うなら俺のパートナーと戦ってみるか? お前達と四大チームの契約者との間に、如何に差があるか分かる。六人のうちたった一人しかイートカバーを経ていないチームなど、話にならない」
「黒音を……私の仲間をバカにしないで……」
この雰囲気は、非常に不味い。
せっかくベルゼブブに協力してもらえるかもしれないチャンスが、目の前で消えてしまう。
「おい、今来れるか? ……そうか、じゃあ来い」
ベルゼブブがテレパシーのようなもので意思疏通してから数分、応接間の入り口に漆黒の魔方陣が現れた。
その転移魔方陣は黒音が展開する魔方陣の色と酷似しており、魔力の質もよく似ている。
そしてその魔方陣から現れたのは、漆黒のローブを深々と被る少女だった。
「……ベルゼブブ……何のよう……?」
「今からアスモデウスの契約者と手合わせするぞ」
「……勝手な野戦は許可されていない……」
「本当に勝手な野戦なのか? 側にいる奴のことをじっくり見てから言え」
ローブを被った少女は小さな動作で辺りを見回し、急に後ずさった。
表情こそ伺えないが、驚いていることに違いはないだろう。
「……何故……ここに……貴方が……」
「まだ挑ませたくないなら、分かるよな?」
「まだ……早い……分かった……」
二人だけで勝手に何かを納得して、ローブを被った少女はベルゼブブを傍らに近づいてくる。
歩み寄る間に、少女はローブ越しに浮き上がる六つの魔方陣をすべて解除した。
説明されずとも分かる、一度見た遥香ならば尚更。
あれこそ四大チームの契約者が全員施している六芒星封印だ。
「……アスモデウスの契約者は……誰……?」
「私がそう。あなたが……ベルゼブブのパートナー……?」
(……ダメだ、どっちもテンション低すぎてどんな心境なのか分からねえ)
(空気を読みなさい黒音、二人とももうやる気よ)
ここでは狭すぎる、そう判断してベルゼブブとアスモデウスの二人が、互いの魔力を出し合って別の空間へ転移した。
そこは隕石が落ちたようにクレーターに埋め尽くされた空き地だった。
「私は紫闇騎 遥香……あなたは?」
「……私はモノクロ……〈tutelary〉の死神……」
「なッ……ってことは、ベルゼブブは……〈tutelary〉の一員かよッ……!?」
だから妙に隔てやイートカバーについて詳しかったのだ。
アスモデウスやアダマスも知らない、英雄の知識を。
ベルゼブブはあたかも自分のことのように話していた。
「……貴方に恨みはない……」
「私もない。でも仲間をバカにされて、黙ってるわけにはいかない」
「「……変身」」
二人同時にパートナーと一体化し、遥香は宙に浮かぶ紫色の泡に包まれた。
ブドウのように無数の気泡に包まれた遥香は、それを振り払うように正面へと手を伸ばした。
「おいで……アダマス……」
泡が弾けるとともに、人の姿をしていたアダマスが大鎌となって遥香の手に収まった。
対してモノクロは頭上に現れた魔方陣から降り注ぐ黒い雨に身を濡らし、その小さな体をコーティングしていく。
黒いローブが脱げると同時に、バイザーのようなマスクがモノクロの顔を隠した。
降り注ぐ黒い雨が形となり、モノクロの背中から巨人の腕のようなものが二本生える。
さらに人の腕と同じくらいの細さの触手が十二本、モノクロの下半身を隠すように集まり、モノクロと背中から生える巨大な腕の体重を支えていた。
遥香とアスモデウスの姿が人を惑わす妖艶な色欲を体現しているのであれば、モノクロとベルゼブブは万物を捕食する狂暴な暴食を体現している。
「っ……何だか、怖い……」
『まさに異形ね……気を付けて遥香、相手はとてつもなく強いわよ』
『本来は必要ないが、圧倒的力差を教えるならこれが最善だ』
「……じっくりと……恐怖を刻む……」
やはり先に動いたのはモノクロの方だった。
モノクロの背中から生える巨大な腕が地面に手をつき、桁外れの力で地面を押して遥香に急接近する。
動きにくそうな外見をしている割に、とてつもない機動力だ。
遥香は一先ず突進の直撃圏内から外れ、正確無比にモノクロ本体へ衝撃波を飛ばした。
「巧い……! 外見に惑わされず相手の能力を正確に分析、空気抵抗を含めて計算しギリギリまで引きつけ横腹にクリーンヒットさせた……」
「貴方もうかうかしてたら遥香に抜かされるわよ?」
「そもそもリミットブレイクしなきゃ勝負にならねえのに、抜かされる抜かされないもねえだろ」
「……何か……した……?」
モノクロとベルゼブブを除く、全員が無言で驚愕する。
あの攻撃をまともに受けて、まったくの無傷。
だが遥香はすぐに平常心を取り戻し、相手の動きを窺うように構えた。
『流石は四大チームの本気、侮れないわ』
「でもここで勝てれば大きなアドバンテージになるはず……黒音の為にも負けられない……」
『……本音は?』
「黒音が見てる前で……格好悪い所を見せたくない……」
『そう、死神は自分の欲求を隠さなくていいのよ。建前より本音を理由に戦った方が力が出るんだから』
「……今度は……私の番……」
遥香が身構えた瞬間、モノクロは突如遥香の眼前まで急接近した。
いきなりのことで反応が追いつかず、遥香は咄嗟にバックステップするが、時すでに遅し。
「背中の腕を使って移動してたのは伏線か……あのモノクロってのも敵ながら巧いな……」
感心する黒音の前で、モノクロの背中から伸びる巨大な腕が、骨ばった拳で遥香の全身を殴り飛ばした。
しかしそこは冷静に、自分の体を雲に変換して雲散霧消。
攻撃を無効化した後、再び元の形に再構成した。
「まったく心配してないのね」
「ああ、信じてるからな。遥香は本当に強い。一ヶ月前焔との決戦で最後、俺遥香の鍵を使っただろ? あの鍵の真の力を使えた時に感じたんだ。遥香の力を」
リミットブレイクした黒音に対応し、無駄なく黒音のステータスを上昇させたあの鍵。
本来ならリミットブレイカーの出力に耐えきれず壊れてもおかしくなかったのだ。
「今の遥香は四大チームの契約者と何ら遜色ない」
「……出来る……これなら……」
『早まるな、アイツはイートカバーを経験しているが、他のメンバーはこれの半分以下の戦闘力だ。確実に死ぬぞ』
「……分かってる……」
背中から伸びる巨大な腕で遥香から距離をとり、モノクロは突如戦闘体制をといた。
無論遥香も突っ込んだりはしない。そしてその選択は正しかったのだ。
バカみたいに突っ込んでいれば──
「……抗え……反逆せよ……」
モノクロがそう呟くと、背中に生えていた巨大な腕は無数の雫となって弾け飛んだ。
さらにチューリップを逆さにしたような形状に纏まっていた十二本の触手がそれぞれ散らばり、制御を忘れたようにモノクロの体を締め付ける。
「何だ、どうしたんだ……? まさか、防具が暴走するはずはねえよな、だって防具はパートナーそのものなんだからよ」
『ええ、そのはずだけど、あれは……』
やがてモノクロの体を縛る触手が花びらのように散り、同時に十二個もの魔方陣がモノクロの背後で展開された。
十二個の魔方陣は、同じく十二個の立体的で細長い二等辺三角形のパーツを吐き出し、その扉を閉ざす。
「何、あれ……先が、読めない……」
『何故わざわざ時間のかかる変形を……? 手加減するにしても、最初からあの姿になっていればいいのに……まさか……』
十二個のパーツは二つ一組で起伏の激しい装甲となり、左右で三組ずつに分かれてモノクロの背中に分厚い翼を形成していく。
モノクロの顔を隠すサンバイザーのようなマスクが徐々に変形し、虫の触覚にも似た二本の角が飛び出した。
「……リベリオン……トリーズン……」
バカみたいに突っ込んでいれば、蜂の巣になっていただろう。
黒いロンググローブに包まれたモノクロの両手には、白と黒の二丁拳銃が握られていた。
『遥香、気を付けて!! 二段階目の変身に時間がかかっていたのは本来の構造じゃない……自分達じゃ制限出来ないくらいに強大な力を、より複雑な構造にして制御していたからよ!!』
「六芒星封印を含めて、その上まだ力の制御を……?」
数分に渡る変化の理由は、二重に渡る強力な封印を解除する為にあった。
背中に展開された分厚い装甲の翼が光を放ち、二枚の大きな虫の羽根を投射したように作り出す。
つまりこれこそが、本来のモノクロの姿と言うことだ。
ベルゼブブの異名は、蝿の王。
まさにそれを体現した、虫の女帝のような姿だ。
「ハエがモデルだってのに、美しいな……」
『見かけだけじゃないわ。来るわよ、ベルゼブブの蹂躙が……耳を塞いでっ!』
アズは実体がないにも関わらず目一杯耳を押さえ、黒音もよく分からないまま耳を塞いだ。
梓乃も見よう見まねで耳を塞ぎ、黒音の後ろに隠れる。
『遥香、貴女は攻撃を受けても雲属性だから大丈夫よ。とにかく耳を塞ぎなさい。聴覚を守ることを最優先に考えて』
「わ、分かった……んっ」
モノクロ以外、全員がその場で耳を塞ぐ。
しかしそれはまったくの無駄な行為だ。
「……〈かき乱す音〉……」
背中の装甲から投射されたように広がる虫の羽が、嫌な音を立てて振動を始める。
それが悪夢の始まりだった。
虫の翼が高速振動すると同時に、脳や肺をかき乱されるような苦痛に近い騒音が鳴り響いたのだ。
心臓は脈動するリズムを狂わされて何度も呼吸が止まり、脳に十分な酸素が回らず、生身の黒音と梓乃はその場でのたうち回りながら必死に耳を押さえる。
アスモデウスと一体化している遥香は辛うじて呼吸を保っていられたが、それでもまともに立っていることも敵わなかった。
「……魔后の前に跪け……」
「かっ……はぁっ……!?」
目を白黒させて痙攣し、耳から血を垂らす梓乃と黒音。
遥香はアダマスを支えに何とか立ち上がったが、二人と同じく耳から血が滴っている。
「耳鳴りが、する……でも、聞こえる……」
『よかった、第一波は防げたのね……』
「へ、第一波って……こ、これが……まだ何回も続くの……?」
『当たり前でしょう。たった一回の大技をこんな序盤から使うはずないわ』
「っ……黒音、梓乃っ……」
狂ったように痙攣する二人を抱き抱え、遥香は自分の魔力を流して二人の聴覚を遮断する。
人体の感覚を操作する方法が、柊の本棚の奥に隠されていた魔術書にいろいろと記述されていたのだ。
「……やりすぎた……黒音が……」
『加減はしたのだろう。塞いでいたならば耳は潰れていない』
後になっての後悔はもう遅い。
モノクロは二丁拳銃のグリップを強く握り絞め、歯をくいしばった。
「よくも、黒音達を……許さない……」
「……誰も……巻き添えを食らえとは言っていない……」
「卑劣な……貴女だけは……絶対に許さない……!!」
耳から首まで垂れてきた血を拭い、遥香はアダマスを振るって無数の衝撃波を飛ばした。
背中の羽根を、またはそれを発生させている分厚い装甲の翼を破壊出来れば、もうあの騒音を発することは出来ないはずだ。
「……無駄……リベリオン……トリーズン……」
モノクロの両手に収まる二丁拳銃が、同時に火を噴いた。
死神が扱う武器だ、当然二丁とも神機で間違いはない。
遥香の放った衝撃波をすべて撃ち落としたモノクロは、再度騒音発生の準備に入った。
「させないっ……神機奥義・皇……!!」
直径三メートルを越える雲属性の風船が、さらに肥大化を始める。
アスモデウスから遥香へ、遥香からアダマスへと伝えられた雲属性の力は、以前黒音と戦闘した時とは比較にならないほどに進化している。
雲属性の力が溜め込まれた時限爆弾を、遥香はアダマスの刃で切り裂いて強制的に爆発させた。
「どうなっても知らないから……〈超巨大積乱雲〉!!」
辺り全体を飲み込む巨大な嵐が、モノクロを包み込んだ。
渦巻く雲属性の力がすべてを凪ぎ払い、クレーターだらけの地面を平坦に還す。
十分以上もそこに居座り続けた雲の嵐は、ようやく収まりを見せ始め、さらに数分後ようやく静寂に過ぎ去った。
「……今のは……危なかった……」
しかしそれを未然に回避していたモノクロは、あの状況で冷静に転移魔方陣を展開していたらしい。
直接的なダメージはほとんどないが、遥香の狙いはそこではなかった。
「……羽が……動かない……」
『雲属性の力で羽をコーティングされたのか。しばらくは使えないらしいな』
一撃必殺の大技を騒音封じの為だけに使うほどの思いきりのよさは、我ら〈tutelary〉の中でも半分しかいない。
〈tutelary〉のトップである白夜と、その白夜と互角かそれ以上の力を持つ深影と、そしてその二人に並ぶ戦闘力を持つモノクロの三人だ。
「……トリーズン……神機奥義……」
白いフレームの銃、トリーズンの奥義を発動したモノクロ。
弓矢の神機は数えきれないほど存在しているが、銃の神機は非常に希少で、二丁も契約している契約書はまさしく奇跡の存在。
反逆の名を受けた白き銃は、モノクロを囲むように十を越える数の魔方陣を展開した。
「……〈次元の魔弾〉……」
銃口に直接展開された魔方陣に撃ち込んだ無数の弾丸が、すべての魔方陣から同じ数吐き出されたのだ。
撃ち込んだ弾丸が分散して射出されるのならまだ分かる、しかしトリーズンの弾丸はまるで分身したかのようにすべての魔方陣から同数の弾丸が放たれた。
「ただ魔方陣をくぐって威力が上がっただけじゃない……」
『恐らくは、追尾機能付き……』
二人の予想は的中、案の定魔方陣の数だけ倍加した無数の弾丸が遥香の背を追って空を飛び交った。
「叩き落とす……神機奥義……〈魂の回収〉!」
弾丸の分身に対抗してか、遥香もサブの神機奥義で三人に分身して同時にアダマスを振り下ろす。
アダマスから放たれた衝撃波は多くの弾丸を打ち落としたが、すべてと言うわけにはいかない。
残った数発の弾丸が遥香を突き抜け、無論遥香は体を雲に変換して無事に済んだ。
そう、物理的なダメージのみは。
「いッ……がぁッ……!? ぐ、ぅッ……ぅあああああッ!!」
肩に三ヶ所、腹に二ヶ所、腰や太股に二ヶ所。
計七発の弾丸が遥香の体を突き抜け、それによるダメージが痛覚に直接与えられる。
これは黒音の神機ザンナと同じ能力。
流体や気体の属性を持つ契約者にとても有効なダメージを与えられるものだ。
「はぁッ……はぁッ……」
『遥香、大丈夫ッ!?』
「いた、かった……死ぬかと、思った……」
『死神は死なないわよ。でもよかったわ……』
痛覚を遮断する魔術も一応心得ているが、それを展開するには少し時間がかかる。
それを相手がすんなりやらせてくれるとも思えない。
遥香は震える体に鞭を打ち、何とか呼吸を整えた。
「まだ、戦える……」
「……もう終わり……リベリオン……神機奥義……」
瞬きする瞬間に間合いへ入られ、遥香はバックステップしようにも手首を掴まれて動けない。
手首を雲に変化させようとしても、何故かそれが出来なかった。
もしこのまま弾丸を受ければ、今度は痛みだけでは済まなくなる。
「……〈消去する銃弾〉……」
反逆の名を授かりし黒き銃は、六重の魔方陣を銃口に連ねて弾丸の通る道を作る。
たった一発、放たれたレーザーが六つの魔方陣をくぐると、それが何倍にも膨れ上がって間近で遥香の上半身を──
「リミットブレイカー……ネロ・デチェッソ……」
レーザービームが遥香に直撃する寸前、黒音がサンティを滑り込ませてレーザーを石化させる。
遥香は力が緩んだ瞬間を見逃さず、すぐに黒音のいる方へ回避行動をとった。
「黒音、どうして……耳はもういいの……?」
「まだ耳鳴りはするが、遥香が弾丸から逃げ回って時間を稼いでくれたおかげで回復出来た」
トリーズンの神機奥義による追尾機能付きの弾丸から逃げ回っていたことが、結果黒音の回復と援護に繋がった。
黒音は騒音と痛覚への直接ダメージで精神的に消耗した遥香を抱き締め、自分の後ろに隠れさせた。
「随分こっぴどくやってくれたな」
「……リミットブレイカー……黒騎士……貴方は関係ない……」
「そうもいかない。遥香は俺の大切なチームメートの一人だ」
「……先に戦いを持ちかけたのは……そっち……」
「ああ、でもあくまで手合わせだ。これじゃ殺し合いになるだろうが」
二人とも一歩も引く気はないようだ。
黒音は遥香からアダマスを借り受け、モノクロは二丁の神機を同時に構え、そしてモノクロは一体化を解除した。
「な……どう言うつもりだ?」
「……これがただの手合わせなら……もう続ける意味はない……」
モノクロは転移魔方陣を展開しながら、少しだけ声音を和らげて、
「……貴方達と私達の力差が分かったなら……もう無茶な戦いはしないで……」
「お前……おい、待て!」
漆黒の色をした転移魔方陣に姿を消すモノクロ。
黒音は一先ず倒れたままの梓乃と膝をつく遥香を回収し、アズの邸へと転移した。