第二話
夏休みも終わり、いつもの喧騒が学校を包み込む。定時になるチャイム。廊下を歩く足音。チョークが黒板を叩く音。全てがいつも通りになった学校は、夏休みとは違って活気に溢れていた。これこそが学校の元の姿ともいえる。
授業も一段落し、時刻はお昼時。皆が弁当を広げてわいわいと食べているのに対し、僕は一番後ろの席で一人きり、弁当箱を開ける。今日は卵焼きにミートボール、ミニトマトに何か野菜を炒めた物だ。ご飯の上にはご丁寧にも梅干しが添えられている。
「あ、お弁当美味しそうだね! 一緒に食べて良い?」
……岩本だった。ピンクの可愛らしい弁当箱を持って、僕の前の席に座る。そして、許可も出していないにも関わらず、彼女は前の椅子をこちらに向けて机の上へと弁当を置いた。
岩本はクラスの人気者である。勿論彼女が弁当を食べる時には、多くの取り巻きが囲っているのは僕も知っていた。そんな彼女が、僕の机の上に弁当を広げ、頂きますと合掌をしている。その光景は、端から見れば間違いなく彼氏彼女の関係に見えるだろう。それは青春真っ盛りの高校では刺激の強い光景であり、それもいつも一人である僕と岩本というペアでは、皆から目を引く訳で。
「おい、葛城って岩本と付き合ってるのか?」
「さぁ? でもあの岩本さんが葛城なんかと付き合うはずがないじゃん」
教室は僕と岩本との会話でざわついている。それは僕を容赦なく刺し、居ても立ってもいられなくなった僕は早々と席を立った。
「あ、待ってよよし……葛城君!」
その言葉を無視して、教室を後にする。後ろからパタパタという足音と、みんなの視線が追いかけてくるのが手に取るようにわかる。いつもは無視するくせに、こういう時には注目してくるのだから、本当に嫌になる。
「待ってよ葛城君! 待ってったら!」
彼女が僕に追いついたのは、人気のない屋上へ続く階段だった。その最上段まで進むと、僕はどっかと座り込む。その横に、岩本は遠慮しながら座る。スカートがめくれないように押さえながら座る姿は、実に女性らしい。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。ただ……」
「ただ?」
これを言うことはとても気が引けた。これを言うことによって、僕は僕の現実を見つめなければならない。それはとても辛いことで、やっと高校の三年間我慢してきたことが崩れると言うことに他ならない。ただ、彼女を巻き込まない為にも、言わざるをえないと、そう感じていた。
「あんまり僕に付き合ってると、岩本さんまでいじめられるよ。あんまり僕と話さない方が良い」
「葛城君……」
「岩本さんも知っているんでしょ? 僕がいじめられているってこと。まだ靴に画鋲が入ってたり無視されたりする程度だけどさ。それでも、そのとばっちりが岩本さんにくることは簡単に想像出来る」
「私は平気! いじめなんて話し合って無くせば良いじゃない! みんないい人ばっかりよ。だから、大丈夫」
岩本さんは僕の方を見ながら、力強くそう言った。しかしその中には自分に言い聞かせるような感情が見え隠れし、自分がいじめられる恐怖が潜在しているのだろう。
「僕が大丈夫じゃないんだ。僕の所為で他の人が傷つくのを、もう見たくはないんだよ。だから、お願い。僕には近付かないで」
「でも、それって葛城君自身は私のことを嫌ってはいないってことだよね?」
「……まぁ、それはそうだけど」
「なら私、諦めない。この前も言ったけど、私、往生際が悪いの。諦めないって言ったからには、絶対に諦めないから!」
岩本は小さくガッツポーズを作って見せると、にっこりと笑って見せた。今日の岩本はストレートの髪の毛にピンをつけて、おでこを出すような髪型にしている。それはそれでとてもよく似合っていると思った。
「なら、お弁当食べよ? 善貴君の分も持ってきたから」
はい、と弁当箱を差し出す彼女。それを断る理由も思い浮かばず、無言のまま弁当箱を受け取る。そして、箸を持つと、卵焼きを口に運んだ。柔らかな口触りと、ほのかな甘み。卵と出汁の香りが鼻に抜けて、また少し焦げた部分の香ばしさが堪らない。親の作ってくれる、いつもの卵焼きだ。
「お弁当、お母さんが作ってくれるの?」
「うん。ずぼらな母だけど、弁当だけはマメに作ってくれるんだ」
「ふぅん、良いお母さんだね」
「岩本さんは、どうなの?」
彼女の弁当は色とりどりの野菜を中心としていて、肉気といえば小さなハンバーグくらいのものだ。トマト、ブロッコリー、ピーマン、その他色々。女性らしい小さなお弁当は、とても美味しそうに見えた。
「私の? 私のは自分が作ってるんだよ」
「へぇ。親は作ってくれないの?」
「……うん。お弁当も、洗濯も、全部。私がやるの」
なんで、と聞き返しそうになったが、それは聞かないことにした。岩本にも家庭の事情というものがあるだろうし、それを僕が聞く由はない。
「そっか」
「ふふ、何で私がやるのかが気になるって顔しているね。でも、教えてあげない。善貴君が例の夢の話をしてくれるまで、秘密」
にこっと笑った彼女は、箸で小さくちぎったハンバーグを口へと運んだ。僕の目線に気付くと、彼女は『これも手作りなんだよ?』と言う。その続きに食べるかと弁当箱を差し出されたが、首を少し横に振って断った。学園のアイドルが作ったハンバーグを食べられるということはとても幸運なことかとも思うが、それは越えてはならない一線のようで、それを越える勇気は僕にはなかった。
「ごちそう様でした」
彼女は律儀にそう言うと、ピンクの弁当箱の蓋を閉めた。丁度僕も食べ終わったところだったので、合わせて閉める。カチャカチャというプラスチックが合わさる音が階段に響いた。
「行こ? 善貴君」
「いや、僕はまた後で行くよ。岩本さんが先に行って。一緒に行くと、冷やかされるよ」
「良いよ。私そんなの気にしないもん」
「だから、僕が気にするんだよ。ほら、行って」
「……わかった」
彼女は夏休みに見せた不機嫌な顔そっくりに頬を膨らませてみせて、階段を下っていった。そして踊り場に辿り着くと、こちらを振り返って小さく手を振って、そして廊下へと消えて行った。
暫く立ってから、僕も重い腰を上げた。
僕が小学生の時から最も怖がっていた、人を好きになるということ。それは今も変わってはいない。しかし、誰かが僕の事を好きになるなんて、考えもしなかった。僕は一生一人で、誰に関わることもなく生きていくのだろうと思っていた。それを、自分から関わってくる人がいるなんて。それはとても嬉しいことのようで、同時に面倒臭さも感じていた。一人では我慢出来たことが、二人になると途端にややこしくなる。人はそれすらも幸せと呼ぶのかもしれないが、まだ僕には理解することが出来なかった。
いじめなんて、自分が我慢していれば済むものだ。それが二人になったら、どうしたら良いんだろう。二人で耐えるか、彼女を突き放して一人で耐えるか。ただ、彼女はもう僕に関わってしまった。きっと、クラスの連中は彼女にも手を出していくだろう。それを思うと居たたまれない気持ちになって、僕はその場を離れた。彼女との思い出が出来た階段は、いつもの避難場所から存在が変わって、僕には近寄り難い場所へとなっていた。
昼休みが終わって、掃除の時間。僕の机には、いつにも増して落書きが散乱していた。