給仕係の私が触れた瞬間、王子様の番を探す水晶が光りました ~黒獅子殿下は半年前から、私を待っていたそうです~
王宮の大広間に、朝の光が差しこんでいた。
磨きあげられた白い床。天井から下がる幾つものシャンデリア。壁際には季節の花が溢れんばかりに飾られ、その中央には、銀の台座に据えられた拳ほどの大きさの水晶がひとつ。
――番判定の儀。
黒獅子の獣人が治めるこの国で、王族の番がなかなか見つからないときにだけ行われる、めったにない儀式だ。
そしてわたし、ノエル・ハーヴィは、その会場の隅で銀の盆を抱えて震えていた。
「ノエル、顔が真っ青よ。大丈夫?」
隣に立つ給仕仲間のアンナが、小声で囁いてくる。
「だ、大丈夫。……たぶん」
(大丈夫なわけがない)
わたしは心の中で叫んだ。
王宮で給仕係として働きはじめて二年。担当してきたのは、使用人棟の食堂と、文官たちの執務棟へのお茶運びくらいだ。こんな晴れやかな場で、しかも国中の令嬢を相手に給仕をするなんて、一度も考えたことがなかった。
それなのに、三日前。侍従長から突然こう告げられたのだ。
――儀式の給仕に、ノエル・ハーヴィを加える。これは決定事項だ。
(どうして、わたしなの……)
理由を聞いても、侍従長は「上からの指示だ」としか言わなかった。
没落した男爵家の娘で、仕送りのために働いている、ただの下っ端の給仕。それがわたしだ。粗相でもしたら、首が飛ぶどころか実家ごと吹き飛びかねない。
わたしはぎゅっと盆の縁を握りしめた。
「いい? お茶を注いだら一礼して下がる。令嬢方とは目を合わせない。何を言われても『かしこまりました』。それだけよ」
アンナが念を押すように言う。わたしはこくこくと頷いた。
大広間の扉が開き、色とりどりのドレスをまとった令嬢たちが入ってくる。その数、およそ三十。誰もが背筋を伸ばし、胸を張り、自分こそが選ばれると信じているような顔をしていた。
無理もない。
黒獅子の第一王子レグルス・ノクタール殿下。二十四歳。漆黒の髪と金の瞳を持ち、剣を取れば王国一、政務を任せれば老獪な大臣たちも舌を巻く。笑ったところを見た者はいないとまで言われる冷徹さから「黒き獅子」と恐れられてもいるけれど、その番に選ばれれば、将来の王妃の座が約束されるのだから。
(わたしには関係のない話だわ)
わたしは小さく息を吐いた。
関係があるとすれば、お茶をこぼさないことだけ。それだけを考えていればいい。
令嬢たちが席に着くと、楽団が穏やかな曲を奏ではじめ、給仕が一斉に動き出した。
わたしが担当するのは、水晶の台座に一番近い一角だ。よりにもよって、と思ったけれど、配置を決めたのは王子殿下の側近の方だと聞いて、文句を言えるはずもなかった。
ポットを傾け、琥珀色の茶をカップに注ぐ。湯気と一緒に、ほのかに甘い香りが立ちのぼった。
「まあ。ずいぶん地味な給仕ね」
頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。
顔を上げかけて、慌てて目を伏せる。視界の端に、深紅のドレスと豪奢な金の巻き髪が見えた。
クレイン公爵家のベアトリス様だ。
王子妃の最有力候補と、王宮の誰もが噂している方。使用人棟の食堂でさえ、その名前を聞かない日はない。
「かしこまりました」
何がかしこまったのか自分でもわからないまま、わたしは頭を下げた。
「あら、口がきけるのね。手が荒れているわ。こんな手でわたくしのカップに触れたの?」
「……申し訳ございません」
くすくすと、周りの令嬢たちが笑う。
わたしは自分の手を見た。毎日の水仕事で、指先は赤くひび割れている。冬になればもっとひどくなる。それでも、この手で稼いだお金で、実家の弟は学校に通えているのだ。
(恥ずかしくなんて、ない)
そう思うのに、頬が熱くなるのはどうしようもなかった。
わたしはもう一度頭を下げ、次の席へと移った。
やがて、楽団の演奏がぴたりと止んだ。
大広間の奥の扉が開き、ひとりの男性が姿を現す。
その瞬間、空気が変わった。
令嬢たちが息を呑む音が、さざ波のように広がっていく。
漆黒の髪。その間から覗く、獅子の丸い耳。黒の礼装に包まれた長身は、ただ歩いているだけなのに、目に見えない重みを周囲に押しつけてくるようだった。
レグルス殿下だ。
遠くから何度か姿を見たことはある。執務棟へお茶を運んだとき、廊下の向こうを歩いていく背中を見かけたことも。
けれど、こんなに近くで見るのは初めてだった。
(……怖い)
それが、正直な感想だった。
金色の瞳は、広間に並ぶ令嬢たちの誰にも留まらない。値踏みするでもなく、興味を示すでもなく、ただ静かに会場を見渡している。
――その視線が、一瞬だけ、わたしのいる方へ向いた気がした。
わたしは慌てて俯いた。
(気のせい。気のせいよ。給仕の顔なんて、殿下が見るはずがないもの)
殿下の後ろには、鷹の羽根のような茶色の髪をした青年が控えていた。側近のテオ様だ。彼はなぜか、わたしと目が合うと、片目をつぶってみせた。
(え……?)
何かの合図だろうか。わたしは訳がわからないまま、盆を胸に抱えなおした。
老神官のヨアヒム様が、水晶の前に進み出る。白い髭を胸まで垂らした、穏やかな顔つきの方だ。
「これより、番判定の儀を執り行います」
しわがれた、けれどよく通る声が広間に響いた。
「この水晶には、レグルス殿下の血が一滴、封じられております。殿下の魂と対になる方が触れたとき、水晶は光をもって応えましょう。水晶は偽りを申しません。たとえ王であろうと、神官であろうと、その輝きを操ることはできぬのです」
令嬢たちが、ごくりと唾を飲みこむ。
ひとり目の令嬢が立ち上がり、震える指先で水晶に触れた。
――何も起こらない。
ふたり目。三人目。四人目。
水晶は、ただ透き通ったまま、窓からの光を淡く映しているだけだった。
触れた令嬢たちは、ある者は唇を噛み、ある者はほっとしたように肩の力を抜いて席に戻っていく。
殿下はその間、一度も表情を変えなかった。まるで、結果など最初からわかっているとでもいうように。
(殿下は、番が見つかってほしいと思っていないのかしら)
お茶を注ぎ足しながら、わたしはそんなことを考えた。
獣人にとって、番は魂の片割れだという。一度見つければ、生涯その人ただひとりを愛し抜く。そういう話を、幼い頃に母から聞いたことがある。
だとしたら、こんなふうに大勢を並べて試されるのは、少し寂しいことなのかもしれない。
――そんなことを考えている場合じゃない。わたしは首を振り、仕事に集中した。
二十人を過ぎても、水晶は沈黙を守っていた。
会場の空気が、次第にざわめきを帯びはじめる。
「やはり、ベアトリス様なのでは」
「最後に回されたのも、そういうことでしょう?」
ひそひそとした声が、あちこちから聞こえた。
そして、最後のひとり。
ベアトリス様が、ゆっくりと立ち上がった。
深紅のドレスの裾を優雅にさばき、水晶の前へ進み出る。その横顔には、勝利を確信した笑みが浮かんでいた。
わたしはちょうど、台座のすぐ脇で、空になったポットを交換しようとしていた。
(早く下がらないと)
そう思って一歩退いた、そのときだった。
ベアトリス様のドレスの裾が、わたしの足元をさっと払った。
――いや、違う。
裾ではない。彼女の靴の爪先が、わたしの足首を確かに引っかけたのだ。
「あっ――」
体が傾く。
盆が手から離れ、銀のポットが床で甲高い音を立てた。
とっさに伸ばした右手が、何かに触れる。
冷たくて、なめらかで、硬いもの。
――水晶だった。
(しまっ……)
次の瞬間。
視界が、真っ白に塗りつぶされた。
光だった。
水晶の内側から溢れ出した光が、大広間のすべてを照らしていた。シャンデリアの輝きも、窓からの陽光も、何もかもを呑みこむほどの、まばゆい金色の光。
わたしは水晶に手をついたまま、目を見開いて固まっていた。
(え……?)
(え? え? なに? なにこれ?)
頭の中が真っ白になる。
手を離さなきゃ、と思うのに、体が言うことを聞かない。指先から腕へ、腕から胸へ、何か温かいものが流れこんでくるような感覚がした。
どれくらいそうしていたのだろう。
光がゆっくりと水晶の中へ戻っていき、広間に元の明るさが戻ったとき。
そこにいる全員が、わたしを見ていた。
三十人の令嬢も、その付き添いの貴族たちも、給仕仲間も、楽団の人たちも、神官様も。
しんと静まり返った大広間で、誰ひとり、声を出さなかった。
(……死んだ)
わたしは本気でそう思った。
儀式の水晶に、給仕が勝手に触れた。しかも、なぜか光らせてしまった。
これはもう、不敬罪どころの話ではない。
わたしはそろそろと手を引っこめ、その場に膝をついた。
「も、申し訳ございません……! 足が、もつれて……決して、わざとでは……」
声が震えて、うまく言葉にならない。
その沈黙を破ったのは、甲高い悲鳴のような声だった。
「――不正ですわ!」
ベアトリス様だった。
美しい顔を真っ赤に染め、わたしを指さしている。
「こんなこと、ありえません! 給仕の娘が番だなんて! きっと水晶に細工をしたのです! そうでなければ、誤作動ですわ!」
その言葉が合図だったように、広間が一気に沸き立った。
「そうだ、ありえない!」
「下働きの娘が、殿下の番だと?」
「儀式をやり直すべきだ!」
「どこの家の者だ、あの娘は!」
令嬢たちが立ち上がり、付き添いの父親たちが声を荒らげる。怒号と悲鳴が入り混じり、わたしの頭上に降り注いだ。
わたしは床に額をつけたまま、ただ震えていることしかできなかった。
(違う。わたし、何もしていない。細工なんて、できるはずがない)
(でも、そんなこと、誰も信じてくれない)
没落男爵家の娘の言葉なんて、公爵令嬢の前では塵のようなものだ。
実家の父と母の顔が浮かんだ。学校から帰ってくるたびに、楽しそうに話をしてくれる弟の顔も。
(ごめんなさい。わたしのせいで……)
涙が滲んで、床の白がぼやけた。
――そのとき。
かつん、と。
ひとつの靴音が、広間に響いた。
大きな音ではなかった。けれど、その一音で、あれほど騒がしかった広間が水を打ったように静まり返った。
かつん。かつん。
靴音が近づいてくる。
わたしの目の前で、黒い靴が止まった。
おそるおそる顔を上げる。
レグルス殿下が、わたしを見下ろしていた。
金色の瞳。間近で見ると、それは燃えるように深い色をしていた。
殿下はわたしから視線を外すと、ゆっくりと広間を見渡した。
そして、低く、静かな声で言った。
「この儀を望んだのは、お前たちの家だろう」
誰も、息をしなかった。
「王家に番の儀を求め、娘を並べたのはお前たちだ。結果が気に入らないのなら――王家の儀そのものを、偽りだと言うのか」
しん、と。
まるで広間そのものが凍りついたようだった。
声を荒らげていた貴族たちが、口を開けたまま固まる。立ち上がっていた令嬢たちが、ひとり、またひとりと力なく椅子に座りこんでいく。
王家の儀を偽りと言う。
それは、王家そのものに異を唱えるのと同じことだ。
誰ひとり、言い返せる者はいなかった。
殿下はわずかに顔を傾け、水晶の傍らに立つ老神官を見た。
「ヨアヒム」
「はっ」
「水晶に細工は可能か」
ヨアヒム様は、白い髭を撫でながら穏やかに首を振った。
「不可能でございます。この水晶は、百年前に建国の巫女様が祈りを込めたもの。殿下の血に応えるのは、殿下の魂の片割れのみ。わたくしが神官となって五十年、この水晶が偽りの光を放ったことは一度もございません」
そして、わたしの方を見て、目尻の皺を深くした。
「まことに、見事な光でございました。わたくしも、これほどの輝きは初めて目にいたします」
ベアトリス様の唇が、わなわなと震えた。
「で、ですが……ですが殿下! その者は給仕です! 下働きの、身分も卑しい……そのような者が殿下の番など、王家の名に傷がつきますわ!」
「番に相応しいかどうかを決めるのは、水晶だ」
殿下は、ベアトリス様の方を見もしなかった。
「そして水晶は、俺が思っていたのと同じ答えを出した。それだけのことだ」
(……え?)
わたしは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
思っていたのと、同じ答え?
殿下はもう一度、ゆっくりとわたしに視線を戻した。
それから、片膝をついた。
黒き獅子と呼ばれ、王国中に恐れられる第一王子が。給仕係のわたしと同じ高さまで、身をかがめたのだ。
広間のどこかで、誰かが小さく悲鳴を上げた。
「怪我はないか」
低い声だった。けれど、さっき広間に向けたものとはまるで違う。驚くほど柔らかな声だった。
「は……は、い……」
「足首は」
「だ、大丈夫、です……」
殿下の大きな手が、そっとわたしの右手を取った。水晶に触れた手。水仕事で荒れた、ひび割れだらけの手。
殿下はそれを、まるで壊れ物でも扱うように両手で包みこんだ。
(な、なに……なにが、起こってるの……?)
手のひらから、さっき水晶に触れたときと同じ温かさが流れこんでくる。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
「テオ」
殿下が背後に声をかける。
「はい、殿下。ご命令どおり、見ておりましたよ」
鷹の青年――テオ様が、にこやかに進み出た。その手には、いつの間にか拾い上げたらしい銀のポットが握られている。
「クレイン公爵令嬢が、ご自分の爪先でノエル嬢の足を引っかけたところまで、しっかりと。鷹の目は、ごまかせませんので」
ざわ、と広間が揺れた。
ベアトリス様の顔から、さっと血の気が引いていく。
「なっ……わ、わたくしはそんなこと……!」
「ちなみに、近くにいた楽団の方々も三名ほど見ておられたようです。あとで証言をいただきましょうか?」
テオ様は笑顔のまま首を傾げた。けれど、その目は少しも笑っていなかった。
ベアトリス様は、ぱくぱくと口を動かしたが、言葉は出てこなかった。付き添いのクレイン公爵が、真っ青な顔で娘の腕を掴む。
「……殿下、娘の無礼、まことに申し訳ございません。本日はこれにて、失礼を」
「好きにしろ」
殿下の声は、ひどく冷たかった。
「ただし、俺の番に害を為そうとした件は、追って沙汰を下す。覚えておけ」
公爵は深々と頭を下げ、半ば引きずるようにしてベアトリス様を連れ出していった。
扉が閉まるまでの間、ベアトリス様は一度だけ振り返り、わたしを睨んだ。けれどその目には、もうさっきまでの勝ち誇った色はなかった。
「ノエル」
名前を呼ばれて、わたしはびくりと肩を震わせた。
(どうして、殿下がわたしの名前を……)
「ここは騒がしい。場所を移すぞ」
言うが早いか、殿下はわたしを横抱きに抱えあげた。
「ひゃっ……!? で、殿下!? あ、歩けます! 自分で歩けますから!」
「足首を引っかけられただろう。歩かせるわけにはいかない」
「本当に平気です! 下ろしてくださ――」
「断る」
即答だった。
会場中の視線を背中に浴びながら、わたしは殿下の腕の中で、ただ顔を真っ赤にしていることしかできなかった。
連れてこられたのは、大広間の奥にある控えの間だった。
暖炉には火が入っていて、柔らかなソファと小さなテーブルが置かれている。殿下はわたしをソファにそっと下ろすと、自分は向かいに座るでもなく、すぐ隣に腰を下ろした。
近い。
肩が触れそうなほど近い。
(落ち着いて。落ち着くのよ、ノエル)
わたしは膝の上で両手を握りしめ、深呼吸をした。そして、意を決して口を開いた。
「あの、殿下。恐れながら……何かの、間違いだと思うんです」
「間違い?」
「は、はい。わたしは、ただの給仕です。没落した男爵家の娘で、王宮には働きに来ているだけで……殿下の番なんて、そんな大それたもの、なれるはずがありません。水晶も、きっと、何かの拍子で――」
「ノエル」
殿下が、わたしの言葉を遮った。
「お前は毎晩、執務棟へ茶を運んでいたな」
「……え?」
「半年前からだ。夜の九の鐘が鳴る頃。文官たちの部屋を回って、最後に、一番奥の部屋へ茶を置いていく」
わたしは目を瞬いた。
確かに、そうだった。夜番の給仕が足りないからと、半年前から執務棟へのお茶運びを任されるようになった。一番奥の部屋は、いつも扉が少しだけ開いていて、中に人がいるのかいないのかもわからなかった。だから、扉の脇の小さな台にお茶を置いて、そっと立ち去るのが常だった。
「あの部屋……まさか」
「俺の執務室だ」
(う、うそ……!)
わたしは思わず両手で口を押さえた。
半年間、毎晩。わたしは知らずに、王子殿下にお茶を運んでいたのだ。
「も、申し訳ございません! わたし、何も知らなくて、ご挨拶もせずに……!」
「謝ることはない。俺が、気づかれないようにしていた」
殿下は、少しだけ目を伏せた。
「最初の夜。廊下ですれ違ったのを覚えているか」
覚えていない、と言いかけて、ふと記憶の端に引っかかるものがあった。
お茶運びを任された最初の夜。慣れない執務棟の廊下で、角を曲がった瞬間、誰かとぶつかりそうになったのだ。盆が傾いて、カップが落ちかけて――それを、大きな手が受け止めてくれた。
暗くて顔は見えなかった。ただ、受け止めてくれた手と、わたしの指先が、ほんの少しだけ触れた。
わたしは慌てて「申し訳ございません」と頭を下げて、逃げるようにその場を離れたのだ。
「あれが、殿下……?」
「ああ」
殿下は、わたしの右手をそっと取った。あのときと同じように、指先が触れ合う。
「あのとき、わかった。この娘だと」
金色の瞳が、まっすぐにわたしを見た。
「獣人は、番に触れればわかる。胸の奥の獣が、吼えるんだ。この者を逃がすな、と。……俺は二十四年生きてきて、あれほど何かを欲しいと思ったことはなかった」
わたしは、息をするのも忘れていた。
「すぐにでも迎えに行きたかった。だが、俺がお前を番だと言ったところで、貴族どもは認めない。王子が下働きの娘に気まぐれを起こした、と言われるだけだ。最悪、お前が陰で狙われる」
殿下の声に、かすかな苛立ちが混じった。
「だから、誰にも文句をつけられない証が必要だった。この国で、王家の名にかけて誰も否定できないもの――番判定の儀だ」
「じゃ、じゃあ……この儀式は……」
「貴族どもは何年も前から、儀を開けと父上にせっついていた。自分の娘が選ばれるかもしれないと思ってな。俺はずっと退けてきたが、今回は俺から受けると父上に申し上げた」
わたしは呆然とした。
「それに、お前を給仕に加えたのも俺だ。正確には、テオに手配させた。水晶に一番近い場所に配置させたのも」
「……!」
三日前、突然告げられた給仕の命令。
上からの指示だ、としか言わなかった侍従長。
片目をつぶってみせた、テオ様。
全部、全部、繋がった。
「で、でも、もしわたしが水晶に触れなかったら……」
「儀の最後に、この場にいる未婚の女すべてに触れさせるつもりだった。給仕も含めてな。番がまだ見つかっていない、という建前でだ」
殿下はそこで、わずかに眉をひそめた。
「クレインの娘が、それより先にお前を転ばせたのは計算外だった。……怖い思いをさせた。すまない」
すまない、と。
あの黒き獅子が、わたしに謝っている。
わたしは、どう返事をすればいいのかわからなかった。
(殿下は、半年も前から……)
(わたしのことを、知っていた)
(毎晩、わたしが運ぶお茶を……)
ふと、気づいたことがあった。
「殿下。あの……執務室のお茶、いつも、カップが綺麗に空になっていました。それに、ときどき台の上に、焼き菓子がひとつ置いてあって……」
わたしは、てっきり文官の方の誰かが置き忘れたものだと思っていた。夜遅くまで働いてお腹が空いていたから、申し訳ないと思いつつ、ありがたくいただいていたのだ。
「あれも、殿下が……?」
殿下は、ふいと目を逸らした。
獅子の耳が、ほんの少しだけ、ぴくりと動いた。
「……お前が、夕食を抜いて働いていると聞いた」
わたしは、言葉を失った。
仕送りのために食費を切り詰めていたこと。誰にも言ったことはなかったのに。
「給金を実家に送っていることも知っている。弟が王都の学校に通っていることも。冬になると、手のひび割れがひどくなることも」
殿下は、わたしの手に視線を落とした。
その親指が、ひび割れた指先をそっとなぞる。
「この手を、ずっと温めてやりたかった」
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
さっき、ベアトリス様に笑われた手。わたしが恥ずかしくないと言い聞かせながら、それでもどこかで隠したいと思っていた手。
その手を、殿下は温めたいと言う。
(だめ……泣きそう)
わたしは唇を噛んだ。
けれど、まだ心のどこかで、信じきれない自分がいた。
「でも、殿下。わたしは本当に、何も持っていません。ドレスも、教養も、家柄も。殿下の隣に立つなんて――」
「ノエル」
殿下が、わたしの手を握る力を少しだけ強めた。
「お前が何を持っていないかは、どうでもいい。俺が欲しいのは、お前だ」
まっすぐな声だった。
「ドレスなら、いくらでも仕立てさせる。教養が要るなら、国一番の教師をつける。家柄に文句を言う者がいるなら、俺が黙らせる。今日、見ただろう」
「……は、はい」
確かに見た。あの大広間を、一言で静まり返らせたところを。
「だから、お前が気にすることは何もない。お前はただ、俺の隣にいればいい」
殿下は、わたしの手を持ち上げた。
そして、ひび割れた指先に、そっと唇を寄せた。
「ノエル・ハーヴィ。俺の番になってくれ」
(――――っ)
頭の中で、何かが弾けた。
顔が熱い。耳まで熱い。心臓が破裂しそうだった。
こんなこと、物語の中でしか起こらないと思っていた。
王子様が、給仕の娘に求婚するなんて。
しかも、その王子様が、半年も前からずっとわたしを見ていてくれたなんて。
「あ、あの……わたし……」
声が上ずる。
「す、すぐには、気持ちが追いつかなくて……殿下のこと、今日、初めてちゃんとお顔を見たくらいで……」
正直に言うと、殿下はわずかに目を細めた。
「わかっている。急かすつもりはない」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ。お前の気持ちが追いつくまで、いくらでも待つ」
ほっと胸を撫でおろしかけた、そのとき。
「――ただし、離すつもりはない」
「…………え?」
「待つのと、離すのは別の話だ。半年待った。もう充分だろう」
殿下は真顔だった。冗談を言っている様子はまるでない。
「今日から、お前は俺の番として王宮の東棟に住む。部屋はもう用意してある。給仕の仕事は辞めてもらうが、給金と同じ額は実家に送らせる。弟の学費も王家で持つ」
「え、ええっ!? ま、待ってください、話が早すぎます!」
「早くない。半年遅い」
(この方、本当に「待つ」って言った……!?)
わたしが口をぱくぱくさせていると、控えの間の扉が軽く叩かれた。
「失礼します、殿下。お話し中のところ申し訳ないのですが」
テオ様が、扉の隙間から顔を覗かせた。
「陛下が、殿下の番にお会いしたいとおおせです。あと、大広間の令嬢方が全員お帰りになりました。皆様、大変静かにお帰りでしたよ」
「わかった。すぐに行く」
殿下が立ち上がる。わたしもつられて腰を浮かせかけたが、その前にまた、ふわりと体が浮いた。
「で、殿下!?」
「足首を引っかけられた」
「だから、平気だと……!」
「陛下の前まで抱いていく」
「それはもっと駄目です!!」
わたしの必死の抗議を、殿下は一切聞いていなかった。
扉の脇で、テオ様が肩を震わせて笑っている。
「ノエル嬢、諦めたほうがいいですよ。殿下、この半年ずっとこうしたかったんですから。毎晩、九の鐘が鳴る前から執務室の扉の陰で待っていらしたの、僕は知っていますので」
「テオ」
「はい、黙ります」
殿下の低い声に、テオ様はわざとらしく口を閉じた。
わたしはもう、どこを見ればいいのかわからなかった。
見上げると、殿下の耳が、さっきよりもはっきりと赤くなっていた。
(……この方、怖い人じゃ、ないのかもしれない)
ふと、そう思った。
黒き獅子。笑ったところを誰も見たことがない王子。
でも、わたしのひび割れた手を温めたいと言ってくれた。夕食を抜いていたわたしに、毎晩こっそり焼き菓子を置いてくれていた。
その人の腕の中は、思っていたよりずっと温かかった。
わたしは、ほんの少しだけ、殿下の胸に頭を預けてみた。
殿下の足が、一瞬止まった。
「……ノエル」
「は、はい」
「今のは、反則だ」
見上げた殿下の口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
笑ったところを見た者はいない――そう言われていた黒き獅子の、それはきっと、誰も見たことのない顔だった。
(レグルス視点)
その夜、執務室の扉の脇の台には、いつものように茶が置かれていなかった。
当然だ。茶を運んでいた娘は今、東棟の一番日当たりのいい部屋で眠っている。
俺は、空の台をしばらく眺めていた。
「寂しいんですか?」
背後から、テオの呆れたような声がした。
「黙れ」
「いやあ、半年間、毎晩九の鐘の前から扉の陰に張りついていらした殿下が、今夜はどうなさるのかと思いまして」
「お前、陛下の前で余計なことを言っただろう」
「ノエル嬢を抱いたまま謁見の間に入ってきた殿下に、陛下が腹を抱えて笑っていらしたので。僕はそっと補足しただけです」
俺は額を押さえた。
父上の前でノエルを下ろさなかったのは、確かにやりすぎたかもしれない。だが、あの娘は足首を引っかけられたのだ。万が一ということもある。
それに――。
腕の中で、ノエルが胸に頭を預けてきたときのことを思い出す。
あの一瞬、胸の奥の獣が、生まれて初めて満ち足りたように喉を鳴らした。
半年前、廊下で指先が触れたときは、吼えた。
この娘を逃がすな、と。
それからの半年は、ずっと飢えていた。
扉の隙間から、茶を置いていく小さな背中を見送るだけの毎晩。あの手が赤くひび割れていくのを見ているしかできなかった冬。夕食を抜いて働いていると聞いて、厨房から菓子をくすねてきたのは、王子として生まれて初めての盗みだった。
何度、扉を開けて名前を呼ぼうと思ったかわからない。
だが、俺が先に動けば、あの娘は貴族どもの悪意に晒される。下働きの娘が王子をたらしこんだと、陰で何をされるかわからない。
だから、待った。
誰にも否定できない形で、あの娘を俺の隣に立たせられる日を。
「クレイン家の件は、どうなさいます?」
テオが、声の調子を少しだけ改めた。
「公爵は娘を領地の修道院に入れると言ってきています。王子妃候補の名簿からは、当然外すと」
「それでいい」
俺は短く答えた。
本当は、それでは足りないと思っている。あの娘の爪先がノエルの足首を引っかけた瞬間、俺は危うく、儀式の場で剣に手をかけるところだった。
だが、ノエルはきっと、それを望まない。
自分を笑った相手にさえ、「かしこまりました」と頭を下げていた娘だ。
「それから、ハーヴィ男爵家への使いは、明朝出します。弟君の学費の件も」
「頼む。……それと」
「はい?」
「東棟のノエルの部屋に、手荒れによく効く軟膏を揃えておけ。一番いいものをだ。冬が来る前に」
テオは、一拍おいてから、にやりと笑った。
「かしこまりました。……殿下、本当に変わられましたね」
「そうか」
「ええ。半年前の殿下に今の殿下を見せたら、きっと卒倒しますよ」
俺は答えなかった。
変わったのではない、と思う。
ただ、ようやく見つけただけだ。
水晶が光ったとき、大広間の誰もが驚いていた。ノエル自身も、神官も、令嬢たちも。
驚かなかったのは、俺だけだった。
最初から、わかっていたからだ。
あの夜、廊下で、冷えた指先が俺の手に触れたときから。
俺は立ち上がり、執務室の灯りを落とした。
明日の朝は、東棟で朝食をとる。ノエルの好きなものを、テオに調べさせておいた。
あの娘が、もう二度と夕食を抜かなくていいように。
あの手が、もう二度とひび割れないように。
――これから先、ずっと。
(完)
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