第27話:ツール・ド・おきなわの死闘
十一月。沖縄本島北部、「やんばる」の空は、どこまでも青く突き抜けていた。
しかし、その美しい景色の内側で繰り広げられるのは、日本最高峰の市民レーサーたちがプライドを懸けて殴り合う、国内最も過酷なサバイバルレースだった。
佐藤が立っていたのは、ホビーレーサーたちの甲子園――『ツール・ド・おきなわ』市民トップクラスのスタートラインだった。実業団最下層であるE3登録の現在、最高峰の市民レーサたちと本気の戦いができる数少ないチャンスである。
周囲に並ぶのは、年間数万キロを走り込み、高級な機材を贅沢に組んだトップアマチュアたちだ。工場の作業着に身を包み、平日は深夜一時間のローラー台しか回していない佐藤など、誰もライバルとしては見ていなかった。
パーン、と号砲が鳴り響き、巨大な集団が時速五十キロメートルに迫る爆音を立てて公道を滑り出した。
「っ……、これが、おきなわのスピードか!」
スタート直後から、プロのレースと見紛うほどの激しい位置取りの暴力が佐藤を襲う。道幅の狭い海岸線を抜けると、コースは最初の難所、全長約五キロメートルの本格山岳「普久川ダム」の登りへと突入した。
強豪チームのエリートたちが一斉にダンシングで加速し、集団のスピードが跳ね上がる。
長距離の公道レースに慣れていない佐藤の肉体に、瞬く間に強烈な乳酸の波が押し寄せた。一日の大半をプレスの金属音の中で過ごし、慢性的な寝不足を抱えた身体が「ペダルを止めろ」と悲鳴を上げる。
だが、佐藤の心の中の火は、むしろ激しく燃え盛っていた。
(止まるわけねえだろ……! 俺は、毎日この苦しさに勝つために毎晩心臓を削ってきたんだ!)
佐藤はハンドルをへし折らんばかりの力で引きつけ、深夜一時間の「狂気のインターバル」で鍛え上げた、圧倒的な心肺能力をここで大爆発させた。
普通の選手たちが後半のスタミナを気にしてペースをセーブする中、佐藤は自分の肉体を使い捨てるような限界のパワーで、普久川の登坂を先頭集団のすぐ後ろにピタリとしがみつき続けた。
二回目の普久川の登り。集団が疲労でバラバラに引きちぎられていく中、ボロボロになりながらも、鋭い眼光を崩さずにペダルを回し続ける佐藤の姿に、周囲のトップアマたちが戦慄した。
「なんなんだ、あのアルミバイクの奴……。レースで見たことないぞぞ、どこから湧いて出た!?」
やんばるの過酷なアップダウンが牙を剥く後半区間。佐藤のスタミナはとうに底を突き、太ももは痙攣の一歩手前だった。最後は集団スプリントの乱打戦に巻き込まれ、上位の表彰台こそ逃した。
だが、シングルリザルトという強烈な「爪痕」は、確実に残された。
機材のハンデを背負い、平日は深夜一時間しか乗れないサラリーマンが、国内最強のアマチュアたちを山岳で戦慄させたのだ。
レース後のパドック。自転車ごと芝生にぶ倒れて喘ぐ佐藤の元に、一台の軽トラックの影が近づいてきた。
梶オーナーだった。彼はいつも通りタバコを咥えながら言った。
「佐藤。日本最高峰のアマチュアレーサーの中、古くせぇアルミの自転車でシングルリザルトは大したもんだ。これなら全日本に出ても何もできずに終わるということもないだろう」
梶はニヤリと獰猛に笑い、一枚の新しいエントリー用紙を佐藤の胸元に叩きつけた。
「お前のその執念、次戦、全日本への最終予選――『関東チャレンジサイクルロードレース』で全日本の切符獲ってこい」
それは、ホビーレーサーの限界を超え、日本最高の舞台『全日本選手権』へと繋がる、正真正銘のワイルドカードを雑草の執念でもぎ取った瞬間だった。




