第1話:画面の向こうの人間機関車
世界で最も過酷な、しかし最も美しい二十一日間。
その映像を初めて目にした時、新堂駆の魂は、真夏の太陽に炙られたアスファルトのように激しく沸騰した。
高校入学を控えた三月のことだ。深夜のスポーツチャンネルで偶然流れていたのは、前年のツール・ド・フランスの総集編だった。
画面の向こう、フランスの荒々しい山岳地帯を、色鮮やかなジャージを着た男たちが信じられないスピードで駆け上がっていく。沿道を埋め尽くす大観衆の狂気的な歓声。
時速百キロメートルを超える命懸けのダウンヒル。そして、幾度となく繰り返される、肉体の限界を超えたアタックの応酬。
中でも駆の目を釘付けにしたのは、集団の先頭をひたすら走り続ける、一人の地味な選手の姿だった。
彼は勝者ではない。ゴールのはるか手前で力尽き、まるで使い古された部品のように集団から脱落していく。だが、実況は彼のことをこう呼んだ。
――「最強のルーラー、人間機関車だ」と。
自らを犠牲にし、風を切り裂き、チームを勝利へと導くその無骨な走りに、駆は言葉を失った。
「これだ。これがやりたい」
胸の奥から湧き上がった衝動は、抑えようがなかった。元々、何かに秀でた才能があるわけではない。中学時代は目立たない帰宅部。運動神経も人並み以下だ。
それでも、あの「風に立ち向かう男」の姿に、自分の未来を重ねずにはいられなかった。
そこからの駆の行動は、文字通り盲目的だった。
ロードバイクという乗り物が、恐ろしく高価なものであることはすぐに知った。
最新のカーボンフレームに、電動のコンポーネント(変速機)。プロが乗るような機材は、百万円はおろか二百万円を超える。高校生が手を出せる世界ではなかった。
だが、諦めるという選択肢はなかった。中学の卒業式が終わり4月1日になるのを待って、駆は近所の運送会社の倉庫で、早朝から夜遅くまで仕分けのアルバイトに没頭した。
重い荷物を運び続け、手のひらはマメだらけになり、腰は悲鳴を上げたが、通帳の数字が増えていくことだけが生きがいだった。
そうして必死に貯めた十二万円。それが、駆の全財産だった。
高校の入学式を翌日に控えた四月の十日。駆は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
ネット通販で見つけた、型落ちの、しかし紛れもない新品のロードバイク。
「クロモリ……鋼のフレーム、か」
現代のロードレースにおいて、鉄の自転車に乗る者などアマチュアでも珍しい。カーボンが主流の時代だ。鉄は頑丈だが、圧倒的に重い。
スペック表に書かれた重量は「十・五キログラム」。今時、初心者用のアルミバイクでも九キログラムを切る時代に、それは明らかに「重戦車」だった。
それでも、予算内で買える本格的なドロップハンドルの自転車は、それしかなかった。細いパイプで組まれたホリゾンタル(水平)のフレームは、どこか古典的な美しさを放っている。
何より、ツール・ド・フランスの創成期、かつてのレジェンドたちもまた、こうした鉄の自転車でアルプスの峻険な山々を越えたのだ。そう思えば、胸が熱くなった。
「これにする」
駆は迷わず購入ボタンを押した。
三日後。自宅の前に、見上げるほど大きな段ボール箱が届いた。
もどかしい手つきで梱包を解くと、中から深いネイビーに塗装された鉄のロードバイクが現れる。
ずっしりとした重みが、駆の手のひらに伝わってきた。最新のカーボンバイクのような軽薄さはない。中身の詰まった、本物の鉄の塊だ。
「よし……これで、俺もローディーだ」
駆はすぐさま、中学時代からの唯一の親友である佐藤に連絡を入れた。佐藤は駆がバイトを始めた理由も、自転車を買う計画もすべて知っている。
『マジで届いたのか?』
すぐに返ってきた佐藤の声は、自分のことのように興奮していた。
『今から霞ヶ浦のりんりんロード(※茨城県にあるサイクリングロード)の入り口まで持ってこいよ。俺もママチャリで付き合うからさ』
「おう、すぐ行く!」
駆はヘルメットを被り、生まれて初めてドロップハンドルを握りしめた。
サドルに跨り、ペダルを踏み込んだ瞬間、駆の視界が弾けた。
「――っ! 速い!」
今まで乗っていたママチャリとは、すべてが違っていた。硬いタイヤがアスファルトの振動をダイレクトに伝え、ペダルを踏んだ力が、そのままダイレクトに推進力へと変換される。
風が、耳元でゴウゴウと音を立てて後ろへと流れていく。
重いクロモリバイクのはずだったが、駆にとっては、まるで翼を手に入れたかのような感覚だった。
約束の場所である霞ヶ浦の湖畔に到着すると、そこにはすでに佐藤が待っていた。通学用の小汚いママチャリに跨った佐藤は、駆のネイビーのバイクを見るなり、大きく目を見開いた。
佐藤は中学時代から、片道十キロ近い道のりを毎日ママチャリで通学していた。
雨の日も風の日も、遅刻しないために必死でペダルを踏むうちに、気づけば脚だけは異様に強くなっていた。
高校に入ってからもその生活は変わらず、授業が終われば遠回りして湖畔を走るのが日課になっている。
「別に好きでやってるわけじゃねえよ。気づいたら走ってるだけだ」
佐藤はそう言って笑ったが、駆は知っていた。
彼の脚は、努力というより“積み重ねてきた習慣”そのものだった。
「すっげえ……めちゃくちゃ格好いいじゃん、駆。それ、いくらしたんだ?」
「バイト代、全部突っ込んで十二万。クロモリっていう、鉄のフレームなんだ」
「鉄かよ! 重そうだな」
佐藤は笑いながら駆のバイクを持ち上げ、「うお、確かにズッシリくる」と顔をしかめた。だが、その目は羨望に満ちていた。
「で、これからどうするんだ? せっかく買ったんだから、高校の自転車部、入るんだろ?」
「ああ。入学式が終わったら、真っ先に部室に行くつもりだ。そこで鍛えて、いつかは世界のレースに出る」
駆は、どこまでも広がる霞ヶ浦の青い水面を見つめながら、強く拳を握りしめた。遮るもののない湖畔には、茨城特有の強い冷たい風が吹き荒れている。
しかし、今の駆には、その風すらも自分を歓迎しているかのように思えた。
「よっしゃ、じゃあまずは試運転だ。りんりんロード、どこまで行けるか競争しようぜ!」
佐藤がママチャリのペダルを立ち漕ぎで踏み込み、勢いよく飛び出していく。
「あ、ずるいぞ佐藤!」
駆もまた、慌ててペダルを踏み込んだ。
まだフォームも、ギヤの変速のタイミングも何もわからない素人だったが、ただただペダルを回すことが楽しくて仕方がなかった。
画面の向こうの黄色いジャージに憧れた少年。
最安値の重い鉄の相棒。
そして、無限に続くかのような平坦なサイクリングロード。
これが、新堂駆の、すべての始まりだった。
このわずか数日後、高校の自転車部で「本物のエリートたちによる現実」によって、その無邪気な夢が粉々に打ち砕かれることなど、今の駆はまだ、知る由もなかった。




