ラヴァル伯爵夫人エレノア
この番外編は、本編連載中から完結後に至るまで、読者の皆様からいただいたご指導やご指摘、そして鋭い考察によって育まれ、生まれた大切なエピソードでもあります。心より感謝申し上げます。
なお、【番外編】は【恋せよ恋】のいつもの作風である『ゆるいハッピーエンド』とは異なり、少し厳しめの展開となっております。あらかじめご了承のうえ、お楽しみいただけますと幸いです。
ラヴァル伯爵家の本邸にある私専用の執務室で、私――エレノア・ラヴァルは、静かに帳簿を閉じた。
窓の外には、うららかな春の陽光が降り注いでいる。今日、夫であるオリビエは『ロイド侯爵家の筆頭相談役としての執務』のために、早朝から白亜の侯爵邸へと喜び勇んで向かっていた。まるで恋する若者のように身だしなみを念入りに整える姿。そして、あの男の瞳の奥に潜む狂信的なまでの熱を、私は何年も前から熟知している。
世間は言う。ウィリアムの不貞劇によって泥を塗られた者同士、ロイド侯爵家の女当主パトリシア様と、我が夫であるラヴァル伯爵家当主オリビエは『固い絆で結ばれた理想的な協力関係』であると。かつて不貞を犯した夫・ウィリアムの妻であったパトリシア様と、その兄である私の夫・オリビエ。夫は政略結婚の妻に過ぎない私を気遣いながら領地経営に勤しみ、我が家に潤沢な利益をもたらす勤勉で誠実な伯爵――それが、世間の評価だった。
実に滑稽で、反吐が出るほど気持ちの悪い話であった。
我が夫がどれほど昔からパトリシア女侯爵に執着し、どれほど歪んだ愛を抱いていたか。私が気づいていないとでも思っているのだろうか。夫の書斎の隠し金庫に大切に保管された、パトリシア様の物と思われるロイド侯爵家の紋章が刺繍された女物のハンカチ。
そして、ロイド侯爵家のご嫡男であるリチャード様の成長と共に、夫の顔立ちと気味が悪いほど酷似していくあの少年の『黒い瞳』。そして、不貞の弟ウィリアムが北の果てへ追放されるまでの、あまりにも完璧すぎる『罠』の手際。
(弟の不貞が先だったとは言え、お二人の関係も妻の私から見れば立派な不貞だわ。夫はパトリシア女侯爵への仄暗い執着と、弟を落としめて勝ち誇る優越感に酔いしれている。そしてパトリシア様は、自身の地位を守るために私の夫を利用しただけだと私は見ている。それを『気高き愛と復讐』だとすり替えて悦に入っている……。完全になめられたものね。不貞を美化して自分たちだけの愛憎劇の主人公にでもなったつもりかしら。……本当に呆れたお二人だわ。我が家を軽んじ、正妻である私を侮辱したことは許し難いわね)
「旦那様は本日もロイド侯爵家にお泊まりだそうです」
控えていた老執事が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「構いませんよ。オリビエ様がロイド侯爵家へ尽力すればするほど、我が家には莫大な商業権益と、揺るぎない家格がもたらされるだけですもの」
私はハーブティーを一口、含んだ。
(大貴族であるロイド侯爵家が動かす莫大な富。夫が筆頭相談役としてその資金を回す裏で、私が夫の名を利用し、我がラヴァル家へ流れ込むよう整えた優先取引権と中間利益は、日ごとに膨らみ続けている。……あのお二人が美しき愛と復讐ごっこに夢中になっている間に、ロイド侯爵家関連の『仲介利益』は、我が家の系列商会が静かに回収させていただいているわ。自分たちの財布から我が家へどれほどの富が流出しているかも気づかず、喜々として面会に通う姿のなんと滑稽なこと)
私の実家は財政難に瀕していた子爵家だった。このラヴァル伯爵家へ嫁いだのは、最初から愛を育むためではなく『家門の利害』のためだ。夫オリビエは私に愛を囁いたことなど一度もない。だが、私にはそんなものは端から不要だった。
私が命に代えても守るべきは、私自身が腹を痛めて生んだ二人の子供たち――嫡男のレイモンドと長女ブランシュ、そして我が家門の実利だけだ。
現在十七歳になるレイモンドは、父親譲りの整った容姿を持ちながらも、オリビエのような暗い情念とは無縁の、冷徹で優秀な現実主義者として育っていた。夫が侯爵家との支援で得た潤沢な資金と人脈を巧みに利用し、レイモンドはすでにクラスメイトでもある格上の『ライス侯爵令嬢』との婚約を内定させている。
そして十四歳になる長女のブランシュもまた、我が家が誇る揺るぎない財政と高い格式を背景に、王都で最も富裕なノイマン伯爵家への輿入れが決まっていた。
(執着に狂う我が夫と、保身のためにそれを利用した女。あのお二人がどれほど愚かな茶番に満足していようと……私と大切な子供たちが得る実利には何の影響もありませんもの)
コンコンコン、と控えめなノックの音が執務室に響く。
「どうぞ。お入りなさい」
「失礼します、母上」
私の返事を待って扉が開き、領地の治水工事の書類を手にした嫡男レイモンドが入ってきた。
「父上は、またロイド侯爵家ですか?」
「ええ。若き至宝、リチャード様の『教育』でお忙しいのよ」
レイモンドはふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「実に結構なことです。父上が向こうの政務と、社交界で派手に目を引いてくださるおかげで、母上が仕切るラヴァル家の事業は他家の追随を許さない。……それにしても、リチャード殿のあの顔立ちは、誰がどう見ても我が一族を思わせる顔立ちですね。学園で顔を合わせるたびに思いますが、骨格、目元、笑った時の口元、癖まで、年々父上によく似てきています。まあ、世間からは『叔父と甥なら似ることもある』で通りそうなのが皮肉ですが。ブランシュも『あのお顔、お父様にそっくりね』と呆れていましたよ」
「レイモンド。滅多なことを口にするものではありませんよ」
「わかっていますよ、母上。あんな気持ちの悪い狂気にわざわざ首を突っ込む気はありません。ただ……僕たちラヴァル伯爵家本家としては、将来ロイド侯爵家が出生の秘密で破綻することがあっても一切の傷を負わないよう、資金と権利の切り離しは完璧に完了させておきましょう。ブランシュの嫁ぎ先にも、一切の影響は出させません」
「ええ、それで良いのです。……よく気がつきましたね」
「はい。母上の指示のもと、資金と権利の切り離しはすでに手配しております。それに万が一、あの方たちが身の程を弁えず我が家に害をなそうとした場合のため、父上の『隠し金庫の帳簿の写し』と、当時の使用人の証言書をはじめとする『不貞の証拠』は、すでに王立銀行の貸金庫へ保管させてあります。――鍵を預かっておられるのは、母上お一人ですよ」
我が子の口元に浮かんだのは、冷酷で完璧な貴族の笑みだった。
血は争えない。オリビエの知略は私の子らにも受け継がれている。ただし、歪んだ執着ではなく『家門と家族の防衛』という正当な方向へ。
私は満足げに微笑んだ。
「素晴らしいわ、レイモンド。……ええ、備えは万全にしておくべきね。私からも、あの優秀だと評判のリチャード様へ、とっておきの『お祝い』を準備して差し上げたのよ」
私はティーカップの縁を指先で軽くなぞりながら、くすりと微笑んだ。
「学園時代からの私の友人とのお茶会を通して、リチャード様と『素晴らしい家柄の令嬢』との縁談を水面下で進めさせているの。容姿も家柄も素晴らしいご令嬢との、表向きは他家が羨むほどの良縁……けれどその実、あちらの家門は血統の不正と不貞を何より嫌う、極めて苛烈な家風で知られているのよ。パトリシア様もオリビエ様も、願ってもない良縁だと飛びつかれるでしょうね」
レイモンドは察しの良さを示すように、細い目をさらに細めた。
「なるほど。……あの方たちが大人しくしている限りは『栄えある婚姻』。ですが、ひとたび我が家に牙を剥くか、出生の秘密が露見すれば、その瞬間に相手方の家門から逃げ場のない破滅を叩きつけられる……というわけですね」
「ええ。あの方たちが自分たちの作った『歪んだおままごと』に酔いしれている間は、好きにさせておきましょう。自滅の毒を自分自身で煽るのを待つのが、最も美しい報復ですもの。……いつかあの方が倒れ、葬儀の時が来たら、私たちはただ悲しみに暮れる遺族の仮面を被って挨拶をすればいいのですから」
私たちが求めているのは、甘美な愛でも、背徳の愛憎劇でもない。確固たる地位と、揺るぎない財産、そして穏やかな未来だ。
「あの方たちが築き上げた『愚かな選択』の代償を払うのは、未来のあの方たち自身です。私たちはただ、そこから生じる富と権益だけを確実に手に入れれば十分でしょう?」
新緑の香りを孕んだ爽やかな春の風が、窓辺のレースのカーテンを静かに揺らす。私はハーブティーを飲み干すと、手にしていたティーカップをソーサーへと戻した。
自分たちだけがすべてを手に入れた気でいる夫と女侯爵。その足元で、真の勝者である我が家門の財政は、今日もしずかに膨らみ続けていた。
完
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