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【完結】10年愛した夫に『隠し子』がいたと知った夜、私は夫の実兄の種を宿した  作者: 恋せよ恋
審判の時

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第21話 影のゆくえ

 ロイド侯爵家からウィリアムが放逐された日、庭園の隅にある離れもまた、完全にその主を失っていた。


 本邸の裏口に佇むバレリーは、あまりの寒さと恐怖に、我が子であるシリルを壊れ物を抱くように強く抱きしめていた。手元にあるのは、侍女から投げ渡された、わずかな着替えが入った小さな布袋が一つだけ。


 すべてを失った。自分を優しく抱きしめ、「僕が守る」と言ってくれたウィリアム様はもういない。自分を匿ってくれるぬるま湯のような離れも、もう存在しないのだ。


「……バレリー。そこまでにしなさい、見苦しいわ」


 静かな声とともに、本邸の裏口に現れたのは女侯爵パトリシアだった。その姿は神聖なほどに美しく、バレリーたちとは住む世界が違うことを、残酷なまでに証明している。


「お、奥様……! どうか、どうかシリルだけでも、シリルだけでもお助けください……っ!」


 バレリーはたまらず地面に膝をつき、パトリシアの靴へ向かって何度も頭をこすりつけた。シリルは何が起きているかも分からず、母親のただならぬ様子に怯えて「母様!」と声を上げて泣いている。



「助ける? 勘違いしないでちょうだい。私は貴方たちを殺しはしませんし、路頭に迷わせて野垂れ死にさせるつもりもありませんわ」


 パトリシアは老執事へ目配せをした。老執事は一通の封書を、泥を這うバレリーの前へと落とす。


「それは、王都から遠く離れた、北の辺境を治める男爵家への『紹介状』です」


「しょう、かいじょう……?」


「ええ。そこの当主は私の古い知人でね、慢性的な人手不足に悩まされているの。貴方にはそこで、住み込みの『洗濯女』としての職を用意してあげました。朝から晩まで冷たい井戸水でシーツを洗い、薪を割り、身を粉にして働きなさい。そうすれば、貴方とシリルがその日を生きるための、最低限の黒パンとスープ、そして寝床だけは保証されますわ」


 それは、世間一般から見れば、不貞を働いた愛人親子に対する、あり得ないほどの「寛大な温情」だった。住む場所と、仕事と、子供を育てるための食糧を与えてくれたのだから。


 しかし、バレリーの顔は、絶望で完全に土気色へと変わった。


 ――働く。自分の力で、汗にまみれて生きる。


 それは、これまでの人生で、貧乏男爵家からも、ラヴァル伯爵家からも、そしてウィリアムからも、常に「誰かの所有物」として流されることで徹底的に避けてきた、最も恐ろしい現実だった。


「そんな……私、私にそのような力仕事なんて、できるはずがありません……っ! どうか、もう少し、お優しいお計らいを……!」


「お優しいお計らい? これ以上の慈悲がどこにあるというのですか」


 パトリシアの緑の瞳から、完全に温度が消えた。


「貴方はこれまで、悲劇のヒロインのような顔をして、他人の施しだけに寄生して生きてきた。我が子の将来を売ってまで、ウィリアム様の甘い言葉というぬるま湯に浸かり続けた。……そのツケを、今ここで、自らの労働によって支払いなさいと言っているのよ」


 パトリシアは一歩、バレリーへと近づき、耳元で静かに囁いた。


「シリルはそこで、平民の子供として、厳しくもまれて育つわ。高等な教育を受ける機会も、高貴な服を着る機会も二度とない。……貴方が、あの時私の『本物の支援』を拒絶し、自分の怠惰でこの子の未来を閉ざしたのよ。その罪の重さを、毎日の過酷な労働の中で、一生をかけて噛み締めなさい」


「ああ……っ、あああ……!」


 バレリーは声にならない悲鳴を上げ、胸をかきむしった。

 殺されるよりも残酷な、生殺しの刑罰。


 これから彼女を待っているのは、どれだけ泣いても、どれだけ怯えても、誰にも頼れぬ荒野だった。ウィリアムという依存先を失った彼女は、今度こそ、過酷な現実の濁流へと、為す術もなく流されていくしかないのだ。


「連れて行きなさい」


 パトリシアの命令により、迎えとして用意された質素な荷馬車に、バレリーとシリルは押し込まれた。馬車がガタゴトと音を立てて走り出す。窓から見えるロイド侯爵家の壮麗な本邸が、みるみるうちに遠ざかっていく。



 本邸の窓から、その哀れな親子の退場を、冷ややかに見つめる少年がいた。


 七歳になった、正当なる跡継ぎ――リチャードである。その黒い瞳には、去りゆく異母兄シリルへの憐れみなど微塵もなかった。ただ、母パトリシアが築き上げた、完璧なるロイド侯爵家の未来だけを見つめていた。



 パトリシアはゆっくりと屋敷へ戻ると階段を上り、我が子の元へと戻っていく。


 十年に及ぶ裏切りの代償は、すべて支払われた。女侯爵が選んだ気高き背徳は、影の住人たちを永遠の闇へと葬り去り、ここに、ロイド侯爵家の新たなる栄華の幕が開けるのだった。


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