Epilogue:逆を進む僕たちは
――カラン、カラン
空き缶の転がる音がした。冷たい雨の匂いと、鉄の錆びた匂いが鼻を突く。
僕は目を開けた。白い培養液の世界は消えていた。
目の前にあるのは、二十四歳の僕が見慣れた、灰色の路地裏だ。アスファルトには汚れた水たまりができ、ネオンサインが歪んで映っている。
手の中には、温かい感触の代わりに、冷たいナイフの重みがあった。そして足元には、僕の弟――壱が倒れている。
胸を赤く染めて。安らかな、まるで眠るような顔で。
「……終わったよ、壱」
僕は呟いた。声が枯れていた。七歳の時の約束。十二歳の時の殺意。 十七歳の時の敗北。二十歳の時の後悔。それらすべてを背負って、僕はついに「約束」を果たした。
お前は機械にならなかった。水槽の脳髄にならなかった。お前は、人間のまま、大好きな兄の手にかかって死んだ。それが、この狂った世界で僕たちが勝ち取った、唯一のハッピーエンドだ。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。
システムが、「高価な商品の損壊」を検知して駆けつけてくる音だ。 もう逃げる必要はない。
僕は空を見上げた。雨雲の隙間から、建設が終わった「バベルの塔」が見下ろしている。
あの塔の頂上からは、今もアゲハの幻影が飛び続けているのだろうか。真人はどこかの路地裏で、僕の捕縛ニュースを聞いて、嘘泣きをしているだろうか。
「……ねえ、壱」
僕は弟の亡骸に話しかける。もう返事はない。未来の予言も聞こえない。 あるのは、ただ静寂だけ。完璧な、ノイズのない静寂。
「僕たちは、逆へ進めたかな」
生まれた瞬間から敷かれていたレール。
「成長」という名の隷属。
その流れに逆らって、僕たちは泥濘の川を遡り、始まりの場所(死)へと辿り着いた。
僕はポケットから、一本のキャンディを取り出した。七歳の頃にナナから貰った、あの酸っぱいレモン味のキャンディではない。施設から盗み出した、甘い甘い、記憶を溶かすキャンディだ。
僕は包装紙を剥き、口に含んだ。
カリッ。
脳がとろけるような甘さが広がる。思考の輪郭がぼやけていく。恐怖が、罪悪感が、喪失感が、砂糖に包まれて消えていく。
これでいい。もう、戦わなくていい。思考を止めて、ただの肉塊に戻ろう。 システムに回収される前に、僕の魂だけは、壱のいる場所へ行こう。
視界が滲む。雨音が、あの日の培養液の音のように聞こえる。
カラン、カラン。
空き缶が風に転がっていく。僕たちの物語は、ここで終わり。そして、またどこかで、新しい「商品」たちが産声を上げている。
世界は続く。
残酷なほどに、正しく、美しく。
本作はこれにて完結となります。
この作品に込められたテーマ、社会風刺などを多くの比喩と共に読み取ってもらえましたでしょうか。
最後になりますが、もしこの物語を気に入っていただけましたら、ブックマーク、感想等をいただけると幸いです。今後の活動の励みになります。
それでは、また別の物語でお会いしましょう。
(よかったら現在連載している作品を読んでもらえると!)




