Final Chapter:円環
世界は、羊水の温かさではなく、培養液の生ぬるさに満たされていた。暗闇。けれど、完全な闇ではない。薄い膜の向こう側から、人工的な赤い光が透けて見える。
ドクン、ドクン、という音。それは母の心音ではない。循環ポンプが液体を濾過する機械的なリズムだ。
僕は漂っていた。まだ手足も未発達で、脳味噌も真っ白な状態。自分という「個」の輪郭さえ曖昧だ。
ただ、隣にもう一つ、同じ鼓動を刻む命があることだけは分かっていた。管で繋がれた、もう一人の僕。
ガラスの壁一枚隔てた隣の水槽に浮かぶ、片割れ。
『……怖いよ』
声帯のない声が、液体の振動を通して伝わってくる。彼だ。No.01だ。彼は生まれる前から、既に泣いていた。まだ瞼も開いていないのに、彼の網膜には「未来」という名の過酷な映像が焼き付いているのだ。
『……何が見えるんだ』
僕は問いかける。言葉ではなく、意識の波紋で。
『針が見える。白い服の大人たちが見える。僕の頭に電極が刺される感覚。冷たいメス。……兄さん。僕たち、生まれない方がいいよ。ここは出口のない工場だ。生まれた瞬間に、僕たちの背中には値段がつけられる』
彼は知っていた。
ここが祝福された揺り籠ではなく、出荷を待つ在庫保管庫であることを。胎児の段階で、彼は絶望していた。へその緒を自ら首に巻き付けて、死んでしまいたいと願っていた。
『……見るな』
僕は言った。僕には未来は見えない。だからこそ、強がることができた。
『目を閉じてろ。僕がいる。隣の水槽から、ずっとお前を見てる』
『でも、痛いよ。怖いよ』
『僕が盾になる。お前に刺さるはずの針は、僕が受ける。お前が壊れそうになったら、僕の部品をやる。そのために、僕は作られたんだろ?』
不思議だった。まだ「兄」という言葉さえ知らないのに、僕の魂は既に「弟を守るためのシステム」として起動していた。それは遺伝子に刻まれたプログラムなのか。それとも、たった一つの魂を二人で分け合ったがゆえの、本能なのか。
水槽の外から、くぐもった話し声が聞こえる。
「No.01、脳波安定。……素晴らしい素体だ」
「No.02は? ……まあ、予備としては十分か」
「よし。培養フェーズ完了。『出荷』を開始しろ」
世界が揺れた。栓が抜かれたように、満たされていた液体が一気に引いていく。急激な寒さ。重力。肺に空気が流れ込み、焼き尽くすような痛みが走る。眩しい光。
オギャアアアア!
誰かが泣いた。それは誕生の喜びの歌ではない。管理社会という監獄に収監された囚人の、最初の悲鳴だった。あるいは、エラーを知らせる警報音だったのかもしれない。
視界が白く染まる。その光の中で、僕は隣で泣いている小さな生き物の手を、反射的に握りしめた。この温もりだけは、システムには奪わせない。そう誓って。




