Chapter5:箱庭の赤
記憶の中のその場所は、目が潰れるほどに白かった。壁も、床も、天井も、着せられた服も、食事のペーストも。すべてが「漂白」されていた。
ここには汚れがない。雑菌がない。
そして、「人間」もいなかった。
七歳の僕――検体番号No.02は、棺桶のように硬いベッドの上で目を覚ました。
朝のチャイム。それは教会の鐘のような美しい音色だが、僕たちにとっては「管理」の始まりを告げる家畜への合図だ。
「おはよう、天使たち」
スピーカーから、優しい女性の声が流れる。合成音声だ。抑揚が完璧すぎて、逆に不気味な声。人間が一度も発音したことのない、継ぎ接ぎの波形データ。
「今日も素晴らしい一日ですね。さあ、『キャンディ』を食べて、お勉強を始めましょう」
サイドテーブルの引き出しが、ウィーンというモーター音と共に開く。
コロン、と転がり出てきたのは、カラフルな錠剤だ。赤、青、黄色。甘い匂いがする。人工的なフルーツの香り。
これを食べると、頭がふわふわして、怖いことが考えられなくなる。
大人の言うことがすべて正しく聞こえ、テストの問題がスラスラと解けるようになる魔法の薬。
僕たちはそれを、疑いもせずに口に放り込む。
カリッ。甘い。脳がとろけるように甘い。
これが僕たちの主食であり、唯一の娯楽であり、鎖だった。
「……兄さん、口の端についてるよ」
隣のベッドから、No.01――壱が身を乗り出して、僕の口元を指先で拭った。彼の手は氷のように冷たかった。
彼の瞳は、キャンディを食べても濁らない。透き通ったガラス玉のような目で、いつも「ここにはない何か」を見つめていた。
「壱、今日の気分は?」
「うん……雨の味がする」
「雨? ここは地下だぞ。窓なんてない」
「でも、降ってるよ。遠くで、誰かが泣いてる」
壱はベッドの下から、ボロボロになった絵本を取り出した。表紙が擦り切れて、タイトルが読めなくなっている古い本。この施設にある数少ない「許可された書物」の一つだ。
「ねえ、兄さん。この王子様、どうして笑ってるの?」
壱が開いたページには、高い柱の上に立つ、金色の像が描かれていた。
足元にはツバメが一羽。ページをめくるたびに、王子様は自分の体についている宝石や金箔を、貧しい人々に分け与えていく。サファイアの目玉をくり抜き、ルビーの剣を渡し、金の皮膚を剥がして。
「ボロボロになって、汚くなって……最後はゴミみたいに溶鉱炉で溶かされちゃった」
壱が、目玉のなくなった王子の挿絵を指で撫でる。
「……自分を切り刻んで、誰かにあげること。それが『幸福』なの?」
七歳の僕には、その問いの意味が分からなかった。 ただ、壱の横顔が、挿絵の盲目の王子様と重なって見えたことだけが、胸に小さな棘として残った。 まるで、この本が僕たちの未来を暗示する「予言書」であるかのように。
適性検査の時間。
広いホールに、僕たち「検体」が集められる。全員が同じ白い服。髪型も同じ。胸にはバーコード。
まるで、ベルトコンベアに乗せられたヒヨコだ。
白衣を着た大人たち――「先生」と呼ばれる研究員たちが、タブレット端末を見ながら歩き回っている。彼らは僕たちの顔を見ない。
見ているのは、頭上に表示された数値データだけだ。
「No.13、反応速度良好。虚言癖のスコアが上昇しています」
「No.01、未来予測精度、99.8%。……素晴らしい。まさに神の領域だ」
先生たちが壱を取り囲む。
「いい子だ」「すごいぞ」「人類の宝だ」
賛辞のシャワー。でも、誰も壱の頭を撫でない。抱きしめない。
彼らが愛しているのは、壱という少年ではなく、壱が出力する「確定未来のデータ」だけだ。
現代社会の縮図。成果を出せる人間だけが愛され、そうでない人間は視界にも入らない。
僕は、その輪の外にいた。
No.02。
僕の成績は「普通」だった。反応速度も、記憶力も、予知能力も、すべてが壱の劣化コピー。
「No.02は……まあ、順調ですね」
白衣の男が、僕を一瞥して言った。
「ドナー(スペアパーツ)としての適合率は高い。No.01に万が一のことがあれば、すぐに脳や臓器を移植できるでしょう」
男は小さな声で言ったつもりだったろう。でも、僕には聞こえていた。ドナー。スペア。部品。
それが僕の名前だった。悔しさはなかった。キャンディのせいで、感情が麻痺していたからだ。
ただ、「僕は壱のために死ぬために作られたんだ」という事実が、数式のようにストンと胸に落ちた。
ふと、視線を感じて振り返る。部屋の隅で、No.13――後の真人が、先生に向かって満面の笑みを浮かべていた。
「先生! 僕、このインクの染みが蝶々に見えるよ! すごく綺麗だね!」
彼はロールシャッハ・テストの絵を見て言った。嘘だ。僕にはそれが、踏み潰された虫の死骸にしか見えなかった。
でも、先生は嬉しそうに頷き、No.13にキャンディを追加で与えた。真人は笑いながら、震える手でそれを食べる。
彼は知っているのだ。「役に立たない」と判断された子供が、あの「黒い扉」の向こうに連れて行かれ、二度と帰ってこないことを。
だから彼は、必死で「感受性豊かな子供」という役を演じている。
その向こうには、鏡の前でポーズを取らされている少女――アゲハがいた。 彼女の頭には電極がつけられている。
「可愛いね」「素敵だよ」という音声が流れるたびに、彼女の脳波が快楽物質を分泌するように調整されているのだ。
彼女はうっとりとした表情で、鏡の中の自分を見つめている。
パブロフの犬。
承認欲求という首輪をつけられた、哀れな実験動物。
ここは地獄だ。でも、僕たちはここを「お家」と呼ぶように教え込まれている。
外の世界には恐ろしい狼がいて、ここだけが安全な楽園なのだと。
その夜。消灯時間を過ぎた真っ暗な部屋で、異変が起きた。
ブツンッ。
不意に、施設の電源が落ちたのだ。
空調の音が止まり、静寂が訪れる。非常灯の赤い光だけが、廊下を毒々しく照らした。
血液の中を歩くような、不吉な赤色。
「……兄さん」
壱が僕の布団に入り込んできた。ガタガタと震えている。
「呼んでる」
「誰が?」
「……地下の、王様たちが」
壱は僕の手を引いた。
「行こう、兄さん。見なきゃいけないんだ。僕たちが……『何』なのかを」
キャンディの効果が切れかけていた僕は、恐怖よりも好奇心に突き動かされた。
この白すぎる世界の裏側に、何があるのか。神話のアダムとイブが、知恵の樹の実を目指したように。僕たちは手を取り合い、赤い光に照らされた廊下へと踏み出した。
目指すは最深部。『サーバー室』と呼ばれる、立ち入り禁止の扉の向こうへ。
非常灯の赤い光が、無機質な廊下を血管の内側のように染めていた。
僕たちは裸足でペタペタと歩いた。
リノリウムの床の冷たさが、足の裏から吸い上がり、骨の髄まで凍てつかせていく。
角を曲がるたびに、空気が重くなる。
消毒液の匂いは消え、代わりに腐った果実と、焦げた絶縁体が混ざり合ったような異臭が鼻を突き始めた。
『サーバー室』は、地下三階の最深部にあった。
普段なら厳重な電子ロックがかかっているはずの鋼鉄の扉。
それが、停電のせいか、あるいは壱の能力が引き寄せた「運命の綻び」か、わずかに口を開けていた。
隙間から、地鳴りのような重低音と、生温かい風が漏れ出している。
「……ここだよ、兄さん」
壱が扉に手をかけた。その小さな背中が、恐怖で小刻みに震えている。僕たちは、パンドラの箱を押し開けた。
そこは、巨大な円形のホールだった。
天井が見えないほど高く、壁一面に無数のモニターと極太のケーブルが、這い回る蔦のように張り巡らされている。
部屋全体が熱を持っていた。何千台ものファンが唸りを上げ、熱風をかき回している。
そして、部屋の中央に、「それ」は鎮座していた。
巨大なガラスの円柱水槽だ。直径五メートルはあるだろうか。中には蛍光グリーンの培養液が満たされ、底からボコッ、ボコッという粘り気のある泡が上がっている。
その液体の中に、無数の物体が浮遊していた。
人間の「脳」だった。
1つや2つじゃない。十、二十……いや、五十はある。頭蓋骨から丁寧に取り出された灰白色の塊。
それぞれに無数の電極針が突き刺され、そこから伸びる赤と青のコードが、天井のメインサーバーへと直結している。
脳たちは死んでいなかった。時折、ピクリと痙攣し、電気信号の光を明滅させている。夢を見ているのだ。終わりのない、計算という名の悪夢を。
「う……っ、ぐ……」
僕は思わず口元を押さえた。強烈な吐き気がした。視覚的なグロテスクさではない。「人間が部品として扱われている」という生理的な冒涜感が、胃袋を裏返そうとしていた。
「これが、『王様たち』だ」
壱が、ふらふらと水槽に歩み寄る。ガラスに小さな手を当てると、中の脳たちが一斉に反応し、水槽内の気泡が激しく泡立った。まるで、同胞の来訪を嘆くように。
「彼らは昔、僕たちと同じ『No.01』だったんだ」
「……え?」
「未来を見る子供たち。……でも、体は邪魔なんだって」
壱の声から、感情が抜け落ちていく。
「体が成長すると、雑念が混じって予知の精度が落ちる。思春期のホルモンノイズが邪魔になる。だから……こうやって、一番性能の良い『脳』だけを取り出して、新鮮なまま保存するんだ」
モニターには、目にも留まらぬ速さで流れる数字の羅列が映し出されている。
株価の変動。選挙結果の予測。テロの発生確率。
この国の平和と繁栄は、子供たちの脳髄を搾り取り、並列処理(クラウド化)させることで計算されていたのだ。ここは墓場じゃない。
「発電所」だ。
子供の魂を燃料にして、社会という巨大な機械を動かすための炉心。
「聞こえるよ、兄さん……」
壱が自分の頭を抱え、その場にうずくまった。
「『痛い』『帰りたい』『殺してくれ』……何十年分の悲鳴が、データになって流れ込んでくる。彼らは死ぬことも許されない。永遠に、明日を見続けるだけの計算機にされて……」
壱の体がビクン、ビクンと痙攣し始めた。彼は見てしまったのだ。数年後、自分の体が解体され、脳を取り出され、この水槽の中に浮かべられる未来を。 僕という「スペア」の臓器を使って延命されながら、永遠にシステムの一部として生き続ける地獄を。
「嫌だ……ッ!」
壱が絶叫した。その声は、これまで聞いたどの声よりも悲痛で、人間らしい根源的な恐怖に満ちていた。
「嫌だ、嫌だ! 機械になりたくない! 僕は人間だ!キャンディなんかいらない! 褒められなくてもいい!ただ……ただ、兄さんと一緒にいたいだけなのに!!」
彼は床を拳で叩いた。ドンッ、ドンッ。小さな拳から血が滲む。
けれど、誰も助けてくれない。
神様なんていない。
ここにいるのは、脳髄を貪り食う悪魔と、それを冷徹に管理するモニターの光だけだ。
僕は立ち尽くしていた。足が震えて動かない。これが僕たちの正体?
壱は「優秀な燃料」で、僕はその燃料が腐らないように管理するための「保冷剤」?
ふざけるな。そんなの、あんまりじゃないか。
その時、水槽の中の一つが、ボコッと大きな泡を吐いた。
灰色の脳が、水流に揺れてこちらを向いた気がした。嘲笑だった。
『お前たちも、すぐにこっちに来るぞ』
『逃げ場なんてない。これが成長の行き着く先だ』
プツン。
僕の中で、何かが焼き切れる音がした。
恐怖が、沸騰して怒りに変わった。
灼熱のような怒りが、キャンディで麻痺していた感情を食い破った。
「……させない」
僕は壱に駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった弟。
まだ温かい。心臓が動いている。この温もりを、あんな冷たい硝子の中に閉じ込めてたまるか。
「させないぞ、絶対に!」
「兄さん……」
「お前をあんな水槽には入れさせない! 脳みそだけになんてさせるか!」
僕は壱の顔を両手で包み込み、無理やり自分の方を向かせた。
壱の瞳は涙で溢れ、絶望色に染まっていた。彼の目には、もう「死」しか映っていない。
「でも、未来は決まってるんだ……。僕には見える。白衣の人たちがメスを持って、僕を迎えに来る日が……逃げても、無駄なんだ……」
「なら!」
僕は叫んだ。言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
論理も、倫理も、道徳も、すべてかなぐり捨てた。
ただ、この震える弟を、このシステムから「解脱」させたい一心で。僕は、禁断の契約を口にした。
「なら、その前に終わらせてやる」
「……え?」
「白衣の奴らに体を弄られるくらいなら……その前に、僕が殺してやる」
言ってしまった。
兄として、人間として、決して言ってはいけない言葉。
でも、この狂った箱庭の中で、それだけが唯一の、絶対的な「救済」だった。システムは「生きた人間」を利用する。
ならば、死ねばいい。死こそが、システムが手出しできない唯一の聖域だ。
「僕の手でお前を殺す。心臓を止めて、魂を逃がしてやる。そうすれば、お前は機械にならずに済む。人間のまま……僕の弟のままで、終われるんだ」
それは、七歳の子供が交わせる精一杯の愛の告白だった。愛しているからこそ、殺す。守りたいからこそ、命を奪う。
この瞬間、殺人は罪ではなく、祈りになった。
壱が目を丸くして僕を見つめた。涙が頬を伝い落ちる。やがて、彼の顔に、不思議な安らぎが広がっていった。あの幸福だった王子が、すべてを失って鉛の心臓だけになった時のような、穏やかで美しい表情。
「……本当に?」
「ああ。約束だ」
「痛くないようにしてくれる?」
「……努力する。一番、優しい方法でやる」
僕が答えると、壱は泣きながら、それでも嬉しそうに笑った。
「ありがとう、兄さん。……嬉しい」
彼は僕の胸に顔を埋めた。その体温が、僕の胸に焼き付く。この温もりを消す役目を、僕は今、背負ったのだ。
「じゃあ、その時が来るまで、僕は頑張るよ。……兄さんに殺してもらえるなら、僕は怖くない」
――バチンッ!
その瞬間。施設の照明が一斉に点灯した。ブーンという低い音と共に、空調が唸りを上げて動き出す。非常灯の赤が消え、暴力的なまでの「白」が戻ってきた。
廊下の向こうから、大人たちの怒鳴り声と、軍靴のような足音が近づいてくるのが聞こえた。脱走がバレたのだ。管理社会の牙が、僕たちを捕らえに来た。
でも、僕たちはもう怯えてはいなかった。僕たちは「秘密」を共有した。 大人たちが決して奪えない、血よりも濃い約束を。
「行こう、壱」
「うん」
僕たちは手を繋ぎ、立ち上がった。
迫り来る白衣の悪魔たちを睨みつけながら。
僕の目には、もう涙はなかった。あるのは、冷たく静かな殺意と、弟への愛だけ。
これが、すべての始まり。「あの雨の日」へと続く、長く苦しい旅路の出発点だった。
僕たちはこの日、人間であることをやめ、「共犯者」になったのだ。
地獄の釜の底は、静寂に包まれていたわけじゃない。
そこは、子供たちの甲高い笑い声と、靴擦れの痛みと、人工甘味料の甘ったるい匂いで満たされていた。施設での日々は、「競争」という名の選別作業の連続だった。
中央ホールは円形になっていて、その中心には黒いマジックミラーで覆われた塔がそびえ立っている。パノプティコン(全展望監視システム)。塔の中にいる「先生」からは僕らが見えるが、僕らからは先生が見えない。いつ見られているか分からない恐怖が、僕たちを「良い子」という名の囚人に変えていた。
「ねえねえ、先生! No.24ちゃんが泣いてたよ!」
「No.09くんが、壁に絵を描いてた! 規則違反だよね?」
自由時間。子供たちは競うように監視塔へ駆け寄り、インターホンに向かって叫ぶ。「密告」だ。
この箱庭では、他人の欠陥を報告すると、ご褒美として夕食にデザート(ゼリー)がつく。
だから僕たちは、互いの粗探しに血道を上げる。友情なんてない。隣のベッドで寝ているあの子は、明日の朝には僕を売るかもしれないスパイだ。
「……気持ち悪い」
壱が積み木を並べながら呟いた。彼は密告に参加しない。だからデザートももらえないし、他の子供たちからは「暗い奴」と爪弾きにされている。
「みんなの心が、泥団子みたいにベトベトしてる」
僕は壱を守るように背中を向け、周囲を警戒した。
No.02の役割は、No.01(壱)の精神汚染を防ぐこと。
僕は近づいてくる子供たちを睨みつけ、時には突き飛ばして、弟の聖域を守り続けていた。僕もまた、泥団子の一つだった。
そんなある日。僕たちに話しかけてくる「変な奴」が現れた。
「ねえ。その積み木、お城?」
声をかけてきたのは、僕らより頭一つ背の高い少女だった。胸の番号はNo.07。名前はナナ。髪はボサボサで、白い服の袖はいつも汚れている。彼女は「落ちこぼれ」として有名だった。テストの成績は最下位。密告もしない。いつも部屋の隅で、何かをブツブツと呟いている不気味な子。
「……話しかけないで。バカが伝染る」
僕はマニュアル通りの拒絶をした。けれど、ナナは気にせず、壱の積み木に手を伸ばした。
「ここ、入り口がないよ。お城には入り口がないと、王子様が帰ってこれないじゃん」
「……帰ってこないよ」
壱が答えた。
「王子様は、溶かされるから。入り口なんていらないんだ」
ナナは目を丸くし、それからケラケラと笑った。その笑い声は、他の子供たちの媚びへつらう笑いとは違っていた。空気が抜けたような、それでいて温かい、日向の匂いのする笑い声。
「変な子たち。……ねえ、いいものをあげる」
ナナはポケットから、包み紙を取り出した。配給されたキャンディだ。でも、色が違う。表面がザラザラしていて、少し溶けている。そして何より、目が覚めるような鮮烈な「黄色」をしていた。
「これ、舐めてみて」
「毒?」
「ううん。『本物の味』だよ」
僕と壱は顔を見合わせ、恐る恐るそのキャンディを口に入れた。
酸っぱい。
強烈な酸味が口いっぱいに広がり、顎の付け根が痛くなる。いつもの「脳がとろけるような甘さ」じゃない。痛みにも似た、鮮烈な刺激。
「……なにこれ」
「レモンの汁をかけたの。厨房から盗んできたんだ」
ナナは悪戯っぽくウインクした。
「甘いだけのキャンディを食べてると、頭がバカになるよ。たまにはこうやって、酸っぱいものを食べて『目』を覚まさないと」
彼女は監視塔を見上げた。
マジックミラーの向こうにいる大人たちを、射抜くような目つきで。
「教えてあげる。キャンディを飲んだフリをして、舌の下に隠す方法。 ……大人たちの『操り人形』になりたくなかったら、ついておいで」
それが、僕たちの最初の「共犯」だった。
夜のトイレ。監視カメラの死角。ナナによる秘密の授業が始まった。彼女は、この箱庭で生き残るための「裏技」をいくつも知っていた。
「いい? 先生たちは『数字』しか見てない。だから、テストの時はわざと間違えて、たまに正解するの。そうすれば『成長の余地がある』と思われて、廃棄されない」
ナナは言った。彼女が「落ちこぼれ」なのは、演技だったのだ。彼女は本当は誰よりも賢く、このシステムの異常さに気づいていた。
「どうしてそんなこと教えてくれるの?」
僕が聞くと、ナナは寂しそうに笑った。
「……マッチ、持ってるから」
「マッチ?」
「心の中のマッチだよ。私ね、時々見えるの。壁の向こうに、青い空とか、海とか、お母さんみたいな人の顔が。マッチを擦った時みたいに、ボッて明るくなって、幸せな景色が見えるんだ」
彼女は胸に手を当てた。
「でもね、最近マッチが減ってきた気がする。最後の二本になる前に……誰かに、この火を分けておきたかったんだ」
ナナは僕と壱の頭を撫でた。その手は、他の大人たちのように冷たくなかった。ザラザラしていて、温かかった。
「No.01くん。No.02くん。君たちは特別だよ。君たちのマッチは、きっと世界を燃やせるくらい強い。だから、消しちゃダメだよ。大人たちの冷たい風に負けないで」
壱が、ナナの服の裾を掴んだ。彼の目から、涙がこぼれ落ちていた。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「……消えるよ」
「え?」
「お姉ちゃんの火……もう、燃え尽きる。明日の朝、冷たい風が吹くよ」
壱の予知。
死の宣告。
ナナは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに優しく微笑んだ。
「そっか。……やっぱり、君はすごいね」
彼女は予知を否定しなかった。怖がりもしなかった。ただ、受け入れた。
「じゃあ、急がないとね。 ……最後の授業だよ。よく聞いて」
ナナの声が低くなった。
「この施設の地下には、『ゴミ捨て場』があるの。廃棄された子供たちが捨てられる場所。……でもね、噂があるの。ゴミ捨て場のダストシュートの先は、外の下水道に繋がってるって」
脱出ルート。唯一の希望。
「私が明日、連れて行かれたら……その騒ぎに乗じて、地下へ行きなさい。 君たちなら、きっと逃げられる」
翌朝、予知は現実になった。朝の点呼の時間。ホールに、武装した警備員たちが現れた。彼らは迷わず、ナナの元へと歩み寄った。
「No.07。再検査だ。ついてきなさい」
嘘だ。再検査なんて言葉は、「処分」の隠語だ。ナナの成績(偽装した低いスコア)がついに、廃棄ラインを下回ったのだ。あるいは、彼女が薬を飲んでいないことに気づかれたのか。
ナナは抵抗しなかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、僕たちの方を一度だけ振り返った。言葉はなかった。ただ、口元だけで「マッチを消さないで」と動いた。警備員が彼女の腕を乱暴に掴む。
「……あ、あったかい」
ナナが唐突に呟いた。彼女の瞳が、虚空を見つめている。焦点が合っていない。瞳孔が開いている。
「暖炉だ……ご馳走がある……お母さん……」
彼女は幻覚を見ていた。 最後のマッチを擦ったのだ。 恐怖から逃れるために。あるいは、最期の瞬間にせめて人間らしくあるために、彼女は自らの精神を守る壁を壊し、幸せな幻影の中に逃げ込んだ。
「ハハッ、壊れてやがる」
警備員が嘲笑い、彼女を引きずっていく。
ズザザザ、という上履きが擦れる音。ナナはずっと笑っていた。
「綺麗……すごく綺麗だよ……」
重い扉が閉まる。僕たちの「お姉ちゃん」は、巨大なゴミ箱の中へと消えた。
シーンと静まり返るホール。
他の子供たちは無関心だった。
「あーあ、連れて行かれた」
「バカな奴」
「僕のデザート増えるかな」
僕の中で、何かが弾けた。レモンの酸味よりも強烈な、苦くて熱い感情。 憎悪だ。このシステムに対する、殺意にも似た憎しみ。隣で、壱が僕の手を握りしめた。
彼の爪が、僕の皮膚に食い込む。
「兄さん」
壱の声は、もう震えていなかった。
「行こう。……マッチを使いに行こう」
その夜。僕たちはナナが教えてくれた方法で、部屋の鍵を開けた。 目指すは地下。サーバー室。そして、その先にあるはずの出口。
だが、僕たちはまだ知らなかった。ナナが言っていた「ダストシュート」なんてものは存在せず。地下にあるのは、もっと残酷な「再利用工場」だということを。そして、消えたはずの彼女が、そこで「部品」としてまだ生きているということを。




