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逆を進む僕たちは  作者: あ
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Chapter4:殺意の紫

 子供時代が「無垢」だなんて言ったのは、どこの誰だ。僕の記憶にある十二歳は、いつも泥と消毒液の臭いがしていた。

 梅雨の真っ只中。中学校の教室は、湿度百パーセントの不快な温室だった。

 窓ガラスを雨粒が叩き続け、世界を歪んだ水彩画のように滲ませている。

 僕は窓際の一番後ろの席で、校庭を眺めていた。泥だらけのサッカー部員たちが、白いボールを追いかけている。

 泥を跳ね上げ、叫び、笑い合う。それは「普通」という名の特権階級だけが許された、光り輝く遊戯だった。

 (……いいなぁ)

 喉の奥で、粘ついた羨望が漏れる。雨漏りのシミみたいに、心の天井からポタポタと黒い雫が垂れてくる。

 僕もあの中に混ざりたい。泥だらけになって、馬鹿みたいに笑って、帰りにコンビニで買い食いをして、「明日またな」って手を振りたい。

 たったそれだけのことなのに。僕には、そんな当たり前の未来すら用意されていない。

 「……あ」

 隣の席で、小さな声がした。いつだ。

 この頃の彼は、今よりもずっと小さく、病的に痩せていた。

 施設『箱庭』を出て、里親という名の監視員の家に預けられて半年。環境の変化は、彼の繊細な脳を容赦なく蝕んでいた。

 「外れるよ」

 「え?」

 「PK……ポストに当たって、外れる」

 壱が校庭を指差して呟く。その直後。

 校庭から「ああーっ!」という落胆の声が上がった。ボールは壱の予言通り、ゴールポストに弾かれて転がっていた。

 「……またかよ」

 僕は舌打ちをした。

 前の席の女子生徒が、気味悪そうにこちらを振り返り、すぐにヒソヒソと隣の子に耳打ちする。

 『聞こえた?』

 『また当てたよ』

 『気持ち悪い』

 『宇宙人なんじゃない?』

 教室中の空気が、生乾きの雑巾のようなジメジメとした悪意を帯びて僕たちにまとわりつく。

 僕たちは「異物」だった。

 ランドセルを背負っていた頃から、僕たちは周囲と違っていた。

 壱は時々、発作のように未来を口走る。

 「明日の給食は揚げパンだ」「先生は風邪で休む」「あの子の飼ってる犬が死ぬ」

 それが当たるたびに、周囲の目は「好奇心」から「恐怖」へ、そして「排斥」へと変わっていった。

 僕は、そんな弟の介護係だ。壱が暴走しないように口を塞ぎ、周囲に頭を下げ、「ただの偶然です」と愛想笑いをする。

 それが僕の青春のすべて。

(こいつさえ、いなければ)

 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。もし壱がいなければ、僕はサッカー部に入れたかもしれない。あの子と普通に話せたかもしれない。

 僕の足首に絡みついている、この重たい鎖さえなければ。

「ねえ、数宮くん」

 突然、背後から声をかけられた。振り返ると、一人の少年が立っていた。  首から上まで包帯を巻き、右目だけを出している奇妙な姿。 ヒツギだ。  先週転校してきたばかりの、クラスで唯一、僕たちと同じ「浮いている」存在。

 「何?」

 「シンデレラの話、知ってる?」

 彼は唐突に聞いた。包帯の下で、くぐもった笑い声がする。

 「魔法使いとか、カボチャの馬車の話だろ」

 「違うよ。本当のはもっと痛い」

 柩は、僕の机に手をついた。

 その指は白く、死人のように冷たかった。

 「王子様が落としたガラスの靴。あれを履くために、シンデレラの姉たちが何をしたか知ってる?……入らない足を無理やりねじ込むために、ナイフで自分のかかととつま先を切り落としたんだ」

 ゾクリとした。雨音が強くなる。教室のざわめきが遠のいていく。

 「社会っていうのはさ、あのガラスの靴なんだよ、数宮くん。形が決まってる。硬くて、冷たくて、融通が利かない。僕たちみたいな歪な形の人間が、そこに入ろうと思ったら……やることは一つしかない」

 柩の右目が、三日月のように細められた。

 「余計な部分を、切り落とすんだ」

 彼の視線が、僕の隣で震えている壱に向けられた。

 余計な部分。

 切り落とすべき、踵。それが何を指しているのか、十二歳の僕にも痛いほど理解できてしまった。

 「……何を言ってるんだ」

 「分かってるくせに。君はもう、ナイフを持ってるじゃないか」

 柩は僕の筆箱を指差した。中に入っている、工作用の銀色のハサミ。刃先が、冷たく鈍い光を放っている。まるで「使ってくれ」と誘うように。

 「痛いのは一瞬だけだよ。切り落としてしまえば、君はあのガラスの靴を履ける。泥だらけになってサッカーをして、みんなと笑い合える『王子様』になれるんだ」

 悪魔の囁きだった。いや、悪魔なんて高尚なものじゃない。

 これは、僕自身の腐った心が作り出した幻聴かもしれない。

 「……うるさい。あっちに行け」

 僕は柩を睨みつけた。けれど、柩は楽しそうに肩をすくめただけだった。

 「雨、強くなってきたね。……気をつけて。『赤い靴』は、一度履いたら死ぬまで踊り続けなきゃいけないんだから」

 彼は謎めいた言葉を残して、自分の席へと戻っていった。赤い靴。呪われた靴を履いた子どもは、踊りをやめることができず、最後は処刑人に頼んで自分の足を切断してもらった。

 僕は足元を見た。

 壱が、僕の上履きの端を、指先で摘んでいた。

 いつもの癖だ。不安な時に、僕の一部に触れていないと落ち着かない弟。

 その細い指が、僕にまとわりつく「赤い靴」の紐に見えた。

 これを履いている限り、僕は一生、この苦しいダンスを踊り続けなきゃいけない。

 普通になれない。幸せになれない。

 (切り落とせば、楽になれる)

 筆箱の中のハサミが、カチリと鳴った気がした。


 キーンコーン……。

 チャイムが鳴る。それは授業の始まりを告げる音ではなく、残酷な手術オペの開始を告げるブザーのように聞こえた。

 僕は壱の手を振り払おうとした。

 けれど、壱が顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見た瞬間、その手は空中で止まった。

 「……兄さん、ごめんね」

 壱が掠れた声で言った。

 「僕がいるから、兄さんは雨宿りできないんだね」

 心臓を素手で握りつぶされたような気がした。

 こいつは分かっている。

 僕が今、何を考えていたか。

 自分が「邪魔者」であることを、誰よりも正確に予知している。

「……バカ言うな」

 僕は吐き捨てるように言った。それ以上、言葉が出てこなかった。

 ただ、窓の外の雨が、世界中の泥を洗い流してくれることを祈るしかなかった。

 でも、僕の心にこびりついた泥だけは、どれだけ雨が降っても落ちそうになかった。

 里親の河合かわいさんの家は、パステルカラーで塗られた綺麗な一軒家だった。

 庭には手入れされたパンジーが咲き、玄関には「Welcome」と書かれた木製のプレートが揺れている。

 絵に描いたような「幸せな家庭」。

 けれど、僕にはそこが、精巧に作られたプラスチックのドールハウスにしか見えなかった。

 埃ひとつないフローリング。指紋のない窓ガラス。生活の匂いが漂白された空間。

 リビングにはカレーの匂いが充満していた。本来なら食欲をそそるはずのその匂いが、僕には胸焼けを誘う。市販のルーに、隠し味のハチミツと、「私たちは可哀想な孤児を愛している」という偽善がたっぷりと煮込まれているからだ。

 「歩夢くん、おかわりは?」

 「……ううん。大丈夫です。お腹いっぱい」

 「そう。遠慮しなくていいのよ」

 里親の母親が、貼り付けたような笑顔で言った。

 彼女の視線は、僕ではなく、隣でスプーンを落とした壱に向けられている。  壱の手が震えている。

 今日の気圧の低下が、彼の神経を逆撫でしているのだ。

 「あ、ごめんなさい……」

 「いいのよ、壱くん。……でも、もう少し綺麗に食べようね。小学生なんだから」

 優しい声。けれど、その奥には氷のような冷たさがあった。

 『不良品』を見る目だ。ネットで注文した商品が、期待していたスペックと違っていた時の、あの「返品」を検討する目。

 僕たちはここで「良い子」を演じなければならない。

 そうしなければ、また施設(箱庭)に送り返される。

 だから僕は、テーブルの下で壱の手を握り潰すほど強く握り、「しっかりしろ」と合図を送る。

 壱が痛みに顔を歪めながら、必死にスプーンを拾い上げる。

 これが僕たちの団欒だ。温かいスープの冷めた味がした。


 食後、僕はゴミ出しを言いつけられて外に出た。雨は土砂降りになっていた。

 傘を差してゴミ集積所に向かう途中、街灯の下に人影が見えた。

 全身に包帯を巻いた少年。ヒツギだ。

 彼は傘も差さず、ズブ濡れになりながら、電柱に寄りかかっていた。雨水が包帯に染み込み、その下にあるかもしれない傷口を濡らしている。

 「……何してるんだよ」

 「涼んでいるんだ。家の中は息が詰まるからね」

 柩は右目だけで僕を見た。包帯で隠された左目。

 読者の考察通りなら、彼はそこに「代償」を支払ったのだろうか。

 「ねえ、数宮くん。北欧神話のオーディンって知ってる?」

 まただ。彼はいつも唐突に物語を語り出す。

 「神々の王オーディンは、知恵の泉の水を飲むために、自分の片目を差し出したんだ。……僕もね、差し出したんだよ」

 「目を?」

 「『子供であること』を、さ」

 柩が包帯の上から左目に触れる。じゅわり、と水が染み出す音がした。

「大人たちが隠している汚い本音。社会というシステムの設計図。それを理解するための『知恵』が欲しくて、僕は無邪気な左目をえぐり出した。おかげで、世界がよく見えるよ。……例えば、今の君の家の食卓とかね」

 柩は、河合さんの家の窓を指差した。カーテンの隙間から、温かいオレンジ色の光が漏れている。

 「あの両親、今頃話してるよ。『お兄ちゃんの方は優秀だけど、弟の方は気味が悪いわね』って。『弟だけ施設に返せないかしら』って」

 「……やめろ」

 「君も気づいてるはずだ。弟さえいなければ、君はあの家の『本当の子供』になれる。綺麗な服を着て、パンジーに水をやって、美味しいカレーを食べられる。……でも、壱くんがいる限り、君はずっと『セット販売のオマケ』だ」

 図星だった。僕の心の奥底にある、一番触れられたくない腫瘍を、彼は正確に突いてくる。

 「数宮くん。君はまだ、バラバラにされていない」

 柩が一歩近づいてきた。雨の音に混じって、彼からは薬品と、湿った木材の匂い――「棺桶」の匂いがした。

「僕は一度、殺されたんだ。弟にね。心をバラバラに引き裂かれて、継ぎ接ぎされて、こうして包帯で巻かれて、やっと『人間』の形を保ってる。エジプトのオシリス王みたいにさ」

 彼は笑った。右目だけが笑っていて、口元は雨で見えなかった。

「君にはそうなって欲しくないな。殺される前に、殺した方がいい。……今夜は雷が鳴るよ。大きな音が、君の罪を消してくれる」

 彼は僕の手に、何かを握らせた。冷たくて、硬い金属の感触。見ると、それは学校で僕が持っていた銀色のハサミだった。なぜ彼がこれを? いつの間に盗んだ?

「ガラスの靴を履くための手術道具だ。大丈夫。かかとを切り落とすだけだよ」

 柩はそう言い残すと、闇の中に溶けるように消えた。後には、激しい雨音と、手の中のハサミだけが残された。

 

 深夜は予言通り、激しい雷雨になった。

 ドォーン! バリバリバリ!

 地響きのような雷鳴が、家を揺らす。

 「う……うぅ……あぁっ!」

 二段ベッドの下で、壱がうなされていた。

 発作だ。

 低気圧と雷鳴が、彼の脳内の「受信機」をバグらせている。

 「来ないで……黒い、波が……兄さん、助けて……」

 壱は汗びっしょりで、シーツを掻きむしっている。

 僕は上のベッドから降りて、壱の様子を見た。

 白目を剥きかけている。

 このまま叫び出せば、里親たちが起きてくるだろう。

 そうすれば、「やっぱりこの子は異常だ」「手放そう」という会議が始まる。

 (静かにしろよ……!)

 僕は壱の口を塞ごうとした。

 その時、ふと、ポケットの中の重みを感じた。さっき柩に渡されたハサミ。

 ドォーン!!

 窓の外で稲妻が光り、部屋を一瞬だけ青白く照らし出した。

 その光の中で、僕の影が壁に投影される。右手にハサミを握りしめ、弟を見下ろす兄の影。それはまるで、弟を殺したカインのシルエットだった。

 (今なら)

 悪魔が囁いた。

 雷の音にかき消されて、悲鳴は聞こえない。

 心臓を一突きすれば、あるいは首の動脈を切れば。

 壱はいなくなる。

 僕は「可哀想な悲劇の兄」として、里親たちに慰められ、愛され、普通の幸せを手に入れられる。

 ガラスの靴が、ぴったりとハマる。

 僕はハサミの刃を開いた。

 シャキン。

 その音は、背筋が震えるほど魅惑的で、甘美な響きだった。殺すことへの恐怖よりも、「楽になれる」という快感が勝っていた。

 「……兄、さん?」

 壱が薄目を開けた。焦点の合わない瞳が、僕を――いや、僕が振り上げたハサミを見ている。彼は予知しているはずだ。

 この数秒後、この刃物が自分の喉に突き刺さる未来を。

 逃げろ。叫べ。暴れろ。そうすれば、僕は正気に戻れるかもしれない。

 けれど、壱は動かなかった。ただ、静かに涙を流して、口元を緩めた。

 「……ありがとう」

 唇がそう動いた。

 「え?」

 時が止まった。

 なぜ?

 なぜ「助けて」じゃない?

 なぜ「ありがとう」なんだ?

 壱は笑っていた。

 それは諦めでも絶望でもなく、「兄さんが楽になれるなら、僕は喜んで死ぬよ」という、純度100%の愛だった。

 彼は知っていたのだ。僕がどれだけ苦しんでいるか。どれだけ「普通」になりたがっているか。だから、自ら「踵」として切り落とされることを受け入れたのだ。

 「――――ッ!!」

 僕は絶叫した。振り下ろそうとしたハサミが、手から滑り落ちる。

 カランッ。

 乾いた音が床に響いた。僕はその場に崩れ落ち、嘔吐した。胃の中のカレーが、黄色い泥となって床に広がる。

 僕はなんてことを。

 僕は、怪物は、僕の方だった。

 自分を愛してくれる唯一の存在を、自分のエゴのために殺そうとした。

 「はぁ、はぁ、はぁ……」

 僕は震える手で、壱の体を抱きしめた。

 熱い。生きている。この心臓の音を、僕は止めるつもりだったのか。

 雷が遠ざかっていく。

 雨音だけが、シトシトと響いている。

 僕は知った。ガラスの靴なんて、最初から僕には履けなかったんだ。

 足を切り落としても、心を殺しても、僕は「あちら側」には行けない。

 だって僕は、弟を殺すことすらできない、半端者の兄なのだから。

 壁の向こうで、里親たちの話し声が聞こえた気がした。

 でも、もうどうでもよかった。

 この夜、僕は「社会」に背を向けた。そして、「弟と共に地獄へ落ちる」という契約書に、見えないサインをしたのだ。


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