第七話:秘密の夜会
ルークスがアイラを連れて宮殿に戻ると、ヴァルターが彼を待っていた。
「閣下、調査の件です」
ルークスは執務室に入ると、ヴァルターから受け取った報告書に目を通した。
そこには、アイラに嫌がらせをしていた侍女エルゼが、男爵家の娘であり、その後ろ盾がルークスの政敵である穏健派貴族、セルゲイ伯爵であることが記されていた。
「エルゼ本人がどこまで意図してやったかは不明ですが、宮殿内部の情報のいくつかは彼女を通じて穏健派に渡っている可能性があります。
今回の嫌がらせについても、伯爵にうまく誘導された可能性が高いでしょう」
ヴァルターの言葉に、ルークスの表情が硬くなる。
彼は、自分自身の感情的な行動が、思いもよらぬ形で政敵に付け入る隙を与えてしまったことに気づいた。
しかし、今すぐエルゼをどうこうすることは、セルゲイ伯爵に警戒心を抱かせてしまう。
「当面は静観する。だが、度が過ぎることがないよう、エルゼの行動を気に掛けるように」
ルークスはそう命じると、ヴァルターを下がらせた。
彼は、アイラを守るためには、より慎重で冷徹な判断を下さなければならないと悟った。
しかし、彼の心には、湖畔で感じた安らぎと、アイラに向けた温かい感情が残っていた。
復讐と愛、二つの感情の間で揺れ動くルークスの心は、今後の彼の行動に、大きな影響を与えていくことになるかもしれない。
湖畔での安らぎは一瞬のことだった。
宮殿に戻ってからも、エルゼによるアイラへの嫌がらせは続いていた。
掃除や洗濯といった雑務は増え、疲労の色が濃くなるにつれて、予言書の解読は遅れていった。
ある日、書庫で古文書を広げているとき、ルークスはふとアイラの手がひどく荒れていることに気づいた。
日中の水仕事が増えたせいだろう。彼は眉をひそめ、無言で彼女の手を取った。
「これは……」
ルークスの声に、アイラは慌てて手を引いた。
「まだまだ仕事に慣れていなくて、ごめんなさい」
アイラは、嫌がらせのことを口にせず、精一杯の笑顔でごまかした。
ルークスはそれ以上追及できなかったが、彼女の無理な笑みの裏にある疲労と悲しみを、彼の心は鋭く感じ取っていた。
その夜、ルークスはヴァルターに、高価な保湿クリームを手配させた。
ルークスがそれを直接アイラに渡すことはできなかった。
彼は、自分の感情を言葉にするのが苦手だった。
だから、感謝も、心配も、そのすべてを込めて、こっそりと彼女の部屋に置いておくのが精一杯だった。
アイラは、見慣れない小瓶を見つけ、訝しんだ。
しかし、書庫でルークスが自分の手を気にかけてくれたことを思い出し、それが彼からの贈り物だと気づいた。
彼の不器用な優しさに、アイラの胸は温かくなった。
それは、彼女がこれまでルークスに抱いていた、恐怖や同情とは違う、新たな感情だった。
その日もアイラは遅くまで侍女としての仕事をこなし、ようやく一日の終わりに安堵の息をついた。
ふと見上げると、大公の執務室の窓から明かりが漏れている。
日中は政務に忙殺され、夜は予言書の解読に付き合ってくれるルークスを思い、アイラの胸は申し訳なさでいっぱいになった。
何か彼のためにできることはないかと考えた彼女は、師匠から教わった薬草の知識を使い、温かいハーブティーを淹れて執務室へと向かった。
突然の訪問者に、ルークスはわずかに驚いた表情を見せたが、すぐにアイラを部屋へと招き入れた。
「……夜分に申し訳ありません。これをどうぞ」
アイラが差し出したハーブティーの香りを嗅ぐと、ルークスは静かに微笑んだ。
仕事の手を休め、アイラと向き合う。
せっかくだからと、ルークスは何か手に入れたらしい異国のお菓子をアイラにも勧めた。
二人は他愛もない会話を交わしながら、夜更けの静かな時間を過ごした。
「このお茶は、心を落ち着かせてくれる効果があるのですよ」
アイラの言葉に、ルークスはゆっくりとハーブティーを口に含んだ。
その温かさが、彼の冷え切った心に染み渡っていく。
誰にも知られることのない、二人だけの秘密の夜会。この時間が、彼らの心を解き放ち、互いの距離を急速に縮めていくのだった。