第六話:湖畔の静寂
ルークスは、アイラからの訴えがない限り、公然とエルゼを罰することができなかった。
ルークスの悪評を広め、権力基盤を揺るがそうと画策する穏健派貴族にとって、この些細な嫌がらせは、彼に付け入るための絶好の機会を与えてしまうからだ。
しかし、ヴァルターからアイラの疲労が限界に達しているという報告を受けたルークスは、それ以上静観することはできなかった。
「ヴァルター、アイラを連れて、少し出かけてくる」
ルークスの言葉に、ヴァルターは驚きを隠せない。
ルークスが個人的な感情で行動するのは、極めて珍しいことだった。
ヴァルターは、ルークスの意図を察し、静かに頷いた。
「かしこまりました。万全の準備を整えます」
アイラの休日の朝、ルークスは馬車で彼女を迎えに来た。
黒いシンプルな外套に身を包んだルークスは、いつもと同じく無表情だったが、アイラは彼の氷青の瞳に、かすかな優しさを見出した気がした。
二人が向かったのは、城から少し離れた、静かな湖畔だった。
人っ子一人いないその場所で、アイラは久しぶりに安らぎを感じた。
ルークスは、言葉を交わすことなく、ただ彼女のそばに座っていた。
「ここに来るのは、子供の頃以来だ」
ルークスはポツリとつぶやいた。
彼の口から語られる、幼い日の思い出。
それは、彼女が城下町で聞いていた「悪役大公」の噂とはかけ離れた、孤独な少年の姿だった。
その間も、ヴァルターは密かにアイラへの嫌がらせの首謀者を洗い出していた。
嫌がらせが、ルークスを陥れようとする誰かの指示である可能性を疑っていたからだ。
そして、ヴァルターの調査は、ルークスの政敵であるセルゲイ伯爵の存在に辿り着きつつあった。
静かで穏やかな湖畔でのひとときは、怒涛のような日々を過ごしてきたアイラに、久しぶりの安らぎをもたらした。
城下町でルークスに出会ってから、アイラの生活は一変した。
宮殿での仕事、予言書の解読、そして侍女たちからの嫌がらせ。
それまでの平穏な日々が、まるで遠い昔のことのように懐かしく思えた。
アイラは、水面に映る夕焼けを見つめながら、遠い日のことを思い返していた。
その横で、ルークスもまた、遠い日の思い出の中にいた。
彼は、アイラに聞かせる風でも、自分自身に語る風でもない、ぽつりとした声で話し始めた。
「……子供の頃、家族とよくこの湖に来た」
ルークスの言葉に、アイラはハッと顔を上げた。彼が、家族について語るのは初めてだった。
「父上と、母上と、そしてヴァルターと。この湖で、穏やかな時間を過ごしたものだ」
ルークスの氷青の瞳は、遠い昔の記憶を映しているかのように、静かに揺れていた。
彼もまた、自分と同じように、大切な家族を失った悲しみを抱えているのかもしれない。
アイラは、ルークスの言葉に、深い共感を覚えた。
「……私も、父と母と、湖に行ったことがあります。とても、穏やかな時間でした」
アイラはそう言って、ルークスのほうを向いた。
二人の視線が交わったとき、アイラは、彼の冷たい瞳の奥に、自分と同じ悲しみと、孤独が宿っていることを知った。
静かで穏やかな湖畔で、ふたりの心は過去へと旅をしていた。
かつて愛する家族と見たのと同じ光景を、今、隣にいる相手と見ている。
それは、孤独な日々を歩んできたルークスとアイラにとって、言葉にならないほどの懐かしさと安らぎだった。
これまで厳しい表情ばかりだったルークスの氷青の瞳に、優しい光が灯っている。
それが自分に向けられていることに気づいたアイラは、途端に恥ずかしくなって視線をそらした。
顔が熱くなり、胸の鼓動がうるさいくらいに高鳴る。
ルークスが彼女の中で、ただの「悪役大公」ではない、特別な存在になり始めていることを、彼女の体は正直に教えていた。
その隣で、ルークスもまた、長い間忘れていた感情に静かに酔いしれていた。
それは、父母がそばにいた頃にいつも感じていた、心を満たす安らぎ。
家族を失ってから、彼が思い出すことすらなかった感情だった。
顔を真っ赤にしてあたふたするアイラの姿を、ルークスは優しい気持ちで見つめる。
予言の解読に必要だからというだけでない、彼女にずっとそばにいてほしいという、強い想いが彼の中に生まれていた。
孤独な闇の中を歩んできた彼に、初めて灯った温かな光。
それは、彼が予言書を必要とする理由そのものを変えていくのかもしれなかった。




