第二話:「おまじない」と少女
アイラは、幼い頃から少し変わった子だった。
彼女の住む小さな村に、エヴァンという謎の男が現れた。
彼は古びた書物を持ち、人里離れた森の奥で静かに暮らしていた。
好奇心旺盛だったアイラは、エヴァンが暮らす小屋を訪ね、彼と親しくなった。
エヴァンは、アイラが持つ特別な力に気づいていた。
それは、物や人の本質を「色」として捉える能力。
アイラが見る世界は、人々が持つ感情や、植物が持つ生命の光で満ちていた。
エヴァンは、その能力が『予言書』の力を受け継ぐ者だけが持つ、特別なものであることを知っていた。
彼は、アイラにその能力を制御し、安全に使うための「おまじない」を教え始めた。
「いいかい、アイラ。このおまじないは、君の心を静かにし、君が本当に見たいものだけを見せてくれる。
そして、未来の危険な光から君を守ってくれる」
そう言って、エヴァンはアイラに「予言書」の言葉を教え、その意味を語って聞かせた。
夕暮れの光が消えゆく街の広場。
人々の喧騒が次第に静まり、一日の終わりを告げる塔の鐘の音が響き渡る。
その音色に耳を傾けながら、アイラは店じまいの準備をしていた。
クリーム色の髪が夕焼けに照らされ、彼女のミント色の瞳は、師匠エヴァンから教わった「おまじない」の言葉を頭の中で繰り返していた。
それは、彼女にとって、ただの不思議な言葉の羅列だった。
「夜に溶ける星、鳥は歌わず、闇は満ちる……されど、光は燃え、灰燼より蘇る」
その言葉を口ずさんだ瞬間、フードを深く被り、気配を殺して歩く男が、彼女の店の前で足を止めた。
彼の全身を覆う漆黒の外套は、周囲の薄暗闇を吸い込むかのようだった。
ルークス・クロウウェル。
世間が「悪役大公」と囁くその男は、予言書の断片を求めて、たった一人でこの街を訪れていた。
「夜に溶ける星、鳥は歌わず……」
アイラの無邪気な声が、ルークスの耳に届く。
それは、彼が何年も探し求めていた書物の一節だった。
なぜ、何の変哲もない町娘が、その言葉を知っているのか。
ルークスの氷青の瞳は、感情を映さぬまま、静かにアイラを見つめる。
彼の心には、驚きと同時に、この出会いが自身の運命を左右するのではないかという、漠然とした予感が芽生えていた。
アイラは、不意に視線を感じ、顔を上げた。
そこに立っていたのは、不吉な影をまとう、一人の男。
彼女が知るはずのない、恐ろしい運命の歯車が、静かに回り始めた瞬間だった。
ルークスは、感情を抑えつつも、その一節への執着から、問いかけた。
彼の言葉は、アイラにとって、まるで別の世界から来たかのような響きを持っていた。
「不躾な申し出であることは承知している。だが、私はその一節が記された書物を探しているのだ」
「………」
ルークスが続けた言葉に、アイラの困惑はさらに深まる。
彼女にとって、それは師匠から教わった、ごく普通のおまじないに過ぎなかったから。
「……あの、今の『おまじない』のこと、ですか?」
アイラはかろうじてそう答えるのが精いっぱいだった。
彼女の口から出た「おまじない」という言葉に、ルークスの表情にわずかな変化が生まれた。
予言書の一節が、この少女にとっては、ただの遊び言葉でしかない。その事実に、彼の心は大きく揺さぶられた。
「『おまじない』……だと?」
ルークスの声に、先ほどまでのかすれとは違う、抑えきれない焦りが混じる。
彼は、自身の命運を左右する重要な鍵が、これほど無邪気な形で、手の届く場所にあったことに、戸惑いを覚えた。
「その『おまじない』は、誰に教わった?」
ルークスの鋭い眼光と、抑えきれない焦りがにじむ声に、アイラは身がすくむほどの恐怖を感じた。
彼女にとって、それは日常からかけ離れた、理解不能な出来事だった。
(……怖いっ!)
『おまじない』がどうとか、書物がどうとか、そんなことよりも、目の前の男の不穏な空気が全てを圧倒した。
店じまいの準備も放り出し、アイラは転がるようにその場を逃げ出す。
彼女のクリーム色の髪が、夕闇に揺れて消えていった。
ルークスは、反射的に彼女を追いかけようとしたが、そこでハッと我に返る。
彼の不審な行動に、周囲の通行人がざわめき始めていた。
フードで顔を隠しているとはいえ、その威圧的な佇まいは、人々の視線を集めていた。
「……ッ」
舌打ちとともに、彼はその場を去ることを余儀なくされた。
「もう一度出直すしかない」
そう心の中でつぶやきながら、ルークスは夜の闇に再び紛れ込む。
何年も探し続けた予言書の鍵が、これほど無邪気な形で、手の届く場所にあった。
しかし、その鍵は、あっという間に彼の目の前から消えてしまったのだった。
夜が更け、城下町の喧騒が完全に沈黙した頃、ルークスは再び一人、執務室にいた。
デスクに置かれた予言書の断片を指先でなぞりながら、彼は深く、重いため息をつく。
秘密裏に事を進めることが、彼の孤独な戦いを支える唯一の流儀だった。
しかし、あの少女をたった一人の力で見つけ出すことは、広大なエデンヴァルト帝国の城下町では不可能に近い。
そして、予言書の手がかりは、今やあの少女の口の中にしかない。
プライドと使命の間で逡巡した末、彼は静かに鈴を鳴らした。
扉が開き、腹心であるヴァルターが音もなく入室する。
ヴァルターはルークスの顔色を伺い、主の心に何かが起こったことを察した。
「失礼いたします。閣下」
「ヴァルター……」
ルークスの声は、いつもの冷徹なものとは違い、わずかに疲労をにじませていた。
「探してほしい者がいる」
そう言うと、ルークスはヴァルターに、昨日城下町で出会った少女の特徴を伝えた。
クリーム色の髪に、明るいミントカラーの瞳。
予言書の一節を「おまじない」と口にした、朗らかな表情の少女。
ヴァルターは、いつになく多くを語る主の様子に驚きを覚えた。
そして、その少女の存在が、主の人生を変える鍵となることを、彼の鋭い直感が告げていた。