八幕 火が移る前に水を持つ。
火の粉が舞っているのが当たり前の街なんて、世界中渡り歩いてもここくらいだろう。
ミースなど、さっきから頻りに首を巡らせて周囲に視線を移ろわていた。
「えぇっと、まずは宿を取らないとなんだけど」
「月謝できる所ってなると、この辺には無かったと思うわ。もっと奥の見すぼらしいとこ行きましょう」
「え、お金はあるんだから、多少贅沢したって損はないと思うけど」
ミースの疑問は当然だったが、ソフィは舌を鳴らして指を振る。
「安っぽい店は材料の持ち込みができるところが多いの。行商が取引してるようなのとは鮮度が違うんだから」
「単に買い食いの経費を浮かせたいだけよ。ほっときなさい」
形無しに姿勢を崩す相棒を置いて、私はミースと共に天蓋に塞がれた街へと繰り出していく。
炭鉱の都エパトイア。
鉱山を刳り抜いて形成されたその街は、北側をすっぽり半球状の崖に覆われている。
壁際では今日に至るまで掘削が繰り返され、石炭や鉄鉱、それに並ぶ鉱物が出荷され続けていた。
私などは鍛冶屋でもなし、その手の話に興味は薄いのだが、ミースは父親が生前工夫だったとかで、行きずりの職人に諸々訊いて回っている。
あの分ではすぐ私よりもこの都に詳しくなってしまうに違いない。
結局、宿場街はそれなりに華やかな所を選んだ。
「まさかスラムになってるなんてね……」
ベッドに身体を投げ出しながら、ソフィが眉を顰めて瞼を下ろす。
「ここに来たのはもう何年前だし、変わりもするよ」
「貧富の差が開くのはあまり良い傾向では無さそうだけどね」
ナイフで薪を擦って火種を暖炉に落としている炎髪の少女に、私は苦笑を浮かべた。
「休んでいいよ。疲れてるでしょ」
「こういうのは先にやっておかないと。火を焚くのを面倒臭がってそのまま眠ると、明日には睫毛が凍ってるかもよ」
「エパトイアの夜は風も無くて暖かいわ。心配要らないから座りなさい」
「……分かった」
渋々寝台を弾ませて腰を落ち着けるミースを見てから、私はドアの方へ向かう。
「あんたこそ休まないと体調崩すわよ」
「平気よ。少し」
私は紫瞳を部屋の石壁に落として、口端をふっと緩めた。
「……なんでもない。すぐ戻る」
制止も聞かず廊下へ出て、階段を降りると居眠り亭主の脇を素通りし、黄昏れ刻の街に繰り出す。
丸石を粘土に嵌め込んだ路を歩き、緋の欠片が漂う様はあたかも赤い桜吹雪の只中みたいである。
踏鞴場の煙突から噴き出す黒煙が、都の空に幾筋も揺蕩っていた。
そこに混じった火の気が、こうして道端にまで落ちてくるのだ。
火災を避ける為か建築物は皆石造りで、暑さを籠らせないよう戸のない出入口や窓から、燃え滾る炉と汗を物ともせず鎚を振るう工夫の姿が散見された。
この街にはマルトゥーリのような物見台がない。
当たり前だが、都市の北側を百八十度ぐるりと天然の要害に囲まれているのだ。
空襲に対策する必要もなく、有事の際にどこから敵がやってきたかを判別する事も不要である。
それはいつでも、南からやってくるものだからだ。
私達が泊まるのは崖壁に程近い北中央。
そこから東に向かって歩けば、貧民街に辿り着く。
やっぱり。私は再びそこへ足を踏み入れて、辺りを視線だけで見回した。
監視されている。
好奇や嫌悪から来るものとは質が違う。
ある目的の下で行われている作戦行動。
厄介事の香りを、私はすぅっと鼻腔に吸い込んだ。
比較的近くの路地裏から視線を感じて、すぐ駆け出した。
慌てて逃げ出す靴音が響くが、もう遅い。
襟首を掴んで、顔を寄せた。
「誰の差し金だ」
「ぐっ、この!」
ナイフを振り回す男の鳩尾に膝を入れ、苦悶に崩れ落ちる彼の手から柄を蹴り飛ばす。
「答えろ」
「私の指示よ」
俯いたまま、紫瞳だけ胡乱に上げるその先で、武闘派の付き添いを二人連れた白髪のお婆さんが、杖を突いた姿勢で佇んでいた。
「誰」
「私はエリー。真鋼会の議長をしているわ。早い話、スラムを取り仕切っている」
シンコウカイ。
まあ、恐らく貧民区の互助会だろう。
得物を失った男が、エリーの目を憚るように彼女の脇をすり抜けて逃げた。
彼女は彼には目もくれず、こちらをジッと見つめている。
「荒事になるのはこちらとしても本意ではないわ。真鋼会は現在、エパトイア政権に対する抗議活動を行っていて、住民以外の者が立ち入る場合は監視を付けているの。暗闘を避ける為の措置よ、分かって頂戴」
筋は通っているように聞こえるが、護衛のひとりが一瞬とエリーに目をやった。
恐らく抗議活動というのは書簡による請願や直談判といった生易しいものではあるまい。
「武装蜂起するのね。勝てないよ」
エリーは表情を変えなかったが、後ろの二人は咄嗟に柄を握った。
「あなたが何を想像しようと自由よ。私は伝えるべき事を話しただけ。申し訳ないのだけれど、今スラム街は立て込んでいるのよ。立ち退き願えるかしら?」
見つめ合い続ける私とエリーに、護衛達の緊張感は高まっていく。
「ギルドには言わないでおく」
「あら、報告しても構わないのよ?周知の事実だもの」
踵を返した私はもう振り向かない。
くたびれた貧民街にも、火の粉が舞っていた。
*
探索を終え、夜明け前にはエパトイアの門を潜った。
街のあちこちから立つ黒煙の数が、心なしか増えている。
「ねぇ……これ、まずいんじゃない?」
ミースが不安気に視線を配っていた。
ソフィは無言で油断なく辺りを睥睨している。
店も家も戸が閉め切られ、人の気配が失せた丸石街道を、私は周りを見るでもなく淡々と歩いた。
「クレア。どっちに付く」
「ギルドよ。迷うべくもない」
緑髪の少女はらしくもなく躊躇うように瞳を揺らしながら私を見続けている。
それでいいのかと、目で問うていた。
彼女は貧しい家で育った。
スラムに肩入れするのも無理はないのかもしれない。
ミースは概ね私に賛成か、或いは静観に回るだろう。
「私達は冒険者だ。雇い主が最優先」
そうこう言ってる間に、人の争う声が響いてきた。
それなりに大勢だ。
やがて斧や鍬、槍を手にした人々の姿が通りに垣間見えるようになる。
私は努めていつもの調子でその列を横切ろうとしたが、決起した民草は目の色を変えた。
動揺と、恐怖。
それから彼らは己を鼓舞するように叫び武器を構えて踊り掛かってくる。
「クレア、待ッ」
ミースの制止は少し遅かった。
私の剣はもう、一人目の肩を貫いている。
「ぁあああああああぁぁ……!?」
苦悶に叫びながら傷を押さえる男の手が、真っ赤に濡れていく。
それを見た周囲が殺気立った。
「殺せ!」
「容赦するな!」
私は柄で首を刈り、腹部に肘を埋め、足を蹴り払い、傷を負わせないよう努めた。
それでもたまには刃を振るい、返り血でいつものように頬や衣が斑に染まる。
襲撃の波が引いた後、宿への路をそのまま進んだ。
「あんた……」
何か言いたげなミースの顔に、私は小首を傾げる。
宿に付くと、恰幅の良い亭主の姿がカウンターに無かった。
戸は開け放されていて、閂が破壊されている。
家族と共に逃げたのであれば良いけれど。
私達の部屋は荒らされていなかった。
荷物を持って、すぐ廊下に引き返す。
誰も何も言わなかった。
外に出て、東の方へ歩き出すと、ソフィに肩を掴まれる。
「どういうつもり?」
無理に振り切る事もできたが、私は立ち止まった。
「真鋼会のエリーって人に取り次いで貰おう。この内紛を終わらせられるかもしれない」
「馬鹿言わないで。そのエリーってのが誰か知らないけど、どんなお偉方に指図されようとも、ここまで拡がった暴動はもう止まらないわ」
その通りだが、私は暗い横顔を振り向かせる。
「他の冒険者に、市民に剣を抜く罪を負わせたくない」
それだけ伝えてまた早足に歩き出す。
入り組んだ路地をしばらく進んで、気付けば後ろにソフィとミースの姿はなかった。
「一昨日の夜に会ったかしらね」
こじんまりとした広場の、枯れた噴水の縁に彼女は腰を下ろしている。
私は目の前に佇み、エリーと目を合わせた。
「杖は?」
「あれは仕込み刀で、今は先遣隊長に預けてあるの」
「そう」
無言でいる間、エリーは天蓋の一点をジッと見つめている。
「止められないの?」
「私は代表者として担ぎ上げられていたに過ぎないもの。敗北した際、生贄として差し出せるようにね。現体制への不満という共通項はあっても、統率はない集団だったからある程度指揮を任されていたけれど、それもこうなってしまっては、もう効力を失っている事でしょう」
私は彼女の隣に腰を下ろした。
「そもそもの発端は?」
「……スラムには二つのグループがある。一つは多少金があって身体が丈夫な派閥、もう一つは組合加盟費を払えず、また荒事に出張る体力を持たない派閥。前者は十五の成人を迎えれば冒険者か職人を志し、ここを出ていく。残されるのは病に弱くより貧しい者達。彼らは落伍者として、中心市街に成り上がった元貧民層から忌み嫌われ、互いの接触は消えて失くなる」
「じゃあ、この決起は……」
エリーは深く息を吸って、目線を正面に戻す。
「ギルドの定める税率は職人階級を基準としている。何故なら彼らが炭鉱都市エパトイアに於いて、資産額の中央値に位置しているから。けれど、ここの住民はそれを知る学を持たない。学を得る機会を与えられなかった人の集まり。そんな彼らにとって重税は、まさしく自分ら弱者を切り捨て、都を上った強者のみを尊ぶ無法に思えたのでしょう。何より、ここに暮らす貧民達は皆、華やかな中心区を長年に渡って羨み、妬んできた。彼らの惨めで貧しい暮らしぶりを見てきた私には、その感情の善悪を判別する事はできないけれど」
耳を澄ませば遠くから、争う民衆の叫び声が聞こえてくる。
それはまるで、泣きじゃくる子供のように切々としていた。
「あなたはどうするの?」
「この騒動が終われば私は捕らえられ、残り少ない人生を牢の中で過ごす事になるわね。他にも大勢が縄に繋がれるでしょう。助命を嘆願するつもりだけれど、もし民間人に死傷者が出た場合はそれも難しくなる」
「街の外に逃がしてあげるよ」
立ち上がって、伸びをした。
「嫌だと言っても連れていく。行先はマルトゥーリっていう街。ここと違って風の美味しい所よ。きっと気に入るわ」
エリーは瞑目し、眉を八の字にして苦笑する。
「素晴らしい提案ね。私に全てを投げ打つ気骨があれば、そうしたかもしれない」
「だからね、エリー」
私は彼女の前に跪いて、その手を取った。
「連れていくの」
老齢の婦人は微笑み、目を瞑る。
やがてふたり並んで歩き出すのを、無人の廃墟が見送っていた。