五幕 靴が鳴ったら目を伏せる。
精霊とは、意思を介す獣の総称である。
私が初めてソレと対峙したのは十二の頃で、その時は生家の庭にあった菜園の面倒を見るのに夢中だったと思う。
その日は雨が降っていて、傘を差して畦道を歩いていた。
ふと、木立の方に光る物を見た気がして、私は高揚した。
逸る胸の鼓動に押されるように、早足でその場へ向かったが、林の入り口は左右を見渡してもいつもと変わりない。
きっとそれは奥へ行ってしまったのだと、幼心に思い込んで私はつい、禁じられていた緑下への立ち入りを自許した。
重なった葉々の屋根とは存外に厚いもので、雨粒が傘を打つ音も聴こえなくなる。
迷ってもいけないと思い、村の家並みが見えなくなる程潜る事はなかったが、周囲を練り歩いて腐葉土の中や、樹の洞に目を凝らした。
しかし何も見当たらず、気のせいかと息を付いて戻ろうと振り返ったら、それは微笑んでいた。
形はそう、鹿か、或いは水牛に近いものだったと思う。
淡く輝くその動物を見ても、神秘的な姿に瞠目するというでもなく、ただこの人はどうしてこんな顔をするのだろうと眺めていた。
『可哀想に。斑に侵された少女よ』
首を傾げて後ろ指を組む。
『話せるのね』
『左様。時に娘、名は何と言う』
『クレアよ。花のクレア』
『そうか。クレアよ、生い先短き乙女よ、汝をこの森に誘ったのは他でもない。ひとつ頼みがあったからなのだ』
眩い鹿は白く霞む熱い息をふーっと吹き出した。
『儂を浄化してはくれまいか』
「クレア、何惚けてるのッ!」
晴れ渡る蒼穹を背に、白くぬめりを帯びた巨影がとぐろを巻いている。
棒立ちだった私を追い抜いて、炎髪を結ぶ少女が駆けていった。
宙を横転したうえ、着地に合わせて袈裟を振り抜くミースの他にも、数多の戦士達が大小の得物を奔らせ、ワームの厚皮を傷つけていく。
その度、蛇体からは赤く血が迸るが、全身を俯瞰して見れば致命の攻撃とは言い難い。
ワームが頭を捻り、地面に口部を叩き付けた。
草原に土煙が咲く。
目や鼻といった急所を持たない顔は、あの怪物にとって武器に過ぎないらしい。
冒険者達は個々に動いているが、同時に攻勢を掛ければ互いが障害になり兼ねない為、距離を測り合ってどうにか継ぎ接ぎの連携を維持していた。
「どうした、何か思いついたの」
隣に並ぶソフィに、私は白蛇の尾を指差す。
「鰻とか細長い生き物は、中心を通る背骨に内臓が寄り添って、その周りを筋肉が取り巻いてる。水棲獣は魚と同じで痛覚も鈍いし、表面を傷つけても効果は薄いよ」
「じゃあどうするの?あの巨体を貫く程の刃渡りなんて、誰も持ってないわ」
「シンプルに行こう」
柄を握り直して、ゆっくり駆け出した。
現場を周遊するように、ワームの背後へ回り込む。
『浄化?』
『うむ。難しい事はない』
雨音だけが響く木々の足下で、光鹿はえずき、口から一本の剣を伸ばした。
『これを儂の胸に突き立てておくれ。それで儂は消え、二度と君の前に現れないと約束しよう』
『ふぅん……』
見た目の割に軽いその得物を手にすると、私は半身になって切っ先を構え、ひと息に刺す。
『どうして死ぬの?』
毛並みに頬を埋めながら問うた。精霊は血を零しながら低く嗤う。
『長い生というものは、存外苦かったのだ』
綿毛のように宙を舞い、虚空に溶けていく姿を、ぼんやり眺めていた。
その後、血に濡れた剣を持ち帰り、事情を話した。
母に頬を張られたのは、それが最初で最後だった。
最後尾まで辿り着く。
頭上で風が俄か雲を目まぐるしく運んでいた。
白くぬめり、微かに紫や緑の毛細血管が透けている厚皮に、ブーツを乗せる。
「あんた、まさかっ」
足を緩めるソフィを置いて、私はワームを駆け登った。
絶えず動く足場を、振り落とされないよう重心を左右に傾けながら。
首から頭までは殆ど垂直に高方へ伸びていて、流石に昇れない。
ただ、首の付け根に当たる部分は支点になっている為、揺れも比較的少なかった。
私はその場で屈み、逆手に剣を埋め込む。
後ろへと掻っ捌き、引き抜くとまた刺した。
何度も繰り返し、掘り進める。
やはりワームは痛覚がないのかもしれない。特に抵抗される事もなく、あっさり被膜を破って内臓域に到達した。
衣も顔も赤く濡れそぼり、また買い替えなければならないのかと、懐事情を思い出して辟易とする。
拍動する心の臓に剣を突き立て、利き腕を振り抜いた。
溢れ出す血嘯に押し流されそうになりながら、両足を開いてどうにか耐える。
波が引いた時、空を仰ぐと陽光が眩しくて目を細めた。
日差しを遮っていたワームの首が地に落ちたらしい。
冒険者達が歓声を上げ、戦いの終わりを騒がしく飾った。
*
四人で集まる機会というのは結構珍しい。
赤毛受付嬢のシェリーが付き合ってくれるのもそうだし、ミースが休みの日に私達と行動を共にするというのもあまりない事だ。
私は林檎、ソフィは蜜柑のペンダントを提げて歩く。
「マルトゥーリは羊毛取引で栄えた街ですが、工芸品でもその界隈では有名なんです。エイルペ通りに行けば分かりますよ」
シェリーの勧めで私達は東側の商業地区を冷やかして回った。
五階建てくらいの高層建築が、彩色された石煉瓦で陽を照り返し、路の両脇にズラリと並んでいる。
二階から上は集合住宅らしく、時折市民が木窓から顔を覗かせた。
一階が店になっていて、燭台に照らされた室内に、漆塗りの柄入り食器や複雑な模様を描く織物、精緻な彫刻像などが煌めいている。
私達は手に取って矯めつ眇めつしたり、帽子や腕輪なんかは身に纏って見せ合ったりした。
「笑ってたらお腹空いたわ」
ミースらしからぬ、という印象を今日はよく抱く。
ソフィは食べ歩きが好きで、彼女の案内で四人はクラスク通りに入り、露店市を冷やかして回った。
デザートも多く、氷菓やフルーツポンチ、クレープをそれぞれ買って、ひと口ずつ分け合ったりする。
最初は曇り模様だった天気も午後からは天の階が差して、ゆったり暖かな空気が頬を撫でた。
誰からともなく解散したのは西に陽が燃えだしてからで、私はそれから学舎の近くに寄った。
ヘルーンの亡き骸はとうの昔に撤去されたようで面影もなかったが、破壊された建物の残骸は復旧しておらず、立ち入り禁止のフェンスに取り囲まれて人が入り込めないようになっていた。
厩の中はもぬけの殻で、馬達もどこかへ移動させられたらしい。
宿に帰るのが名残惜しく、酒場に入って葡萄酒を注文した。
カウンター席で頬杖を突き、泡を張り付けた瓶を眺めていると、隣に誰かが腰を据える。
「よお姉ちゃん。冒険者か?」
「そうよ。軟派なら歓迎する」
「そこは遠慮じゃないのかよ……。まあいいや、あんた腕っぷし良さそうだし、ちょっと頼まれてくれよ」
そこで初めて私は視線を向けた。
茶色い髪を短く刈り詰めた青年だ。
私より先輩の冒険者という風情である。
「私闘の立ち会いとかなら断るよ」
「んな危ない橋は渡らんよ。大きな声じゃ言えないが」
彼は木杯を置いたマスターに手を挙げ、そのままの姿勢で囁いた。
「魔法研究の話だ」
私は鼻で笑って濃度の高い赤紫の液体を啜る。
「何かと思えば。眉唾の噂に付き合ってる程お気楽じゃないわよ」
彼は琥珀色の酒を口に含み、飲み込んだ。
エールに近いが、匂いからして蜜酒だろう。
「俺の名はカジカ。ちょっとした縁で、昔から錬金術師達に伝手があってな。まあ土くれを金に変えるなんて言わないが、金属の練成、加工の研究成果を鍛冶工房に売る為の交渉人とかをやってる。商人としてやっていける程おつむは出来ちゃいないが、堅気に務まる仕事でもないんで意外と俺みたいなのが重宝される」
「へぇ、良かったわね」
如何にも気のない生返事を、カジカは強気に笑い飛ばした。
「へへっ、ありがとよ。でだ、ちょっと変わった実験をしてる奴がいてな。そいつは昔から悪魔信仰じみた事が好きだったが、ある時期から本気で魔法を研究し始めてな。他の錬金術師も流石に付き合いきれないって、傍で笑っていたんだが。ある日それらしい現象が確認されたらしくて、西の壁外街区じゃ暫くその噂で持ち切りだった。んで、まあいいか、ローグってんだが、そいつがある日俺に持ち掛けてくるんだ。カジカ、お前冒険者崩れだろう?とってきて欲しい素材があるんだ、てな。俺は規約違反で締め出された札付きの碌でなしだぜ?当然、そんな事言われたって依頼は受けられねぇし、個人間の取引も御免だ。昔ちっと失敗して大損こいたからな」
そこで彼は喉を湿らせるように杯を呷る。
「ぷはっ、やっぱこの季節は檸檬の泡酒に限るよな。あんたもそう思わないか?」
「いつだって葡萄酒に優る晩酌はないわよ」
「そうかい。まあいいさ。で、だ。依頼を斡旋できる奴を探して酒場に現れた俺が」
「丁度誘いやすいひとり客の私に目を付けたって訳ね。いいわ、内容と報酬次第では受けてもいい」
「話が早くて助かるぜ」
男は半笑いでこちらに身体を向け直した。
「バーズの鉤爪に銀貨二枚出そう。一本に付き、な」
「馬鹿にしないで。あの梟もどきに足が一本しか生えてない事くらい知ってるわよ。六十トリエでそんな大捕り物できないわ」
「なら聞かなかった事にしてくれや。俺は別にお前じゃなくたって」
「三本で銀貨十枚」
立ち上がりかけた姿勢で黙り込むカジカに、私は紫酒を軽く舐めて繰り返す。
「百トリエよ。切りよく行こうぜ」
「無茶言うな。こっちは稼ぎの少ない闇商人だっつの。七十」
「八十五」
「……分かった。但し、三本揃ってなかったら最初の額で査定させて貰う。損傷が酷い場合はさらに値引き対象だ」
「いいわ。知り合いの受付嬢に公証人を紹介させるから、改めて依頼を出して頂戴。明日の日没、庁舎の前に集合で」
「日没だ?明朝じゃないのか」
「冒険者は夜に狩りをする生き物よ。陽が昇る頃までは起きてなきゃ」
カジカは肩を竦めて今度こそ立ち上がる。
「おやすみ姉ちゃん」
「ええ、また空が翳る頃に」
男は口笛を吹いて去った。
私は葡萄酒を飲み干してから、追加で檸檬酒を頼んだ。