絶望
あれから、さらに二ヶ月が経った。
相変わらず、俺の肩書きは“奴隷”のままだ。
与えられる仕事も、厳しい生活も、ほとんど変わっていない。
……でも、俺自身は少しずつ変わっていた。
「ふっ――はっ!」
朝のわずかな時間、牢屋の片隅で身体を動かすのが日課になっている。
腕立て、腹筋、反復横跳び(これは何となく)。
それを魔力をうっすらとまといながらこなしていく。魔力制御と筋トレを同時にこなす、地味ながら地味に効く訓練法だ。
魔法だけじゃない。
俺はようやく、もう一つの加護――《予見の加護》にも手をつけ始めていた。
……もっとも、こちらはまったく進歩がない。
「右目が疼く……!」
などと中二病じみたポーズを取ってみたりもしたが、何も起きなかった。
その様子を見たリオンに「うわぁ……」という顔をされたのは言うまでもない。泣きたい。
“予見”って、何を見るのかもよく分からないし、そもそもイメージすら難しい。
ただ、諦めずに模索だけはしている。いつか必ず、何かの形になると信じて。
一方で、魔法のほうはかなり成長していた。
火花は火球へ。
小さな水玉は拳ほどの水塊に。
そして回復魔法も、小さな擦り傷なら完璧に癒せるレベルまで来た。
「ちょっとずつだけど……俺、成長してるのかな」
そんなことを呟いた昼下がり――
「ノアール、ご飯温めたよー!」
「おっ、ありがとー」
「……ちょっと! なんで上半身裸なの!? ちゃんと服着てきなさい!」
「いや、体動かすと暑くて……。幼馴染だし、別によくない?」
「よくない!」
いつものように、そんな軽口を叩きながら、俺たちは食事を取る。
「でもまあ、調子に乗ってスカート焦がしたりしないようにね?」
「……一回のミスをいつまで引きずるんだよ……」
「一生!」
そんな、どうでもいいような口げんか。
でも、その“どうでもよさ”が、どれだけ幸せなことか。
魔法の練習、訓練、作業、そしてリオンとの日常。
奴隷としての生活の中でも、俺たちの世界は少しずつ確かに、変わってきていた――。
***
その夜、荷物運びの帰り道。
暗い廊下の片隅で、従業員たちがこそこそと話しているのが聞こえてきた。
「来月、奴隷オークションが開かれるんだってさ」
「マジかよ……前回も相当数が“出された”らしいな」
「今回も選別が始まるらしい。年齢、技能、価値……どう判断されるかは分からんが……」
――オークション?
足が、ぴたりと止まる。
聞き間違いであってくれと願った。
でも、彼らの沈痛な表情が、その言葉が“現実”であることを物語っていた。
奴隷オークション――
それは、奴隷たちを商品として競りにかける、非情なイベント。
逃げることは許されず、売られた先でどんな扱いを受けるかもわからない。
今よりも過酷な環境になる可能性だって、十分にある。
「……くそっ」
唇を強く噛む。
リオンが、昨日やっと銀貨二十枚を貯めて喜んでいたのに。
やっと、人生に手応えを感じはじめたところだったのに。
なのに……その希望を、まとめて打ち砕くような現実が迫っている。
***
重たい足取りで牢屋に戻ると、リオンが笑顔で出迎えてくれた。
「ご飯、温めたよ」
その何気ない言葉に、涙が出そうになる。
この日常が、壊されようとしているなんて――
「……リオン」
俺は、言葉もなく彼女を抱きしめた。
そして、震える声で事実を告げた。
「来月、オークションがある……って話を聞いた」
「……そっか」
一瞬、リオンの表情が強張る。
でも、彼女はすぐに微笑みを取り戻した。
「大丈夫。ノアールが、探しに来てくれるって信じてるから」
「そんな、簡単に言うなよ……! どこに売られるかも分からないんだぞ!」
「だからこそ。信じてなきゃ、不安で押し潰されそうになるじゃん」
「……っ」
「それに、まだ選ばれるって決まったわけじゃないしね。気にしすぎだよ」
――ほんとは、きっとリオンも不安でたまらないはずなのに。
なのに俺の前では、笑ってくれる。
だからこそ、俺は自分の無力さが悔しくてたまらなかった。
「くそ……俺が、こんなんでどうする……!」
「うん、そんなことよりご飯食べよ? もう冷めちゃってるけどね?」
「……あぁ、そうだな。冷めても、うまいしな」
俺たちは、笑いながらご飯を食べた。
シャワーを浴びて、ベッドに入る。
ただひとつだけ、いつもと違っていたのは――
リオンが少しだけ、震えていたこと。
そして俺が、なかなか眠れなかったことだ。