その後の世界
「ちゃんと優勝、してきましたよ」
そっと、頬を撫でる。あの日、結果としては死ぬまでには至らなかった。ただ、それでも目を覚ますことはなくて。
部活帰りに病院に寄って、面会時間ギリギリまで粘って、落胆して家に帰る、というのがここ一年の俺のルーティーンだった。
「早く目、覚ましてくださいよ、希先輩」
穏やかに、静かに呼吸をする貴方は、見た目だけだと生きているとは思えなくて。いつもいつも、後悔の念に苛まれた。
あの時、ちゃんと俺が希先輩の手を掴んでいれば、あるいは──
──なんて、今更だと知っている。
桜が風に乗ってはらはらと舞い降りる。俺がこの光景を見るのはもう三回目。正真正銘最後の、高校生活。とは言っても何も変わる事はない。新入生が入ってくるから新しい風が吹く、なんて事は起こりはしない。
そう思っていた俺は何も考えず、授業が終わった後いつも通り部活をしに向かった。毎年慢性的な部員不足に見舞われている弓道部。
今年で正式に廃部が決まってしまったので、俺が最後の部長で部員だった。
春先の、花の香りで溢れている空気を胸いっぱいに吸い込んで、それをそのままため息へと変える。
屋上で食べる弁当も、今は一人で。他の誰かと食べると言う選択肢もあったが、何より思い出を、俺がいる間は護っていたかった。
何となく、希先輩が三年、俺が二年、使った弓を取り出す。
それに矢をつがえて深呼吸をする。的の中心から目を逸らさないように、神経を研ぎ澄ませて、今───
「──紫依」
「……は」
ひゅっ、と音がする。未完成のまま放たれた矢は、そのまま地面に落ちた。
今のは俺の、幻聴だろうか。願いすぎた故の、末路だろうか。
心臓が恐ろしいぐらい早く打つ。その時、春先の生ぬるい風が、俺の正気を取り戻してくれた。
「希、先輩……?」
そう言ってはみたものの、怖くて振り返れない。もしこれが俺の夢で、後ろには誰もいなかったら。
そう考えると怖くて、無意識に弓を持つ手に力が入った。
するとその手をそっと、握られる。
「久しぶり、元気やった?」
その体温は、その鼓動は間違いなく、生きている人の象徴で。
優しく包み込むようなその声は、俺がずっと、求めていたもので。
成長したと、大きくなったのだと伝えたかったのに、泣きそうになっている俺が言える立場では無かった。
後ろを振り返れないまま、しばらくの時間が過ぎる。
すると、焦ったくなったのか、にゅっ、と横から顔を覗かせた。
───その顔は、本当に思い出のままで。
「ねぇ紫依?聞いてるん?」
「聞い、てますよ」
「っふは、もしかして俺のために泣いてくれてるん?」
「あんたが、悪いんでしょ」
「紫依の口が悪くなっとる……」
そう言いながらも笑う希先輩の顔は、本当に。
……本当に夢じゃないか疑ってしまいたくなるぐらい、幸せで溢れていて。
目の前で動いている貴方を、俺はずっと。
「あ、もしかして俺の弓使ってくれてるん?」
「ええ、それでちゃんと優勝しましたよ」
「……ありがと、ちゃんとあの賞状は大切に飾るから」
「強いて言うなら、俺の名前で申し訳ないですけど」
「それでも嬉しかったで?紫依、ほんまに頑張ったんやなぁって」
ぽす、とあの日のように撫でられて、死ぬなら今が良い、と本気で一瞬思ってしまった。
すると、何故か希先輩は、使わずに放置していた俺の弓を袋から取り出す。
「なぁ、これ使って打ってええ?」
「え……良いですけど、多分硬いですよ?」
「いけるいける、知らんけど」
「えぇ……?」
軽口を叩きながらも矢を構えた希先輩は、憧れた日々の姿そのままで。
俺もその姿を真似するようにもう一度、矢をつがえて構える。
深呼吸して、的の中心から目を逸らさずに。
───貴方の隣に立てるような、そんな一筋が放てるように。
スパンッ、と二つの音が木霊する。
ただ一つの的の中心に、二つの矢が刺さっているその光景は、俺にとっては十分すぎた。俺があの日から、何度も願ったことだったから。
春先の時雨はほんのり暖かくて、けれどそれ以上に朝日が眩しい。
眩しさの中の幸せが、どうしようもなく、嬉しかった。
「あ、紫依」
「何ですか?」
「紫依の弓もらって良い?」
「え、何でですか?それあんまり使ってないですけど」
「ええやん、俺の弓あげてるんだし」
「まぁ別に構いませんが、弓道、続けるんです?」
「紫依が卒業するまでは邪魔しようかなって」
「────え?」