紅茶とクッキーと
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彫刻が施された高い壁に青く塗られたドーム型の丸い屋根。大聖堂の造形は尖った屋根を持つ街の建物や王城とは明らかに雰囲気が違う。
大聖堂の背後には広大な海と近隣の島影の光景が広がっているが、今は建物に近い入り口にいるから流石にその景色を観ることはかなわない。
その代わりに、潮を含んだ風が丘を吹き抜けて海の存在を届けてくれる。
潮の香りに海洋の神トラバイスタが側にいらっしゃったようで、自然とわたくしの背筋が伸びた。
少し後ろに立つマリーもまた聖域の空気を感じたのか、姿勢を正して神妙な面持ちになっていた。
「本当にわたしが中に入ってもいいんですか?」
「えぇ、問題ありませんわ」
奥の建物に入れる人は限られているが手前にあるこちらの建物には制限が無い。
既に連絡を入れて用意してもらっていた応接室へと向かった。
ついてきている護衛達は部屋の外で待機して貰い、神殿の下働きにお茶を用意して貰う。
「マリー、この部屋での音が外に漏れないようにしてもらえるかしら?」
異国の歌を聴かせてもらうだけなので、そこまでする必要は無いかもしれないけれど、念の為、防音の結界を頼んだ。
わたくしのお願いに、マリーはイヴィと目を合わせて頷きあう。
少しの魔力がマリーからイヴィに移されるとスパンと外の喧騒から切り離された。
神殿で騒ぐ者はそう居ないが、住み込んで生活している聖職者達もいるし、清掃や洗濯などの生活音までは隠しようもなく、近くを飛ぶ海鳥達の鳴き声もしていた筈だ。
(……!音が遮断されたわ)
完全な静寂に包まれて驚いてしまった。
ルートヴィヒも風の妖精と契約しているので防音魔法は初めてでは無いけれど、あの時は中から外への声のみが消されていた。
それに比べるとイヴィは随分と豪快に音を断ち切ったものだ。
わたくしも含め、契約妖精がいない者が同じ魔法を使う場合、まず周りに呼び掛けて手を貸してくれる妖精を集う。
それから来てくれた妖精に何をして欲しいかを伝えてどのくらいの魔力と引き換えるかを交渉する。
交渉と言っても、人語を話さない妖精が相手なのでこちらが一方的に話して魔力を受け取ってくれたら交渉成立というふうになる。
更にこちらの意図が伝わらない場合もあるから、神に祈って御力を借りる神聖魔法の方が使い勝手がいいように感じる。
契約妖精がいる場合には、一度目はかなり説明が必要になったとしてもそれに名前を付けて次からその名前を伝えれば再現してくれるのでかなりの短縮になるそうだ。
マリーの場合、イヴィは人語を解するから事前の会話から適切な魔法を実行しており、一度目の説明さえも省略されている。
それはマリーの認識とも一致していたようで彼女も満足そうに微笑んでいるけれど、これでは問題がある。
「イヴィさん、外からの呼び掛けが聞こえなくなるのは困ります」
ルートヴィヒが何故外からの音は聞こえるようにしていたかと言えば、用事があって近付いてくる者がいた時にノックや声掛けが届かないのは困るし、万が一強襲などの危険があればいち早く対処出来るようにしているからだ。加えて、部屋の中で異変があった場合には外へ知らせるために直ちに防音の魔法を解くようにとも伝えておく。
マリーもイヴィもそんな事態は想像出来ていなかったようで、わたくしの説明にどこか他人事のように頷いた。
それでもすぐに聞こえてきた海鳥の鳴き声にイヴィが調整してくれた事が分かった。
もしも、マリーに将来国母となってもらうなら、警戒心も育てなければならないようだ。
防音の魔法と一言で言っても妖精にとっては新たに魔法を使った事にになるから、改めて魔力を譲渡する必要がある筈なのに、イヴィはマリーに魔力を要求しなかった。
(わたくしの説明に沿った形で魔法を使ったのだからわたくしが妖精魔法を使ったことになるのかしら)
「魔力を……」
「オイラはこれでいい」
妖精に魔法を使ってもらった時の規則としてそっと左手を差し出したが、イヴィはテーブルの上に並べられたお茶菓子の中からクッキーを抱えて食べ始めた。
「アチシも食べる!」
ラヴィも楽しそうにどのクッキーにするか選んでいる。
そういえば、平民は妖精が手助けをしてくれた際には、ミルクや果物などを魔力の代わりに差し出すと聞いたことがある。
なんでも妖精は食品からも魔力を吸収出来るらしい。
ちなみに人間も食事から魔力を吸収しない事もないけれど、本当に僅かなので効率はあまりよくない。
魔力回復のポーションの原料を使えば人間でも魔力が回復すると呼べる料理を作れるけれど、どんな食材を使っても味はあまりポーションと変わり無い上に、同量のポーションよりも摂取出来る魔力量が減ってしまうから効率が悪くなるだけでわざわざ料理する意味は感じられない。
「ちょっ…ま…!イヴィ、ラヴィ!」
本来ならまだお勧めされていないものに手を付けるなんてマナー違反もいいところだ。
マリーは顔を青くしてわたくしに頭を下げた。
「折角の紅茶も冷めてしまいますので、貴女もどうぞ」
しかし、相手は妖精だ。わたくしは人間のマナーを押し付けるつもりは無いし、この事でマリーを咎めるつもりも無い。
「ありがとうございます。いただきます」
あからさまにホッとした顔をして頭を下げたマリーはティーカップに注がれた紅茶に口をつけた。
「…………ディンブラみたい。あ、いえ、これは南のアールト産ですよね。とてもいい香りです」
「えぇ。アールトで間違いないわ」
わたくしも一口含んで答えると、紅茶の銘柄を当てられてマリーはニコニコと嬉しそうだ。
少し気になったのは“ディンブラ”という銘柄だ。わたくしも紅茶は何種類も試したけれど、その中では聞いたことがない銘柄だった。
もしかしたら旅人だったというマリーの父親が大陸のどこかから持ってきたものだろうか。
「わたし、まだ紅茶は全然覚えられていなくって、アールトは一番最初に覚えられた紅茶なんです」
『ディンブラはあたしの世界の紅茶だわ』
「えっ?」
「そ、そうですよね。不勉強で恥ずかしいです」
華凛梛様の言葉に思わず声を出してしまったわたくしにマリーは勉強不足を咎められたと勘違いして顔を赤くした。
そんなつもりはなかったわたくしはツーンとする感覚に慌てて眉間に力を入れる。
「そうだ!歌でしたよね。今、歌ってもいいですか?」
「あ……えぇ、お願いするわ」
わたくしが涙を堪える事で一瞬訪れた間に気不味くなってしまったのか、マリーは元々の用件を切り出してきた。
マリーが歌い始めるとそんな事はすっかり忘れて聞き入ってしまった。
異国の言葉は理解出来ないけれど、マリーが楽しげに朗らかな澄んだ声で歌うから、こちらまでそのウキウキとした気持ちが伝わってきた。
マリーの話だと、様々な町へ旅してそれぞれの町の魅力にワクワクしているという内容の筈だ。
『自動翻訳、されないわね』
華凛梛様曰く、サーリスト王国語は自動で翻訳されて聴こえるらしい。彼女自身は日本語という言語で話していて、それも自動翻訳されてサーリスト王国語としてわたくしに届いている。
試しにと華凛梛様は、英語とドイツ語という言語でもわたくしに話しかけてきたけれど、わたくしにはどれも同じサーリスト王国語に聴こえた。
マリーの前で華凛梛様と会話するわけもいかず、『イエスなら紅茶を飲んで、ノーならクッキーを食べて』なんて言われて従っていたら、競うようにラヴィも二枚目のクッキーを食べ始めた。
わたくしにとっては片手で摘めるクッキーが彼女には両手で抱えるサイズになるけど、まだお腹は満たされていないようだ。